落語「狐芝居」の舞台を行く
   

 

 桂吉朝の噺、「狐芝居」(きつねしばい)より


 

 「親爺、これより次の宿(しゅく)までは、いかほどの道のりがあろぉの~?」、「まぁ山越しの三里半ほどでございますがな~、お武家さまのおみ足なれば、夕景までにはお着きになれるやろと存じます」、「出立をいたそぉ・・・、些少ながら茶代じゃ。あぁいや、釣りは無用、無用。堅固で暮らせ」。
 「刀が置いたぁるやないか。こら、今のお侍のお腰のもんじゃ」、「『武士の魂』ちゅうぐらいのもんやで、魂、床机の上へほったらかして行く侍がどこにあんねん。戻って来た、戻って来た、えらい勢い(いっきょい)で帰って来たがな」、「良かった、これがなかったらどないしょ~思てたんや」、「お前、侍と違うな?」、「分かるか?」、「お前なんやな、侍のカッコして町人なんか威してこう金盗ろっちゅう、道中師とか護摩の灰(はえ)?」、「わし実は役者やねん」、「その役者が何でそんなお侍の格好なんかしてんのんじゃ?」、「まぁ今度侍の役でもついたときの足しにでもなるやろと思てな、こないして侍の道中姿で旅をしてると、こぉいぅわけや。こら芝居の衣装、刀は小道具やがな」、「何ちゅうお名前じゃ?」、「わいはな、尾上多見蔵・・・、の弟子で、尾上蛸蔵の弟子で尾上田螺(たにし)ちぃまんねん。今度ま~ちょっとマシな役でも付いたらな、親っさんとお婆んと、いっぺん道頓堀の芝居へ呼んだるわ」、「そらありがたいなぁ。おぉ、ボチボチ出かけたほぉがええんとちがうか」、「日が傾いてきたがな、ほなボチボチ行くわ」、「ちょっと待ち・・・、うちの名物の団子や、持って行き。今度大阪へ呼んでもらうときの手付けじゃ。ほんで、ちょっと提灯出してやり。途中で日が暮れたりしたら難儀やさかいな、蝋燭も入れてな。持って行ったらええねやがな」。

 茶店に別れを告げまして、一本道、トコトコやってまいります。峠を登りまして、ぼちぼち下りにかかるかいな~といぅ頃、すっかり日は暮れてしまいました。借りた提灯に火を入れまして、山道をひとり、トボ~、トボ・・・。
 「秋の日は釣瓶落としやちゅうけど、ホンマやなぁ、いっぺんに暮れてもたがな。心細いなぁ、大丈夫かいな・・・」、「綺麗ぇな月やなぁお月さん、あない大きぃ・・・、(ドテッ)転んでしまった。あ痛っ、提灯消えても~たがな、何をすんねん。 (下座からシャギリ)何や? シャギリか・・・? お~シャギリや、一体こんな山の中、どっから聞こえんねん?」。
 シャギリと申しまして、寄席にも使いますがこの、芝居の幕間(まくあい)に使う鳴りもんでございます。音を頼りにやってまいりますと、稲荷山の名の元になりましたか、お稲荷さんの小さな祠(ほこら)がございまして、その向こぉに小ぢんまりとはしてますが、立派な芝居小屋。

