落語「忠臣蔵」の舞台を行く
   

 

 五代目春風亭柳昇の噺、「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)より


 

 歌舞伎界では外題に困ったら忠臣蔵を出せ。と言う言葉が有りますが、映画、お芝居、講談、小説、どれを取っても中身が違います。そこで、調べてみましたら本当のことが分かってきました。

 元禄14年3月14日、播州赤穂の殿様浅野内匠頭が高家筆頭吉良上野介に殿中で刃傷に及んだ。即日切腹お家断絶。驚いたのは家来達で、城が無くなるのは勤め先が無くなることで、その日から浪人になってしまいます。4百数十名を集めて、城代家老大石内蔵助を頭に会議を開いた。ときに大石内蔵助四十四才であった。上級武士の「追い腹を切ろう」、「城明け渡しの折、最期まで戦おう」と、いろいろな意見が出たが、下級武士からも意見を聞くことになった。「私は寺坂吉右衛門です。殿が憎い。城中で刀を抜けば結果は分かっていること。なぜ、我慢をしてくれなかったかと悔やまれます」、「諸大名からも賄賂を取る吉良を憎んでいた。背中を押されてやったが、結果誰も後押しをしなかったのだ」、「だったら我々で吉良を成敗しましょう」、賛成、賛成の声が上がったが、これが世間に知れたら大変。
 秘密裏にこれを遂行しなければならない。特に吉良方の用心は凄かった。酒の飲めない内蔵助は京都一力茶屋で遊び、そんな意思は無いと見せかけていた。


 1年10ヶ月目、元禄15年12月14日吉良上野介の屋敷に討ち入った。吉良は屋敷内に隠れて、何回探しても見つけることが出来なかった。「これで引き上げるのは残念ですから、外が明るくなってきました。もう一度だけ探してみましょう」、「おのおの方、もう一度探してみましょう」。「炭小屋にいました」、真っ赤になって怒ったと言います。首をはねて凱旋し、高輪の泉岳寺に向かいます。
 これを聞いた江戸の庶民は、凱旋見たさに本所に集まってきた。行列に内蔵助が酒が飲めないのを知っていたので、甘い物の差し入れが集まった。それを食べた隊士は虫歯になって、みんな義歯(義士)になった。赤穂浪士に対しての町の人気が高いので幕府も困り、五代将軍綱吉の裁きを求めた。

 討ち入りをした四十七士が城中に呼び出され意見を聞いた。「賄賂を取る吉良を置いておいたのでは徳川家の名折れになります。で、討ち入りをして成敗したのです。その結果、切腹になっても構いません」、「命を長らえた方が良いのでは無いか。他に望みは無いか」、「罪を許していただき、お家再興をさせて欲しいのです」、「分かった。再興許す」。奥の襖が開くと、そこに太った殿様浅野内匠頭が座っていた。
 「これはどういう事ですか」、「将軍のお慈悲で生き長らえ、お家も再興になった。これも皆のお陰だ。礼を言うぞ」、「礼は殿から上様に・・・」、「上様、かたじけないことです」、「いやいや、礼を言うのはこちらの方だ。徳川家には永久に汚職は無くなるであろう。また、日本にも未来永劫に汚職は無くなるであろう。めでたい、目出度い」。と言うことで、日本には汚職は無くなったと・・・。
 柳昇式忠臣蔵でした。

 



ことば

忠臣蔵(ちゅうしんぐら);歌舞伎で言う忠臣蔵は『仮名手本忠臣蔵』です。数々のストーリーがあり、あまりにも脚色されてしまい、どれが真実で有るか薮の中に埋没しています。いろいろな切り口が有ってストーリーが膨らんでいます。落語にも、有りますね~。

 「淀五郎」、四段目切腹の場、淀五郎を抜擢したが不味い芝居、「由良之助、待ちかねた、近う近う」と言うが、
 「赤垣源蔵」、「義士銘々伝より 赤垣源蔵・徳利の別れ」は講談でお馴のもの。円生が落語にしたもの。
 「中村仲蔵」、五段目の斧定九郎一役を、工夫して後世に残す。
 「元禄女太陽伝」、大石内蔵助の息子主税を男にしたのは、伏見一丁目栄澄楼の小春です。
 「九段目」、忠臣蔵九段目、桃井若狭之助の家老・加古川本蔵(かこがわほんぞう)の死。
 「七段目」、若旦那は芝居狂い。二階に上がると忠臣蔵七段目を演じ、小僧をおかるに見立て切りつけると、
 「四段目」(蔵丁稚)、忠臣蔵を観た小僧は蔵に、見てきた四段目切腹の場を熱演。それを見た女中が大慌て、
 「徂徠豆腐」、義士達の切腹を決めたという政策助言者、荻生徂徠の噺。

