落語「月宮殿・星の都」の舞台を行く
   

 

 六代目笑福亭松鶴の噺、「月宮殿・星の都」(げっきゅうでん・ほしのみやこ)より


 

 旅には、東の旅に、西の旅、南の旅には北の旅、嫌なのは十万億土の冥土の旅、海にくぐると竜宮界・竜の都、天に昇ると月宮殿。今回はこの天の旅の噺を。

 「おい」、「えぇ?」、「一杯呑まそか?」、「『一杯呑まそか』に懲りてんねや。清やんに付いていくと天神橋の橋詰まで来たところでな、川べりまで降りて『ま~遠慮なしに飲みな』て言うので、両手にすくて淀川の水十六杯・・・」。
 「わしゃお前な『呑ます』言ったら呑ますんや。そのかわり、知り合いから鰻四・五匹もらってな、あれ料理に手間とんねや。おまはんやってくれるか? 水箱に浮かべたぁんねん。つかめるか?」、「つかましてもらお。一杯よばれんねやさかい、あッ、あかん、この鰻、ニュルニュルや」、「どの鰻でもそや」、「糠(ぬか)ないかい? 糠、ブァ~ッと撒いといて、そこへ鰻放り出すねや。そいつをグッとまな板の上へ乗せて、出刃包丁でな、輪切りにブツッブツッブツッ・・・」、「そんなジジムサイ料理があるかいな」。
 「見ててや、サッと、ほら逃げた」、「どこでもえぇバァ~ッと鷲づかみにした時にな、鰻が苦しがって指の間から 首出したところをやな、グッとつかんだらえぇねん」、「なるほど、あんたの言うとおり指の間から首出したな~。これが、首は出すけど前へ前へ行きよる、ちょっと足元片付けて」、「何を言うねん?」、「ちょっとすまんけど、裏開けて・・・」、「おい、どこ行くねや? おいおい、待てまて、何しとんねや? 町内走りまわってるがな。おい、待ちっちゅうねん、おいおい、待てまて、前向けてるさかいあかんねん。いっぺん上向けんかいな」、「今度は上へ上へ行くがな、おい、梯子掛けてくれるか」、「大屋根まで登って行きよったがな、お~い、どこ行くねんお前は? 待ちんかいな」。

 こんな男の手に合うような鰻ではござりません。海に千年、川に千年、沼で千年、三千年の劫経た(こぉへた)鰻でございます。
 機会があったらこの、天上へ昇天しょ~かと狙ろとりました鰻で、黒雲がズ~ッと低う垂れ込めてまいりまして、大粒の雨がポツッ、ポツポツ、ザ~ッと降ってまいります。真っ暗になります。
 いままで一尺ぐらいの鰻が大きくなりまして、この男を尾っぽでキリキリキリッと巻いたかと思うと、竜巻に乗って中天へさしてズ~ッ、♪(ドロ)・・・。  もぉ一緒に連れて行くのは邪魔臭いと思ぉたんか、そこへド~ンと放り出してそのままズ~ッと鰻は昇って行きます。