 「こんな山ん中に芝居小屋があんのかいな? ほんでまた、夜やっちゅうのに、芝居開けてるがな。どんな連中がやってんねやろなぁ? 、挨拶がてら覗いてみたろ」。
 楽屋口のほうから入ってまいりますと、すぐにこの揚幕のところ、客席の一番後ろですな。これから花道へ出て行こうという役者さんが控えております鳥屋(とや)というところ。揚幕が吊ったぁりまして切れ目、そっから舞台のほぉが見えるよぉになってる。覗いて見ますと、仮名手本忠臣蔵・四段目、判官さん切腹の場が始まっとります。上手に上使が二人、幕府の使者ですなぁ、石堂右馬丞・薬師寺次郎左衛門といぅ二人が並んどります。真ん中の襖がス~ッと開きまして、それへ出てまいりますのが塩谷判官高定(高貞)・・・。
 「これはこれは、ご上使とあって石堂殿、薬師寺殿、お役目ご苦労にござります。ま、何はなくともご酒一献」、「何、ご酒? それは良かろう。この薬師寺お相手つかまつる。が、今日(こんにち)の上使の趣(おもむき)聞かれなば、酒も喉へは通りますまい。ダハハハハァ~・・・。上意・・・、一(ひとつ)、この度、伯州の城主塩谷判官高定儀、場所柄日柄をわきまえず、わたくしの宿怨をもって高(こぉの)武蔵守に刃傷に及びし段、咎(とが)軽からず。国群(くにこおり)没収(もっし)の上、切腹仰せつくるものなり」、「ご上使の趣、謹んで承る上からは、何はなくともご酒一献」、「これさこれさ、判官殿。またしてもご酒ごしゅと、自体この度の咎、縛り首にも及ぶべきところを、我が君のありがた~いお情けで切腹仰せつけらるるうえからは、早々用意があってしかるべきはず。見れば当世流の長羽織りゾベラゾベラと召さるるは、判官殿には血迷いめされたか。ただし狂気ばし召されたか」、「身、不肖なれど判官高定、血迷いもせぬ、狂気もつかまつらん。今日上使と聞くよりも、かくあらんことかねての覚悟。ご両所、ご覧くだされ・・・」。
 「えぇ判官やがな、なかなかよぉやるで・・・、しかし、どこの連中や? 江戸の連中かいな、けどまた、夜やちゅうのに蝋燭ぎょ~さん点けて、贅沢なこっちゃで。こない明るぅ・・・、これ、蝋燭と違うで、これは・・・? 狐火か? 狐火、おいおいおいおい、桟敷も平場も狐でいっぱいやがな。えらいとこ来てもたでおい。これ、狐の芝居やがな、あ~恐わ。逃げよ逃げよ、けど、今から一番えぇとこやな~、恐いなぁ~、見たいなぁ~、恐いなぁ~」。
 さぁ、恐いんですが好きな芝居でございます、離れることができん。舞台のほうは進みまして、判官さんがこの切腹の座に直ります。前に三方、その上に九寸五分(くすんごぶ)、腹切り刀ですな、白の裃(かみしも)。これから大星力弥に「由良之助はまだ来ぬか?」と、問いただす、一番えぇところでございます。
 「力弥、力弥」、「ははぁ~」、「由良之助は?」、「いまだ、参上、仕りませぬ」、「存生(そんじょ~)に対面せで、無念なと伝え」、「ははぁ~」。左手に九寸五分を持って、右手に三方をおし戴いて後ろへ回し、尻の下にぐっと敷きます。「力弥、力弥。由良之助は?」、「ははぁ~、いまだ参上・・・、仕りませぬ」、「存生に対面せで、残念なと伝え」、「ははぁ~」、「ご検視、お見届けくだされ・・・。ウッ!」。
 「あれ? ちょっと待ちや、九寸五分腹へ入ったで。由良之助、出てけぇへんがな。大星ここでバタバタ~ッと出て来て判官さんと対面せないかんがな。おいおいおい、ここに揚幕や、ここ鳥屋やで。こっから出て行かなあかんねや、トチっとんのか、おい。何をすんねんな、トチってどぉすんねん、ここで出て行ったらな、こんなえぇ芝居ワヤんなるで、何をすんねんな」。
 判官さんのほぉも、九寸五分腹へ突き立てたまま、由良之助が出て来へんもんですから、このまま芝居を進めるわけにいかん「どうしたもんやろ」正味、脂汗かきだした。客席のほうでも「おい、大星どないなってんのん? 由良之助出て来へんやないかい、どないなってん? こんな型あんのんか? どないなってんねん? どないなってんねん・・・」、ワ~~ッと騒ぎだした。

 尾上田螺、自分のこの姿を見直してみますと、侍の道中姿。裃こそ間に合いませんが、今この、大星が到着したところと見えんことはなかろ。そお腹積もりができますと、好きでやってる芝居、辛抱がたまらん。「え~いッ、ままよ」自分で揚幕をチャリ~~ンと揚げますと、花道をバタ、バタバタバタバタバタ~、七三のところで「へッ、へぇ~ッ・・・」、「おぉ、聞き及ぶ、国家老大星由良之助とはそのほうか。苦しゅ~ない、近こぉ、近こぉ」、「はは~ッ・・・、ツツ、ツツ、ツツツツツ・・・、御前~ッ」、「ゆ、由良之助か」、「へぇ~ッ」、「ま、待ちかねたわやい」、「ご存生にご尊顔を拝したてまつり、身にとりまして何ほどか」、「われも満足。定めて様子は聞ぃたであろ。無念~ッ!」、「この期に及び申しあぐる言葉とてござりませぬが、ただ、尋常のご最期こそ願わしゅ~存じまする」、「ゆ、由良之助、近こぉ、近こぉ近こぉ」、「はッ」、「こ、この九寸五分は、なんじへ形見・・・、形見じゃぞよ」、「は~~ッ」。