 「忠臣ぐらっ」、義理で参加した武士もいた。屋敷の絵図が無ければ成功しない。町人も協力して・・・。次回で

歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」概略; 忠臣蔵は浄瑠璃のひとつ。並木宗輔ほか合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期にとり、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。

 大序  鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮では、足利家執権の高師直、饗応役の塩冶判官、桃井若狭之助が将軍の弟の足利直義を出迎えます。直義が兜の鑑定役として判官の妻顔世御前を呼び出すところ、顔世に以前から横恋慕していた師直が顔世に言い寄るので、それを見かねた若狭之助が助けに入ります。気分を害した師直は若狭之助を散々に侮辱し、煽られた若狭之助は思わず刀に手を掛けてしまいますが、判官がなだめ、その場を収めます。
 二段目 桃井館、翌日の桃井若狭之助の館では、鶴岡八幡宮で主人が高師直に恥辱を受けた噂でもちきりになっている。桃井家の執権職(家老)加古川本蔵(かこがわほんぞう)が現れ、下部(しもべ)たちを叱りつける。本蔵の妻の戸無瀬(となせ)と娘の小浪も案じている。そこへ塩冶判官からの使者として大星力弥が訪ねて来る。本蔵と戸無瀬はわざと娘小浪に任せて引っ込む。初々しく凜々しい力弥に、その許嫁(いいなづけ)である小浪は胸をときめかせて応対する。
 三段目 足利館  物語の発端が描かれるご存知“松の廊下”  桃井家家老の加古川本蔵は、いまだ怒りが収まらない主君若狭之助を案じ、師直に賄賂を贈ります。すると師直の若狭之助への態度は一変、怒りの矛先は塩冶判官に向かいます。師直の陰湿な仕打ちに耐えかねた判官は、ついに師直に斬りかかりますが、本蔵に止められます。
 四段目 塩谷館  緊迫感に満ちた歌舞伎屈指の名場面  殿中での刃傷沙汰を問われ、自らの屋敷に蟄居を命じられた塩冶判官。そこへ、上使の石堂右馬之丞と薬師寺次郎左衛門が訪れ、判官の切腹と御家断絶、所領没収の上意を伝えます。覚悟を決めていた判官は、駆け付けた家老の大星由良之助に無念の思いを託し、息絶えます。主君の仇討ちに逸る諸士たちを鎮めた由良之助は、すみやかに城を明け渡しながらも、形見の腹切刀に固く仇討ちを誓うのでした。
 五段目 山崎街道 猟師となった勘平は、山崎街道で同志の千崎弥五郎に出会い、仇討ちの資金調達を約束します。一方、おかるの父与市兵衛は夜道で斧定九郎に襲われて殺され、懐の五十両を奪われます。それは、勘平の仇討ち資金を用立てるため、おかるを身売りした前金。しかし定九郎は、猪を狙って発砲した勘平の銃弾であえなく絶命。誤って人を撃った勘平は、慌てながらもその五十両を抜き取り、その場から逃げ去ります。
 六段目 与市兵衛内 おかるを引き取りにきた祇園一文字屋のお才の言葉から、昨晩撃ち殺したのが舅の与市兵衛と思い込む勘平。そこへ現れた不破数右衛門と千崎弥五郎、姑のおかやに詰問された勘平は、罪を吐露して腹を切りますが、真犯人が定九郎であったことが判明します。疑いの晴れた勘平は、仇討ちの連判に名を連ねることを許されると、安堵して息絶えるのでした。
 七段目 祇園一力  遊里情緒あふれる華やかな一幕  祇園で遊興に耽(ふけ)る大星由良之助のもとへ、おかるの兄の寺岡平右衛門が訪れ、仇討ちに加わりたいと願い出ますが、相手にされません。息子の力弥が届けにきた密書を、遊女おかると、師直と内通する(家老だった)斧九太夫に盗み読みされたことに気付いた由良之助は、おかるを殺そうとします。それを察した平右衛門は、自ら妹を手にかける覚悟を決めますが、由良之助に止められます。事情を知った由良之助は、おかるに九太夫を殺させて勘平の仇を討たせると、平右衛門を連判に加えます。
 八段目 旅路の嫁入道行き  紅葉が美しい晩秋の東海道を、加古川本蔵の娘小浪とまだうら若い継母の戸無瀬が連れだって、京都山科の大星由良之助のもとへと急いでいた。 秋晴れの富士を望む峠で、たまたま見かけた花嫁行列にさえ、小浪の恋心は切なく波立つ。それもそのはず、許婚だった大星力弥との約束も、いまや消えかかっていた。
 九段目 山科閑居 遊興先の祇園一力茶屋から仲居に送られて、由良之助が山科の詫び住まいに帰って来る。道々、遊びに事寄せて作った雪玉を裏庭に入れておくよう力弥に命じて、奥へ入る。ようやく到着した戸無瀬と小浪は、出迎えた由良之助の妻お石(いし)から、嫁入りを拒絶される。戸無瀬は夫への申しわけに死のうと思い詰め、小浪も操を守って死ぬ決意をする。戸無瀬が小浪を斬ろうと刀をふりあげると、門の外から虚無僧の吹く尺八の『鶴の巣籠(すごもり)』が聞こえてくる。そこへお石が「御無用」と声をかけて現れ、戸無瀬に向かい、主君塩冶判官が殿中で師直を討ち漏らしたのは本蔵が抱き留めたためだから、嫁入りを許す代わりに本蔵の首をもらいたいという。驚く母娘の前に先ほどの虚無僧が入ってきて、天蓋をとると本蔵その人だった。本蔵がお石を踏みつけ、由良之助を罵るので、力弥が飛び出して槍で突く。由良之助が現れ、本蔵がわざと刺されたと見抜き、小浪の嫁入りを許す。
 十段目 天河屋 捕り手に囲まれた天野屋義平、大勢の捕り手が天野屋の門を叩き由良之助に頼まれた武具の調達について白状しろと迫る。十手を差し出し船に積み込んだはずの長持ちを解こうとするので、義平は長持ちの上に飛び乗って制した。
 十一段目 爽快感に満ちた大団円  由良之助率いる塩冶の浪士たちは、主君判官の仇を討つべく、師直の屋敷に討入ります。家臣らとの激闘の後、炭部屋に隠れていた師直を追い詰めた浪士たちは、遂に本懐を遂げ、御首級を掲げて隅田川を渡るのでした。 

