落語「軽業」の舞台を行く 桂米朝の噺、「軽業」(かるわざ)より
■落語「東の旅」シリーズ;この噺「軽業」は上方の東の旅の一つで、別名「伊勢詣り」の一部です。 オチの部分も米朝、別バージョンがあります。太夫さん綱から落ちて、「あ、ホンに・・・。太夫さん、どこが痛い」、「腰が痛い、腰が痛い!」、「腰が痛とますか?」、「足が痛い、足が痛い!」、「足が痛いのん?」、「肩が痛い、肩が痛い!」、「いったい、どこが痛いねや? 」、「軽業じゅ~(体中)が痛いわい! 」。
■軽業(かるわざ);軽妙な動作で危険なわざを見せる芸。曲芸の一種。奈良時代、中国から渡来した散楽の蜘舞 (くもまい) に発し、江戸時代は主として綱渡りの芸をさした。一本綱、一本竹、籠抜け、蓮 (れん) 飛び、刃渡り、人馬 (ひとうま)
、ぶらんこなどがあり、その技術は歌舞伎のなかにも流れている。大道芸、見世物芸として演じられた。天明年間 (1781~88) に劇的な内容をもつ軽業が生れ、江戸時代末期には、種々の趣向を凝らす座が出て人気を博した。明治以後、馬術と結んだ曲馬団として各地の祭礼などに巡演したが、1930年代以降はサーカスに吸収されている。
高座の米朝、軽業の演じ方
綱渡り芸:宝永(ほうえい)・正徳(しょうとく)(1704~16)のころまではもっぱら二本綱であったが、1737年(元文2)に大坂・道頓堀(どうとんぼり)で、一ツ綱粂之助(くめのすけ)が一本綱の上で居合抜きを演じたりしたのが端となって、二本綱は廃れた。宝暦(ほうれき)年間(1751~64)に「竹渡り(二本竹)」が京都の佐野川太夫によって創始され、こののち多くの「渡り物」の芸が生み出された。明和(めいわ)(1764~72)ごろに大坂の女軽業師小桜歌仙が道頓堀(どうとんぼり)で初めて「紙渡り」を演じ、天明(てんめい)(1781~89)の女太夫早雲小金は「元結(もっとい)渡り」にまで展開させた。同じころに、麒麟繁蔵(きりんしげぞう)の「衣桁(いこう)渡り(一本竹)」などの諸芸を生み、幕末には「乱杭(らんぐい)渡り」「青竹切先(きっさき)渡り」「傘渡り」「障子渡り」「木枕(きまくら)渡り」「ろうそく渡り」「坂綱(さかづな)」なども行われて大盛行した。
籠抜け:江戸初期からの放下(ほうか)(僧形の下級芸能者)の曲芸。『和漢三才図会(ずえ)』によると、延宝(えんぽう)年間(1673~81)に長崎からきた小鷹和泉(こたか いずみ)と唐崎竜之助(からさき りゅうのすけ)が大坂で初めてこの技をなしたという。口径1尺半(約50cm)、長さ7~8尺の竹籠を台の上に固定させたり空中に吊(つ)り下げたりし、籠の中に火のついたろうそくを何本も立てたり、あるいは刀をぶっ違いに刺したりして、その中を菅笠(すげがさ)をかぶって飛び抜けた。『大和守(やまとのかみ)日記』に1680年(延宝8)の江戸における記事もある。明治初頭に「ろうそく屋さんてふ」という名人もあった。
刃渡り:曲芸の一種。刀の刃の上を素足で渡るもの。
■伊勢参り(いせまいり);江戸時代中期以降、大坂の町民らの間で、伊勢神宮を目指す旅が盛んになった。参拝者は年間数百万人との史料もある。「ひしゃく一本持てば旅ができた」といわれ、沿道の住民による接待「施行(せぎょう)」も盛んで、「おかげ参り」とも呼ばれた。街道沿いには、参拝者を迎えた石灯籠(とうろう)や宿場町が今も残っている。
■白鬚大明神(しらひげだいみょうじん);猿田彦神といい、また、新羅の神という。白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、滋賀県高島市鵜川にある神社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」。
