落語「軽業」の舞台を行く
   
 

 桂米朝の噺、「軽業」(かるわざ)より


 

 喜六と清八のコンビが、伊勢参りの帰り道にある村で、妙に賑やかなので聞いてみると、『氏神さん白鬚大明神六十一年目の屋根替えの正遷宮(しょうせんぐう)』だという返事が返ってきたので、そのまま見物することになった。

 ぶっちゃけ商人(あきんど)が店を出して、「お子達のおみやに、伊勢の名物貝細工はどぉじゃい」、「本家ぇ、た~ん切り飴じゃ」、「亀山の、ちょ~んべはん」、「えぇ~、こちらは本家、竹独楽屋でござい(ブゥ~~ン)竹独楽屋でござい」、「お~しゅ~、岩ケ崎、孫太郎~虫はどぉじゃい。お子達の疳(かん)虫の薬、孫太郎~虫はいらんかな・・・」。

 参拝がすむと横手の道にはムシロ掛けの怪しげな小屋が並んでいます。
 「さぁ評判の1間(けん)の大イタチはこっちや、1間の大イタチや。山からトレトレ、そばへ寄ったら危ないでぇ~!」、「清やん、これ見ていこか?」、「止めとき、インチキもんばっかりや」、「何ぼや?」、「お一人前が八文じゃ」、「二人で十六文じゃな」、「ありがとさん。ズッと正面」、「ズッと正面って・・・、何にもあれへんや。おい、1間の大イタチどこにいてんねや?」。
 「あんたの前に板が一枚、立てかけてあるじゃろ」、「あるな~」、「それが、1間の大イタチや。その板、1間あんのじゃ。真ん中に赤いもんが付いてるやろ。そら血が付けたんねん。せやから1間の板血ィじゃ」、「お前『山からトレトレや』言うてたやないかい」、「そ~いうものは海からは取れん」、「『そばへ寄ったら危ない』ちゅうてたがな」、「こけてくるさかい危ない」、「こんなもん見せやがって、銭はど~なんねや?」、「取ったらもぎ取り。替わろ替わろ・・・」。

 「天竺のクジャク、白いクジャクじゃ。今広げたとこ、広げたとこ~や」、「清やん、これ見よか?」、「今お前、騙されたとこやないか」、「天竺のクジャクは白いんかも分からん『広げたとこ、広げたとこ』言てるやろ、あら羽広げてないと値うちがないねや」、「しゃ~ないな~、銭は何ぼや?」、「八文じゃい」、「また十六文かいな」、「ズッと正面、ズッと正面」。
 「何もあれへんやないか。天竺のクジャクはどこにいてんねや?」、「あんたの頭の上を見てもらおか」、「何や紐があって何やぶら下がってるがな、白い布(きれ)が・・・、これ何や?」、「天竺の白いクジャクじゃ、片一方は越中褌でこっちは六尺の褌や、天竺木綿で出来たんねん。六尺と三尺、合わして天竺の白い九尺や」、「九尺か? クジャクと違うかいな? お前『広げたとこ、広げたとこ』言うてたがな」、「広げとかんと、乾きが悪いで・・・」、「褌の洗濯もん見せて銭取ってんねや、銭はどうなんねん?」、「取ったらもぎ取り、替わろ替わろ・・・」。

 「さ~評判のタゲじゃ、目が三つで歯が二枚、笑ろとるぞ、ひっくり返って笑ろとるぞッ!」、「これ見よか?」、「懲りん男やな。何べん騙されたら気が済むねん」、「『タゲ、タゲ』言てんねや、さ~その解らんところがオモロイがな。目が三つで歯が二枚、ひっくり返って笑ろてるちゅうて、ちょっと見よやないか」、「銭は何ぼやい?」、「八文じゃ」、「十六文、ここへ置いとくで」、「ありがとぉさんで、ズッと正面・・・」。
 「おいッ、その『タゲ』っちゅうのはどこにいてん」、「おまはんの前に置いたるやろ」、「汚い下駄がひっくり返したるな~」、「下駄がひっくり返ってるさかいタゲじゃ」、「なるほど。穴が三つあいてて、歯が二枚あるわな~。目が三つで歯が二枚・・・『笑ろてる』言ったな~」、「笑ろてるがな、ひっくり返って『ゲタゲタ』と」、「どつかなしゃ~ないな・・・、銭は返してくれへんやろな」、「取ったらもぎ取り、替わろ替わろ・・・」。

