落語「按摩の幸治」の舞台を行く
   

 

 八代目林家正蔵の噺、「按摩の幸治」(あんまのこうじ)より


 

 浅草の門跡様の門前に三河屋という大きな質屋さんが有りました。
 「奥様。今日は薬湯に参りましょうか」、おさきという女中をお伴に安倍川町の薬湯に出掛けた。着物を脱ぎかけると、若い娘おときが湯から上がってきた。三河屋の息子・世之介の結婚相手です。軽く会釈をして通り過ぎようとするところ、「チョットお待ちなさい、娘さん。お袋さんのカンザシを抜いて袖に隠したね」、「ま~、誰がそんなことを?」、「ふてぶてしい娘だ。カンザシが袖から出て来ただろう」、脇の小桶を額にぶつけ、そこから血がたらたら・・・。「番頭、湯に入らないから、湯銭は返せッ」、「あの二人帰って行ったよ」。
 「騒がしいことになった。表を閉めちゃいな。按摩さんも見えないんだから、あっちに行っておくれ」、「心の眼で分かるよ」、「あの娘さんは再来月にはあの店に嫁入りするんだ。あの娘がやるはずが無い」、「分かった。では帰るよ」。

 帳場格子の中で質屋の番頭藤七はソロバンをはじいています。「おさきの働きで、上手くいったよ」、「娘の所に行って傷物だからと結納金を返して貰ったとは早いね」、「20両返して貰ったので、二人で上方にでも逃げよう」、「私を忘れたら承知しないよ」、「少しの手柄で女は困ったものだ」。
 「ごめんなさいよ。按摩です。品物を持って来たので、取って欲しい」、「質屋ですから取りますよ。按摩の笛じゃ無いか。これでいくらを・・・」、「50両貸して欲しいのです」、「ははは、500文でも多いくらいだ」、「その笛は世間のいざこざを全て聞いてるんです。あの娘に横恋慕している番頭さん、おさきという下女を使って芝居を打った。全てこの笛が知っているんです。貸してくれなければ、この笛で町中を流して・・・、この一件を話して歩きましょう。中には岡っ引きなどが聞いていると番頭さん大変なことになるよ」、「貸すが、50両は今、手元には無い、20両持って帰って、残りの30両は2~3日中には届けるよ」。

 按摩幸治が帰ってしまうと、これからのことを考えていた。膝を叩くと走って出て按摩を呼び止めた。「30両はまだだが、耳を貸して欲しい。長屋に連れて行くからおさきを殺して欲しい。その時に残りの30両は渡す」、「あの番頭、本物の盲だと思っているんだな。
(三味線と太鼓が入り一人語り)俺のおやじの幸平は、古海様の御家老で花蔭左太夫様の若党だったが、お家の宝の小倉百人一首の色紙が紛失し、家老の花蔭左太夫様は切腹し、ご子息の左五郎様は寺子屋の師匠に成り下がり、浪々の身の上。宝を探すところ、あの番頭の手の内に有るとは気が付かなかったな~。幸い、俺の家に来るという、おさきと番頭を殺し、小倉の色紙を左五郎様に差し上げれば、お家に帰参は適うも道理。俺も親父には苦労をかけたが、これで親孝行も出来るというもんだ。質屋の番頭も番頭だ、洗いざらい俺に打ち明けてしまった。ふてい野郎だと思っていたが、洗いざらいしゃべるようじゃ、未だ細いな~。世間は広いようでも狭えものだな~」。

 夜鳴き蕎麦屋が来たので、慌てて目を閉じ、杖にすがる幸治だった。「按摩~、あんま~」。
                                                         完


 その後日談、
幸治は、佃島徒刑後坊主に。惣次郎とおくみ、清三郎とおなつ結婚。常磐木地蔵建立。 

 



ことば

緑林門松竹(みどりのはやしかどのまつたけ)の噺の一部。圓朝初期の作品。別名「忍岡義賊の隠家」。芝居噺として演じられたという。後にやまと新聞に連載。年齢や年代などの記述はなく、地名についても明確でない。悪党の痛快な活躍を楽しむ大活劇。それにしても次々と登場人物が死んでいく。剣術師天城殺しまでが面白い。彦六の正蔵らにより、新助市殺し、またかのお関など数席が演じられている。