赤穂事件(あこうじけん);18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央を殺し、当夜に在邸の 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らも討った事件を指すもの。(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件」としている場合もある)。
  この事件は「忠臣蔵」とも呼ばれる事があるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。

播州赤穂(ばんしゅう あこう);播州=播磨(ハリマ)国の別称。現・兵庫県赤穂市。浅野内匠頭は赤穂城の城主として、元禄14年3月14日刃傷に及ぶまで居城としていた。
 赤穂城は正保2年(1645年)に浅野長直が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。これが現在の赤穂城であり、元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名です。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類される。縄張りは変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側に三之丸が二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されている。銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野家初代長直の時代、浅野家に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた。

 赤穂城は浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、脇坂氏(赤穂城預かり)でも赤穂城にて在番していた重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す『脇坂赤穂事件』、森氏でも攘夷派の志士たちが藩政を私物化したとして家老の森主税(可彝)を暗殺した『文久赤穂事件』が起きている。

浅野内匠頭(あさの たくみのかみ);浅野長矩(あさの ながのり)江戸時代中期(寛文7年8月11日(1667年9月28日)-元禄14年3月14日(1701年4月21日))犬千代(幼名)、長矩別名 又一郎、又市郎(通称) 官位ラ 従五位下・内匠頭。
  浅野 長矩は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位は従五位下・内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。