 「評判の取ったり見たりはここじゃ~」、「『取ったり見たり』言てるな。これも見よッ!」、「相撲かもわからんな~、これも『飛び入り勝手次第』ちゅうてた。わしも相撲なら一番や二番取るで・・・」、「銭は一人前八文か」、「その通りその通り」。
 「土俵も何もあらへんがな」、「けど、人間がいてるな」、「汚いお爺やんが座っとるがな・・・、『取ったり見たり』ちゅうのはどこでやってるねん?」、「その正面のお爺んじゃ」、「何で『取ったり見たり』や」、「よく見てみなはれ、着物を脱いで虱(しらみ)を『取ったり見たり』してるやろ」、「虱の取ったり見たりかおい?『飛び入り勝手次第』ちゅうてたな~?」、「気があったら、一緒に取っておくれ」、「アホ言え、何で銭出して人の虱取らんならんねん・・・、銭は?」、「取ったらもぎ取り、替わろ替わろ・・・」。

  あっちで騙されこっちで銭取られ、裏手のほうへ回って来ますと、これはまた高物(たかもん)興行は軽業小屋でございまして、表には十二枚の絵看板。まず式三番叟(さんばそう)には、あやめ渡り、四ツ綱渡り、乱杭渡り、火渡り、石橋(しゃっきょ~)は獅子の飛び付き、一本竹に二丁撞木(しゅもく)。真ん中には大きい葛の葉の障子抜けの絵が描いてございます。札場には札が山のよぉに積み上げてありまして、襟に「太夫元より」と染め抜いた法被を着た若い衆が、鬱金木綿(うこんもめん)の鉢巻きもん。ちょっとお神酒が入ってまして、顔はほんのりと桜色と言たいが、桜の皮色ちゅなややこしい色してますな~。二枚の札をパチパチ鳴らしながら、箱根知らずの江戸話ちゅうやつ・・・。

 一人前が三十二文で、入ってみますと、ザラッと六分の入りでございまして、大勢ワァワァ言てる。
 カルサンを着けた男が出て来て口上を申し上げます。続いて太夫入場。「かの有名なる『早竹虎吉』が門人にて『和屋竹の野良一』と申しまする。お目通りお引き合わせ相済みましたる上からは、ご免をこうむりまして舞台なかばにおきまして芸当二度の身支度に、とりかからせま~す。(太夫、タスキを取り出し手早く身支度、傘を取り出し広げる)」。
 「とざい~~っ。身支度な整いますれば、あれに設(しつら)えましたる蓮台(れんだい)へと足(そく)を移す。蓮台は次第しだいにせり上がりましょ~ならば、出世は鯉の滝~き登り~。(小拍子を蓮台に見立て、次第にせり上がっていく)。とざい。首尾よく頂上まで登り詰めましたる上からは、こなたよりあなたへと張り置きましたる綱へと足(そく)を移す。まずしばらくは綱調べ、深草の少将は小町が元へ、通いの足(そく)どり~~っ。 (太夫、綱渡り・・・、右手中指と人差し指で人の足を現し、扇を綱と見立てて)。(素の語りで、足元をご覧に入れます・・・)野中に立った一本杉・・・。は~~っ! お目止まりますれば、体(たい)は元へととり直す・・・。達磨大師は座禅の形~ち! はっ! 逆戻~り・・・。邯鄲(かんたん)は夢の手枕(たまくら)。はっ! 戻っては名古屋名城は金のシャチホコ立~ち! はっ! 義経は八艘飛びっ はッ・・・、(素の語りで、どないでもなりまっさかい・・・)。首尾よくこれまでは勤め終わりましたるなれど、いよいよこれからは太夫身にとり、千番に一番の兼ね合い。綱のなかばにおきまして、両手片足の縁(えん)を離す。まずしばらくは沖の大舟(たいせん)、舟揺り~~っ! ♪あ、さて、あ、さて、さてに雀は仙台さんのご紋。ご紋所は菊と桐。義理(きり)と褌しゃかかねばならぬ。なら(奈良)ぬ旅篭や、三輪の茶屋。茶屋の姐貴が飛んで出て、騙されしゃんすなお若い衆、わたしも若いときゃ二度三度、騙~されたションガイナ。おっと違ごぉた、うちの太夫(たゆ)さんの軽業は綱のなかばにおきまして、あちらへゆらり、こちらへゆらり、ゆ~らりゆらり。落ちると見せて、足(そく)にて止める。この儀なぞらえ、古いやっちゃが・・・、野田の古跡は、さぁ、下がり藤の軽ぁ~る業、軽業~っ!」。
 うまいこと、足でブラァ~ンとぶら下がるはずやったんですが、ちょっと狂いまして下へ(太夫、足を滑らせ真っ逆さまに)落ちました。
 「♪あ、さて、あ、さて・・・」、「おい、おい、いつまで口上言てんねん。太夫さん大怪我してるやないか」、「あ~、長口上は大怪我の元じゃ」。 