 「おい、待った待った、こんなとこへ放り出すなお前は、えらいとこやな~、どこへ落とされたんやいな? おッ、向こぉから人が来たがな、もし、ちょっと尋んねますが」、「何じゃな?」、「順慶町(じゅんけぇまち)へはど~行ったらよろしいやろ?」、「それは下界かい?」、「大坂だんねや」、「それを下界ちゅうねがな。どっかで見た事があるな?」、「順慶町の丼池(どぶいけ)でござりますがな、わて、徳兵衛言いまんねがな」、「箱屋の徳さんかいな。久しぶりやなぁ」、「あんさん、どなたはんだす?」、「雷の五郎蔵やがな。わたしが雲の切れ間から足踏み外してド~ンと落ったところが、あんたのお家(うち)の裏口でな。足腰打って動けんようになったところを、お宅の嫁はんとあんたにえらい世話になってな。あの時の雷の五郎蔵じゃがな」、「あ~、そんなことおましたな」、「ほんでまた、どおいうわけでこんなとこへ?」、「ここは地上やおまへんのんか?」、「中天やがな。天 も天でな三十三天ありまして、こら高い高い不死不生界へ行くのにはな、八億の魔性に遭わんならん。ここで落とされて良かったんや」、「大坂へこれからすぐ帰れまっか?」、「今すぐっちゅうわけにいかんけどもな、まず、我家に来なされ。星の都のお祭りやさかい見物して、それから折を見て連れて降りまっさかいに」、「えらいすんまへんな~」。
 「付いときなはれ。これがあての家(うち)だんね。おい、おなり、おなり」、「その『おなり』」ちゅうのは?」、「嬶(かか)の名前や」、「雷の五郎蔵の嫁はんで「お鳴り」ちゅな洒落てまんなぁ」。
 「ま、お座り。何もおまへんけど、祭り用のご馳走こしらえた」、「こら何ですか?」、「霰(あられ)の三杯酢や」、「こっちは?」、「虹の塩焼や。こっちはまた、虹の佃煮じゃ。とにかく機嫌よく食べとおくれ。夕方になったから、ボツボツ月宮殿へ出かけよかいな。町で聞かれたら、わしの弟で、五右衛門だと言いなさい」。
 金槌で頭を叩かれコブの角を作り、息子が履いてる虎の皮風のフンドシを借り、身体をベニガラを塗っといて出掛けた。
 ♪(下座から三味線太鼓が入る)「織物工場が見えるだろう。虹を織っているからあれを『虹陣』と言いますのじゃ」、「下界にも西陣と言うところがあります」、「炭団(たどん)がいっぱい有りますが・・・」、「炭団ではなく雪です。天の川で晒して真っ白になるんです。穴があるから気をつけなさい」、「沢山有りますか」、「ここだけで、久米の仙人がここから地上へ落ちたという。わたしが先年、こっから落ちておまはんの裏口へ」、「大坂も見えて、下界は近いですね」。

 「ほれ、ここが月宮殿じゃ」、お祭りとあって賑やかな事。♪(お囃子が入る)「はぁ~ッ、綺麗なもんですな~」、「人が出てますな」、「人ではなく星達じゃ」、「綺麗なのは星が掃除していますな」、「帚星です」、「カンナを使っていますが・・・」、「木星です」、「水を撒いてるのは・・・」、「水星じゃ」、「道をならしているのは・・・」、「土星じゃ」、「賽銭を運んでいるのが、金星じゃ」、「なるほどな~。ヨロヨロ歩いているのは・・・」、「宵(酔い)の明星じゃ。こっちに来なされ」。

 出て来ますと、立派な御殿がありまして、奥の方にはまた、御簾が掛かってます。御簾の中に何じゃツヅラみたいなもんが置いてあります。「あれ開けて中見と~おまんな」、「断りなしに御簾を上げて中覗くちゅな、そんなことあかん。あんただから言うが、あの中にはへそが入っていて、わしらが下界に行って取ってきたヘソじゃ。21歳になると中天ではヘソが1個貰え、食べると通力が付くのじゃ。わしがこれから奥に行って来るさかい、しばらくここで待ってなはれ」、「行ったらいかんがな。西も東も分からんとこで放ったらかされたらどんならん」。

 「ツズラの中はヘソだった。一つ食べてみよか・・・、う~ん、こら旨いもんや。もう一個・・・、旨いな~、旨いもんじゃ」。一つでも通力が付くのに、二つも食べたので身体がふわふわしてきた。
 「一人でも帰れる。大坂への土産にこのツズラ背負って行こう」、「おい、ツヅラが逃げるわ、逃げるわ~」、星達が騒ぎ出した。「ありゃ~、五右衛門がツヅラ背負おたな、ものども召し取れぇ~ッ」、シュ~ッと逃げたんですが、先ほどの雲の切れ間から、足踏み外して下へドス~ン。ちょ~どこの嫁はんの横へ落ちよった。

 「まぁビックリしたッ、何やいなこれ? 何や、あんた誰?(バンバン)」、「無茶をしなっちゅうねんお前、そんな荒っぽいことしいな、嬶」、「あんたやないかいな、どこ行てなはったんや?」、「鰻に連れられて、中天まで行てたんやがな。お前のため思て、わしゃ土産にツヅラ背って落ちて来たんや。それをお前、そんな杓(しゃく)でどつくちゅな」、「ヘソの仇は長い杓(長崎)で討ったんや」。

 