全国にある白鬚神社の総本社とされる。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称される。
■正遷宮(しょうせんぐう);神社の本殿の造営修理に際し、神体をうつすこと。本殿から権殿(カリドノ)にうつすのを仮殿遷宮(あるいは仮遷宮)、権殿から本殿にうつすのを正遷宮という。遷座。みやうつし。
■ぶっちゃけ商人(ぶっちゃけ あきんど);縁日など屋外で商人の前にムシロ、ゴザ等を敷、その上に商品を並べて売る商人。
■たん切り飴;水飴と砂糖が主成分の飴。これに咳止めの生姜エキスやニッキが入ったものも有ります。昔から有名なものに、外郎(ういろう)飴があります。外郎家が北条氏綱(1486~1541)に献じてから小田原の名物となった丸薬。たん切りや口臭を消すために用い、また戦陣の救急薬ともしたという。
■亀山の、ちょ~んべはん;竹細工のオモチャ。竹片に小さな人形が乗せてあり裏に竹ひごで細工を施し、手を離すと回転しながら飛び上がる。これも竹独楽と同じように戦後には絶滅して、見なくなった。
左図:大坂ことば事典 牧村史陽編 右図:浪花風俗図絵より
■本家、竹独楽屋(たけこまや);主に九州地方の郷土玩具。サイドにスリットが切られ回すとブ~ンという音を立てる。
■孫太郎虫;ヘビトンボの幼虫。川底にすみ、体長4~5cm、全体黒褐色。3対の胸脚があり、腹にある鰓(エラ)で呼吸する。大顎は大きく鎌状。これを乾燥させ「疳の薬」、「強壮剤」として商われた。黒焼きにして粉末にしたものが子供の疳(かん=夜泣き、引き付け、癇癪など神経症由来の症状)の薬として昔から知られていた。「炒って食べれば駆虫剤としても効果があり」、さらに「尚世間にては之を肺病、胃腸薬、十二指腸虫の疾患にも炙って食はしむ」とある。
時計回りで、左上、ヘビトンボ成虫。孫太郎虫。串に刺した孫太郎虫。孫太郎虫の薬袋。
■1間(けん);尺貫法の長さの単位。1間=6尺=1818mm。
■イタチ(鼬);ネコ目(食肉類)イタチ科の哺乳類の総称。また、その一種。雄は体長約30cm、雌はこれより小さい。体は細長く、赤褐色。夜間、鼠・鶏などの小動物を捕食。敵に襲われると悪臭を放って逃げる。日本特産。近似種タイリクイタチ(チョウセンイタチ)の亜種とされることもある。タイリクイタチは最近西日本に入り込み、特に都市部でよく見かける。イタチよりやや大きい。
■天竺(てんじく);インドの古称。ヨーロッパ人が渡来して以後、ある語にそえて、外国・遠隔地・舶来の意に用いた語。「―牡丹」「―の横町」
■クジャク(孔雀);キジ科の鳥類で、中国から東南アジア、南アジアに分布するクジャク属2種とアフリカに分布するコンゴクジャク属1種から成る。通常クジャクといえば前者を指す。
■越中褌と六尺の褌(えっちゅうふんどし ろくしゃくふんどし);越中褌:細川越中守忠興の始めたものという、長さ1m(3尺)ほどの小幅の布の先端にひもをT字形につけたふんどし。越中。
■天竺木綿(てんじくもめん);(もとインド地方から輸入したのでいう)
金巾(カナキン)よりやや厚手の白生地木綿織物。敷布・足袋地・裏地などとする。
■虱(しらみ);シラミ目、広義にはハジラミ目を含めた昆虫の総称。哺乳類の皮膚に寄生し血液を吸う。体は、ふつう紡錘形で扁平、翅はなく、眼は退化している。ノミなどと違い、宿主の体から離れると間もなく死ぬ。ヒトジラミ・ケジラミ・イヌジラミ・ブタジラミなど。
■高物興行(たかもん こうぎょう);香具師仲間の隠語で、小屋掛けの見世物のこと。珍しい芸能、珍品珍獣、からくりなどを見せて金銭をとる興行をいう。曲芸、軽業(かるわざ)、舞踊、武術、奇術など芸人が肉体を使う芸が中心だった。そうした見世物小屋の掛かる一般祭礼を、高町(たかまち)という。