 



ことば

落語「東の旅」シリーズ;この噺「軽業」は上方の東の旅の一つで、別名「伊勢詣り」の一部です。
 発端 → 七度狐 → 鯉津栄之助 → うんつく酒 → 常太夫義太夫 → 軽業 → 軽業講釈 → 三人旅浮之尼買 → 軽石屁 → 矢橋船 → 宿屋町 → こぶ弁慶三十石
とつながり、大坂に戻るまでの噺で、その内の一話がこの噺「軽業」です。

 オチの部分も米朝、別バージョンがあります。太夫さん綱から落ちて、「あ、ホンに・・・。太夫さん、どこが痛い」、「腰が痛い、腰が痛い!」、「腰が痛とますか?」、「足が痛い、足が痛い!」、「足が痛いのん?」、「肩が痛い、肩が痛い!」、「いったい、どこが痛いねや? 」、「軽業じゅ~(体中)が痛いわい! 」。

■軽業(かるわざ);軽妙な動作で危険なわざを見せる芸。曲芸の一種。奈良時代、中国から渡来した散楽の蜘舞 (くもまい) に発し、江戸時代は主として綱渡りの芸をさした。一本綱、一本竹、籠抜け、蓮 (れん) 飛び、刃渡り、人馬 (ひとうま) 、ぶらんこなどがあり、その技術は歌舞伎のなかにも流れている。大道芸、見世物芸として演じられた。天明年間 (1781~88) に劇的な内容をもつ軽業が生れ、江戸時代末期には、種々の趣向を凝らす座が出て人気を博した。明治以後、馬術と結んだ曲馬団として各地の祭礼などに巡演したが、1930年代以降はサーカスに吸収されている。
右、早竹虎吉「富士旗竿」歌川国芳画。1857年

 高座の米朝、軽業の演じ方
 太夫が登場したあたりから、右手中指と人差し指で人の足を現し、扇を綱に見立てて「太夫さんの足元をご覧に入れます」と断りを入れたうえで演じています。 「義経は八艘飛び」では太夫の足に見立てた二本の指をあちこちに飛びまわらせた後、自分のおでこにとまらせて「どないでもなりまっさ」としゃれています。

