落語「味噌蔵」の舞台を行く
   

 

 とぼけた味の春風亭柳好の噺、「味噌蔵」(みそぐら)


 

  屋号を吝(しわい)屋名をケチ兵衛、商売が味噌問屋、四十に手が届こうというのに独身。なぜかと言えば、嫁などもらって、まして子供ができれば経費がかかってしかたがないと言うケチ。お内儀さんは絶対必要と、親類一同が、どうしてもお内儀さんを持たないなら、今後一切付き合いを断る、商売の取引もしないと脅したので、食の細い女ならと泣く泣く嫁を娶った。

 これなら早く貰っておけば良かったと言うほどの夫婦仲は円満。半年もすると、子供が出来たが、経費が掛かると主人は頭を抱えた。奥さんは出来た人で、「ここでは女手がありません。里に帰って産みたいと思います」。費用も掛からないので大喜び。
 日が満ちて、男の子が無事産まれたと知らせが届いたので、ケチ兵衛さん、小僧の定吉をお供に出かけることになった。大重箱を定吉に持たせるが、これは、お土産の味噌を詰めるのではなく、宴席のごちそうをこっそり詰めてくる算段。帰りには良い履き物に履き替えて戻るように注意。
 「番頭さん、火事に気をつけてください。特に三番蔵は全財産が入っている。その時は商売物の味噌で蔵の目塗りをするよう」、「それはもったいない」、「焼けた味噌は芳ばしい。剥がして皆に食べさせる」。旦那はお出掛けになった。

 旦那は初めての里帰り、今晩は泊まってくるだろう。
 奉公人が番頭に頼んだ。「私は、奉公に来てから味噌汁の実が入ったのを知りません。先日タニシが二匹入っていたので嬉しかったが、つまめません。自分の眼玉が薄い味噌汁に映っていたのです」。
 番頭が、勘定は帳面をドガチャカ・ドガチャカとごまかすことに決め、お酒の肴に大皿にマグロの刺身、タコの酢の物、ブリの照り焼き、鯛の塩焼き1匹丸ごと、サツマイモ5貫目、権助はシシだと言うが良く聞くと寿司、田楽、と皆の注文でごちそうを誂えた。田楽は冷めると不味いので、手間でも2.3丁ずつ焼けたら運ぶように注文。
 普段飲まない酒ですから、直ぐ酔いは回って、深川に相撲甚句に磯節と、陽気などんちゃん騒ぎ。

 こちらは旦那。 提灯持ちが後ろから来たんでは役に立たない、定吉が料理を入れた重箱を忘れ、履き物も片びっこで、小言を言いながら帰って来ると、大騒ぎをしている家がある。
 「外は風が強くて心配だから泊まってこなくて良かった。豆腐屋さんも偉いな、まだ仕事をしているよ」。ハデに騒いでいる家があるのを、「ああいうのは旦那の心がけが悪い」。近づくと番頭の唄と甚助の声、初めて自分の家と分かった。
 節穴から中を覗くと、手代の甚助が、「家の旦那は外で下駄を拾ってこさせ、『焚き付けに使う、鼻緒は羽織の紐にする』。たき付けは分かるが、鼻緒の紐は考えられない」。番頭さんは偉い、小言は言うべし、酒は買うべし、割前を取らずに、ドガチャカ・ドガチャカだのと言いたい放題。「だんながもし途中で帰ったら、鯛の塩焼きを見せれば、旦那は塩焼きはイワシしか知らないから、たまげて人事不省に陥る。寝かせちまって、あとは夢を見たんでしょうとゴマかせばいい」。
  ケチ兵衛さんはカンカン。 ドンドンと戸をたたき 「おい、あたしだ」。 一同、酔いもいっぺんに醒め、急いで膳を片づけたがもう遅い。「贅沢な料理を並べておいて、鯛の塩焼きだって里で見たばかりだから目は回さないが、この入費は給金からさっ引くからな、覚悟しろ。 ドガチャカなんぞさせてたまるか。酔っ払いなんて用が出来ない、早く寝ろ、寝てしまえ~」と怒っているところへ、戸をたたく音。
 「焼けてきました。焼けてきましたよ」、さては火事だと驚き「どちらから」、「横町の豆腐屋から」、「どんな様子です」、「今のところ二、三丁焼けてきました。あとからどんどん焼けてきます」、これは火足が速いと、慌てて戸を開けると、プーンと田楽味噌の匂い。
「いけない。味噌蔵に火が入った」。

 

