落語「忠臣蔵」の舞台を行く 五代目春風亭柳昇の噺、「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)より
■忠臣蔵(ちゅうしんぐら);歌舞伎で言う忠臣蔵は『仮名手本忠臣蔵』です。数々のストーリーがあり、あまりにも脚色されてしまい、どれが真実で有るか薮の中に埋没しています。いろいろな切り口が有ってストーリーが膨らんでいます。落語にも、有りますね~。
「淀五郎」、四段目切腹の場、淀五郎を抜擢したが不味い芝居、「由良之助、待ちかねた、近う近う」と言うが、
「忠臣ぐらっ」、義理で参加した武士もいた。屋敷の絵図が無ければ成功しない。町人も協力して・・・。次回で
■歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」概略; 忠臣蔵は浄瑠璃のひとつ。並木宗輔ほか合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期にとり、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。
大序
鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮では、足利家執権の高師直、饗応役の塩冶判官、桃井若狭之助が将軍の弟の足利直義を出迎えます。直義が兜の鑑定役として判官の妻顔世御前を呼び出すところ、顔世に以前から横恋慕していた師直が顔世に言い寄るので、それを見かねた若狭之助が助けに入ります。気分を害した師直は若狭之助を散々に侮辱し、煽られた若狭之助は思わず刀に手を掛けてしまいますが、判官がなだめ、その場を収めます。
■赤穂事件(あこうじけん);18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央を殺し、当夜に在邸の 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らも討った事件を指すもの。(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件」としている場合もある)。
■播州赤穂(ばんしゅう あこう);播州=播磨(ハリマ)国の別称。現・兵庫県赤穂市。浅野内匠頭は赤穂城の城主として、元禄14年3月14日刃傷に及ぶまで居城としていた。
赤穂城は浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、脇坂氏(赤穂城預かり)でも赤穂城にて在番していた重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す『脇坂赤穂事件』、森氏でも攘夷派の志士たちが藩政を私物化したとして家老の森主税(可彝)を暗殺した『文久赤穂事件』が起きている。
■浅野内匠頭(あさの たくみのかみ);浅野長矩(あさの ながのり)江戸時代中期(寛文7年8月11日(1667年9月28日)-元禄14年3月14日(1701年4月21日))犬千代(幼名)、長矩別名 又一郎、又市郎(通称)
官位ラ
従五位下・内匠頭。
赤穂浅野家は広島藩浅野家の傍流の一つで、浅野長政の三男・長重を祖とする。長政が慶長11年(1606年)に、長男・幸長の紀伊37万石とは別に、自らの隠居料として支給された常陸真壁に5万石を慶長16年(1611年)の長政の死後、長重が継いだことに始まる。長重は元和8年(1622年)、常陸笠間に転封する。寛永9年(1632年)に長重が死去すると嫡男・長直が跡を継ぐ。正保2年(1645年)長直は赤穂へと転封となる。
元禄3年(1690年)頃の諸大名の評判が記されている『土芥寇讎記』には、
現代語訳で、
「長矩は賢く、利発である。赤穂藩や民に対する統治も良いために、家臣や百姓も豊かである。女を好むことは、非常である。そのため、悪心をもったへつらう者が、主君の好むところに従って、いい女を探し求めて差し出すような者は出世する。ましてや、そうして差し出された女に縁のある輩は時を得て出世し、富を得る者が多い。昼夜閨で戯れて政治は子供の頃から成長した今になっても、家老に任せている」。
■高家筆頭(こうけ);江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。
役職としての高家を「高家職」と記すことがある。高家旗本のうち、高家職に就いている家は奥高家、非役の家は表高家と呼ばれた。
■吉良上野介(きらこうずけのすけ);寛永18年(1641年)9月2日、高家旗本・吉良義冬(4,200石)と大老・酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。継母は母の妹。寛文8年(1668年)5月、父・義冬の死去により家督を相続する。時に28歳。
吉良上野介の座像。吉良邸跡蔵。 愛知県吉良町にある菩提寺・華蔵寺の像を写したもの。
吉良上野介は上杉家から養子の吉良左兵衛義周をもらっており、上野介が引退した際には左兵衛に家督を譲っている。
赤穂浪士討ち入りの際、左兵衛は薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した。その後気付いて父・上野介を探しに寝室に向かったが、上野介が見つからず、落胆してまた気絶している。
にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった。 そこで罪人だからと月代を剃る事すら許されない生活を送り、宝永3年に20歳ほどの若さで死んだ。