 赤穂浅野家は広島藩浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男・長重を祖とする。長政が慶長11年(1606年)に、長男・幸長の紀伊37万石とは別に、自らの隠居料として支給された常陸真壁に5万石を慶長16年(1611年)の長政の死後、長重が継いだことに始まる。長重は元和8年(1622年)、常陸笠間に転封する。寛永9年(1632年)に長重が死去すると嫡男・長直が跡を継ぐ。正保2年(1645年)長直は赤穂へと転封となる。
 長直は、赤穂城築城、城下の上水道の設備、赤穂塩開発などをおこない、藩政の基礎を固めた名君として知られる。長直の後は嫡男・長友が継承、そして長友の嫡男が長矩である。

 元禄3年(1690年)頃の諸大名の評判が記されている『土芥寇讎記』には、 現代語訳で、 「長矩は賢く、利発である。赤穂藩や民に対する統治も良いために、家臣や百姓も豊かである。女を好むことは、非常である。そのため、悪心をもったへつらう者が、主君の好むところに従って、いい女を探し求めて差し出すような者は出世する。ましてや、そうして差し出された女に縁のある輩は時を得て出世し、富を得る者が多い。昼夜閨で戯れて政治は子供の頃から成長した今になっても、家老に任せている」。
 ただ、浅野長矩の女色を好むという評価については、『土芥寇讎記』以外の同時代の史料に女色を好むといったことが書かれているものが見られない事や長矩が当時としては珍しく側室を持った記録等が見られない藩主であったことなどから、懐疑的に見る必要がある。
 長矩は、感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ=胃に物がつかえたり胸がふさがったりする症状)」という病気を持っていた。例えば『冷光君御伝記』には「同十一日未明、伝奏衆江戸御着座冷光君(浅野長矩)には少々御不快これにより御保養し、・・・御持病はこれ御痞気と成られました」とある。当時の痞(つかえ)を精神病や統合失調症と見るのは無理があるとされている。

高家筆頭(こうけ);江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。 役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。
  江戸幕府の典礼に関する職制は、開幕後段階的に整備された。慶長8年(1603年)、徳川家康の征夷大将軍宣下の式典作法を大沢基宿に管掌させたのが、役職としての高家の起源である。ただし、当初は役職として「高家」の名称はなかった。慶長13年(1608年)12月24日、吉良義弥が従五位下侍従・左兵衛督に叙任され、大沢基宿とともに典礼の職務に加わった。のちに高家職就任時に従五位下侍従に叙せられる慣行ができたため、さかのぼってこの日を「高家」制度のはじまりとすることもある。元和2年(1616年)には、一色範勝が大御所徳川家康のもとで幕府饗応役に任じられている。「高家」の名称や慣行が確定したのは、徳川秀忠の元和・寛永年間とみられる。

吉良上野介(きらこうずけのすけ);寛永18年(1641年)9月2日、高家旗本・吉良義冬(4,200石)と大老・酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。継母は母の妹。寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続する。時に28歳。
 元禄11年(1698年)9月6日、勅額火事により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋にて再建(費用の2万5500両は上杉家が全額負担)する。この大火で消防の指揮をとっていたのは播磨赤穂藩主・浅野長矩であった。
 3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下において、義央(よしひさ/よしなか)は浅野長矩から背中と額を斬りつけられた。長矩は居合わせた留守居番・梶川頼照に取り押さえられ、義央は高家・品川伊氏、畠山義寧らによって別室へ運ばれた。外科医・栗崎道有の治療もあって命は助かったものの、額の傷は残った。義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出。8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを拝命。受領は9月3日であった。当時の本所は江戸の場末で発展途上の地であった。なお旧赤穂藩士との確執が噂され、隣家の阿波富田藩蜂須賀飛騨守から吉良を呉服橋内より移転させるよう嘆願があったとされる。
 12月15日未明に、大石を始めとする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った。炭小屋内で奥で動くものがあり、間光興が槍で突いた。間光興が突いたのは 寝所から逃げてきた白小袖姿の義央で、義央は脇差を抜いて抵抗したが、武林隆重に斬り捨てられ、首を討たれた。享年62(満61歳)。
 忠臣蔵の悪役として有名な義央の評価は全国的には芳しくない。もっとも忠臣蔵が上演される以前から、義央が行っていた長矩に対するいじめの話は広く世間に知られていたようであり、また義央は浅野長矩以外の御馳走人にも、いわゆるいじめを行っていたという話も残っている。

