落語「堀川」の舞台を行く
   

 

 三代目林家染丸の噺、「堀川」(ほりかわ)より


 

 元は立派な商売をしておりましたんですが、息子はんがえらい酒が好きで、酒道楽が高じましてとうとお店を、一軒ゴロ~ッと呑み潰してしもた。今では九尺二間の棟割長屋で、親子三人侘び住まいでございます。ところが、好きな道というのはやまらんもんとみえまして、「こない酔うつもりやなかったんや。ついつい呑んでしもた、ホンマにもうさっぱりわや。なるべく親父寝ててや、婆だけ起きてて」、家では、「今日という今日はどんなことがあっても家(うち)へ入れません。何? 若い? 若い若いて、若いような歳じゃありゃせんがな。当たり前なら孫の顔の見せんならん歳じゃ。それにあないして毎晩、奈良漬みたいになって戻りくさる」、「そうじゃろけども爺さん、そこのところはまたわたしがあとでよく言て聞かせますで、まぁまぁまぁ・・・」。母親は甘いもんですなぁ「まぁまぁまぁ」の百っぺんも連発いたしまして、この息子を家へ入れてしまいよる。

 そのあとへ帰ってまいりましたのが、お向かいの息子はん。この人は歳が若いのに、三道楽はいたしません。品行方正のように聞こえますが、「火事と喧嘩がいたって好きや。朝にいっぺん、昼にいっぺん、晩にいっぺん、日に三べん喧嘩せなんだら寝られん」という変わった極道。「近頃、喧嘩も火事もないな~、しゃ~ないわい、ボチボチ家帰るか」、夜鳴き蕎麦屋を捕まえて、喧嘩ふっかけています。「こらッ!ド頭(どたま)胴体ん中へにゅ~ッとニエ込まして、へその穴から世間覗かすぞ。コラッ。頭と足と持ってクソ結びに結んだろか。いっぺんこの屋台ひっくり返して・・・」、蕎麦屋も商売、軽くあしらって退散。帰ってまいります。
 お母はんとこの息子の二人暮らしでございまして、お母はん昼間の疲れが出たんか、店の間でぐ~っすり寝たはったんで。その頭を蹴飛ばして起こし、それから「肩揉め、腰撫で、足さすれ・・・」。二十四孝の横蔵をあんかけにしたような親不幸者でございます。無理、難題を言て寝てしまいよった。
 その明くる朝、お向かいの酒極道の方はポイッと仕事に行きましたが、困ってなはんのは喧嘩極道のお母はん。この男がまたいたって朝起きが悪い。お母ん外に向かって、「坐摩の前に心中があった?」と、独り言を言っていると、ガバと飛び起きて坐摩へ。来たが心中なんてない。ぼやきながら帰って来よった。「心中なんて無かった」、「あらな~、わしが十六の歳のこっちゃねん」、文句を言いながら仕事に出掛けた。

 夜になりますとお向かいの酒極道、「よ、酔てもたな~、さっぱわやや・・・」、親っさん「今日といぅ今日は・・・」、お母ん「まぁまぁまぁ・・・」と入れてしまう。
 そのあとへ帰ってまいりました喧嘩極道、「ホンマにも~、今日も喧嘩でけんかったな~」、「お~兄い、生節(なまぶし)が煮(た)いてあるのじゃ、温飯(ぬくまま)じゃがな、早よ食べやれ」、「お前チャッチャとしててみいな、『杖の下から回す児が可愛』と、こ~言ねや」、「わしのは、親じゃ」、また、無理難題を言うて寝てしまいよる。

 その明くる朝、お向かいの酒極道の方はポイッと仕事に行きよった。困ってなはんのは喧嘩極道のお母はんで、また起きて来よらん。隣りの家へさして頼みに行ってなはる。「うちの倅(せがれ)を起こしていただきたいので・・・」、「それだけ堪忍してぇな」、「カナダライ持って来とります。これを叩きまして、わたしが『くわぁじやぁ~、くわぁじや~』と、こない申しますで、あんたも拍子木打って『くわぁじやぁ~、くわぁじや~』と、こう言ていただきましたら、すぐに起きてまいります」、二人そろって『火事や。火事や~』、「見てみなはれお母ん、あの人、ホンマの火事やと思て荷物放り出してるがな」。
 この『火事』っちゅうのがチラッと耳に入ったもんでっさかい、ガバッと布団跳ねのけて、草履つっかけてタッタッタ~と行てしもたら何のことはなかったんです。表へ出て来るなり、いきなりお母んの胸ぐらつかんで「火事はどこじゃッ?」、ありったけの声張り上げよった。「あわわ、兄ぃ火事かえ、火事は隣り裏」、そのまま隣り裏へ。