挿絵;落語ギャラリー60(学習研究社)より 「味噌蔵」 橋本金夢イラスト 



ことば

味噌田楽(みそでんがく);豆腐やこんにゃく、茄子や里芋などを串に刺し、砂糖や味醂を配合し柚子や木の芽などで香りをつけた味噌を塗りつけて、焼いた料理。
 永禄年間(1558-1570)の頃には焼いた豆腐に味噌をつけた料理が流行、はじめは唐辛子味噌だったものがのち調味味噌となる。その料理の白い豆腐を串にさした形が、田植えの時に田の神を祀り豊作を祈願する田楽の、白い袴をはき一本足の竹馬のような高足に乗って踊る田楽法師に似ているため「田楽」の名になったという。
 また江戸時代には下の川柳が詠まれ、豆腐に味噌をつけて焼く田楽の語源を伝えている。
 「田楽は 昔は目で見 今は食ひ」

 

 「摂津名所図会」より住吉御田祭式其一「田楽法師舞踏曲」 第一本殿の前で相対しているのが田楽法師。
手前は見物人だが、大傘を持った住吉踊りの舞手がいる。
 江戸では飛鳥山の所に有る、王子神社で田楽法師の舞が行われていた。

 左図:「木の芽田楽」

 それまでは、寒さをしのぐ冬の食べ物であったが、寛永年間(1624-1645)の頃には腰掛茶屋の菜飯につきものとなり、京都では祇園豆腐に木の芽味噌を塗り、春の訪れを知らせる木の芽田楽が評判になる。江戸では、寛保年間(1741-1743)の頃には、木の芽田楽を商う店が浅草近辺に多くあり、宝暦7年(1757)頃には真崎稲荷(荒川区南千住三丁目・石浜神社)の境内に、8軒並んで田楽茶屋があって繁盛していたという。両国の川開きには、橋の両詰めに田楽売りが屋台を並べていました。
 江戸では、近郊の銚子や野田で醤油の醸造が盛んになっており、かつおだしに醤油や砂糖、みりんを入れた汁で煮込むようになり、「おでん」(関東煮、関東だき)が登場した。江戸っ子は気が短いので、屋台で注文してから焼くことはもちろん、味噌を付けることも待っていられず、また「ミソを付ける」に通じてゲンが悪いので、田楽はあまり食べられなかった。おでんは屋台で売られるなど大いに流行しながら各地へ広がっていった。

目塗り(めぬり);「火事息子」、「ねずみ穴」にも登場しますが、蔵の窓・扉の隙間を防火用に土などで塗り固めること。目塗り用に粘土をたるに詰めたものを「用心土」といい、火事の多い江戸では蔵持のどこの商店でも必ず常備していました。
 用心土が無いのでしょうか、それを味噌でしろとは思い切ったことです。用心土の方が安いのに。

 右図:目黒行人坂火事絵“土蔵窓の目塗り”
  火事が大きくなりそうになると、家財を土蔵に入れ、窓・扉をこのように泥で目塗りして逃げると、火が中に入らず大切な家財を守れた、という方法は、江戸時代庶民の火事に対する生活の智恵であった。
原本、国立国会図書館所蔵 消防防災博物館編集。

蔵は江戸時代の耐火建築物;昔の商家の火事に対する用心ぶりがよく分かる一席ですが、頻繁に起こる江戸の火事への対策として、さまざまな手立てが取られていた。防火用の建物としては、土壁で塗り込めた塗屋造りなどが推奨されて、代表格は大きな商家が商品や貴重品などを保管していた土蔵です。四面の壁を土と漆喰(しっくい)で塗り固めて耐火構造にしたもので、壁厚は30cm(1尺)あったという。窓や出入り口は小さく、壁が厚くなっていて、出入り口は二重の戸でできている。外側が開き戸の「戸前(とまえ)」で、その内側に「裏白戸(うらじらど)」という防火用の引き戸がある。その間に網戸があって、風通しをする際に中に保管している米を狙うねずみよけなどに使っていた。いざ火事が起きたら、窓や扉を閉めて、さらに隙間を練り土で目塗りした。この目塗りを味噌でやれと言ったのがこの「味噌蔵」。目塗りを怠って火災に遭ってしまうのが「ねずみ穴」という落語。商家によっては、床下に穴を掘って「穴蔵」をつくり、そこに貴重品を投げ入れて火災から守った。その穴蔵に泥棒が落ちるのが「穴どろ」という落語。

けちん坊のマクラ;柳好はマクラで、
 釘を打つのでカナズチを借りに行かせた。先方では金の釘を打つのか竹の釘を打つのかと聞かれたので「金の釘を打つ」と答えたら「金と金がぶつかれば減るから貸さない」と言われた。帰って主人に話をしたら「ケチだな。借りるな。家のを出して使いなさい」。

 火を起こして火事見舞客に暖を取ってもらおうと思っていた。主人が「前の家が火事になって燃えたんだ、おきがいっぱい有るのだから、すくってきなさい」。小僧が帰ってきて、前の家で怒られた。「人の家が災難に遭ったのに何事だ」と、主人は平然として「ケチだね。もらうな、もらうな。今度家で火事を出しても火の粉もやらない」。