 綱渡り芸:宝永(ほうえい)・正徳(しょうとく)(1704~16)のころまではもっぱら二本綱であったが、1737年(元文2)に大坂・道頓堀(どうとんぼり)で、一ツ綱粂之助(くめのすけ)が一本綱の上で居合抜きを演じたりしたのが端となって、二本綱は廃れた。宝暦(ほうれき)年間(1751~64)に「竹渡り(二本竹)」が京都の佐野川太夫によって創始され、こののち多くの「渡り物」の芸が生み出された。明和(めいわ)(1764~72)ごろに大坂の女軽業師小桜歌仙が道頓堀(どうとんぼり)で初めて「紙渡り」を演じ、天明(てんめい)(1781~89)の女太夫早雲小金は「元結(もっとい)渡り」にまで展開させた。同じころに、麒麟繁蔵(きりんしげぞう)の「衣桁(いこう)渡り(一本竹)」などの諸芸を生み、幕末には「乱杭(らんぐい)渡り」「青竹切先(きっさき)渡り」「傘渡り」「障子渡り」「木枕(きまくら)渡り」「ろうそく渡り」「坂綱(さかづな)」なども行われて大盛行した。
 左、早竹虎吉「江戸の花」歌川国芳画。1857年

 籠抜け:江戸初期からの放下(ほうか)(僧形の下級芸能者)の曲芸。『和漢三才図会(ずえ)』によると、延宝(えんぽう)年間(1673~81)に長崎からきた小鷹和泉(こたか いずみ)と唐崎竜之助(からさき りゅうのすけ)が大坂で初めてこの技をなしたという。口径1尺半(約50cm)、長さ7~8尺の竹籠を台の上に固定させたり空中に吊(つ)り下げたりし、籠の中に火のついたろうそくを何本も立てたり、あるいは刀をぶっ違いに刺したりして、その中を菅笠(すげがさ)をかぶって飛び抜けた。『大和守(やまとのかみ)日記』に1680年(延宝8)の江戸における記事もある。明治初頭に「ろうそく屋さんてふ」という名人もあった。 
 日本大百科全書(ニッポニカ)より
右、籠抜け。『定本江戸商売図絵』三谷一馬画。 出典・肉筆本『街の姿』 明治頃 清水晴風筆

 刃渡り:曲芸の一種。刀の刃の上を素足で渡るもの。

伊勢参り(いせまいり);江戸時代中期以降、大坂の町民らの間で、伊勢神宮を目指す旅が盛んになった。参拝者は年間数百万人との史料もある。「ひしゃく一本持てば旅ができた」といわれ、沿道の住民による接待「施行(せぎょう)」も盛んで、「おかげ参り」とも呼ばれた。街道沿いには、参拝者を迎えた石灯籠(とうろう)や宿場町が今も残っている。

白鬚大明神(しらひげだいみょうじん);猿田彦神といい、また、新羅の神という。白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、滋賀県高島市鵜川にある神社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」。 全国にある白鬚神社の総本社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称される。
 白鬚神社は全国に約190社あるといわれています。

正遷宮(しょうせんぐう);神社の本殿の造営修理に際し、神体をうつすこと。本殿から権殿(カリドノ)にうつすのを仮殿遷宮(あるいは仮遷宮)、権殿から本殿にうつすのを正遷宮という。遷座。みやうつし。
  遷宮の際に行われる祭儀を遷宮祭(せんぐうさい)と言います。遷座祭。

ぶっちゃけ商人(ぶっちゃけ あきんど);縁日など屋外で商人の前にムシロ、ゴザ等を敷、その上に商品を並べて売る商人。

たん切り飴;水飴と砂糖が主成分の飴。これに咳止めの生姜エキスやニッキが入ったものも有ります。昔から有名なものに、外郎(ういろう)飴があります。外郎家が北条氏綱(1486~1541)に献じてから小田原の名物となった丸薬。たん切りや口臭を消すために用い、また戦陣の救急薬ともしたという。

亀山の、ちょ~んべはん;竹細工のオモチャ。竹片に小さな人形が乗せてあり裏に竹ひごで細工を施し、手を離すと回転しながら飛び上がる。これも竹独楽と同じように戦後には絶滅して、見なくなった。

  

 左図:大坂ことば事典 牧村史陽編 右図:浪花風俗図絵より

本家、竹独楽屋(たけこまや);主に九州地方の郷土玩具。サイドにスリットが切られ回すとブ~ンという音を立てる。
 大坂ことば事典 牧村史陽編
 左図:上記事典より四世長谷川貞信画 「竹独楽」。その右、広辞苑から宮崎県産雷ゴマ。