ことば

月宮殿(げっきゅうでん);中国の伝説では、宮殿があり、そこには不老不死の薬を飲んだあと月へと逃げかくれた嫦娥(じょうが)が住んでいるとされる。また巨大な桂の木が生えているともされ、そこでは罰として月宮殿へ流された呉剛(ごこう)という人物が永遠にその木(月桂、げっけい)を伐っているとされている。月桂は沙悟浄の持つ得物「降妖宝杖」の素材でもある。
 嫦娥(じょうが、こうが)=中国神話に登場する人物。后羿(こうげい)の妻。古くは姮娥(こうが)と表記された。『淮南子』(えなんじ)覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月(月宮殿)に逃げ、蟾蜍(ヒキガエル)になったと伝えられる(嫦娥奔月)。
 仏教では、月宮殿の対として日宮殿(太陽)が存在しており、須弥山を中心とした世界観に登場している。日宮殿は縦横の広さが51由旬(ゆじゅん=長さの単位=1由旬は7.2km、諸説有り)、月宮殿は49由旬あるとされる。 日本の物語作品である『竹取物語』では、かぐや姫の帰る先として「月の都」が登場する。

 落語では、地上へ墜落してしまった雷神などが登場する。ウナギをつかまえようとして浮かび上がり月にたどりつく内容。『月宮殿星都(げっきゅうでん ほしのみやこ)』とも。二世曽呂利新左衛門の口演などがある。
 林家蘭丸という落語家が、江戸時代末期にこしらえたといわれているお話です(桂文我)。
 右図:「月きゅうでん」絵本 桂文我・文 スズキコージ・絵 

竜宮界・竜の都(りゅうぐうかい・りゅうのみやこ);海の底に有る都・竜宮界。落語「竜宮」に詳しい。

天神橋(てんじんばし);大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、大阪市北区天神橋1丁目と大阪市中央区北浜東の間を結んでいる。車道は全線南行き一方通行となる。
 1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大坂天満宮が管理していたが、1634年(寛永11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、真ん中に位置する。
 浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちたらこわいな」と童歌に歌われた。
 明治初期までは木橋だったが、1885年(明治18年)の淀川大洪水により流失。1888年(明治21年)にドイツ製の部材を主に用い鋼製のトラス橋として架け替えられた。先述の童歌からもわかるように、天神橋の下に陸地はなかったが、大正時代の1921年(大正10年)に大川の浚渫で出た土砂の埋め立てをする土木工事があり、1920年代以降に上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。1934年(昭和9年)には松屋町筋の拡幅に合わせて、ほぼ現在の形である全長219.7mの3連アーチ橋となった。天神橋南詰には、天神橋交差点があり、ここより北を天神橋筋、南を松屋町筋という。
 ウイキペディアより

 ここの橋下の淀川の水十六杯飲んでしまった徳さんだった。

淀川の水十六杯(よどがわの-);江戸落語にも同じシーンがあります。落語「鰻屋」で、留さんが飲みたさ一心で兄貴分に付いて隅田川を渡り、吾妻橋下に降りて隅田川の水を飲むくだりがあります。

鰻を掴む(うなぎをつかむ);鰻はヌルヌルして掴みにくいもの。江戸落語にも「鰻屋」、「素人鰻」があります。どちらも鰻を掴んで右往左往、「どちらに行きますか?」と聞けば「前に回って鰻に聞いてくれ」。素人には難しい作業です。

 ・鰻(うなぎ);ウナギ科の硬骨魚。細い棒状。産卵場は、日本のウナギは台湾・フィリピン東方の海域、ヨーロッパ・アメリカのウナギは大西洋の中央部の深海。稚魚はシラスウナギ・ハリウナギなどと称し、春に川に上り、河川・湖沼・近海などに生息。また養殖も、浜名湖など東海・四国地方・宮崎で盛ん。蒲焼として珍重、特に土用の丑の日に賞味する。(広辞苑)

 ・蒲焼き;焼いた色が紅黒くて、カバノキの皮に似ているから樺焼きであるとか、鰻を焼いた時、その香りが実に早く匂うので香疾(かばや)焼きと言われた。この両説とも間違い。鰻の蒲焼きは、昔、鰻の口から尾まで竹串を刺し通して塩焼きにした。この形が、蒲(がま)の穂に似ているから蒲焼きと言ったものの訛りである。(食べ物語源辞典・清水桂一編)