 「えぇ由良之助でんな。褒めたらなあきまへん褒めたらな『音羽屋ぁ~ッ』『播磨屋ぁ~ッ』」、「あれ吉右衛門狐と違いまっせ。えらい背が低くおますがな。それに丸顔やしねぇ・・・、だいちこの芝居がちょっと臭いんと違いますか」、「いったい誰でんねん?」。
 その頃、楽屋では吉右衛門狐「寝過ごしましたんや」、「あれ、いったい誰がやってまんねん? 」、「おい、何やおかしな臭いせぇへんかおい?」、「え? ひょっとしたら人間が紛れ込んでんのかい? 人間かおい?」、「え? 人間か? 人間や、人間やぁ~ッ!」。

 「み台様に申し上げます、我々家中の・・・、誰もおれへんがな? え? 舞台どこいたんや・・・? あッ、草原や・・・。潰れかけたお神楽堂、虫の声、綺麗ぇ~なお月さんやなぁ。わし、夢見てたんか・・・? いやいやいや、違う違う違う、わし、狐の芝居で大星やってたんや。狐~、聞てるか? わし、お前らのお陰でな~、まぁ生涯かかってもでけへん、由良之助てな、えぇ役やらしてもろた。おおきに、気持ち良かったな~。明日からまた、機嫌よぉトンボ返れるわ・・・。これ、もらいもんやけど団子、置いときまっさ。おおき、ありがと」。
 言うたかと思いますと、ポ~ンとひとつトンボを返りますと、役者の姿もス~ッと消えて、草むらをトコトコ、トコトコトコ~ッと走って行ったのが、一匹の狸。

 




ことば

桂吉朝(かつら きっちょう);本名:上田 浩久(うえだ ひろひさ)、1954年11月18日 - 2005年11月8日)は、大阪府堺市出身の落語家。出囃子は、当初『芸者ワルツ』、のちに『外記猿』。
 大阪府立今宮工業高等学校では落語研究会に所属。高校時代から『素人名人会』に出演。このころ三代目桂米之助の元に稽古に通った。三代目桂米之助からは「東の旅」をネタ付けされる。
 高校卒業後は家業の手伝いを経て、1974年1月に三代目桂米朝に弟子入り。米朝を選んだ理由は、噺の知的センスだったという。入門の際に吉朝の「東の旅・発端」を聞いた米朝は「これはもう教えることはない」と言って「商売根問」の稽古をつけ、これが初高座のネタとなった。後に米朝は自身の芸を「枝雀には50話教え、吉朝には100話教えた」とインタビューで答えている。
 右、桂吉朝。
 「七段目」「蛸芝居」「質屋芝居」などといった芝居噺を得意とし、「地獄八景亡者戯」以外にも「百年目」「愛宕山」「高津の冨(宿屋の富)」「千両蜜柑」などの師匠米朝ゆずりの大ネタに、現代のセンスに合った「くすぐり」を加え独自の世界を切り開き米團治系の後継者と言われていた。また「河豚鍋」「天災」「化け物使い」などの他の一門の持ちネタも自らの持ちネタとし、おもしろさだけでなく、こなせるネタの幅広さは当代一と噂されていた。
  狂言師十三世茂山千五郎らとともに、狂言と落語をミックスさせた「落言」の公演を東京で行う一方、文楽の桐竹勘十郎、豊竹英大夫らとも親交が深く、文楽と落語をコラボレーションさせた会を開催するなど、他ジャンルの芸能との交流も深かった。
 その才能と実力から上方落語界の次世代を担うホープ、また米朝の後継者として期待されていたが、1999年に胃がんを患い、手術を受け一度復帰したものの、2004年10月になって胃がんを再発。その後治療を続けながら高座を務めていたが既にがんは末期の状態であった。
 2005年10月27日に国立文楽劇場で行われた「米朝・吉朝の会」で、師匠の米朝が吉朝たっての希望で近年高座にかけることが少なくなっていた「狸賽」を口演。吉朝は、当初「河豚鍋」と「弱法師(菜刀息子)」の2席を予定していたが、楽屋では医師付き添いのもと酸素を吸入しながら45分以上をかけて「弱法師」を演じるのが精一杯で「河豚鍋」を演じることは出来ず、「劇場の前を偶然通りかかった」という雀松が「替り目」を代演して穴を埋めた。終演後しばらくは観客からの拍手が鳴り止まなかった。そして吉朝にとってはそれが生前最期の高座となった。
 それからわずか12日後の2005年11月8日、心不全のため、兵庫県尼崎市の病院で死去。50歳没。