■式三番叟(さんばそう);猿楽の能に古くから伝わる祭儀的な演目。もと、父尉(チチノジヨウ)・翁・三番猿楽(後の名は三番叟サンバソウ)の三老人の祝福舞の総称。室町時代には父尉が省かれたが、露払い役の千歳(センザイ)を数に入れて、やはり式三番と称した。現在でも祝賀・追悼等の能の催しの初めに演じ、「翁」と題する。曲は、翁役の「どうどうたらり」という呪文的な歌に始まり、若い千歳の舞のうちに翁役は白色尉(ハクシキジヨウ)という白い翁面をつけ、翁の舞を演じ、次に三番叟役が「おうさえおうさえ」と発声してモミの段の舞を舞い、次いで黒色尉(コクシキジヨウ)の面をつけた三番叟の鈴の段の舞となって終る。後に、三番叟の部分を中心にした舞踊曲多数を生む母胎となる。能では翁の謡を「神歌(シンカ・カミウタ)」とも称する。特殊演式「父尉延命冠者」として父尉の面影を残している流派もある。
■箱根知らずの江戸話;箱根山も知らない関西の人が江戸の話を得意に話すことで、そこに行ったこともなければ、見たこともないが、いかにも知っているかのように話すことをいう。
■カルサン;袴(ハカマ)の一種。形は指貫(サシヌキ)に似て、筒太く、裾口は狭い。原形ははっきりしないが、洋式にならい袴のように仕立てて、中世末期には上層武士から庶人まで着用したが、江戸時代には専ら旅装として使われた。狂言装束として唐人用のものがある。近代のは、木綿または縞織物で、上部をゆるやかに、下部を股引のように仕立てたものをいう。多く寒国に用い、男女共にはく。カルサンばかま。伊賀袴。地方によっては裁衣(タツツケ)・裾細(スソボソ)などという。
■四つ綱渡り(よつあみわたり);十字に張った綱の交差したところで宙返りをしたり、逆立ちのまま足指に扇子をはさんで手踊りなどをする芸。
■石橋(しゃっきょう);能の作品の一つ。獅子口(獅子の顔をした能面)をつけた後ジテの豪壮な舞が見物、囃子方の緊迫感と迫力を兼ね備えた秘曲が聞き物である。
■二丁撞木(にちょうしゅもく);空中ブランコ曲芸。大一丁、小一丁、二丁撞木、はね板、空中飛行などがあったという。
■葛の葉の障子抜け;「蘆屋道満大内鑑」四段目「子別れ」にちなみ、大障子一枚を両足で差し上げ、上乗りがその障子腰板の棧に足をかけたままで和歌を書き上げたりする芸。
■鬱金木綿(うこんもめん);ウコンの根茎で染めた濃い鮮黄色に染めた木綿。
■早竹虎吉(はやたけ とらきち);(生年未詳 - 慶応4年1月15日(1868年2月8日)は、幕末期の曲芸師、軽業師。京都生まれ。桜綱駒司(のちの駒寿)とともに幕末の軽業二名人と言われた。寺町誓願寺で軽業渡世に励んだ後、1842年(天保13年)に京都道場の芝居にて軽業。1843年(天保14年)、大坂へ下って興行し、10年以上に渡って活躍した。
慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、虎吉は横浜を出発しアメリカに渡航した。翌月にサンフランシスコに上陸。サンフランシスコのメトロポリタン劇場を振り出しに、サクラメントやニューヨーク等アメリカ各地を興行した。
■蓮台(れんだい);蓮華の形に作った仏・菩薩の像の座。蓮華台。蓮座。太夫が芸の初めに身を乗せる台。
■深草の少将は小町が元へ(ふかくさのしょうしょうは こまちのもとへ);深草の少将は、小野小町のもとに結婚を承諾させる為、99夜通ったという伝説上の悲恋の人物。僧正遍昭あるいは大納言義平の子義宣かといわれるが不詳。