孫太郎虫;ヘビトンボの幼虫。川底にすみ、体長4~5cm、全体黒褐色。3対の胸脚があり、腹にある鰓(エラ)で呼吸する。大顎は大きく鎌状。これを乾燥させ「疳の薬」、「強壮剤」として商われた。黒焼きにして粉末にしたものが子供の疳(かん=夜泣き、引き付け、癇癪など神経症由来の症状)の薬として昔から知られていた。「炒って食べれば駆虫剤としても効果があり」、さらに「尚世間にては之を肺病、胃腸薬、十二指腸虫の疾患にも炙って食はしむ」とある。
 かつては宮城県白石市の斎川の特産とされ、江戸時代に土地の人はこれを炙って酒肴にしたという。1930年代までも「奥州斎川名産孫太郎」の触れ声で行商されていた。 また、長野県伊那市付近では、幼虫を珍味のざざむしの一種として食用とする。現在は河川の荒廃や需要低下により販売されていない。

 

 

時計回りで、左上、ヘビトンボ成虫。孫太郎虫。串に刺した孫太郎虫。孫太郎虫の薬袋。

1間(けん);尺貫法の長さの単位。1間=6尺=1818mm。

イタチ(鼬);ネコ目(食肉類)イタチ科の哺乳類の総称。また、その一種。雄は体長約30cm、雌はこれより小さい。体は細長く、赤褐色。夜間、鼠・鶏などの小動物を捕食。敵に襲われると悪臭を放って逃げる。日本特産。近似種タイリクイタチ(チョウセンイタチ)の亜種とされることもある。タイリクイタチは最近西日本に入り込み、特に都市部でよく見かける。イタチよりやや大きい。
 けっして、6尺の大板に血が付いているものとは違います。
右、イタチ。

天竺(てんじく);インドの古称。ヨーロッパ人が渡来して以後、ある語にそえて、外国・遠隔地・舶来の意に用いた語。「―牡丹」「―の横町」

クジャク(孔雀);キジ科の鳥類で、中国から東南アジア、南アジアに分布するクジャク属2種とアフリカに分布するコンゴクジャク属1種から成る。通常クジャクといえば前者を指す。
 オスは大きく鮮やかな飾り羽を持ち、それを扇状に開いてメスを誘う姿が有名である。最も有名なのは羽が青藍色のインドクジャクで、翠系の光沢を持つ美しい羽色のマクジャクは中国からベトナム、マレー半島にかけて分布する。羽は工芸品に広く分布されてきたほか、神経毒に耐性を持つためにサソリ等の毒虫や毒蛇類を好んで食べることから、益鳥として尊ばれる。鳴き声は、猫の鳴き声に良く似ている。
図:孔雀図(円山応挙・画、江戸時代後期、MIHO MUSEUM所蔵。

越中褌と六尺の褌(えっちゅうふんどし ろくしゃくふんどし);越中褌:細川越中守忠興の始めたものという、長さ1m(3尺)ほどの小幅の布の先端にひもをT字形につけたふんどし。越中。
 六尺褌:さらし木綿(下記天竺木綿を使った生地)を鯨尺で六尺用いて作った男の下帯。六尺。

天竺木綿(てんじくもめん);(もとインド地方から輸入したのでいう) 金巾(カナキン)よりやや厚手の白生地木綿織物。敷布・足袋地・裏地などとする。
 平織りの綿織物の「金巾」とともに、日本で非常に広範囲に使われている織物の一つである。天竺木綿の糸の太さが16番手から24番手くらいなのに対し、「金巾」は糸の太さが30番手から40番手くらいであり、金巾の方が布が薄く、高級とされている。
 天竺木綿とよく似た布に「細布」がある。細布は天竺木綿よりやや薄く、やや高級な布とされるが、糸の太さで言うと20番手から26番手くらいであり、実際はたいした違いは無い。日本では、天竺木綿と金巾のだいたい中間くらいのものを「細布」と呼んでいるが、アメリカでは天竺木綿や細布のような一般的な薄い平織りの綿織物のことは「muslin(モスリン)」と総称される(イギリスでは「muslin」は高級織物のことで、一般的な薄い平織りの織物のことは「calico(キャラコ)」と呼ぶ)。 天竺木綿は生地が厚いため、シャツなどには使わない。

