落語「無筆の女房」の舞台を行く 四代目三遊亭金馬の噺、「無筆の女房」(むひつのにょうぼう)
■無筆(むひつ);字の書けない人。江戸時代、教養の高さや識字率の高さはヨーロッパの最先端パリやロンドンを数倍引き離して5割以上の力を持っていた。江戸の終わり頃には男子7~80%、女子で20%、武家では100%の高さを誇っていた。女子の低いのは、稽古事の踊・唄・楽器・作法や裁縫、家事万端にも時間を割いています。子供は5~8歳になると寺子屋に入った。12~3歳までの生徒に読み・書き・そろばんを特に教えた。
■幇間(ほうかん);太鼓持ち。男芸者。客の宴席で、座を取り持つなどして遊興を助ける男。落語「王子の幇間」に詳しい。「紺屋高尾」、「搗屋無間」、「松葉屋瀬川」、「鰻の幇間」等にも出てきます。
・白露:西山宗因の句に「白露(しろつゆ)や無分別なおきどころ」から『無分別なおきどころ』が気に入ったと、白露(しろつゆ)を『はくろ』と読ませて芸名にした。
■離縁状(りえんじょう);離婚するときに出される書状。三行半(みくだりはん)とも。夫から妻に出す離縁状の俗称で、江戸時代、簡略に離婚事由と再婚許可文言とを三行半で書いたからいう書状。落語「天災」に詳しい。
■お仲人(おなこうど);男女の間で結婚の仲立ちをする人を指す。江戸時代では、相手探し・見合いの段取り・結婚までを世話し、依頼した人の持参金の一割を礼金として受け取っていた。逆に、離縁するときはお仲人が話を聞いて離縁状を書いた。この噺でも、お仲人が「私に話をしないで、離縁状を書くなんて・・・」と言っています。
■成田や銚子、潮来(なりた・ちょうし・いたこ);旦那のお供で廻った所。千葉北部の名勝地です。噺の中には鋸山も出てきますが、江戸の後期に徒歩で観光地を回るには南房総の鋸山まで足は伸ばせないでしょう。
■箱根(はこね);(はこね、古くは「函根」とも)は、静岡県に近い神奈川県南西部の一角、箱根カルデラ近辺の一帯を指す地名。 地図の上では、行政区画としての箱根町におおむね重なる概念である。
古来東海道の要衝であり、「天下の険」と謳われた難所箱根峠のふもとには宿場や関所が置かれた。近代以降は保養地・観光地として発展。各所に湧く温泉や、芦ノ湖、大涌谷、仙石原などがとりわけ有名である。1936年に「富士箱根国立公園」(現・富士箱根伊豆国立公園)に指定されている。
仁孝天皇の第8皇女和宮(14代将軍家茂の正室)は晩年脚気療養の為、箱根に湯治に出掛けたが、明治10年(1877)9月2日、療養先の箱根塔ノ沢環翠楼にて死去、享年32。であった。
■京橋(きょうばし);日本橋から東海道を上ると最初の橋が京橋です。京都に向かう最初の橋ですから京橋。現在の中央区京橋三丁目と中央区銀座一丁目を渡る所に有ったが、現在は埋め立てられて上部に首都高速道路が走っています。ですから、京橋を渡るのでは無く、京橋をくぐることになります。
■田町(たまち);吉原の隣にあった町。吉原の回りは低く水はけが悪かった。田畑が広がっていたが、埋め立てられて、町が出来たが、安易に田町の名がついてしまった。都内には他にも田町はありますが、落語の世界で田町と言えばここになります。幇間の晋平さんが住んでいた。
■絵看板(えかんばん);文字が分からない客でも分かるように、絵の看板だったり、シャレで業態が分かるような看板を出していた。湯屋だと『ゆに入る』で弓矢を看板代わりに出した。
かまわぬと表示して「武道場」 「絵の具屋」 「下駄屋」 「質屋」入ると金に成
「海苔屋」丸にのの字 「桶屋」大風が吹くと必要 「酢屋」容器を模した 「蝋燭屋」張り紙に『あり』
蝋燭屋の看板には蝋燭の形をした看板に、「あり」として蝋燭有りますと表示していた。おかみさんは蝋燭がありだと思っていた。
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