小野小町:(生没年不明、9世紀ごろ)は平安時代のはじめ、文徳、清和天皇の頃の人で、女官として宮廷に仕えていたと伝えられています。 参議小野篁(おののたかむら)の孫であるとも、小野良貞の娘であるとも言われていますが、小野小町は和歌にもすぐれ、紀貫之が選んだ六歌仙や、藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりにも数えられていて、優れた歌人でもありました。
■達磨大師(だるまだいし);(梵語
Bodhidharma 菩提達磨)
禅宗の始祖。生没年未詳。南インドのバラモンに生れ、般若多羅に学ぶ。中国に渡って梁の武帝との問答を経て、嵩山の少林寺に入り、9年間面壁坐禅したという。その伝には伝説的要素が多い。その教えは弟子の慧可(エカ)に伝えられた。諡号(シゴウ)は円覚大師・達磨大師。達摩。
■邯鄲は夢の手枕(かんたんは ゆめのてまくらたまくら);[沈既済、枕中記](官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱(コウリヨウ=おおあわ)がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事)
そこから、人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえ。邯鄲の夢。黄粱一炊の夢。盧生の夢。
■名古屋名城は金のシャチホコ(なごやめいじょうは きんのしゃちほこ);名古屋城の天守閣に上がった、棟飾りの金のシャチホコ。頭は竜のようで、背に鋭いとげのある海魚の形をなし、大棟の両端につける。城郭建築に多く、鴟尾(シビ)の変形という。瓦・銅・石・木などで作る。しゃち。
■義経八艘飛び(よしつね はっそうとび);義経の活躍は《平家物語》などに見えるが、なかでも摂津国一ノ谷鵯越で、人馬も通わぬ嶮岨な坂を精兵3000を率いて敵陣の背後をついた坂下し伝説、屋島の合戦に海に落とした自分の弓を、叔父為朝の剛弓に恥じて、危険を冒して拾い上げる弓流し伝説、壇ノ浦の海戦に、敵将能登守教経に追われて、次々と8艘の船に跳び移り、これをのがれた八艘飛び伝説、屋島の平家軍を襲うため、船の舳先(へさき)にも艫(とも)にも櫓を立て、進退自由にしようと主張する梶原景時と対立して今にも景時を切ろうとしたとする逆櫓論伝説、生捕りにした平宗盛父子を護送して相模国腰越に到着した義経が、頼朝から鎌倉に入るのを拒まれ、いわゆる〈腰越状〉を書いて弁明したとする腰越状伝説などが有名である。
剛の者である平教経(たいらののりつね)は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛(とももり)が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の源義経(みなもとのよしつね)を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀(なぎなた)を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」です。
■雀は仙台さんのご紋(すずめは せんだいさんのもん);仙台藩主伊達家の家紋。仙台笹の中心に雀が2羽飛んでいます。
■野田の古跡は下がり藤(のだのこせきは さがりふじ);野田(現:大阪市福島区大開1-1)に自生していた藤を園芸用に品種改良したもの。江戸時代には「吉野の桜、野田の藤」と謳われるほど並び称された。福島区玉川二丁目、春日神社前に将軍足利義詮、また、曽呂利新左衛門らを伴い豊臣秀吉が訪れたという「野田の藤跡」が残る。
■長口上は大怪我の元;オチに使われている言葉は、『生兵法は大怪我のもと』のもじりです。
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