落語「無筆の女房」の舞台を行く
   

 

 四代目三遊亭金馬の噺、「無筆の女房」(むひつのにょうぼう)


 

 無筆の人が多い時代、「無筆にも読める煙草屋蝋燭屋」と言う川柳があった。煙草屋さんは柿色の暖簾を下げてた、蝋燭屋さんは蝋燭の絵の中に『あり』と書いてあって、『蝋燭有ります』と読ませた。

 商売のアイデアです。落語家さんもしかり、幇間も同じという以上に気骨の折れる仕事で、気の休まるのは自宅以外にありません。白露という幇間がいて、京橋に大きな店を持っていたが遊びすぎて潰し、幇間になってしまった。元々大旦那だけあって、頭も切れますし読み書きは当然出来、世情にも明るかった。『太鼓持ちあげての末の太鼓持ち』を地でいった人でした。
 白露さん、家に帰ってくるとおかみさんが口も利かない。なだめすかして聞くと「今日まで何処に行っていたの七日も八日も」、蔵前の伊勢広の旦那と成田や銚子、潮来まで足を延ばして歩いていたと説明したが、「伊勢広の旦那が昨日来て『たまには来な』と言っていたわ。伊勢広の旦那はそんなに何人もいるんですか」、「細かく言っていたら話が難しくなるから伊勢広の旦那と言っただけだよ」、「品川にイイ女がいるんでしょ。田町の晋平さんが言ってましたよ」、「アイツは人の家に火を着けて楽しむやつだ」、「その女をここに連れて来るなら、私が出て行きます。離縁状を書いてください。離縁状~」、「書いたって、お前さん字が読めないだろう。でも書くからお仲人さんの所に持って行きなさい」、書けば書いたで「ま、ホントに書いたね。クヤシ~イ」。

 仲人に、離縁状をもらったと、泣き込んだ。「離縁状は三行半と決まっているが、やけに長いな。『蝉が鳴く鳴く大経寺の庭で、蝉じゃござんせんおとせでござる、紺の前だれ松葉を染めて松葉こんとは気に掛かる、ねんねんころりよおころりよ』なんだいこれは。ザレ唄じゃないか。マテよ、ナゾ言葉になっている。蝉がうるさく騒ぐのでねんねんよ、と静かになって欲しいと言う意味か」。仲人に言われた。ヤキモチも大概にしなさい、田町の晋平は芸が出来るが品性が無く、人の家の不幸を喜んでいる奴で、白露さんとは大違い。芸人はくっつき合だが、わざわざお仲人をお願いしますと頼みに来たぐらいの男だ。その男が仲人の話も聞かずに離縁状を出すなんて考えられない。「お前さんは好きで一緒になったんだろう。そうだろう。そうだよ。一人で帰りずらかったら、私が送って行くよ」。
 白露はこれで収まったが、おかみさんは収まらなかった。字が読めないばかりに、恥をかいてしまったと悔やんだ。三十路を過ぎて今更、寺子屋にも行けず、町の子供達を捕まえては、「い」の字を教えてもらい、「ろ」の字を教えてもらい、いろはを勉強した。亭主の留守には、一生懸命おさらいをした。

 一年経って、白露は10日間の予定で箱根に出掛けた。しかし、延び延びになって一月にもなった。去年一週間ぐらいであの騒ぎ、一月も空けたらどうなるかと、こわごわ玄関に立った。他人行儀に小さな声で「こんにちは、ごめんください」、「どちらですか。お前さんじゃないですか。お帰りなさい、どうぞ入ってくださいよ。お疲れ様でした」と丁重な挨拶が返ってきた。そのうえ、お疲れでしょうからお湯に行きますか、とまで言われた。白露の仕事が理解できて、一回り成長していた。
 くすぐったい白露、「何か家ん中で変わったことが有るのじゃないか」、「実はあるんです。貴方が外で働いているのに、私は遊んでいてはいけないと思って、小遣い帳を付けていたのです」、字が書けると聞いてびっくりするやら感心するやらで、見せてもらった。「『こつかいちゅう』。良いね、拝見するよ。『みつこち?』これなんだい。そうか、日付を仮名で書いたか。三月五日、分かるよ。『ゆせんななもん』湯銭七文そうかそうか。『にちゅうろくにち』、二十六日だな。『たいこじゅうもん』安い太鼓だね。え、大根か。『あふらけ』、油揚げだな。にごりを打ってないのか、清らかで良い。『ありじゅうにもん』、ありって何だ」、「太鼓でならしたお前さんだろう。そのぐらい分かるだろう」、「恐れ入ったね。お前さんも学者になったね。教えておくれよ」、
「それは蝋燭という字だよ」。

 



 この噺「無筆の女房」は二代目小さんの速記本から復活させたもの。小さん(金語楼)の晩年、明治28年に演じた物を速記本に残した。鼻の円遊と並んで、真打は続き物の人情話を演ずるのが当たり前であったが、この二人は落とし話でトリを演じていた。幕末から明治に入ると、各大名は国に帰ってしまい、江戸の人口が100万から40万に減ってしまった。明治10年頃になると100万に人口に戻ったが、増えた人達は地方から来た人達で、江戸の粋や、歴史が分からず、人情話は通じなく落とし話で笑わせるようになった。その様な時代の噺です。


