落語「左の腕」の舞台を行く
   

 

 三代目桂三木助の噺、「左の腕」(ひだりのうで)より


 

 風が強い晩、卯助(うすけ)が仕事から戻ってきた。「売れないね~」、「それはそうだろうよ、お前さんの皺だらけの手で細工した飴なんぞ不潔感があって、母親が買わさせはしないよ」、「そうかも知れないな」、「ぼちぼち見切りをつけて、俺が働いている深川の料理屋・松葉屋に奉公しないか?おあき坊も一緒に。俺が口をきいてやるよ」、「娘はまだ子供だし」、「蕾が膨らみかけている、もう大人だよ。苦労した分しっかりしてるし・・・」、「ありがとうよ、それじゃあ銀次さん、よろしくお願いします」。

 松葉屋の女将は二人を見てすぐに気に入り、卯助は通いの下男、おあきは住み込みの女中として働き始めた。二人共真面目に働くので女将を始めとして店の者は皆大喜び、世話をした銀次も鼻高々であった。
 卯助は仕事に精を出した後、相川町の裏長屋へ帰って一杯飲むという日々に満足しており、甲斐甲斐しく働くおあきは清楚な顔立ちに色香も加わって、客の間でも人気者となっていた。卯助は腰の低い好人物で、口数の少ない性質で、奉公人とほとんど会話もしなかった。店では、男連中からも評判は良かった。おあきの評判を聞くと嬉しそうに笑っていた。
 「出自は遠国の百姓、左の腕の包帯は昔の火傷の痕で、見苦しいから隠しているのでございます」と言うだけで、多くを語ろうとはしなかった。そして「一人の方が気楽でいい」と言って、誰とも一緒に銭湯へ行かないので、懇意にしている銀次の誘いですら断った。
 それから2ケ月が過ぎ、春となった。

 店前に三十過ぎの羽織を着た男が、卯助の顔を覗き込んでいる。「お前(おめー)この店の者か?」、「ヘイ」、「何時からだぃ」、「もう、50日位経ちます」、「暫く来なかったからな~。しっかり働きね~」。
 「銀次さん、あれは誰だぃ」、「あれは、門前町の稲荷横町に住んでる稲荷の麻吉という目明かしだ。あだ名の狐みたいな嫌な奴だ。お上の威光で悪いこともやっているようだよ。弱い者いじめで、強請(ゆすり)たかりをして嫌がられている男だ。最近は来なかったんだが・・・」。

 「卯助、薪を割っているが、その左の腕に巻いてる布はどうしたんだ」、「火傷の痕です。若い時に受けた火傷の痕で、汚いので布を巻いています」、「卯助さん、いっぺんその傷を見せてくれないか。傷を見るのが好きなんだ」。
 麻吉がこの店に来るのは、木場の旦那衆が月に2度ばかり無尽講で集まるからで、本当は夜ぴて手慰めをしているのを嗅ぎつけて、寺銭の一部を貰って飲み食いして帰って行く。店の方でも断れないのを麻吉は知っている。
 「あの麻吉が、おあきちゃんに目を付けたようだよ。そんな事したら、この銀次が許さない」。

 夏になった。
 街で卯助と麻吉がバッタリと出会った。「オゥ、卯助さんじゃ無えか」、「親分」、「飴売りより、今の方が良いかぃ」、「極楽でございます」、「皆と風呂に入らないと聞いたが・・・」、「一人でゆっくりと手足を伸ばしたいんで・・・」、「梅の湯だったな。ところで、生国は何処だッ」、「越後でございます」、「遠いな。そこで受けた火傷、一度見せてくれないか」、「娘にも見せたことが無いんです」、「ここでは見ないが、一度決めたことは必ずやり遂げる男だ。覚えておいてくれ」。
 その晩、長屋に帰って来ると、手ぬぐいを下げて湯に出掛けた。チョット遠い亀の湯に出掛けた。客もまばらで、番台の親方も眠そうにしている。卯助はザクロ口を出て着物を着ようとしたら、左の腕を捕まれた。「誰だッ。親分さんですか」、「お前の行く湯は、梅の湯だったんじゃ無いか。ここは亀の湯だぜ。黙って見せれば良いんだ。アッ、やっぱり。卯助、これが火傷の痕に見えるのか。これは無宿人に入れる入れ墨だ。越後でなく、長門の入れ墨だ。この位のこと知っているよ」、「親分さん、勘弁して下さい。若い時グレて小博打打って、くらい込み、こんな腕になってしまいました。今じゃ堅気の人間だ。今の仕事にありついている。娘にも泣き言を言ってない。分かって下さい親分さん」、「可愛い娘の為だ、相談に乗ってやらないことも無いんだ」、「ヘイ」。