 吉良上野介の座像。吉良邸跡蔵。 愛知県吉良町にある菩提寺・華蔵寺の像を写したもの。

 吉良上野介は上杉家から養子の吉良左兵衛義周をもらっており、上野介が引退した際には左兵衛に家督を譲っている。 赤穂浪士討ち入りの際、左兵衛は薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した。その後気付いて父・上野介を探しに寝室に向かったが、上野介が見つからず、落胆してまた気絶している。 にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった。 そこで罪人だからと月代を剃る事すら許されない生活を送り、宝永3年に20歳ほどの若さで死んだ。

刃傷(にんじょう);浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられた。その礼法指南役は天和3年(1683)のお役目の時と同じ吉良義央であった。しかしこの頃、吉良は高家の役目で上京しており、2月29日まで江戸に戻ってこなかった。そのため吉良帰還までの間の25日間は、長矩が自分だけで勅使を迎える準備をせねばならず、この空白の時間が浅野に「吉良は不要」というような意識を持たせ、二人の関係に何かしら影響を与えたのでは、と推測する説もある。

 そして元禄14年3月14日(1701年4月21日)。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)がおこなわれる幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。この儀式直前の巳の下刻(午前11時40分頃)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が留守居番・梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところへ長矩が背後から近づき、吉良義央に切りつけた。梶川が書いた『梶川筆記』に拠れば、この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだとされる。しかし浅野は本来突くほうが効果的な武器であるはずの脇差で斬りかかったため、義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、しかも側にいた梶川頼照が即座に浅野を取り押さえたために第三撃を加えることはできなかった。

左図、東大教授の「忠臣蔵」山本博文著より、江戸城、「松の廊下」あたりの間取り図。 

 さかのぼること、延宝8年(1680年)6月26日には、第四代将軍・徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父・内藤忠勝も永井尚長に対して刃傷に及んで、切腹および改易となっていることから、母方の遺伝子説を唱える説もある。

切腹お家断絶(せっぷく おいえだんぜつ);未の下刻(午後3時50分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると芝愛宕下(現東京都港区新橋4丁目)にある田村邸へと送られた。 この護送中に江戸城では、長矩の処分が決定していた。
 将軍・綱吉は朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決した。『多門筆記』によると、若年寄の加藤明英、稲垣重富がこの決定を目付の多門に伝えたが、多門は「内匠頭五万石の大名・家名を捨て、お場所柄忘却仕り刃傷に及び候程の恨みこれあり候は、乱心とても上野介に落ち度これあるやも測りがたく(略)大目付併私共再応糾し、日数の立ち候上、いか様とも御仕置き仰せつけられるべく候。それまでは上野介様も、慎み仰せつけられ、再応糾しの上、いよいよ神妙に相い聞き、なんの恨みも受け候儀もこれなく、全く内匠頭乱心にて刃傷に及び候筋もこれあり候はば、御称美の御取り扱いもこれあるべき所、今日に今日の御称美は余り御手軽にて御座候」と抗議したと書いている。これを聞いて加藤と稲垣も「至極尤もの筋。尚又老中方へ言上申すべし」と答え、慎重な取り調べを老中に求めてくれたというが、結局は大老格側用人・柳沢吉保が「御決着これ有り候上は、右の通り仰せ渡され候と心得べし」と称して綱吉への取次ぎを拒否したため、即日切腹が確定したのだと同書中で述べている。

城代家老(じょうだい かろう);江戸時代、城持(しろもち)大名の参勤交代で留守中、その居城の守護その他領国内の一切の政務をつかさどった家老。城代。赤穂藩では、大石内蔵助がその任に有った。