 ・鰻屋;江戸の名物に、「寿司」、「天麩羅」と「鰻」があった。江戸前の海で捕れるから鰻を江戸前と言った。江戸前と言えば鰻の事で、時代が下がって、東京湾で捕れたどんな魚でも江戸前というようになった。蒲焼きにして売られ、天明の末頃には蒲焼きにご飯を付ける「つけめし」が始まった。文化ごろに鰻丼の前身の「うなぎめし」が大野屋から売る出された。この鰻飯は、芝居勧進元の蒲焼き大好きの大久保今助という男が、冷たい蒲焼きはまずいので飯の間に挟んで持ってこさせたのが起源だと言われている。これを「中いれ」と称し、大野屋では64文から売り始めたが、100文、200文(職人の手間が470文の時代)の高級品も出来るようになった。寛永元年には90軒の蒲焼き店を紹介しているが、すぐに200店を越えるようになった。
  今も行われている、「丑の日の鰻」は、文政の頃からの文献に見える。神田和泉橋通り春木屋全兵衛の店が「丑の日元祖」を称している。
(江戸学事典・弘文堂より要約) 上図;「江戸見世屋図聚」 三谷一馬著 中央公論社より 

大屋根(おおやね);下屋(ゲヤ)・庇(ヒサシ)などに対して、主屋の屋根をいう。一つの屋根を複数の階にかけることによって傾斜のある天井面ができるが、この部分を収納スペースにしたり吹き抜けにするなど、室内空間の演出に利用することが多い。

海に千年、川に千年、沼で千年、三千年の劫経た(こぉへた)鰻
 《山に千年、海に千年すんだ蛇が竜になるといわれているところから》世の中の経験を十分に積んで物事の裏表に通じ、ずるがしこくなっていること。また、そのようなしたたか者。海に千年山に千年。海千山千。
 劫(こう)経る:長い年月を経る。年功を積む。
 この場合は、鰻です。その鰻は、昼間は細長い体を隠せる砂の中や岩の割れ目にじっと潜んでいて、夜になるとエサを求めて活動する夜行性です。 エサは甲殻類や水生昆虫、カエル小魚などで、鰓(えら)
の他にも皮膚呼吸できるため、体と周囲が濡れていれば陸上でも生きることができます。 雨の日などは路上に出現することもある。また、養殖池を出て散歩に出掛けてしまう鰻も居ます。
 ウナギの産卵は南の海洋で行われます。 卵は2~3日で孵化し、レプトケファルスと言われる柳の葉のような形をした仔魚になります。 成長する段階で変態を行い稚魚になり、扁平な体から円筒形へと形を変えていきます。150~500日後に5cmほどのシラスウナギとなり、5~10年ほどかけて成熟し、再び海へ戻って産卵します。
 寿命としては5~80年という。 養殖のウナギが飼育された最長齢が80年生きたという記録があるそうです。で、最初の海千山千はことばの上の形容でして、10年以上の鰻は見ただけでも大親分です。

天上へ昇天(てんじょうへしょうてん);そらのうえ。そら。仏教では天国をいう。天上界。そこに昇天(天に昇る事。死ぬ事)すること。

順慶町(じゅんけいまち);大阪人は「じゅんけまち」と言うことが多い。順慶町通は筒井順慶の屋敷があったことに由来し、江戸時代には新町遊廓へ至る新町橋が架けられ、夜市で賑わっていた。二・七の日の夜店が名高かった。塩町通には砂糖問屋が多く、1925年(大正14年)には大阪砂糖取引所が設置された。 町名変更で現在、大阪市中央区南船場1~4となっている。

 順慶町夜見世の図(浪花名所図会)  大阪府立中之島図書館蔵

丼池筋(どぶいけすじ);大阪市中央区西部を南北に通じる街路。心斎橋筋の東側の街路で、大阪の商業中枢地である船場を貫く。かつては高級家具問屋街として知られたが、第2次世界大戦の大火後繊維類に転換、現金取引の卸小売で繁栄し、大阪の代表的な繊維問屋街として有名となった。船場の都市再開発計画に伴い、現在は一部が船場センタービルに移転し、変容している。 「丼池」の地名は、付近に芦間(あしま)の池というどぶ池があったからで、また、俗称ですので地図上には表記されていません。

中天(ちゅうてん);天の中心。天心。なかぞら。中空。

三十三天(33てん);忉利天(とうりてん)。(梵語 Tr yastri a  三十三天と漢訳) 六欲天の第2。須弥山(シユミセン)の頂上にある。中央に帝釈天(タイシヤクテン)の止住する大城があり、その四方の峰に各8天があり、合して三十三天となる。

不死不生界(ふしふしょうかい);南伯子葵との問答で、三日目には天下を忘れ、七日目には物の存在を忘れ、九日目には自分が生きていることを忘れた(無我の境地)。生を忘れるようになってから、朝徹の(朝の光が闇をつらぬくような豁然大悟した)境地、見独の(唯一絶対の真理に刮目した)境地、さらに、古今の時間を超越し、不死不生の境地に至り、(えいねい)に到達する。
 難しい事は抜きにして、人の生き方で、死んだ後に行くであろう不死不生界を抜けてその上にまで昇ると、悟りの世界・極楽があるという。そこに行くには大変な努力がいるという。

ベニガラ(紅殻);(ベンガラに当てた漢字「紅殻」の訓読から) 、(インドのベンガルに産したからいう) 帯黄赤色の顔料。塗料・磁気材料・窯業剤・研磨剤に用いる。成分は三酸化二鉄。化学式Fe2O3。紅殻(ベニガラ)。

(おに);想像上の怪物。仏教の影響で、餓鬼、地獄の青鬼・赤鬼があり、美男・美女に化け、音楽・双六・詩歌などにすぐれたものとして人間世界に現れる。後に陰陽道の影響で、人身に、牛の角や虎の牙を持ち、裸で虎の皮のふんどしをしめた形をとる。怪力で性質は荒い。民話の中には良い鬼や、ドジな鬼などが出てくる。
 右図は、ドジな鬼で、天上から落ちてしまい足を怪我して戻る事が出来ない。迎えに来いとの手紙を代筆して貰った。「手紙をもって申し上げ候。しかれば」と書くところ、鬼に聞いたら「しかればでは無く、ひかれば」で、ございます。
軽口絵本臍久良辺(へそくらべ)より「雷の手紙」。下記も参照

ヘソ(臍);腹部のまん中の小さなへこみ、またはデベソ。臍帯(サイタイ)の取れた跡。
 落語では、地に落ちた雷が弁当箱を忘れて天界に帰って行った。それを見た人が、二段重ねの上蓋を取ると美味しそうなタニシの佃煮と思って、ヘソを食べてみると旨い。ではその下は何が入っているのだろうと思って、下を見ようとしたとき天界から聞こえてきた、「ヘソの下は見てはいけないッ」。

「雷の玉子」
 雷の玉子をもらい本物かどうか孵化せてみることにした。懐で十日ほど過ぎて、依頼した旦那が来ました。「もし、旦那様、玉子が割れて中から小さな雷が出ました。夕べも『コヨ コヨ コヨ』と鳴きました」、「早く見せて下さい」。袂に居ないので、「道で落としたか、とんだことだ」と諸肌脱いで、「おおッ、ここに有った、有った。ご覧下さい。生まれながらに、本性は隠すことが出来ないものでござります」、「どうした?」、「臍にひっついて」。
 江戸笑話集「無事志有意」より意訳

久米の仙人(くめのせんにん);俗に久米寺の開祖と伝える人。大和国吉野郡竜門寺に籠り、仙人となったが、飛行中吉野川に衣を洗う若い女の脛(ハギ)を見て通力を失い、墜落した。その女と一緒になり、都造りの材木運びに通力を取り戻し、材木を空に飛ばして仕事を助け、褒賞に免田三十町を得て久米寺を建立したという。今昔物語集・徒然草などに出る。

五右衛門(ごえもん);石川 五右衛門(いしかわ ごえもん、生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。 従来その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。
 石川五右衛門という人物が安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京で処刑されたという事実は間違いないと考えられている。
 右図、一陽斎豊国 画『石川五右衛門と一子五郎市』

ヘソの仇は長い杓(長崎)で討ったんや;オチのこの言葉は「江戸の敵を長崎で討つ」のもじり。この言葉、江戸の敵を長崎で討つとは、意外な場所や筋違いなことで、以前受けた恨みの仕返しをすることのたとえ。また、関係のない者を討って気を晴らすことのたとえ。
 一説には、大坂の見世物師が江戸で江戸の見世物をしのぐ勢いで大成功をおさめたが、その見世物師が大坂で長崎の見世物師に人気を奪われたことから、「江戸の敵を長崎が討つ」と言っていたものが転じ、「江戸の敵を長崎で討つ」になったといわれる。

 落語「長崎の赤飯」でも使われています。



                                                            2019年11月記

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