 1988年 「NHK新人演芸コンクール」優秀賞
 1989年 「第7回咲くやこの花賞」(後に直弟子の吉弥、吉坊、佐ん吉も受賞)
 1992年 「大阪府民劇場奨励賞」 1993年 「第56回国立演芸場花形演芸会」金賞
 1994年 「第14回国立演芸場花形演芸会」大賞(上方芸人初)
 2001年 「第30回上方お笑い大賞」、「芸術選奨新人賞」
 2002年 「平成14年度兵庫県芸術奨励賞」
 2005年12月 「第34回上方お笑い大賞」特別功労賞

 吉朝最後の高座、「弱法師」(菜刀息子) ↓ここをダブルクリックすると聞けます。
https://rakugo.ohmineya.com/弱法師・菜刀息子%ef%bc%88ながたんむすこ%ef%bc%89%ef%bd%9e桂吉朝/ 

小佐田定雄(おさだ さだお);1952年2月26日 - )は、日本の演芸研究家、演芸作家、落語作家、狂言作家。関西演芸作家協会会員。本名、中平定雄。大阪市生まれ。1974年に関西学院大学法学部卒業。妻は、弟子のくまざわあかね。この噺「狐芝居」の原作者。
 中学生の頃に、桂米朝やSF作家の小松左京が出演する番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)を聴いて落語に興味を持つ。関西学院大学法学部では古典芸能研究部に没頭。 卒業後サラリーマンをしながら落語会通いをする。1977年に桂枝雀に宛てて新作落語「幽霊の辻」を郵送したことで認められ、落語作家デビュー。1987年まで二足のわらじでサラリーマンを続けていたが退社し本格的に落語作家に転進。以後上方の新作や滅びた古典落語などの復活、改作や江戸落語の上方化などを手掛ける。
 1988年に上方お笑い大賞秋田実賞。
 1989年度咲くやこの花賞文芸その他部門受賞。
 1995年に第1回大阪舞台芸術賞奨励賞受賞。

紀尾井町(きおいちょう);尾上松緑(おのえしょうろく)の屋号。千代田区紀尾井町で、松緑が住んでる土地、地名で声を掛ける。
右、『道行旅路の花聟』 二代目尾上松緑の鷺坂伴内。

神谷町(かみやちょう);中村芝翫(なかむらしかん)の屋号。港区虎ノ門五丁目にある地下鉄日比谷線の駅名から芝翫の住んでる土地、地名で声を掛ける。

尼崎センタープール前;阪神電車の駅名。尼崎競艇場がある。ちなみに、吉朝宅の最寄り駅、長すぎてこれでは地名で呼んでくれない。八代目桂文楽が出てまいりますと「黒門町ッ」 なんてね、正蔵師匠ですと「稲荷町ッ」 なんて声が掛かる。以上三駅(町)ともマクラからですが、概略ではカットしています。

宿(しゅく);街道筋にある宿泊が出来る宿場。宿駅。東海道では53宿有ります。

三里半(3りはん);尺貫法の距離。1里は約4kmで計14km。平地では1里を1時間で歩きますから、3時間半掛かりますが、山道なのでその何割増しかになります。

道中師(どうちゅうし);道中で、旅人などの財物を欺き盗む者。ごまのはい。元来、ある区間を往復して、他人の用を足すことを業とした人。飛脚・宰領の類。

護摩の灰(ごまのはい);高野聖(コウヤヒジリ)の扮装をし、弘法大師の護摩の灰と称して押売りした者の呼び名から転じ用いられたという。 旅人らしく装って、旅人をだまし財物を掠(カス)める盗賊。胡麻の上の蠅は見分けがつきにくいことから「胡麻の蠅」とも。