大石内蔵助(おおいし くらのすけ);大石 良雄(おおいし よしお/よしたか 万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))、播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。
 延宝7年(1679)、21歳のときに正式な筆頭家老となる。しかし平時における良雄は凡庸な人物だったようで、「昼行燈」と渾名されており、藩政は老練で財務に長けた家老大野知房が担っていた。貞享4年(1686年)には但馬豊岡藩筆頭家老・石束毎公の18歳の娘・りくと結婚。元禄元年(1688)、彼女との間に長男・松之丞(後の主税良金)を儲けた。さらに元禄3年(1690)には長女・くう、元禄4年(1691)には次男・吉之進(吉千代とも)が生まれている。 元禄5年(1692)より奥村重舊に入門し、東軍流剣術を学んでいる。また元禄6年(1693)には京都で伊藤仁斎に入門して儒学を学んだという。
 次々に赤穂藩邸から国許赤穂へ情報が送られ、3月28日までには刃傷事件・浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。3月27日、家臣に総登城の号令がかけられ、3日間にわたって評定が行われたが、藩士たちは幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれて議論は紛糾した。恭順派の大野知房は、篭城派の原元辰・岡島常樹などと激しく対立し、4月12日には赤穂から逃亡した。こうした中、良雄は篭城殉死希望の藩士たちから義盟の血判書を受け取り、城を明け渡した上で長矩の弟・浅野長広を立てて御家再興を嘆願し、あわせて吉良義央の処分を幕府に求めることで藩論を統一する。また良雄は、紙くず同然になるであろう赤穂藩の藩札の交換に応じて赤穂の経済の混乱を避け、また藩士に対しても分配金を下に厚く上に軽くするなどの配分をおこなって、家中が分裂する危険の回避につとめた。
 47人の赤穂浪士は本所吉良屋敷に討ち入った。表門は良雄が大将となり、裏門は嫡男大石良金が大将となる。2時間近くの激闘の末に、浪士たちは遂に吉良義央を探し出し、これを討ち果たして、首級を取った。本懐を果たした良雄たち赤穂浪士一行は、浅野長矩の墓がある泉岳寺へ引き揚げると、吉良義央の首級を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。
 仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした荻生徂徠などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた。

 細川邸の大石内蔵助切腹の図 赤星閑意筆 大石内蔵助と、介錯役の安場一平。右上座敷には切腹の順番を待つ浪士達。

追い腹を切る(おいばらをきる);主君の死後、臣下があとに続いて切腹すること。古くから行なわれたが、江戸幕府は寛文3年(1663)5月禁止した。殉死。供腹(ともばら)。
 現代では、明治天皇の跡を追って、乃木希典夫婦が後追い自殺をした。

下級武士(かきゅうぶし);上級級武士と下級武士の区分は、御目見(おめみえ)以上か以下かで大きく分けられます。
  御目見とは、主君である大名に直接会うことができる武士。(将軍直参の場合、旗本と御家人にあたる) 御目見以下の場合は、主君にすら直接会うことができず、会話もできません。そして、その格式は代々受け継がれ、よほどの抜擢・功績がない限りは乗り越えることができませんでした。 その家格に応じた最終役職がほぼ決められており、能力があっても基本的には出世できなかったのです。 藩成立時に下級武士だった家は、原則幕末まで下級武士だった。
 赤穂藩では、討ち入りに参加したのは大部分が下級武士達で、上級武士は大石内蔵助を除いて家老以下、分配金を受け取り、赤穂藩から抜けていったのです。下級武士の中には切腹すら出来ない者もいて、九寸五分を腹に当てる真似だけで、介錯人の刀によってその儀を果たした、とも言われています。

寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん);寺坂吉右衛門信行は四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である。 おそらくもともとは百姓で、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した。 討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった。 姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である。

 落語「黄金餅」で、麻布絶好釜無村の木蓮寺が有りますが、現在は曹溪寺に赤穂浪士”寺坂吉右衛門信行”の墓がある。四十七士の内で只一人生き残った浪士で、討ち入り後報告に故国まで使者として向かったと言われる。後年この寺に身を寄せ、83才まで生きた。

吉良上野介の屋敷(きらこうずけのすけ やしき);屋敷は鍛冶橋門内に屋敷を拝領していました。その屋敷が、元禄9年の勅額火事により焼失したため、新たに呉服橋門内に屋敷を拝領しました。
  松之大廊下で浅野内匠頭に斬りつけられた時には、呉服橋門内に屋敷がありました。しかし、刃傷事件後、高家肝煎の辞任を申し出てそれが認められたため、元禄14年8月に呉服橋門内から本所に引き移るように指示されました。吉良家の移転については、隣の徳島富田藩蜂須賀家の働きかけがあったという説もありますが、確かなことははっきりしていません。

 