(しらみ);シラミ目、広義にはハジラミ目を含めた昆虫の総称。哺乳類の皮膚に寄生し血液を吸う。体は、ふつう紡錘形で扁平、翅はなく、眼は退化している。ノミなどと違い、宿主の体から離れると間もなく死ぬ。ヒトジラミ・ケジラミ・イヌジラミ・ブタジラミなど。

高物興行(たかもん こうぎょう);香具師仲間の隠語で、小屋掛けの見世物のこと。珍しい芸能、珍品珍獣、からくりなどを見せて金銭をとる興行をいう。曲芸、軽業(かるわざ)、舞踊、武術、奇術など芸人が肉体を使う芸が中心だった。そうした見世物小屋の掛かる一般祭礼を、高町(たかまち)という。

式三番叟(さんばそう);猿楽の能に古くから伝わる祭儀的な演目。もと、父尉(チチノジヨウ)・翁・三番猿楽(後の名は三番叟サンバソウ)の三老人の祝福舞の総称。室町時代には父尉が省かれたが、露払い役の千歳(センザイ)を数に入れて、やはり式三番と称した。現在でも祝賀・追悼等の能の催しの初めに演じ、「翁」と題する。曲は、翁役の「どうどうたらり」という呪文的な歌に始まり、若い千歳の舞のうちに翁役は白色尉(ハクシキジヨウ)という白い翁面をつけ、翁の舞を演じ、次に三番叟役が「おうさえおうさえ」と発声してモミの段の舞を舞い、次いで黒色尉(コクシキジヨウ)の面をつけた三番叟の鈴の段の舞となって終る。後に、三番叟の部分を中心にした舞踊曲多数を生む母胎となる。能では翁の謡を「神歌(シンカ・カミウタ)」とも称する。特殊演式「父尉延命冠者」として父尉の面影を残している流派もある。

箱根知らずの江戸話;箱根山も知らない関西の人が江戸の話を得意に話すことで、そこに行ったこともなければ、見たこともないが、いかにも知っているかのように話すことをいう。

カルサン;袴(ハカマ)の一種。形は指貫(サシヌキ)に似て、筒太く、裾口は狭い。原形ははっきりしないが、洋式にならい袴のように仕立てて、中世末期には上層武士から庶人まで着用したが、江戸時代には専ら旅装として使われた。狂言装束として唐人用のものがある。近代のは、木綿または縞織物で、上部をゆるやかに、下部を股引のように仕立てたものをいう。多く寒国に用い、男女共にはく。カルサンばかま。伊賀袴。地方によっては裁衣(タツツケ)・裾細(スソボソ)などという。
右、カルサン 広辞苑

四つ綱渡り(よつあみわたり);十字に張った綱の交差したところで宙返りをしたり、逆立ちのまま足指に扇子をはさんで手踊りなどをする芸。  

石橋(しゃっきょう);能の作品の一つ。獅子口(獅子の顔をした能面)をつけた後ジテの豪壮な舞が見物、囃子方の緊迫感と迫力を兼ね備えた秘曲が聞き物である。
 法師は中国の清涼山の麓へと辿り着いた。更に、ここから山の中へは細く長い石橋がかかっており、その先は文殊菩薩の浄土であるという。法師は意を決し橋を渡ろうとするが、そこに現われた樵(前シテ)は、尋常な修行では渡る事は無理だから止めておくように諭し、暫く橋のたもとで待つがよいと言い残して消える。後段がはじまる。「乱序」という緊迫感溢れる特殊な囃子を打ち破るように獅子(後シテ)が躍り出、法師の目の前で舞台狭しと勇壮な舞を披露する。これこそ文殊菩薩の霊験である。
 曲芸では、足で長い竿を支え、竿に人や動物を載せる芸。下図、早竹虎吉参照。