 この町内はこれでよろしおますわな~。気の毒なんは隣り裏の久米はんとこ。ご商売が大工さんでございまして、大工さんというのはお昼の弁当の都合やなんかがあって、たいがい朝は温(ぬく~う)ご飯と決まったもんやそうでございますが、その日は丸いお膳でみんなが並びましてな、お粥をすすっておりましたんで・・・。
 朝の家中忙しい中へさして、タタタタ、タッタ~ッ、「よっしゃ、道具箱俺が引き受けた、よいしょッ」、「うちの道具箱どこへ持って行くねんな、お花、お前がグズグズしてるさかい、あんなあわてもんが来て、うちの道具箱どっか持って行きよったがな」。
 またぞろタタタタ、「よしッ、お爺やん俺が引き受けたッ」、「おい、お爺やんどこへ連れて行くねんオイ。あ、あ~ッ、行てしまいよったがな」、言てるとこへさして・・・。
 またぞろタタタタッ「箪笥は俺が・・・」、「待てこらッ、おのれなにか、うちに恨みでもあるんか」、「恨み? 何をぬかしてけつかんねん。お前とこ火事やないかい」、「火事ってどこが火事や?」、「俺が来たと思って火事隠しやがったな」、「火事もなにもあれへんがな」、「こらまた婆の細工やな」。
 「お前、うちのお爺やんどこへ連れて行ったんや?」、「表の俥屋へ頼んで川口のオジキとこへ預けにやってん」、「えらいまた、遠いとこへ。で、道具箱は?」、「明日からでも仕事ができるやろ思て、ヨシマに頼んで玉造のオバハンとこへ」、「わしお爺やん迎えに行くさかいな、お前済まんけど道具箱取ってきて」、「わしこれから仕事や。お前休んで取りに行き、さいなら」、「おいおい・・・」。大騒動ですな~。

 その明くる朝、お向かいの酒極道はポイッと仕事に行きよったんですが、困ってはんのは喧嘩極道のお母はん。もう今日は起こす口実がなくなった。「ま~今日一日は骨休めをささせてやれ」と、母親というのはありがたいもんですな~。わずかばかりのお米を雪平に入れまして、井戸端でかすっております。奥に住んでおります猿回しの与次兵衛さんが、「お婆ん、お早ようさんでおます」、「お早ようさんでございます。あんたま~、毎朝そうしてご精えの出る。たまにはゆっくり骨休めしててやったら・・・」、「一日ぐらいはゆっくり休みたいと思わんこともないねやが、この背中の太夫さん、天気えぇとな、手え引きますのじゃ」、「畜生でさえ、そうして銭儲けせにゃならんと思いますのに、うちの倅(せがれ)は何たるやつ」、「えぇ? 何かいな、源さんまだ寝てんのん? そらいかん、職人がいつまでも寝てることがあるもんかいな。わしが起こしたげよ」、「いえ、滅相もござりません。またあんたに何をしよるかも・・・」、「言とくで、あんたとこの息子はんがちょっとでもわしに無茶なことしてきたら、太夫がバリバリッと顔かきむしって血だらけにしよるかも分からんで~」、「起こしてさえいただきましたら、あんな顔の二つや三つ・・・」、「お婆ん見てみ。畜生ながらもわしの語韻聞き分けて『ガッテン、ガッテン』してよる」。

 「おい源さん、いつまで寝てんね。職人がそないしていつまでも寝てるっちゅうことがあるもんかいな。みんなもう起きて仕事に行てんねや、早よ起き、早よ起きっちゅうねん・・・。えぇ? 何? 目が痛い? 目が痛いのは夜更かしが過ぎるからや、目の痛い時には、夜は早よ寝て、朝小早よう起きて、青葉を見たら目の薬。 起きたり、起きたり。
 (太棹が入る。ここから浄瑠璃義太夫節になる)♪ねぇ、源さん ♪源さん ♪日天さんがお照らしじゃ ♪時間何時や知らぬか ♪八時三十分回ってる ♪隣りの俥屋も、関東煮(かんとだき)、コンニャク屋も、飴売り、豊年屋も ♪皆々銭を儲けに行ってるのに ♪ふんぞり返って寝えてるとわ ♪冥加が悪いで、大人しく早よ起きや ♪源さん (太棹の合いの手、ハイヨ)♪向こ行き姿が腕力な ♪腕力な、あ、これ ♪さありとわ、さありとわ  ♪ノホンホヨォ~ ♪あろ~かいな ♪喧嘩なんぞやみょ~かいな ♪品行の良いこと好んで ♪母(はは)じゃ人、安心さしや ♪あ、これ~。 これこれこれこれ、こなさんの起きようが遅いというて、母じゃ人が顔真っ赤にして気をもんでいさんすわいな。そのようにヒマ入れずに、早よ起きてやらんせ。これ~・・・ ♪これ~、これ、これこれこれ ♪行てやろ、行てやろ ノホンホヨォ~ ♪仕事場~へ ♪チョンナまた持とうかいな ♪金銭儲けるのが手柄じゃ ♪稼がんせ ♪職人の朝寝はコロリとやめ ♪コロリとやめ。 お~おお、起きたか。 ♪起きたら手水(ちょ~ず)を使わんせ (太棹の合いの手、ハイヨ)♪飯食て、仕事にゆかしゃんせ ♪あぁ~あ、良い息子じゃに ♪改心なされ。 良い息子じゃ、良い息子じゃ。すこぶる美男の、良い息子じゃ。 ♪ノホンホヨォ~ ♪あろうかいなぁ~ ♪さ~んなまた あろうかいなぁ~」、
 「キッキッ~!ワッハッハ、こらオモロイわ。毎朝こないして起こしてや」、そのまま喜んで仕事に行きよった。

 この様子を見ておりました向かいの酒極道のお母はん、「ちょっとお爺さん、見てみなされ、向かいの息子、あれアホと違うやろか。お猿に起こしてもろて「キッキ~ッ」やなんて、自分までお猿んなって行きよりました」、「これッ、人さんの息子はん、けなすんやないわい。お猿でえ~のじゃがな。うちの倅、毎晩、トラんなりよるがな」。

 



ことば

三代目林家染丸(はやしや そめまる);明治39(1906)年~昭和43(1968)年 享年63。 昭和7年、二代目染丸に弟子入りして染五郎(後に染語楼)となる。当時は上方落語の低迷期だったため若手が定席に出ることは難しく、消防署職員と落語家の二足のわらじを履きながら修行を続けた。昭和27年、師匠が没したのを機に落語家として芸に専心することを決意、翌年8月、寄席・戎橋松竹にて三代目染丸を襲名した。昭和32年の上方落語協会設立にあたっては初代会長に就任、後進育成にも尽力し、弟子には故・四代目小染、四代目染丸らがいる。満面笑みを浮かべた「えびす顔」で人気を得て、毎日放送「素人名人会」の審査員としても親しまれた。出囃子は、「たぬき」。得意ネタは「景清」「猿後家」「ちりとてちん」など。
 右写真、三代目林家染丸

■「堀川」は、人形浄瑠璃「近頃河原の達引 ~堀川猿廻しの段~」のパロディ。浄瑠璃。世話物。3巻。為川宗輔,奈河七五三助 (ながわ しめすけ) らの合作。天明2(1782) 年春,江戸外記座初演といわれる。元禄16(1703) 年に起きた,おしゅん庄兵衛 (劇中ではおしゅん伝兵衛) の心中事件に,元文3 (38) 年に四条河原で起きた公家侍と所司代家来のけんかと,親孝行な猿廻しが表彰を受けた話題をからませ脚色。猿廻し与次郎の家の悲劇を描く「堀河猿廻し」の段は,世話浄瑠璃の代表曲の一つとされ,今日でもしばしば上演される。
 幕末から明治に掛けて出た林家菊丸の息子二代目菊丸がこの「近頃河原の達引 ~堀川猿廻しの段~」をパロディにして新作落語を創った。これを染丸が演じ「猿回し」の別名もあるほどです。この噺の後半浄瑠璃の太三味線との語り部分は、言葉を言い換えて、浄瑠璃で語っています。歌舞伎では猿は舞台上から操り人形として演じています。

あらすじ
 井筒屋の子息・伝兵衛は祇園の遊女お俊(しゅん)と深い仲、身請けの話もまとまっていた。ところが、お俊に横恋慕する悪侍・横淵官左衛門(よこぶち・かんざえもん)は、悪仲間と共に伝兵衛から金三百両を奪い取り、両者は四条河原で達引、つまり喧嘩沙汰となる。そして伝兵衛は思わず官左衛門を斬り、お尋ね者になってしまった。 逃亡犯の伝兵衛と接触しないよう、お俊は祇園の店から堀川の実家に預けられている。そこにはお俊の母と猿廻しで生活を支える兄の与次郎が暮らし、与次郎は決して楽でない日々の中、母に孝養を尽くしていた。 ある晩のこと、伝兵衛がそっと訪ねてくる。兄の与次郎は驚いた。何しろ相手は人殺しの逃亡犯だ。やぶれかぶれになって妹のお俊を殺しに来たのかも知れない。「で、で、伝兵衛だ!」与次郎の震えは止まらない。しかし、どうにか心を落ち着かせ、伝兵衛が来たら渡す手筈になっていた退状(のきじょう)、妹に書かせた別れの手紙を伝兵衛に差し出す。ところが、それは別れの手紙でなく、母や兄に自害の覚悟を知らせる、お俊の書き置きだった。 お俊は伝兵衛が来たら一緒に死にたいと思っていた。しかし伝兵衛は、お俊を巻き添えにするつもりはなく、母や兄と暮らして欲しいと頼むと、お俊は「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん・・・」、あなたが苦しんで死のうとしている時に、それを見捨てる・・・。私がそんなに薄情な女と思っているのですかと訴え、そのお俊の真実の心を知った母と兄は、お俊と伝兵衛が一緒に出て行くことを許す。 このあと二人が心中することは分かっていた。それを知りながら見送る痛ましい別れ・・・。しかしそれを兄の与次郎は、めでたい猿回しで見送った。

 ○ この猿回しの段には悪人が一人も出てこない。みな善人だ。しかしそれが運命のいたずらで、思わぬ悲劇に巻き込まれてゆく。お俊の有名なクドキ、「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん・・・」。このあとに泣かせる文句がある。「人の落目を見捨てるを、廓(さと)の恥辱とするわいなあ・・・」。とかく色里という所は、金の切れ目が縁の切れ目と言われるように、誠の恋などある訳がないと考えがち。しかしここでは誠実な“恋の理論”が語られている。だからこそ、死ぬことは判っていながら、母と兄はお俊を送り出してやるのだった。

○ 痛快!猿廻しの三味線テク 段切りを飾るのはタイトルにもある与次郎の猿廻し。一見、華やかな場面だが目を転じると、うつむき加減の二人、お俊と伝兵衛が並んでいる。「二人はこのあと心中するのか・・・」と思うと、哀れでならない。 猿回しの演奏は、ツレ弾きが入って三味線が二人になる。ここは十分間ほどを、ほぼ三味線のみで聞かせる。太夫の語りが無い分、三味線の音を存分に楽しむことができ、そこでは義太夫節・太棹三味線の様々なテクニックが駆使される。

 浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)。世話物。三巻。作者不詳。1782年(天明2)春、江戸・外記座(げきざ)初演。元禄(げんろく)期(1688~1704)に京で起きたお俊伝兵衛(おしゅんでんべえ)の心中に、四条河原の刃傷(にんじょう)事件、親孝行の猿回しが表彰された話などを取り混ぜて脚色。85年5月、為川宗輔(そうすけ)・筒井半二・奈河七五三助(ながわしめすけ)の合作で歌舞伎(かぶき)化されたが、その後、人形浄瑠璃でも歌舞伎でも中の巻「堀川猿回しの段」だけが人気演目になり今日に至った。
 祇園(ぎおん)の遊女丹波(たんば)屋お俊は、恋仲の井筒屋伝兵衛が四条河原で恋敵(こいがたき)の侍を斬(き)って御尋ね者になったので、堀川のほとりの実家へ帰される。兄の猿回し与次郎は盲目の母親とともに妹を案じ、忍んできた伝兵衛に縁を切らせようとするが、恋人を思うお俊の実意を知り、猿回しの曲をはなむけに2人を落としてやる。登場人物全員の善意が細やかに描かれた名作で、通称「堀川」。真情こもったお俊の「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん云々」のクドキと、猿回しのくだりの巧みな節付けが有名。 

酒癖の悪さ;マクラでこんな事を言っています。
  大酒飲みは、わたくしの兄弟子で、亡くなりました林家小染という、あれが無茶呑みの最後でございましょ~な。とにかく呑んでましたなぁ。わたしもちょいちょい一緒に呑んでえらい目に遭うたことがございましたですけども。もぉ一人で行ったときなんか無茶しまんねん。知り合いのスナックなんかへ行きましてね、ちょっと呑み過ぎますとじっきに暴れましてね。すると警察の方へ電話しましてね「済んまへんけど、引き取りに来とくなはれ・・・」で、うめだ花月のすぐそばに曽根崎警察ちゅうのがおましてね、あそこがあの人の定宿(じょ~やど)になってました。花月の出番、そっから出勤したりしましてね・・・。
  あれ「トラ箱」ちゅうんですねぇ、酔ぉて暴れてる人やなんかみな中へ入れましてね、おとなしくさせるという。やっぱりあの中へ入れられますと、どない暴れてる人でも、心にやましいところがあるんですな~、みなシュ~ンとなるんですな~。   小染はんもね「うゎ~ッ」言てたんですけどね「ここへ入っとれ」ポ~ンと放り込まれたとたんにシュ~ンとなったんだ。ところが横手の方で中入ってもまだ「うぇ~ッ」て暴れてるやつがおる、誰かいな? ひょっと見たら横山やすしさんやったんですが、ま~、懐かしい話でございますけども。

 ★四代目林家小染(はやしや こそめ);1947年6月11日~1984年1月31日。37歳。本名・山田昇。大阪府出身。酔って店を飛び出し、車にひかれて死亡。
 「ワシ、きっと酒で死ぬやろナ」と言ったこともあるという。一方で「酒が入っていなければ、実に礼節をわきまえた芸人であった」と前田五郎は評している。 また、年がら年中同じ着物で風呂にも入らないという生活であった。風呂に入らないのをよく「風呂に入ると風邪を引く」と言って拒んでいた。酔った勢いで中央市場のトロ箱で一夜を過ごし、そこから楽屋入りすることも度々で「その時の臭さと言ったら…」と前田は評している。

 ★花月の出番(かげつのでばん);うめだ花月(うめだかげつ)は、大阪府大阪市北区曾根崎の扇町通に面する複合ビル「スイング梅田ビル」地階にあった演芸場。よしもとクリエイティブ・エージェンシー(2007年9月までは吉本興業)直営。2008年(平成20年)10月31日閉館。改築のため1990年一旦閉鎖され、1992年現在の劇場竣工。

 ★横山やすし(よこやま やすし);1944年3月18日~1996年1月21日。本名・木村雄二。横山きよしを相方にした吉本漫才の巨匠。両ボケ突っ込みのスタイルで一世を風靡。1989年飲酒運転で人身事故を起こし吉本解雇、その後も飲み過ぎで体調をくずし入退院を繰り返すも、1996年自宅にてアルコール性肝硬変で死亡。

九尺二間の棟割長屋(9しゃく2けんの むねわりながや);間口9尺(2.7m)、奥行き2間(3.6m)の長屋。間口1間半、奥行き2間ですから、6畳の部屋が取れますが、入り口の3尺は玄関の土間と台所で流し、へっつい(コンロ)がしつらえてありますので、実質4.5畳の部屋だけがあります。ここにはトイレ、押し入れは有りません。
 棟割長屋は、中心の棟のところで共通に前後に同じ長屋が繋がっています。入り口の格子を入れば3方壁になります。同じ長屋でも住環境最悪な長屋です。
 写真右、棟割り長屋の室内。江戸東京博物館所蔵。
 展示品なので、手前がカットモデルになっています。左側に出入り口、3尺幅は土間と台所になっていて実質四畳半です。夜具は枕屏風で目隠しされ、窓は無く三方壁で囲まれ、その向こうに隣人が住んでいます。

三道楽(さんどうらく);通常、「酒道楽」、「女道楽」、「ばくち道楽」の『飲む・打つ・買う』で、本人の品位を損ね、自堕落になったり、他人に迷惑をかけたり、家庭環境を破綻させたりするものを言う。
 良い方では、園芸道楽、釣り道楽、文芸道楽が挙げられる。園芸道楽は、初期はツバキとキクであったが、それにツツジ、アサガオ、ランが加わったという。大名たちなどは競い合うようにして庭園造りに熱中し、庭石や樹木が集められた。釣り道楽としては、ほんの軽いものであれば、中川に船を浮かべて、女衆とキスを釣ったり、(本格的には)泊まりがけで行くのが旦那衆の釣りだった。文芸道楽では、俳諧、和歌、紀行文等々各ジャンルがあるが、奥が深く、さまざまな文人を生みだした。

ド頭(どたま)胴体ん中へにゅ~ッとニエ込まして、へその穴から世間覗かすぞ;頭を胴体に埋め込んで、臍の穴から外を見さす、と言う喧嘩の時の常套句。江戸でも「どてっ腹に風穴あけてやろうか」という啖呵があります。そこから派生した「まごまごしやぁがると、どてっ腹け破って、トンネルこしらえて汽車ぁたたき込むぞ」(小言幸兵衛)も有ります。

頭と足と持ってクソ結びに結ぶ;むちゃくちゃな結び方。

店の間(みせのま);通りに面した一番目の部屋のことで、奥の住まいに対して「見せの間=店の間」と呼ばれています。

二十四孝の横蔵(24こうのよこぞう);中国の二十四孝があるように、日本でも浄瑠璃狂言「本朝二十四孝」が有り、その中の一場。武将同士が雪の竹林の中で喧嘩をする。「筍堀の場」と言い、落語「二十四孝」でも真冬に筍が食べたいと言い出す母親の為に雪の竹藪に行くシーンがあります。筍を掘る事を俗に横蔵と言い、暴れ者の事も横蔵と言い、暴れ者の武将の事も指していった。

三段目(桔梗(ききょう)ヶ原・勘助住家)で、慈悲蔵がわが子を捨てるところに「二十四孝」の郭巨(かっきょ)の話、母のため雪中から筍を掘ろうとするところに同じく孟宗(もうそう)の話を当て込んでいる。無法者の横蔵が実は軍師山本勘助という趣向が奇抜で、俗に「筍の場」ともよばれる。もっとも有名なのは、四段目「謙信館」で通称「十種香」、次の「奥庭」(通称「狐火」)とともに、八重垣姫の情熱的な恋を描いた名場面で、姫は歌舞伎で「三姫」の一つという大役になっている。

坐摩(ざま);坐摩神社、大阪市中央区久太郎町4-3。大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在である。南御堂の西隣に位置し、境内は東向きで、入口では大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい「三ツ鳥居」が迎える。 住居守護の神、旅行安全の神、安産の神として信仰されている。正式な読み方は「いかすりじんじゃ」だが、一般には「ざまじんじゃ」と読まれる。
 右、坐摩神社。

生節(なまぶし);なまりぶし。三枚におろして蒸した鰹(カツオ)の肉を半乾しにした食品。そのまま辛子を付けたり、醤油で煮付けた生節は旨い。

温飯(ぬくまま);炊きたての温かい飯。

『杖の下から回す児が可愛』;折檻(セツカン)しようにも、振り上げた杖の下に反抗しないですがる児は愛らしくて打つに忍びない。お母はんは、「わしのは、児で無く親じゃ」、とツッコミを入れています。

川口(かわぐち);1868年から1899年まで現在の大阪府大阪市西区川口1丁目北部・同2丁目北部に設けられていた川口外国人居留地の跡地があった地。1899年に居留地制度は廃止されたが、大正時代末まで周辺一帯は大阪の行政の中心であり大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェが出来、様々な工業製品や嗜好品がここから大阪市内に広まるなど、文明開化・近代化の象徴であった。
  しかし、いくら遠いと行っても埼玉県南部の川口市とは違います。

玉造(たまつくり);昔から交通の要所であり、大坂から東へ向かう古道(街道)のいくつかがここを経由し、奈良、八尾、信貴山方面へつながっていた。 現在、玉造と付く町名は中央区玉造、天王寺区玉造元町・玉造本町がある。玉造駅は、JR大阪環状線、Osaka Metro長堀鶴見緑地線の駅がある。これらに隣接する中央区森ノ宮中央の南部・法円坂の南東部・上町の東部、天王寺区真田山町の南東部は東成郡玉造町の旧町域を含んでおり、他に玉造駅周辺の天王寺区空堀町・清水谷町・餌差町、東成区中道・東小橋なども地域名称として玉造と呼ばれることがある。
 どちらにしても、人力車で運ばれたので、何処まで行ったやら。

道具箱(どうぐばこ);大工道具一式が入った道具入れ。
 右、大工さんが使った道具箱。この中に、ノコギリ、カンナ、チョンナ、ノミ、金槌、曲尺、墨壺等が入っていた。

雪平(ゆきひら);(在原行平が海女に潮を汲ませて塩を焼いた故事に因み、塩を焼く器から起った名) 厚手で薄褐色の陶製の鍋。把手(トツテ)・注口(ツギグチ)・蓋のあるもの。主に粥などを煮るのに用いる平鍋。ゆきひら。
 現在では、アルミ、ステン、銅、ガラスなどで出来た片手鍋も雪平鍋と言います。
    左、行平。雪平鍋。

猿回し(さるまわし);猿に種々の芸をさせ、見物客から金銭を貰い受けるもの。縁起物として多く正月に回った。さるつかい。さるひき。(猿は馬の病気を防ぐという俗信から、大名屋敷では厩で舞わせた)。
 写真右、猿回しに安心しきって抱かれる猿。この猿利口で、スマホを持って、画面をスライドさせて中身を見ています。

背中の太夫さん(せなかのたゆうさん);猿回しの猿。

太棹(ふとざお);細棹・中棹に比して、棹が太く胴も大きい三味線。また、その棹。義太夫節のほか津軽三味線などに用いる。義太夫節で太夫に合わせて伴奏される曲をこの太棹で演奏される。
 上手で三味線を弾くのが太棹です。

俥屋(くるまや);人力車を取り扱う店。1台の人力車を所持する車夫さんは、現代の個人タクシーと同じです。

関東煮(かんとだき);おでん。大阪でオデンと言えば豆腐田楽のことで、味噌を付けて食べます。東京でいう煮込みのオデンを関西では関東煮という。

ノホンホヨ~の節回し;『戯場訓蒙図彙(しばいきんもうずい)』式亭 三馬 (著) 勝川 春英 (編集)の「猿」の項に、猿回しの絵とともに次の一文が掲載されている。『日本の猿よりは形大きし。一種、御幣を担ぎて踊る猿はいたって上猿なり。有田唄「湯豆腐じゃに湯豆腐じゃに ノホンホ ヨホヨホ あろかいな、酒がまだあろかいな、ソリャついでにチロリを見てたもれ」。アァ意地の汚い文句だ、おおかた式亭三馬が常に言う台詞だろう』。

チョンナ;手斧(ちょうな・ておの)の訛。(テヲノがテウノと転じ、さらに訛ったもの) 大工道具の一。平鑿(ヒラノミ)を大きくしたような身に、直角に柄をつけた鍬形の斧。斧で削った後を平らにするのに用いる。ちょんな。
 右、チョンナ。広辞苑

手水(ちょ~ず);手や顔を洗うための水。「手水を使う」洗顔、歯磨きなどをすること。厠(カワヤ)。また、厠に行くこと。

母じゃ人が顔真っ赤にして気をもんでいさんすわいな;猿に「お初徳兵衛が祝言の寿」を舞わせるときの台詞に「あんまりこなさんが来ようが遅いによって、お初さんは顔真赤にして、腹立てていやんすわいなあ」が見られる。

トラんなりよる;俗に、酔っぱらい。「大トラ」。ひどく酔っぱらう。



                                                            2020年1月記

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