落語「忠臣ぐらっ」の舞台を行く 立川志の輔の噺、「忠臣ぐらっ」(ちゅうしんぐらっ)より
■前作、春風亭柳昇の落語「忠臣蔵」で、詳細を解説していますので、詳細についてはそちらもご覧下さい。
■落語の中の忠臣蔵;芝居好きの商人達や小僧を描いた「四段目」(蔵丁稚)、「七段目」、「中村仲蔵」、「淀五郎」といった落語はあるものの、忠臣蔵自体の噺がないと、岡野金右衛門の絵図面取りを題材にした新作落語です。
■辞世の句;この世に別れを告げること。死ぬこと。また、死にぎわに残す偈頌(ゲジユ)・詩歌などの句。
■岡野金右衛門(おかの きんえもん);岡野 包秀 (おかの かねひで、延宝8年(1680年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、赤穂浪士四十七士の一人。岡野包住の子。通称は金右衛門(きんえもん)。本姓は藤原氏。家紋は釘貫(右図)。美男子と伝わり、吉良邸絵図面をめぐるお艶との恋愛の逸話で知られる。
左、『義士四十七図 岡野金右衛門包秀』(尾形月耕画)。右、誠忠義士伝 岡野金右衛門 国芳画。
大高源吾とも親戚であったので、秀作が多い金右衛門の句、
■大高源吾(おおたかげんご);大高忠雄。元禄15年(1702)9月18日、忠雄は江戸下向にあたり、豪商綿屋善右衛門(赤穂藩のお出入り商人で赤穂藩改易後は討ち入り計画を経済的支援していた)より26両を借用。また遺作として『二ツの竹』を江戸下向直前に出版する。親交のあった水間沾徳(みずませんとく)や宝井其角などそうそうたる俳人が句をよせている。そして10月18日に主君の仇吉良義央を討つため江戸へ下った。江戸では町人脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗った。俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門して、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめている。大石良雄は忠雄の入手した情報を、横川宗房が親しくしていた上野介と親しい坊主の許に来た手紙の情報と照らし合わせて、信用し、この日を討ち入りの日と決める。
忠雄は俳人宝井其角とも交流があったとされ、討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた忠雄が両国橋のたもとで偶然其角と出会った際、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶をした忠雄に対し、其角は餞に「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対し、忠雄は「あした待たるるその宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残るが、それを裏付けるものがなく後世のフィクションか。
■赤穂四十七士;表門隊(二十三士)= 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹
岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
■講談 赤穂義士銘々伝~岡野金右衛門 恋の絵図面取;
落語も芝居も講談も、細かい内容が違っています。今ではどれが真実か美談か分からなくなっています。しかし、この絵図面取りは俗説で、真実とは違います。
■吉良邸絵図面;
横向きで「キラ左兵」と書かれているのが吉良邸です。
吉良邸は、三方向は道路に囲まれていて、北側に旗本屋敷があります。
切り絵図「本所絵図」 江戸後期安政2年 尾張屋清七版。 吉良邸跡全域は本所松坂町として町民地になっています。
吉良邸の敷地の中に、下の絵図面のような屋敷が建てられていました。
南北が逆になった絵図面の左側つまり東側に表門があり、右側が西側で、そこに裏門があります。
この絵図面による屋敷の大きさは、表門側の南北が、34間2尺8寸(約62.7m)、裏門側の南北長さが34間4尺8寸(63.3m)、東西の長さが73間7尺3寸(約134.9m)となっています。面積は、約2550坪(8400m2)。
「吉良邸略図」 東京帝国大学所蔵 裏門の前に神崎与五郎の酒屋があり、屋敷内の赤四角で吉良は討たれました。
表門側に、吉良左兵衛(当主・吉良の息子)の住む部屋があります。吉良上野介の住む隠居部屋は、裏門側にありました。隠居部屋側にも玄関があり、ここから出入りが可能となっています。吉良上野介の部屋近くには茶室もありました。屋敷の道路に面した三方向には長屋(長屋塀)が設置されていて、長屋には、吉良家の家臣が住んでいました。当然、上杉家から派遣された武士も、そこに滞在していました。この長屋は二階建てだったと考えられています。屋根までの高さは6.6mあったと推測がされています。それだけの高さですから簡単に乗り越えられませんので、赤穂浪士が討ち入る際には、梯子を準備する必要がありました。赤穂浪士が準備した道具の中に梯子が含まれているのは、こうした事情があったためです。
■吉良邸跡;
吉良邸の跡は町民地として、細分化され払い下げられた。残った一角を町内の有志が買い取り、史跡として残した。吉良邸跡(本所松坂町公園)、墨田区両国三丁目13番9号。
元禄赤穂事件から1年弱経った元禄16年(1703)の元禄大地震とそれの6日後に起きた大火(水戸様火事)で吉良邸があった周辺は壊滅状態になり、その復興のときに吉良邸跡の4割ほどのところに御鏡師の中島伊勢・御研師の佐柄木弥太郎の拝領町屋と芝田町代地ができ、残りは使用目的が決まっていない割残地であった。宝永2年~4年(1705~1707)にかけて中島・佐柄木両名の拝領町屋は本所松坂町一丁目拝領町屋に、芝田町代地が本所松坂町二丁目年貢町屋となった。この時に「本所松坂町」の町名ができた。
またこの頃、吉良邸跡の割残地だったところが芝新堀常浚拝領地となっており、吉良邸跡すべてが本所松坂町となった年代は不詳であるが、宝暦12年(1762)の時点ではそれが確認されている。
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