 銀次が雨の夜、激しく卯助の戸を叩いた。「松葉屋に押し込みが入ったんだ。木場の旦那や店の者、おあきちゃんも縛られて、あの麻吉も縛られているんだ」、「今からでは、辻番に知らせても間に合わない。相手は何人だ」、「見張り入れて6~7人だ」、「怪我人は出ていないんだな。それでは俺が行こう」、「爺さんのお前さんじゃ危ない」、「大丈夫だ」。長い棒を持って駆け出した。後を追う銀次。
 卯助が松葉屋の裏口から入ると、見張りが匕首を持って飛びかかってきたが、身を軽くかわし、倒れた所、顔面を打ち据えた。奥からもう一人出て来て対峙したが、卯助に棒で叩きのめされた。奥に入ると一人が刀を抜いて向かってきたが、棒で刀を打ち落とし、顔面を打ち付けた。ギャと言って倒れ込んだ。「金を全部おいて出ていけ。出ていかないと表の泥濘に炊き出すぞ」。
 中の親分らしい一人が、「おう、おめえさんはムカデの兄貴じゃねえか」、「だれだッ」、「上州の熊五郎だ。面目ない。ここに兄貴が居るなんて知らなかった。すまね~。光り物をかたづけろ、この方は5人や10人相手になっても適う人じゃね~」、「もう、二昔前のことだ。二年もすると60歳になる。今じゃ~料理屋の掃除番で、娘と二人気楽に暮らしていたんだ」、「姉さんは?」、「もう昔に死んだよ」、「子供が居たが・・・」、「あすこに縛られて転がっているよ」、「なんだよう~。早く縄を解いてやんな」。
 「麻吉ッ」、ビクリとして卯助を見上げた。「いま、お前が聞いた次第だ。もう入れ墨も隠す必要がなくなった。脅しはもう怖くなくなった。娘に金輪際手を出すな。いいな、分かったな」、「こいつは何者だ」、「腕も力も無い奴で、十手の力を借りて弱い者いじめしている奴だ。熊、いい人ばかりだったが、ここの奉公もこれきりだ」、「せっかく堅気になった兄貴に迷惑掛けたな~」、「な~に、俺が弱みを隠していたからだ。明日っから子供相手に飴を売って歩くさ」、「飴を?」、「熊、子供は無邪気で良いな~。俺の左の腕なんぞは見もしないで、指先だけをジ~ッと見ている」。

 



ことば

原作は松本清張、時代小説・短編集「無宿人別帳」1958年(新潮文庫)の中に「左の腕」で収載されています。2015年にテレビドラマ化され、卯助を升毅、麻吉を津田寛治が演じた。三木助の専売特許で、落語というよりスタジオ録音され、効果音も入って朗読に近いものです。三木助は元博徒であったというからこの作品に愛着があったのかもしれません。

松本清張(まつもと せいちょう);(1909年(明治42年)12月21日- 1992年(平成4年)8月4日)は、小説家。この噺「左の腕」の原作者。 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』、『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす。 以後、『ゼロの焦点』、『砂の器』などの作品もベストセラーになり戦後日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。 緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される。また、『日本の黒い霧』、『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近代史・現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鴎外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。  