二丁撞木(にちょうしゅもく);空中ブランコ曲芸。大一丁、小一丁、二丁撞木、はね板、空中飛行などがあったという。  

葛の葉の障子抜け;「蘆屋道満大内鑑」四段目「子別れ」にちなみ、大障子一枚を両足で差し上げ、上乗りがその障子腰板の棧に足をかけたままで和歌を書き上げたりする芸。

鬱金木綿(うこんもめん);ウコンの根茎で染めた濃い鮮黄色に染めた木綿。

 この色を鬱金色と言います。
      

早竹虎吉(はやたけ とらきち);(生年未詳 - 慶応4年1月15日(1868年2月8日)は、幕末期の曲芸師、軽業師。京都生まれ。桜綱駒司(のちの駒寿)とともに幕末の軽業二名人と言われた。寺町誓願寺で軽業渡世に励んだ後、1842年(天保13年)に京都道場の芝居にて軽業。1843年(天保14年)、大坂へ下って興行し、10年以上に渡って活躍した。
 1857年(安政4年)正月、江戸に下って両国で興行を始めるや否や、たちまち人気を博すようになった。歌舞伎仕立ての衣装を身にまとい、独楽や手品の手法を取り入れた豪快な舞台を披露。およそ2カ月の間に錦絵30数点が出版され、たちまちのうちに売れたという。曲差し(きょくざし)(竿から手を離して肩だけで支え、三味線を曲弾きするという非常に高度な芸)や石橋(しゃっきょう)(足で長い竿を支え、竿に人や動物を載せる芸)と呼ばれる、長い竿を足や肩で支える曲芸を得意とした。
右、大坂下り 早竹虎吉(石橋の曲)此所 所作事 早替り 歌川芳晴画 1857年2月。

 慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、虎吉は横浜を出発しアメリカに渡航した。翌月にサンフランシスコに上陸。サンフランシスコのメトロポリタン劇場を振り出しに、サクラメントやニューヨーク等アメリカ各地を興行した。
 フィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックでの興行(慶応3年12月30日(1868年1月24日)終了後、突如体調を崩し、慶応4年1月15日(1868年2月8日)に心臓病で客死した。その数日前より、一座を海外へ連れ出した外国人手配師の契約不履行などを訴え、揉めていた。その後、明治7年(1874年)に実弟が二代目早竹虎吉を襲名した。
 彼の弟子で、『和屋竹の野良一』が今回の太夫で有り主人公です。が、綱から落下してしまいました。

蓮台(れんだい);蓮華の形に作った仏・菩薩の像の座。蓮華台。蓮座。太夫が芸の初めに身を乗せる台。

深草の少将は小町が元へ(ふかくさのしょうしょうは こまちのもとへ);深草の少将は、小野小町のもとに結婚を承諾させる為、99夜通ったという伝説上の悲恋の人物。僧正遍昭あるいは大納言義平の子義宣かといわれるが不詳。
 ○榻(しじ)の端書(ハシガキ):深草少将と小野小町との伝説で、少将は百夜を通うべく車の榻に印をつけて、その度数を記したが、九九夜まで通って遂に死に、恋を果さなかった話で、九十九(ツクモ)伝説の一。男の熱烈な恋にいい、また、恋愛のとかく遂げ難いことにたとえていう。こののち、小町は一生涯独身を通す。