 扇子は1本有ったら10年は使えるという。半分開いて使い、5年したら、もう半分を開いて使うと10年使える。それを聞いた男は「もの使いが激しい人だね。私だったら一生使います。半分開くようなケチはしません。全部開いて、顔を振ります」。

味噌(みそ);調味料のひとつ。大豆を主原料に、米または大麦、大豆の麹と塩とをまぜて発酵させて製したもの。赤味噌・白味噌などの種類がある。
 味噌は副食素材が豊富になった今日では調味料とみなされる事もあるが、古くから日本の食生活における主要な蛋白源であり、特に江戸時代中盤以前は「おかず」的な扱いをされていた。調味料として今日でも日本料理に欠かせないものの一つとなっている。主な原料は大豆で、これに麹や塩を混ぜ合わせ、発酵させることによって大豆のタンパク質が消化しやすく分解され、また旨みの元であるアミノ酸が多量に出来る。製造に際しては、麹が増えると甘味が増し、大豆が増えると旨味が増すとされる。温暖多湿という日本の国土条件の中、職人技により製造される。

ウイキペディアに面白いことが載っているので紹介します。
 味噌と放射能について:長崎の被曝医師の秋月辰一郎は、自身、患者、職員に原爆症が発症しなかった原因は「わかめの味噌汁」によるものだ、と述べている。秋月の体験記である「長崎原爆記」は「Nagasaki 1945」に翻訳され、この話は広く欧米社会にも伝わっている。1986年のチェルノブイリ原発事故の際には、西ヨーロッパ諸国では「味噌は放射能障害に効果がある」という説が広まって味噌製造元に注文が殺到し、輸出量が通常時の数倍増になったと報告されている。味噌と放射能防御能力の関係を調べるために、伊藤明弘教授(1999年当時。広島大学放射線医科学研究所教授)は、マウスを使った動物実験を行った結果、味噌には、放射線から体を守る働きがあると追研された。動物実験では、十分に熟成した味噌ほど放射線防御作用が高いとしている。

吝い(しわい);金銭などを出し惜しみするさま。けち。しみったれ。吝嗇(りんしょく)。落語「秋刀魚火事」に出てくる地主の油屋さんの旦那も同じ仲間です。
 落語では「三ぼう」と言って、泥棒・けちん坊・つんぼうの噺は演じても良いと言われていた。その為、吝い家の噺が多く有りますが、決して江戸に吝いん坊が多くいると言うことではありません。

サツマイモ5貫目(5かんめ);薩摩芋を目の前に置いておいて、チビチビやるのが好きだと言います。商家の奉公人らしいです。貫は尺貫法の目方の基本単位。1貫は3.75kg。1000匁。5貫は18.75kg、大変な量で見ているだけで胸が詰まりそうです。

深川に相撲甚句に磯節(ふかがわ・すもうじんく・いそぶし);深川は住吉踊り(上図摂津名所図会の中に風俗が描かれています)の派手な伴奏曲、他に曲で「かっぽれ」もある。落語「五月雨坊主」に詳しい。
 相撲甚句は俗謡のひとつで、江戸末期から明治を通じて二上り甚句が流行。現行のものは本調子甚句で、「ドスコイ、ドスコイ」の囃子詞が入る。力士が土俵で余興に唄って流行。
 磯節は茨城県の民謡。大洗町磯浜から起った舟唄。のち座敷唄となり、明治42年(1909)以降全国的に流行。歌詞は「♪磯で名所は大洗様よ、松が見えますほのぼのと」。

手代(てだい);頭に立つ人の代理をなす者。中間管理職。江戸時代の商家では番頭と小僧との中間に位する身分であった。小僧は上方では丁稚とよばれた。

割前(わりまえ);割前勘定。数人の者が金額を等分に出し合って勘定の支払いをすること。割り勘。
 江戸っ子も、柳好も「わりまい」と発音しています。広辞苑を引いてもインターネットでも、その単語は出てきません。そんな難しい単語では無いのですがね。方言辞書が有ると有りがたい。

二、三丁焼けて(2.3ちょうやけて);豆腐屋は田楽の数を言っているのですが、旦那は距離の2.3丁と勘違いした。距離1丁(1町)は60間。約109m強。2~300mの距離と言えば江戸の火事では直ぐそこです。

火事(かじ);「火事喧嘩伊勢屋稲荷に犬の糞」と言われるほど江戸には火事が多かった。江戸では常に防火には気を使っていた。特に冬場の火事は北風に煽られ、大火になることが多かった。
 当時の消火方法は破壊消防で、当時の消防は火消しと言っても、現代消防のように直接火炎を鎮圧するのではなく、火元の家を破壊して火勢を鎮圧したり、風下の家屋を破壊し延焼防止に、重点がおかれた。火が入った建物は屋根を抜いて火勢を上に抜き壁を内側に倒し、延焼しないように消火した。落語「二番煎じ」に破壊消防のジオラマがあります。



                                                            2015年4月記

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