あらすじ
 
前噺、落語「新助市」をご覧下さい。

圓朝の作品は続き物が多くて、その中で人間が動き回ります。左、主な登場人物。右、生き残った人物達。
図の中で右下の清三郎は、正蔵の噺では「世之介」と言っています。

浅草の門跡様(あさくさの もんせきさま);東本願寺(ひがしほんがんじ)は、東京都台東区西浅草一丁目にある浄土真宗東本願寺派の本山。 単立宗教法人であってその正式名は「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」。本尊は阿弥陀如来。2019年現在の住職は、浄土真宗東本願寺派第26世法主である大谷光見(聞如)。境内は4,250坪を有する。
 1657年(明暦3年)、明暦の大火により焼失し、神田から浅草に移転。「浅草本願寺」・「浅草門跡」と称されるようになり、21の支院と35の塔頭を抱え、境内は1万5000坪に及んだ。その伽藍は、江戸後期の天保年間に出版された浮世絵師・葛飾北斎の連作『富嶽三十六景』に「東都浅草本願寺」として描かれている。 1868年(明治元年)には、渋沢成一郎や天野八郎などの旧幕臣ら百数十名により、大政奉還後、上野寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の擁護を目的とする「彰義隊」が結成され、その拠点となった。 1875年(明治8年)、明治天皇の臨幸のもと、日本で最初に開かれた「地方官会議(知事会議)」の議場に使用される。
 右図、『富嶽三十六景』「東都浅草本願寺」。

薬湯(くすりゆ);薬品や薬草を入れた浴湯。薬風呂。また、薬効のある温泉。

安倍川町(あべかわちょう);薬湯の有るところ。厨房機器の合羽橋商店街南側の交差点「菊屋橋交差点」南西側の町。現・台東区元浅草三~四丁目東側の町。東本願寺門前から菊屋橋を挟んで至近距離に湯屋は有ります。落語「柳田格之進」で碁相手の先生が住んでいたし、「富久」では久蔵さんがここから横山町まで走って行きました。

帳場格子(ちょうばごうし);商店で、帳場のかこいに立てる2枚折りまたは3枚折りの低い格子。結界(ケツカイ)。
 右写真、帳場格子 深川江戸資料館。

結納金(ゆいのうきん);婚約の証として、婿・嫁双方からの金銭や織物・酒肴などの品物を取りかわすこと。また、その金品。

20両(20りょう);江戸時代の金貨幣の単位。1両は現在の価格で、約8万円。20両=約160万円。

岡っ引き(おかっぴき);目明かし江戸時代、放火・盗賊その他の罪人を捕えるため、与力・同心の配下で働いた者。多くは以前軽い罪を犯した者から採用した。てさき。訴人。御用聞き。(広辞苑)

 ここから、林美一著「江戸の二十四時間」より、岡っ引きについて引用します。

岡っ引きと言うには、公儀の役人である町奉行所の同心が犯人を捕らえるのでは無く、脇の人間が拘引することから起こった呼称です。潜りの遊里を岡場所、他人の女に横恋慕することを岡惚れというように、本筋以外の立場の人間だから「岡」の字が付く。手先という呼称は町方同心の末端の手下になって働いているからで、御用聞きも同じ意味合いである。目明かしと言われるのは、犯罪を密告したり、密偵的な仕事をした為だった。
その仕事をさせるには、悪人仲間のことに精通していなければならない。初めは死罪になるような者を、死罪を免除して寝返らせた。仲間が仲間を通報するのだから犯人が良く捕まった。その代わり仲間に感づかれたら、殺されかねない。密告するのに手心を加え「金を出せば、言わずにおいてやる」、と強請、たかりをするようになった。それが進み、表向きは岡っ引きを禁止されたが、陰では相変わらず起用が続いた。中には良い目明かしもいて同心が便利使いするのは当たり前であった。しかし、奉行所へは内緒で使っているので、奉行所に届けられた”小者”と違って、目明かし・岡っ引きの存在は奉行所も知らないので、連れている小者には十手を持たせるが、岡っ引きには持たせないし、給金も払っていない。どうやって食っているかと言えば、岡っ引きの親分の所でゴロゴロしていれば、周りも知れてくるので、お茶を飲みに行けば、黙って鼻紙代を包んでよこすようになる。たびたび行くと、たかりのようになって嫌がられるから、上手く働いて力にもなってやれば、いい顔の若い者と言われるようになる。親分も、そろそろ身を固めたいと思ったら、同心の所に行って「寿司屋を始めるとか、女房を貰うので・・・」とよろしくと挨拶をすると、ただ働きをさせてきたので、20~30両の祝い金を出してやるのが通例だった。
岡っ引きは密偵であるから、十手は持たせない。表向きは、マキ屋であったり、湯屋で有ったりする密偵の親分ですから、身元が割れるような物は持たせません。また、岡っ引きを本業としている者も居ません。時代小説に出てくる岡っ引きが十手をちらつかせるのは、大間違いですが、高名な小説家がその様に書いたことから間違いが伝播して広がってしまいました。



                                                            2019年12月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system