三代目 桂 三木助(かつら みきすけ);(1902年3月28日〈戸籍上は1903年2月17日〉 - 1961年1月16日)は、落語家。本名小林 七郎(こばやし しちろう)。出囃子は「つくま」。NHKとんち教室の落第生。日本芸術協会所属だったが最晩年に脱退し、フリーを経て八代目桂文楽がいた落語協会に移籍。当時まではとりわけて注目もされていなかった、円朝作と云われる落語「芝浜」を独自に練り上げ得意にした。以降、芝浜は夫婦の情愛を美しく描いた名作落語として認識されるようになり、多くの落語家が口演するようになった。現在でも三代目三木助のものが傑作と云われることから通称「芝浜の三木助」、他にも通称は「田端の三木助」、「隼の七」等と言われる。右写真、三木助。
 若い頃は大阪、名古屋へも流れるなど放浪を繰り返し、一時は日本舞踊花柳流の師匠(花柳太兵衛(はなやぎたへい))となり落語家も廃業している。戦後も賭場通いを繰り返し日本橋界隈の賭場の連中に『橘ノ圓(まどか)』(落語家としての当時の芸名)では通じないが「隼の七」(賭場で名乗っていた名)と聞けば誰もが知っているという荒んだ生活を繰り返した。
 彼の人生を変えたのは、踊りの師匠時代の弟子仲子への直向な愛である。25歳年上の博打好きに嫁がせることは出来ないと考えた仲子の家からは、「三木助を継げるような立派な芸人になれたら」という条件を出した。どうせ出来まいという気持ちが、仲子の家の方にはあったのだろうが、彼は心機一転、博打を止め(この心情を、後に三木助は「芝浜」の主人公の断酒に感情移入して語っている)。ついに三代目三木助を襲名し、二人も結ばれることになる。

入れ墨(いれずみ);この短編では、タイトルが示しますように、刑の一環として刺青は多用されてきました。
 『江戸時代には左腕の上腕部を一周する1本ないし2本の線(単色)の入れ墨を施す刑罰が科せられた。施される入れ墨の模様は地域によって異なり、額に入れ墨をして、段階的に「一」「ナ」「大」「犬」という字を入れ、五度目は死罪になるという地方もあった』 (ウィキペディア)
 入れ墨は刑罰の証ですから、趣味で入れる絵柄の彫り物に対して「入れ墨」と言う言葉は禁句で、その話をする時は彫り物と表現しましょう。

 三社祭の彫り物をした男。

■松本清張 新潮文庫佐渡流人行 ≪下≫、「左の腕」、要約

 深川の料亭松葉屋に、おあきという美人の娘と、その父親である卯助という親子が雇い入れられました。紹介したのは、板前の銀次でした。卯助は飴売りをやっていたのですが、小汚い格好のために難儀していたのです。おあきも近所のカミサンから子守を頼まれ、わずかな金を稼いでいましたが、暮らしは楽ではありませんでした。
  おあきは顔立ちがいいだけでなく、苦労しただけに朋輩からも可愛がられました。父親の卯助は、その真面目さから、仲間からも重宝がられます。ただ、卯助は決して仲間とは一緒に風呂に入ったことはなく、左の腕には常に布を巻いていました。「へえ、若い時分の火傷の痕が醜いもんで」と聞かれるとそう答えます。
  そんな松葉屋にたかっていたのが、目明しの麻吉でした。無尽講と称して、時々御大尽衆による賭場が開かれていたのです。麻吉が松葉屋で騒動を起こす事態もありました。そんな麻吉を大人しく帰したのが、卯助でした。
  ある深夜、卯助が風呂屋に入っていますと、近づいた人物がいました。麻吉でした、左の腕の犯罪者に入れる刺青を確認します・・・。
 雨の降る夜のことでした。眠っている卯助を叩き起こしたのが、銀次でした。「松葉屋に押し込みが入っている、おあきさんも店の者も目明しも、みんな縛られてるよ」。
  卯助は単身で松葉屋に乗り込みます。見張りを倒し、向かってくる男たちを棒ひとつで倒します。そして、賭場の行われていた部屋に行くと、押し込みどもが金を包もうとしていました。「帰んな、手ぶらで出ていったら、お上には突きださねえ」。
  押し込みのひとりが、卯助に声を掛けます。「蜈蚣(むかで)の兄いじゃねえか」、若い頃の卯助は凶状持ちとして鳴らしていたのです。
 縛られている目明かしに、「やい麻吉ッ、なまじ隠すからいけなかった」。
 「明日からは飴売りに逆戻りだ。もう入れ墨は隠さねえよ」。  