 小野小町:(生没年不明、9世紀ごろ)は平安時代のはじめ、文徳、清和天皇の頃の人で、女官として宮廷に仕えていたと伝えられています。 参議小野篁(おののたかむら)の孫であるとも、小野良貞の娘であるとも言われていますが、小野小町は和歌にもすぐれ、紀貫之が選んだ六歌仙や、藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりにも数えられていて、優れた歌人でもありました。
  また、現代でも「小野小町」といえば美人の代名詞のように使われていますが、その美しさは着物を通して輝いていたと言われるほどで、小野小町には様々な伝説が伝えられているほか、謡曲や戯曲、歌舞伎などの題材にもなっています。
  ところで、小野小町は在原業平(ありわらのなりひら)のことが好きでしたが、業平はそのことに気づきませんでした。『花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに』、この和歌はそのことを嘆いてつくった和歌だと言われていますが、花を喩えに、恋心を巧みに表現しています。
  この歌をタネにして「卒塔婆小町」(第10話「出来心」に絵があります)や「通小町」など、「若い頃は絶世の美女と謳われたが、老いさらばえて落ちぶれた人生のはかなさ」を表現した謡曲や伝説が多数書かれています。その土地の美人のことを「××小町」などと言うのも小町伝説の影響です。

達磨大師(だるまだいし);(梵語 Bodhidharma  菩提達磨) 禅宗の始祖。生没年未詳。南インドのバラモンに生れ、般若多羅に学ぶ。中国に渡って梁の武帝との問答を経て、嵩山の少林寺に入り、9年間面壁坐禅したという。その伝には伝説的要素が多い。その教えは弟子の慧可(エカ)に伝えられた。諡号(シゴウ)は円覚大師・達磨大師。達摩。
右、達磨大師を模した、置物だるま。

邯鄲は夢の手枕(かんたんは ゆめのてまくらたまくら);[沈既済、枕中記](官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱(コウリヨウ=おおあわ)がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事) そこから、人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえ。邯鄲の夢。黄粱一炊の夢。盧生の夢。

名古屋名城は金のシャチホコ(なごやめいじょうは きんのしゃちほこ);名古屋城の天守閣に上がった、棟飾りの金のシャチホコ。頭は竜のようで、背に鋭いとげのある海魚の形をなし、大棟の両端につける。城郭建築に多く、鴟尾(シビ)の変形という。瓦・銅・石・木などで作る。しゃち。
 ここから、太夫さんの逆(サカ)立ち。しゃっちょこだち。

義経八艘飛び(よしつね はっそうとび);義経の活躍は《平家物語》などに見えるが、なかでも摂津国一ノ谷鵯越で、人馬も通わぬ嶮岨な坂を精兵3000を率いて敵陣の背後をついた坂下し伝説、屋島の合戦に海に落とした自分の弓を、叔父為朝の剛弓に恥じて、危険を冒して拾い上げる弓流し伝説、壇ノ浦の海戦に、敵将能登守教経に追われて、次々と8艘の船に跳び移り、これをのがれた八艘飛び伝説、屋島の平家軍を襲うため、船の舳先(へさき)にも艫(とも)にも櫓を立て、進退自由にしようと主張する梶原景時と対立して今にも景時を切ろうとしたとする逆櫓論伝説、生捕りにした平宗盛父子を護送して相模国腰越に到着した義経が、頼朝から鎌倉に入るのを拒まれ、いわゆる〈腰越状〉を書いて弁明したとする腰越状伝説などが有名である。

 剛の者である平教経(たいらののりつね)は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛(とももり)が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の源義経(みなもとのよしつね)を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀(なぎなた)を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」です。

雀は仙台さんのご紋(すずめは せんだいさんのもん);仙台藩主伊達家の家紋。仙台笹の中心に雀が2羽飛んでいます。
左図、家紋。

野田の古跡は下がり藤(のだのこせきは さがりふじ);野田(現:大阪市福島区大開1-1)に自生していた藤を園芸用に品種改良したもの。江戸時代には「吉野の桜、野田の藤」と謳われるほど並び称された。福島区玉川二丁目、春日神社前に将軍足利義詮、また、曽呂利新左衛門らを伴い豊臣秀吉が訪れたという「野田の藤跡」が残る。
右、野田藤 (浪花百景) 1800年代 里の家芳瀧画。

長口上は大怪我の元;オチに使われている言葉は、『生兵法は大怪我のもと』のもじりです。
 生兵法は大怪我のもと=生兵法は大怪我のもととは、中途半端な知識や技術に頼ると、かえって大失敗をするということのたとえ。



                                                            2019年11月記

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