尾上多見蔵(おのえ たみぞう);歌舞伎役者の名跡。屋号は音羽屋。定紋は吉菱。
 初代 尾上多見蔵=初代尾上菊五郎の門人、1754(宝暦4)年~1790(寛政2)年。はじめ花染皆之丞の門人。花染民蔵を名乗り1763年に若女形の色子として初舞台。上方に移るのは1787年以降。
 二代目 尾上多見蔵=三代目尾上菊五郎の門人、1800–86。はじめ三代目瀬川菊之丞の門人、次に三代目中村歌右衛門の門人。
 三代目 尾上多見蔵=五代目坂東彦三郎の門人、後に二代目の門人、1866–1927。実家は紀州藩士。

秋の日は釣瓶落とし(-つるべおとし);釣瓶を井戸に落すように、まっすぐに早く落ちること。転じて、秋の日の暮れやすいことにいう。

シャギリ;芝居の幕間(まくあい)に使う鳴りもんでございます。一幕終わるごとに太鼓・大太鼓・能管で奏する。寄席でも使い、中入りなどでお客さんがロビーなどでくつろいでいるときならされる。

鳥屋(とや);歌舞伎劇場で、役者が花道から舞台へ出る前に待期する部屋。揚幕の後ろにある。

   

 国立劇場の花道と奥に見える鳥屋。そこに掛かった揚幕。 

仮名手本忠臣蔵・四段目、判官さん切腹の場;歌舞伎・仮名手本忠臣蔵は全十一段有って、元の事件は、江戸城松の廊下で吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は切腹、浅野家はお取り潰しとなり、その家臣大石内蔵助たちは吉良を主君内匠頭の仇とし、最後は四十七人で本所の吉良邸に討入り吉良を討ち、内匠頭の墓所泉岳寺へと引き揚げる。この元禄14年から15年末(1701 - 1703年)にかけて起った赤穂事件は、演劇をはじめとして音曲、文芸、絵画、さらには映画やテレビドラマなど、さまざまな分野の創作物に取り上げられている。赤穂事件を「忠臣蔵」と呼ぶことがあるが、この名称は『仮名手本忠臣蔵』をもととする。

 四段目概略、四段目は異名を「通さん場」ともいう。その名の通り、この段のみ上演開始以後は客席への出入りを禁じ、遅刻してきても途中入場は許されない。出方からの弁当なども入れない。塩冶判官切腹という厳粛な場面があるためである。成句「遅かりし由良之助」のもとになった大星由良助はここで初めて登場する。

 (花献上の段):かほよ御前が夫判官のために花を誂えているところに、原郷右衛門と斧九太夫が参上する。
この段は歌舞伎では省略される事が多い。
 (判官切腹の段):足利館から石堂右馬之丞、薬師寺次郎左衛門が上使として来訪した。情け深い石堂に比べ、師直とは親しい間柄の薬師寺は意地が悪い。判官が出てきて上使に応対する。判官は切腹、その領地も没収との上意を申し渡される。これには同席していたかほよはもとより、家中の者たちも驚き顔を見合わせるが、判官はかねてより覚悟していたのかその言葉に動ずる気色も無く、「委細承知仕る」と述べた。そして着ているものを脱ぐと、その下からは白の着付けに水裃の死装束があらわれる。判官はこの場で切腹するつもりだったのである。だがせめて家老の大星由良助が国許から戻るまでは、ほかの家臣たちにも目通りすまい…と待つが、なかなか現れない。
 判官は力弥に尋ねた。「力弥、力弥、由良助は」「いまだ参上仕りませぬ」「…エエ存命に対面せで残念、残り多やな。是非に及ばぬこれまで」と、遂に刀を腹に突き立て、近くにいたかほよがそのさまを正視できず目に涙して念仏を唱える。そのとき大星由良助が国許より駆けつけ、後に続いて一家中の武士たちが駆け入った。
 「ヤレ由良助待ち兼ねたわやい」、「ハア御存生の御尊顔を拝し、身にとって何ほどか」、「オオ我も満足…定めて仔細聞いたであろ。エエ無念、口惜しいわやい」…と、判官は刀を引き回し、薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り、「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」とのどをかき切って事切れた。由良助はその刀を主君の形見として押し頂き、無念の涙をはらはらと流すのだった。だがこれで判官の、余の仇を討てとの命が伝わったのである。