細工した飴(さいくした あめ);飴細工。製菓技術のひとつであり、飴を用いて造形物を作り出すこと、およびその造形物をいう。その細工の技術と美術的な観点、製作過程に特徴があり、食べることを目的としない、鑑賞するための展示品として製作される場合もある。

 

 深川の飴細工師。2015.11.02撮影 深川江戸資料館にて

深川の料理屋(ふかがわの りょうりや);深川一番の有名どころ平清(ひらせい)。江戸っ子は縮めて「ひらせ」と言った。しかし、江戸っ子は”ひ”と”し”が言い分けられなかったので、江戸訛りで”しらせ”と発音していた。富岡八幡の東側、三十三間堂があった土橋にあり、二軒茶屋の上をいく超高級料亭です。江戸一と言われた山谷の八百善に次ぐ深川烹家(ほうけ)の巨璧(きょへき)と「江戸繁盛記」は伝えています。文化の頃(1804~18)から繁昌し明治に入ってからも続き、明治32年(1899)に廃業した。どちらも、一般庶民が入れるような、料理茶屋ではありませんでした。

 江戸高名会亭盡「深川八幡前・平清」 広重画

 松本楼(まつもとろう);富岡八幡宮の鳥居内にあった料亭です。伊勢屋とともに、二軒茶屋と称された名店でした。現在の八幡裏の数矢小学校辺りに有りました。深川で江戸以来の老舗は、平清、尾花屋、梅本に山本、二軒茶屋、ほかに小池がありました。噺の中に出てくる松葉屋は、実際に有ったわけではありません。

 深川七場所と言って、富岡八幡宮、永代寺周辺は江戸の町が膨張するに従い、幕府の隅田川東側の埋め立てが進み、移住者を増やす為にも遊所・岡場所の営業を当初は許していた雰囲気がありましたし、神社仏閣の周りには自然発生的に遊所が散見されます。その中に、江戸でも有数の料理茶屋が混在していました。
 深川七場所については、落語「おさん茂兵衛」に詳しい。

通いの下男(かよいのげなん);店に住み込みでは無く、自宅から通ってくる、下働きの男。しもべ。下僕。
 掃除、草むしり、水撒き、買い物、薪割り、など雑用を勤めます。

住み込みの女中(すみこみの じょちゅう);こちらは住み込みのおあきさんで、松葉屋に住み込みで働いています。

相川町(あいかわちょう);深川相川町。卯助の住まい。現在の江東区永代一丁目1番辺り。永代橋の東詰め土手際の町。東側に行けば、深川の中心街・門前仲町に出ます。

裏長屋(うらながや);表通りから入った裏側にある長屋。

門前町(もんぜんちょう、-まち);深川の富岡八幡宮前の町。ここの稲荷横町に住んでる稲荷の麻吉がいた。

目明かし(めあかし);江戸時代、放火・盗賊その他の罪人を捕えるため、与力・同心の配下で働いた者。多くは以前軽い罪を犯した者から採用した。おかっぴき。てさき。訴人。御用聞き。(広辞苑)