 これは、元禄15年版の「改撰江戸大絵図」が元になっていると思われます。横向きで「キラ左兵」と書かれているのが吉良邸です。 吉良邸は、三方向は道路に囲まれていて、北側に旗本屋敷があります。
 北西の旗本屋敷は、「土ヤチカラ」つまり土屋佐渡の守の中屋敷でした。土屋家は、元々は、久留里藩の藩主の家柄で、3千石の旗本でした。隣、北東の屋敷は、「本多マコ太郎」つまり本多孫太郎の屋敷です。本多孫太郎は、福井藩松平家の家老でした。討入り当日は、福井に在留していて江戸屋敷にはいませんでした。表門の東側の道路を隔てた向かい側は「マキノ長門」つまり旗本牧野長門の屋敷でした。しかし、討入りの当時は、牧野長門の子供の牧野一学に代替わりをしており、牧野一学は駿河在番で屋敷にはいなかったようです。現在は両国小学校の一部になっています。その東側の両国公園は勝海舟の生誕の地です。
 裏門の道路を隔てた向かい側には「エカウイン」つまり回向院がありました。その南には「大トクヰン」今に続く大徳院です。
 吉良邸の敷地の中に、下の絵図面のような屋敷が建てられていました。
 下の絵図面は、吉良邸跡の邸内に展示されているもので、吉良邸の最も詳しい絵図面といわれています。 

 吉良邸跡公園に掲げられた邸内図。裏口を中心に3/4を表示。右側正門で玄関が有ります。中央の庭に上野死骸と書かれています。

 絵図面の右側つまり東側に表門があり、左側が西側で、そこに裏門があります。 この絵図面による屋敷の大きさは、表門側の南北が、34間2尺8寸(約62.7m)、裏門側の南北長さが34間4尺8寸(63.3m)、東西の長さが73間7尺3寸(約134.9m)となっています。面積は、約2550坪(8400m)。表門側に、吉良左兵衛の住む部屋があります。吉良上野介の住む隠居部屋は、裏門側にありました。隠居部屋側にも玄関があり、ここから出入りが可能となっています。吉良上野介の部屋近くには茶室もありました。屋敷の道路に面した三方向には長屋(長屋塀)が設置されていて、長屋には、吉良家の家臣が住んでいました。当然、上杉家から派遣された武士も、そこに滞在していました。この長屋は二階建てだったと考えられています。屋根までの高さは6.6mあったと推測がされています。それだけの高さですから簡単に乗り越えられませんので、赤穂浪士が討ち入る際には、梯子を準備する必要がありました。赤穂浪士が準備した道具の中に梯子が含まれているのは、こうした事情があったためです。

 物置の跡だと言われるのが、吉良邸跡の前にある郵便局が有ったところだと言われています。(未確認)

 吉良邸の一部を地元の有志達で保存した「吉良邸跡」(本所松坂町公園)。

高輪の泉岳寺(せんがくじ);泉岳寺(港区高輪2-11)は、一般的には墓地に赤穂義士のお墓があることで有名です。創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。曹洞宗の本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。道元禅師の主著は仏教の神髄を表した『正法眼蔵』という95巻に渡る書物です。
 泉岳寺は慶長17年(1612)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。しかしながら寛永18年(1641)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺はでき上がったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。

義歯(ぎし);入れ歯と義士とを掛けた言葉。

五代将軍綱吉(つなよし);江戸幕府五代将軍。三代将軍家光の四男。幼名徳松。法号常憲院。母は本庄氏、桂昌院。1661年上野国館林城主、1680年四代将軍兄家綱の死後、将軍を継承。老中堀田正俊を大老にすえ、勘定吟味役を創置して勤務不良の代官を大量処分、また親藩筆頭越後(えちご)高田藩松平家の御家騒動(越後騒動)を親裁、同家を取りつぶした。綱吉は儒学に傾倒、1682年に孝子表彰制度を設けるなど儒学精神を施政に反映させることに意欲を燃やし、〈生類憐みの令〉も聖徳の君主の世には仁慈は鳥獣にまでおよぶという理想の実現を目指したものであった。しかしこの法は迎合する幕臣によってゆがめられ、庶民たちにはかえって虐政となった。1684年堀田正俊が殺されて後は、牧野成貞、柳沢吉保ら寵臣の権勢が増大、貸幣悪鋳など新たな経済動向への根本的な対応を欠いた経済政策は、経済界を混乱させた。これらはのち綱吉治世の悪評の要因をなした。

汚職(おしょく);職権や地位を濫用して、賄賂(ワイロ)を取るなどの不正な行為をすること。職をけがすこと。「涜職(トクシヨク)」の代用語。



                                                            2019年12月記

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