 切腹する塩谷判官と大星由良之助。三代豊国画

 石堂は由良助に慰めの言葉をかけて帰り、薬師寺は休息するといって奥へ入った。上使の目を憚っていたかほよ御前はそれを見て、とうとうこらえきれず「武士の身ほど悲しい物のあるべきか」と判官のなきがらに抱きつき、前後不覚に泣き崩れるのだった。判官の遺骸は塩冶家菩提所の光明寺に埋葬するため、駕籠に乗せられるとかほよも嘆きつつそれに付き添い館を出て、光明寺へと急ぐ。
 (評定の段):由良助は家老斧九太夫と金の分配のことで対立し、九太夫はせがれの定九郎とともに立ち去る。ここで由良助は、残った原郷右衛門、千崎弥五郎ら家臣たちに主君の命を伝える。
 (城明け渡しの段):いよいよ屋敷を明け渡す段となるが、なおも名残惜しそうに屋敷の方を見る由良助たち。

主な登場人物
 塩冶判官高定(えんやはんがんたかさだ):伯耆国の大名。桃井若狭之助と同じく直義の饗応役となる。普段は冷静沈着な性格。
 右図、塩谷判官。 三代豊国画
 かほよ御前(かおよごぜん):塩冶判官の正室。もとは宮中に仕えた内侍。なお原作の浄瑠璃の本文表記では仮名書きで「かほよ」であるが、現行の文楽・歌舞伎では「顔世」の字を宛てている。
 大星由良助義金(おおぼしゆらのすけよしかね):塩冶家の家老。国許にいる。
 大星力弥(おおぼしりきや):由良助の息子。塩冶判官のそば近くに仕える。
 斧九太夫(おのくだゆう):塩冶家の家老。
 斧定九郎(おのさだくろう):斧九太夫の息子。
 上使2名:石堂右馬之丞(いしどううまのじょう)、薬師寺次郎左衛門(やくしじじろうざえもん)。

狐火(きつねび);暗夜、山野に見える怪火。鬼火・燐火などの類。狐の提灯。
 歌舞伎の小道具の一で、焼酎火。

桟敷も平場も(さじき ひらば);桟敷:劇場・相撲場などで、板を敷いて土間(ドマ。劇場の平場)より高く構えた見物席。江戸時代、芝居小屋では土間の左右に上下2段の桟敷席を構えた。桟敷席の方が正面の平場より料金は高かった。

 芝居小屋の内部。右が舞台で回り舞台が有り、その前の客席が平場、下手奥に桟敷席が見える。その手前に花道が有り、見えませんが左奥に鳥屋が有ります。当然上手側の写真手前にも桟敷席があります。
 江戸東京博物館蔵模型。

上使(じょうし);幕府・藩などから上意を伝えるために派遣された使い。石堂右馬之丞(いしどううまのじょう):塩冶家に訪れた上使。判官に対して好意的な上使。 薬師寺次郎左衛門(やくしじじろうざえもん): 同じく塩冶家に訪れた上使。師直と親しくしている人物で、判官に対して冷たい。

 左から、長羽織を着けた判官。 中央、上意を伝える石堂。 右、薬師寺。

長羽織(ながばおり);丈の長い羽織。普通、丈がひざ下に及ぶものをいう。「長羽織りゾベラゾベラと召され」と皮肉を言われる。この下に切腹用の白い裃を着けていた。

伯州(はくしゅう);伯耆(ほうき)国(鳥取県西部)の別称。

九寸五分(くすんごぶ);刀の長さによっていう、九寸五分(約30cm)の短刀。鎧通(ヨロイトオシ)。切腹に一番似合う長さの短刀。

 九寸五分。乃木希典夫人が使った、殉死の短刀。 乃木邸にて。

み台様(みだいさま);大臣・大将などの妻の敬称。

吉右衛門狐(きちえもんぎつね);歌舞伎役者の中村吉右衛門を模した狐役者。

トンボ返り(とんぼがえり);(トンボが勢いよく飛びながら、急に向きをうしろにかえることから) 空中で体を上下1回転させること。宙返り。
 歌舞伎で、役者が舞台で手をつかずに宙返りすること。



                                                            2019年11月記

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