ことば

無筆(むひつ);字の書けない人。江戸時代、教養の高さや識字率の高さはヨーロッパの最先端パリやロンドンを数倍引き離して5割以上の力を持っていた。江戸の終わり頃には男子7~80%、女子で20%、武家では100%の高さを誇っていた。女子の低いのは、稽古事の踊・唄・楽器・作法や裁縫、家事万端にも時間を割いています。子供は5~8歳になると寺子屋に入った。12~3歳までの生徒に読み・書き・そろばんを特に教えた。
落語「鼻欲しい」に詳しい。

幇間(ほうかん);太鼓持ち。男芸者。客の宴席で、座を取り持つなどして遊興を助ける男。落語「王子の幇間」に詳しい。「紺屋高尾」、「搗屋無間」、「松葉屋瀬川」、「鰻の幇間」等にも出てきます。

・白露:西山宗因の句に「白露(しろつゆ)や無分別なおきどころ」から『無分別なおきどころ』が気に入ったと、白露(しろつゆ)を『はくろ』と読ませて芸名にした。
 西山宗因(にしやまそういん、1605~1682)江戸前期の連歌師・俳人。談林派の祖。肥後の人。名は豊一(とよかず)。別号、西翁・梅翁など。里村昌琢に連歌を学び、主家加藤侯没落後、大坂天満宮の連歌所宗匠となった。俳諧では自由軽妙な談林俳諧を興し、門下に井原西鶴、松尾芭蕉などを輩出。編著「宗因連歌千句」など。

離縁状(りえんじょう);離婚するときに出される書状。三行半(みくだりはん)とも。夫から妻に出す離縁状の俗称で、江戸時代、簡略に離婚事由と再婚許可文言とを三行半で書いたからいう書状。落語「天災」に詳しい。

お仲人(おなこうど);男女の間で結婚の仲立ちをする人を指す。江戸時代では、相手探し・見合いの段取り・結婚までを世話し、依頼した人の持参金の一割を礼金として受け取っていた。逆に、離縁するときはお仲人が話を聞いて離縁状を書いた。この噺でも、お仲人が「私に話をしないで、離縁状を書くなんて・・・」と言っています。
 仲人の影響力は強いものであったが、人間関係や時代背景の変化とともに仲人を設定する結婚式は減少傾向にあり、さらに平成不況による職場環境の激変(終身雇用体制の崩壊)を背景に1990年代後半を境として激減し、仲人を立てる結婚式は首都圏では1%だけとなり、最も多い九州地方でも10.8%に過ぎなくなった(ゼクシィ調査 2004年9月13日発表)。

成田や銚子、潮来(なりた・ちょうし・いたこ);旦那のお供で廻った所。千葉北部の名勝地です。噺の中には鋸山も出てきますが、江戸の後期に徒歩で観光地を回るには南房総の鋸山まで足は伸ばせないでしょう。
成田=千葉県成田市。房総半島北側に有り、現在は成田空港や成田山新勝寺があるので有名。落語「寝床」、「成田小僧
に詳しい。
銚子=千葉の房総半島北東にある岬で、本州で一番最初に初日の出が見られることで有名。また、犬吠埼の灯台も有って、観光地化されている。銚子市は漁港と醤油の町で栄えています。落語「花筏」に詳しい。
潮来=東関東自動車道の終点で県境利根川を渡った所で、茨城県潮来市になります。水郷のほとりにあるアヤメ園は特に有名です。5月の花の時期には大勢の観光客で賑わいます。

箱根(はこね);(はこね、古くは「函根」とも)は、静岡県に近い神奈川県南西部の一角、箱根カルデラ近辺の一帯を指す地名。 地図の上では、行政区画としての箱根町におおむね重なる概念である。 古来東海道の要衝であり、「天下の険」と謳われた難所箱根峠のふもとには宿場や関所が置かれた。近代以降は保養地・観光地として発展。各所に湧く温泉や、芦ノ湖、大涌谷、仙石原などがとりわけ有名である。1936年に「富士箱根国立公園」(現・富士箱根伊豆国立公園)に指定されている。

 仁孝天皇の第8皇女和宮(14代将軍家茂の正室)は晩年脚気療養の為、箱根に湯治に出掛けたが、明治10年(1877)9月2日、療養先の箱根塔ノ沢環翠楼にて死去、享年32。であった。

京橋(きょうばし);日本橋から東海道を上ると最初の橋が京橋です。京都に向かう最初の橋ですから京橋。現在の中央区京橋三丁目と中央区銀座一丁目を渡る所に有ったが、現在は埋め立てられて上部に首都高速道路が走っています。ですから、京橋を渡るのでは無く、京橋をくぐることになります。

田町(たまち);吉原の隣にあった町。吉原の回りは低く水はけが悪かった。田畑が広がっていたが、埋め立てられて、町が出来たが、安易に田町の名がついてしまった。都内には他にも田町はありますが、落語の世界で田町と言えばここになります。幇間の晋平さんが住んでいた。

絵看板(えかんばん);文字が分からない客でも分かるように、絵の看板だったり、シャレで業態が分かるような看板を出していた。湯屋だと『ゆに入る』で弓矢を看板代わりに出した。

かまわぬと表示して「武道場」  「絵の具屋」          「下駄屋」          「質屋」入ると金に成
見学自由、他流試合NG

        

「海苔屋」丸にのの字      「桶屋」大風が吹くと必要    「酢屋」容器を模した  「蝋燭屋」張り紙に『あり』

 蝋燭屋の看板には蝋燭の形をした看板に、「あり」として蝋燭有りますと表示していた。おかみさんは蝋燭がありだと思っていた。


                                                            2015年4月記

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