■刃傷(にんじょう);浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられた。その礼法指南役は天和3年(1683)のお役目の時と同じ吉良義央であった。しかしこの頃、吉良は高家の役目で上京しており、2月29日まで江戸に戻ってこなかった。そのため吉良帰還までの間の25日間は、長矩が自分だけで勅使を迎える準備をせねばならず、この空白の時間が浅野に「吉良は不要」というような意識を持たせ、二人の関係に何かしら影響を与えたのでは、と推測する説もある。
左図、東大教授の「忠臣蔵」山本博文著より、江戸城、「松の廊下」あたりの間取り図。
さかのぼること、延宝8年(1680年)6月26日には、第四代将軍・徳川家綱葬儀中の増上寺において長矩の母方の叔父・内藤忠勝も永井尚長に対して刃傷に及んで、切腹および改易となっていることから、母方の遺伝子説を唱える説もある。
■切腹お家断絶(せっぷく おいえだんぜつ);未の下刻(午後3時50分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると芝愛宕下(現東京都港区新橋4丁目)にある田村邸へと送られた。
この護送中に江戸城では、長矩の処分が決定していた。
■城代家老(じょうだい かろう);江戸時代、城持(しろもち)大名の参勤交代で留守中、その居城の守護その他領国内の一切の政務をつかさどった家老。城代。赤穂藩では、大石内蔵助がその任に有った。
■大石内蔵助(おおいし くらのすけ);大石 良雄(おおいし よしお/よしたか 万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))、播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名となる。
細川邸の大石内蔵助切腹の図 赤星閑意筆 大石内蔵助と、介錯役の安場一平。右上座敷には切腹の順番を待つ浪士達。
■追い腹を切る(おいばらをきる);主君の死後、臣下があとに続いて切腹すること。古くから行なわれたが、江戸幕府は寛文3年(1663)5月禁止した。殉死。供腹(ともばら)。
■下級武士(かきゅうぶし);上級級武士と下級武士の区分は、御目見(おめみえ)以上か以下かで大きく分けられます。
■寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん);寺坂吉右衛門信行は四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である。
おそらくもともとは百姓で、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した。
討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった。
姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である。
落語「黄金餅」で、麻布絶好釜無村の木蓮寺が有りますが、現在は曹溪寺に赤穂浪士”寺坂吉右衛門信行”の墓がある。四十七士の内で只一人生き残った浪士で、討ち入り後報告に故国まで使者として向かったと言われる。後年この寺に身を寄せ、83才まで生きた。
■吉良上野介の屋敷(きらこうずけのすけ やしき);屋敷は鍛冶橋門内に屋敷を拝領していました。その屋敷が、元禄9年の勅額火事により焼失したため、新たに呉服橋門内に屋敷を拝領しました。
これは、元禄15年版の「改撰江戸大絵図」が元になっていると思われます。横向きで「キラ左兵」と書かれているのが吉良邸です。
吉良邸は、三方向は道路に囲まれていて、北側に旗本屋敷があります。
吉良邸跡公園に掲げられた邸内図。裏口を中心に3/4を表示。右側正門で玄関が有ります。中央の庭に上野死骸と書かれています。
絵図面の右側つまり東側に表門があり、左側が西側で、そこに裏門があります。
この絵図面による屋敷の大きさは、表門側の南北が、34間2尺8寸(約62.7m)、裏門側の南北長さが34間4尺8寸(63.3m)、東西の長さが73間7尺3寸(約134.9m)となっています。面積は、約2550坪(8400m2)。表門側に、吉良左兵衛の住む部屋があります。吉良上野介の住む隠居部屋は、裏門側にありました。隠居部屋側にも玄関があり、ここから出入りが可能となっています。吉良上野介の部屋近くには茶室もありました。屋敷の道路に面した三方向には長屋(長屋塀)が設置されていて、長屋には、吉良家の家臣が住んでいました。当然、上杉家から派遣された武士も、そこに滞在していました。この長屋は二階建てだったと考えられています。屋根までの高さは6.6mあったと推測がされています。それだけの高さですから簡単に乗り越えられませんので、赤穂浪士が討ち入る際には、梯子を準備する必要がありました。赤穂浪士が準備した道具の中に梯子が含まれているのは、こうした事情があったためです。
物置の跡だと言われるのが、吉良邸跡の前にある郵便局が有ったところだと言われています。(未確認)
吉良邸の一部を地元の有志達で保存した「吉良邸跡」(本所松坂町公園)。
■高輪の泉岳寺(せんがくじ);泉岳寺(港区高輪2-11)は、一般的には墓地に赤穂義士のお墓があることで有名です。創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。曹洞宗の本山は二つあり、一つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう一つは横浜鶴見の総持寺です。道元禅師の主著は仏教の神髄を表した『正法眼蔵』という95巻に渡る書物です。
■義歯(ぎし);入れ歯と義士とを掛けた言葉。
■汚職(おしょく);職権や地位を濫用して、賄賂(ワイロ)を取るなどの不正な行為をすること。職をけがすこと。「涜職(トクシヨク)」の代用語。
2019年12月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |