落語「蚊いくさ」の舞台を行く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「蚊いくさ」(かいくさ)より


 

 昔は町人でも剣術に凝った人が居たものです。武士なら仕方有りませんが、町内の八百屋の久六さんも凝っています。

 「今帰ったぜ」、「何処行ってたんだい。また、稽古に行ってたのかぃ。仕事をしないで稽古ばかり。お前は、八百屋のくせに少しは働いておくれ」、「お前は、八百屋が剣術を習ってしょうが無いという・・・」、「当たり前だろう。子供の頭をご覧、蚊に食われて八つ頭の様にデコボコに成っているんだよ。可哀想じゃないか。生活にゆとりが出来たら稽古やれば良いだろう」、「先生は『弟子は大勢有るが、筋が良いので免許皆伝は疑いない』だから頑張れと言われているんだ」、「おでん屋じゃ無いんだ、スジがいいとか、はんぺんがイイとか・・・。」、「食う物が無いんだ。楽になるまで先生の所に行って断っておいで」。
 「ガァガァ言われるが、ここんとこ働いてないな~。蚊帳を質に入れて出すことが出来ない。先生のとこ行って断ってくるか」。

 「え~、ごめん下さいましぃ」、「久六殿ではないか。忘れ物か?」、「先生に折り入ってお願いが・・・」、「けしからん。稽古を休むなんて。休むと腕が落ちる。見所があるから稽古しなさい」、「蚊という怪物が出るんです」、「蚊になんぞ、恐れることはない」、「蚊が出て坊主の頭を八つ頭のようにしてしまい、蚊帳は質から出せないんです」。
 「蚊が出ても大丈夫な法を教える」、「どんな・・・」、「今宵、蚊と一戦を交えなさい。戦をするのであるから、家は城、城持ち大名だ。かみさんは北の方、御台所という。ご子息は公達(きんだち)で若君だッ。 家に帰ったら、家の表が大手、裏口が搦手(からめて)、引き窓が櫓(やぐら)、ドブが堀と見なす」、「はぁ、大変なことになりましたね」、「軍扇を広げ蚊をおびき寄せる。敵は空き城だと油断して一斉に攻めてくる。 そこを十分に引きつけて、大手搦手櫓を閉め、そこでノロシを上げる」、「ノロシって何ですか」、「蚊燻しである。敵が右往左往するところで四方を明け放てば、敵軍は雪崩を打って退却する。 あとをしっかり閉めて『けむくとも 末は寝やすき 蚊遣りかな』 で、ぐっすり安眠というわけだ」、「上手いことを考えましたね」、「一匹や二匹の落ち武者が出るであろう。大将に向かってくるであろうが、ピシャリと撃ち殺しなさい。一匹も居なくなる」、「これは有り難い」。

 「北の方ッ」、「誰が来たんだぃ」、「お前が北の方だ」、「南の方だって北の方だって、どっちでもいいや」、「公達を抱えて臥所(ふしど)に下がれ」、「ここは、一間しか無いじゃないか」、「・・・、台所に下がれッ。今宵は一戦を交えるから大手、搦手、櫓を開けろ」、「表口、裏口、引き窓なら開いているよ」、「やぁやぁ、敵の面々良く聞けや、当城では今宵は蚊帳を吊らないぞや、来たれや来たれ」、「大きな声で、近所にみっともないじゃないか。蚊帳が無いのが分かちゃう」、「お~お~、来たな~、敵が顔に当たるよ。もうイイだろう」、「北の方、大手、搦手、櫓を閉めろッ。早く。ノロシを持て」、「ノロシって何だいッ」、「蚊遣りだ。こうやって炊くと敵も・・・、ゴホンゴホン敵の面々も・・・」、「冗談じゃない、こっちの方が苦しいよ。泣くんじゃないよ、おとっつあん気が違ったんだよ」、「何するんだよ。家中蒸しちゃって」、「ゴホゴホ、大手、搦手、櫓を開けろッ。早く開けろ。風に乗って逃げて行くよ。敵に背を向けるのは卑怯なり、引き返せ」、「逃げる蚊を呼び戻す奴がいるかッ」、「大手、搦手、櫓を閉めろッ」、「閉めたよ」、「しっかり閉めたら、『眠くとも 末は寝やすき 蚊遣りかな』 だ」、「『けむくとも 末は寝やすき 蚊遣りかな』 だよ。早くお寝よ」、「大将は夜討ちの番で寝られないのだ」、「『ブ~~ン』来たな。何処に止まった」、「お前の額に」、「静かに・・・、(パン)落ち武者の分際で、大将に向かうとは・・・。北の方、死骸を片付けよ」、「蚊の死骸なんて・・・」、「『ブ~~ン』また来やがったよ。縞の股引をはいた雑兵だッ。北の方、死骸を・・・。『ブ~~ン』また来たよ。(パン)。こっちにも来たよ。『ブ~~ン』(パン)、『ブ~~ン』(パン)、『ブ~~ン』(パン)。これはイ蚊ン。北の方、適わん。城を明け渡そう」。

 



ことば

維新前後、不安定な世情の頃に作られた噺で、侍の権威も地に落ち、町人も自衛のために剣術の稽古をする者が多かったようです。落語「蔵前駕籠」にも維新前後の世相を反映した噺があります。また、上野戦争を舞台にした「お富の貞操」や「権十郎の芝居」も有ります。

町人めらもヤットウ、ヤットウ 物騒な世情の中、百姓町人が自衛のため、武道を習うことが流行した幕末の作といわれます。 剣術は、町人の間では、気合声(ヤッ、トー)を模して「ヤットウ」と呼ばれました。 すでにサムライの権威は地に堕ち、治安も乱れるばかりで、刀もまともに扱えない腰抜け武士が増えていました。 町人が武士を見限って自衛に走った時点で、封建的身分制度はくずれ、幕府の命運も尽きていたといえます。徳川幕府の命運をかけて、十五代将軍徳川慶喜が京都二条城を訪ねたとき、連れて行った武士達が今日の話をどうするかという話題より、江戸への土産は何にするかと言うことが関心時だったように、武士は堕落していた。たわいない蚊退治の笑い話の裏にも、時代の流れは見えていました。 後半の久さんの蚊への名乗り上げは、明らかに軍記物の講釈(講談)を踏まえています。

(か);ハエ目(双翅目)糸角亜目蚊科(学名: Culicidae)に属する昆虫である。ナガハシ蚊属、イエ蚊属、ヤブ蚊属、ハマダラ蚊属など35属、約2,500種が存在する。ヒトなどから吸血し、種によっては各種の病気を媒介する衛生害虫である。 蚊の最も古い化石は、1億7,000万年前の中生代ジュラ紀の地層から発見されている。
 吸血に際しては下唇以外の部分が、小顎先端の鋸歯で切り開かれた傷に侵入していき、毛細血管を探り当てる。メスは卵を発達させるために必要な、タンパク質を得るために吸血する。吸血の対象はヒトを含む哺乳類や鳥類だが、爬虫類や両生類、魚類から吸血する種類もある。オスはメスと違い、血を吸うことはない。またオオ蚊亜科の場合、メスであっても吸血を行わない。 吸血の際は皮膚を突き刺し、吸血を容易にする様々なタンパク質などの生理活性物質を含む唾液を注入した後に吸血に入る。この唾液により血小板の凝固反応は妨げられる。この抗凝固作用がないと血液は体内で固まり、蚊自身が死んでしまう。吸血を行う事で体内の卵巣の成熟が開始される。 多くの蚊は気温が15度以上になると吸血を始めると言われており、26度から31度くらいでもっとも盛んに吸血活動を行う。通常の活動期間内であっても気温が15度以下に下がったり、35度を越えるようなことがあると、野外では物陰や落ち葉の下などでじっとして活動しなくなる。
 メスが血を吸うのは産卵のために栄養をとる必要があるという理由で、産卵のとき以外はメスの蚊もオスと同じように樹液や花の蜜を吸って生きています。
 戸外で蚊柱が立つことがありますが、これはオス達の集まりで、近づくと「ブ~~ン」と言う羽音は聞こえますが、刺したりはしません。血をたらふく吸ったメスは、この蚊柱に突っ込んで交尾します。オスにとっては確率が悪いですね。また、メスに続いて屋内に入り込むオスも居て、血を吸ったメスと交尾します。
 蚊の唾液は人体にアレルギー反応を引き起こし、その結果として血管拡張などにより痒みを生ずる。唾液は本来、吸引した血とともに蚊の体内に戻される。血液を吸引し終われば、刺された箇所の痒みは、唾液が戻されなかった場合よりは軽度になるとよく言われているものの、実際には、吸っている間に唾液も血と一緒に流れていくので必ずしも軽度になるとは言い切れない。中和剤は存在せず、抗ヒスタミン薬やリド蚊インを含む軟膏の塗布により抑えることになる。

  

 蚊は人類にとって最も有害な害虫である。メスが人体の血液を吸い取って痒みを生じさせる以外に、伝染病の有力な媒介者ともなる。蚊によって媒介される病気による死者は1年間に75万人にもおよび、「地球上でもっとも人類を殺害する生物」となっている。マラリアなどの原生動物病原体、フィラリアなどの線虫病原体、黄熱病、デング熱、脳炎、ウエストナイル熱、チクングニア熱、リフトバレー熱などのウイルス病原体を媒介する。日本を含む東南アジアでは、主にコガタイエ蚊が日本脳炎を媒介する。地球温暖化の影響で範囲が広くなっている問題もある。蚊による病気の中で最も罹患者及び死者の多い病気はマラリアであり、2015年には2億1400万人が罹患して43万8000人が死亡した。こうした蚊による伝染病は蚊の多く生息する熱帯地方に発生するものが多く、マラリアをはじめ黄熱病やデング熱などはほぼ熱帯特有の病気となっている。また、蚊が媒介する伝染病は特定の種類の蚊によって媒介されることが多く、マラリアはハマダラ蚊、黄熱病やデング熱はネッタイシマ蚊やヒトスジシマ蚊、ウエストナイル熱はイエ蚊、ヤブ蚊、ハマダラ蚊によって媒介される。
 ウイキペディアより

 注:「World’s Deadliest Animals(人間を死に至らしめる世界で最も危ない生物)」が発表しています。これは、ある生物が年間に何人の人間を死亡させたかをまとめたランキングで、例えばサメは年間10人、ライオンは年間100人と意外にも(?)少ない数字になっています。 3位はヘビで年間5万人が犠牲になっており、2位はなんと人間でした(年間47万5000人が人間によって殺されています。戦争や内乱、交通事故、殺人等)。そして1位は、蚊。年間72万5000人が亡くなっており、そのうち約60万人はマラリアが原因で死に至っています。

蚊いぶし; 蚊遣りのことで、原料は榧(かや)の木の鉋屑です。 下町の低湿地帯の裏長屋に住む人々にとって、蚊とのバトルはまさに食うか食われるか、命がけでした。 五代目古今亭志ん生の自伝「なめくじ艦隊」に、長屋で蚊の「大軍」に襲われ、息を吸うと口の中まで黒い雲の塊が攻め寄せてきたことが語られています。昭和初期のことです。 ついでに、ジョチュウギクを用いた渦巻き型の蚊取り線香は、もう次第に姿を消しつつありますが、大正中期に製品化されたものです。
 現代的な駆除は、家庭内では主に夜間に蚊取線香や蚊取りリキッド、ハエやゴキブリなども対象のスプレータイプの殺虫剤などを使用して駆除を行う。日本において蚊などに用いる殺虫剤は医薬品医療機器等法に則り、厚生労働省が承認した、医薬部外品として取り扱われる。

蚊遣り、『けむくとも 末は寝やすき 蚊遣りかな』
 かつて日本においては、ヨモギの葉、カヤの木、スギやマツの青葉などを火にくべて、燻した煙で蚊を追い払う蚊遣り火という風習が広く行われていた。また、こうした蚊を火によって追い払う道具は蚊遣り具、または蚊火とよばれ、全国的に使用されており、大正時代まではこれらの風習が残っていた。現代において蚊の駆除器具として一般的に使用されているものとしては、蚊取り線香がある。ただしその歴史自体は非常に新しいものであり、和歌山県出身の上山英一郎が線香に除虫菊の粉末を練りこんだものを1890年に開発したのがその始まりである。蚊取線香の防虫能力は高く、大正時代末には蚊遣り火や蚊遣り具にとってかわった。ただし蚊取線香も火を用いることには変わりなく、安全性を高め灰の処理を容易にするために蚊遣器と呼ばれる陶製の容器に入れて使用することも多かった。やがて1963年には防虫成分を電気によって揮発させ防虫効果を得る電気蚊取が開発され、煙や灰が出ないことなどから1970年代には普及し、従来の蚊取線香にとってかわった。また、同時期にはスプレー型の殺虫剤や防虫剤も開発され、これも蚊の対策として広く使用されるようになった。
 右写真:蚊遣り。深川江戸資料館蔵

蚊帳(かや);蚊の侵入を防ぎながら空気の通りを妨げない物として、窓に網戸、屋内で蚊帳がある。いずれも目が1mm程度の細かな網を蚊の侵入方向に張り巡らせて侵入を防ぐものであり、人間の寝所等の周りに吊るして防御するものが蚊帳、それを推し進めて窓に網を張り家全体への家の侵入を防ぐものが網戸である。
 日本には中国から伝来した。当初は貴族などが用いていたが、江戸時代には庶民にも普及した。
 「蚊帳ぁ~、萌黄の蚊帳ぁ~」という独特の掛け声で売り歩く行商人は江戸に初夏を知らせる風物詩となっていた。現在でも蚊帳は全世界で普遍的に使用され、野外や熱帯地方で活動する場合には重要な備品であり、大半の野外用のテントにはモスキート・ネットが付属している。また軍需品として米軍はじめ各国軍に採用されており、旧日本軍も軍用蚊帳を装備していた。 現在、蚊帳は蚊が媒介するマラリア、デング熱、黄熱病、および各種の脳炎に対する安価で効果的な防護策として、また副作用が無いので注目されている。

 八百屋の久六さん家では、質屋に蚊帳を入れてしまい、金がなくて出すことが出来ない。江戸の街で暮らすには必需品であって質から出せないなんて父親失格です。

落語の「蚊」対策; 二階の窓に焼酎を吹きかけ、蚊が二階に集まったらはしごを外すという、マクラで使う小噺があります。 これなぞは、頭の血を残らず蚊に吸い取られたとしか思えませんが、まあ、二階建ての長屋に住めるくらいだから富裕で栄養たっぷりなのでしょうから、蚊の餌食になるのも当然でしょう。 そのほか、「二十四孝」では、親不孝の熊五郎に大家が、呉猛という男が母親が蚊に食われないよう、自分の体に酒を塗り、裸になって寝たという教訓話をします。ですが、体に塗るのは勿体ないと全部飲んで寝てしまったが、翌朝蚊に食われていないので、その徳を母親に言うと「一晩中私が煽いでいたから・・・」。 男の逃げ口上で、バクチをすると蚊に食われないという俗信も、昔はあったといいます。

八百屋(やおや);噺を聞いていると店を構えた八百屋では無く、棒手振りの行商の八百屋さんだったのでしょう。4~5日ぐらいの休みだったら雨降りもあれば、風邪を引いて休むこともあるでしょうが、2~3週間も休んではおかみさんも怒ります。剣道の稽古どころではありません。

  行商の八百屋(ぎょうしょうの やおや);天秤棒を担ぎ両端に荷をさげた。棒手振り(ぼてふり)と呼ばれた。最も簡単に始められた商売が「棒手振り(ぼてふり)」だった。これで小金を貯め、屋台、小屋掛けの簡易食物・茶店なども夢ではない。そうすれば雨が降っても商売はやりやすい。
  青物、つまり八百屋の棒手振りの場合、一文を現代の25円として換算すると、仕入れ額は、一日六百文(1万5千円)ほど、声をからして、一日中、野菜を売り歩き、売り上げ1貫3百文位(3万2500円)といったところだろう。
  ① 明日の仕入れ代金を6百文 ②家賃は竹筒の貯金箱へ七十文(1750円) ③女房へ米代二百文(5000円)と ④味噌醤油50文(1250円)を渡すと、子供が菓子代をほしがり、12文(300円)を渡す。売れ残り野菜を自分の家で食べる分として100文、手元には300文(7500円)が残る。飲みに行きたいところだが、明日、雨が降ったら商売は出来ない。たちまち困ることになるから、悩ましい事態となる。
  仕入れ代金を借りる場合は、100文につき一日2文から3文の高利だった。600文借りると、一日に18文が利子で消え、その他も掛かるから、子供の菓子代は出ない。 
 落語「猫久」より転載。

 
上図、江戸の八百屋売り。江戸商売図絵 三谷一馬画。 右、「棒手振り」八百屋、明治の写真。

八つ頭(やつがしら);八頭は他のサトイモほどぬめりがなく、比較的調理しやすいサトイモです。加熱するとホクホクとした食感が楽しめます。 縁起を担いで、おせち料理の煮しめが一般的。
 サトイモ (里芋) の栽培品種の一つ。種芋からほとんど同大の親芋を生じ、両者合せて7~9個が癒合して直径10cmほどの塊となる。その形状から、八頭とか九面芋と呼ばれるようになった。子芋の着生は少く、肥大しない。
 美味しい八つ頭はいいのですが、あの蚊に食われた八つ頭の様な頭は可哀想で成りません。

 

 こんな八つ頭の様な頭になったら、かゆいのを通り越して痛いでしょうね。

北の方(きたのかた);《寝殿造りで、多く北の対 (たい) に住んだところから》公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。北の御方 (おんかた) 。北の台。
 時代が下って戦国時代の終わる頃には、百姓あがりの豊臣秀吉が天下を取り、摂関家出身者以外ではじめて関白になるという歴史的な出来事が起こる。その正室・おね(のちの高台院)には、秀吉の関白補任に伴い従三位が授けられているが、彼女はこの直後から北政所(きたのまんどころ)と呼ばれるようになっていることから、叙位と同時に「北政所」の称号を贈る宣旨も出たものと考えられる。本来は「その任を譲った前関白」を意味する普通名詞だった「太閤」が、秀吉以後は専ら秀吉のことを指す固有名詞のようになったのと同じように、それまでは「摂政関白の正室」の称号だった「北政所」も、このおね以後は専ら彼女のことを指す固有名詞として定着し今日に至っている。 なお正室に贈られる「北政所」に対して、摂政関白の生母に贈られる称号を「大北政所」、略して「大政所」(おおまんどころ)といった。これも秀吉の生母・なかに贈られてからは、専ら彼女を指す語になっている。
 長屋の一間しか無い住まいに、おかみさんの住まう別室はありませんし、恐れ多くも北の方なんて。

御台所(みだいどころ);大臣・将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称。奥方様の意。
 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の妻である北条政子が「御台所」と称され、以降歴代の将軍正室の呼称となる。のちの室町幕府・江戸幕府の将軍夫人も御台所と称された。江戸時代においては主に江戸幕府将軍の正室の呼称として用いられていた。
 江戸城中では御台所の住まう場所は、大奥「御殿向」の北西にある「松御殿」ないし「新御殿」だった。居間に当たるのは「御上段」・「御下段」・「御休息」で、「御切形の間」が寝所に当たる。日常生活において、御台所が手を動かすことと言えば食事の時くらいで、その他の厠、爪切り、お召し替えなどでは全て女中たちが代わりに手を動かしてくれた。1回の食事のためにいつも10人前が用意され、そのうち2人前はお毒見役のための毒見用である。毒見を通過した御膳のうち、御台所が実際に食べるのはわずかに2人前(どの料理にも2箸しか手をつけず、もう1人前がおかわりの分だった)であり、残りの6人前は食事当番の女中が食べた。お召し替えは1日に5回。入浴、朝食前の「お朝召し」、総触れ(毎朝行なわれる将軍への謁見)前の「総触れ召し」、「お昼召し」、「お夕方召し」、「お寝召し」とがあった。

公達(きんだち);本来は諸王のことを指したが、後代には臣籍にある諸王の子弟や、摂家・清華家などの子弟・子女に対する呼称として用いられた。公達家は清華家の異称。 平安時代中期以降、藤原北家忠平流や宇多天皇以降の賜姓源氏(宇多源氏・醍醐源氏・村上源氏など)などの近衛次将を経て公卿に昇進し得る上流貴族の家系出身者を「公達」と呼ぶようになり、これらの家は「公達」の家格とされた (当時の貴族社会では、「公達」・「諸大夫」・「侍」の家格に分類されていた)。

大手(おおて);大手門。日本の城郭における内部二の丸または、三の丸などの曲輪へ通じる大手虎口に設けられた城門。正門にあたる。
 江戸城大手門は、渡櫓型の櫓門と高麗門からなる枡形門。関東大震災に倒壊後修復されたが、1945年(昭和20年)に東京空襲によって焼失。1963年(昭和38年)に木造復元により再建された。

 上写真、皇居大手門。門の上に櫓が乗っています。

搦手(からめて);大手門に対して背面の門。有事の際には、領主などはここから城外や外郭へ逃げられるようになっていた。 建物自体は、小型で狭く目立たない仕様であることも少なくなく、櫓門、埋門ではなく小型の冠木門を建てるのみということもあったというが、きわめて厳重で大手門などの大きな虎口に比べて少人数で警備できるように設計してあった。橋は、木橋であることが多い。

引き窓が櫓(やぐら);櫓門は門の上に櫓を設けた、特に城に構えられる門の総称。二階門とも。 長屋の台所になる部分の屋根に、明かり取りと煙出しのために引き窓が設置されています。それを櫓に見立てて言っています。

落ち武者(おちむしゃ);戦乱の負け戦において敗者として生き延び、逃亡する武士。落人(おちうど、おちゅうど)とも。
 戦国時代における落武者は、法の外の者と視て成敗権を行使する落ち武者襲撃慣行で、殺したり所持品を略奪する農民による落ち武者狩りの対象とされた。 戦場からの離脱中以外にも、主家が敗亡し勢力が衰微して亡命状態になった武家の一党やその臣下も落人と呼ぶ。こうした落人の有名なものに平家の落人があり、落ち延びた先の山間部などに集落を作った例もある。
 敵国では賞金首扱いになり、兵士や農民から襲撃されることも数多い。明智光秀も落ち武者狩りによって暗殺された。

 農民の竹槍に討ち取られる明智光秀。

臥所(ふしど);夜寝る所。寝所。寝床。ねや。ふしどころ。

夜討ちの番(ようちのばん);夜中に戦を仕掛けること。その番をすること。

縞の股引をはいた雑兵(しまのももひきをはいた ぞうひょう);縞柄の股引をはいた、下級戦士。蚊のことを大げさに表現しています。
 右写真、縞々の股引を履いた蚊。雑兵にしては痛そう。

城を明け渡そう;蚊の落ち武者が多くて、寝ても居られないので、城を捨てて敵に明け渡そうと言います。落城です。

 


                                                            2020年2月記

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