 ここから、林美一著「江戸の二十四時間」より、岡っ引きについて引用します。
 岡っ引きと言うには、公儀の役人である町奉行所の同心が犯人を捕らえるのでは無く、脇の人間が拘引することから起こった呼称です。潜りの遊里を岡場所、他人の女に横恋慕することを岡惚れというように、本筋以外の立場の人間だから「岡」の字が付く。手先という呼称は町方同心の末端の手下になって働いているからで、御用聞きも同じ意味合いである。目明かしと言われるのは、犯罪を密告したり、密偵的な仕事をした為だった。
 その仕事をさせるには、悪人仲間のことに精通していなければならない。初めは死罪になるような者を、死罪を免除して寝返らせた。仲間が仲間を通報するのだから犯人が良く捕まった。その代わり仲間に感づかれたら、殺されかねない。密告するのに手心を加え「金を出せば、言わずにおいてやる」、と強請、たかりをするようになった。それが進み、表向きは岡っ引きを禁止されたが、陰では相変わらず起用が続いた。中には良い目明かしもいて同心が便利使いするのは当たり前であった。しかし、奉行所へは内緒で使っているので、奉行所に届けられた”小者”と違って、目明かし・岡っ引きの存在は奉行所も知らないので、連れている小者には十手を持たせるが、岡っ引きには持たせないし、給金も払っていない。どうやって食っているかと言えば、岡っ引きの親分の所でゴロゴロしていれば、周りも知れてくるので、お茶を飲みに行けば、黙って鼻紙代を包んでよこすようになる。たびたび行くと、たかりのようになって嫌がられるから、上手く働いて力にもなってやれば、いい顔の若い者と言われるようになる。親分も、そろそろ身を固めたいと思ったら、同心の所に行って「寿司屋を始めるとか、女房を貰うので・・・」とよろしくと挨拶をすると、ただ働きをさせてきたので、20~30両の祝い金を出してやるのが通例だった。
 岡っ引きは密偵であるから、十手は持たせない。表向きは、マキ屋であったり、湯屋で有ったりする密偵の親分ですから、身元が割れるような物は持たせません。また、岡っ引きを本業としている者も居ません。時代小説に出てくる岡っ引きが十手をちらつかせるのは、大間違いですが、高名な小説家がその様に書いたことから間違いが伝播して広がってしまいました。

強請(ゆすり);他人をおどしてむりに金銭や品物を出させること。また、その人。

無尽講(むじんこう);相互に金銭を融通しあう目的で組織された講。世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って定期的に集会を催し、抽籤(ちゅうせん)や入札などの方法で、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、はじめは無利子・無担保だったが、掛金をおこたる者があったりしてしだいに利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後も、近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間に行なわれた。頼母子(たのもし)。頼母子講。頼母子無尽。無尽金。無尽。

手慰め(てなぐさみ);なぐさみにするちょっとした博打や賭博遊びや動作。

寺銭(てらせん);ばくちや花札などで、その場所の借賃として、出来高の幾分を貸元または席主に支払うもの。てら。寺金。

生国は越後(しょうごく えちご);今の新潟県。そこが生まれた地だと言う。

ザクロ口(石榴口);江戸時代の銭湯の湯ぶねの入口。湯のさめるのを防ぐために、湯ぶねの前部を板戸で深くおおったもの。身体を屈(カガ)めて中に入る。ザクロの実の酢は鏡の金属面をみがく料となるから、「屈み入る」と「鏡要る」とをかけた名という。
右図とも(広辞苑)

無宿人(むしゅくにん);江戸時代、親から勘当され、人別帳(ニンベツチヨウ)からはずされた者。農家から食べられず都会に出て来て人別帳に記載されていない者。無宿。江戸幕府では、犯罪予備者として取り締まりの対象とし、佐渡の金鉱山に送ったり石見銀山に送ったりした。

長門(ながと);旧国名。今の山口県の西部・北部。古くは穴門(アナト)。長州。

押し込み(おしこみ);人家におしこむ強盗。おしこみ強盗。

匕首(あいくち);合口・相口。(「匕首」とも書く) 鍔(ツバ)がなく、柄口(ツカグチ)と鞘口(サヤグチ)とがよく合うように造った短刀。九寸五分(クスンゴブ)。

上州(じょうしゅう);上野(コウズケ)国の別称。今の群馬県。

堅気(かたぎ);(芸娼妓・ばくちうちなどに対していう)まじめな職業。



                                                            2019年10月記

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