落語「胴斬り」の舞台を行く 二代目桂枝雀の噺、「胴斬り」(どうぎり)より
■オチの別バージョン;「女湯ばかり見るな。褌が外れていけない」というバレ(艶笑)がかったサゲもある。
■試し切り(ためしぎり);
江戸時代以前には人体が試し斬りの対象として用いられた。戦国時代のルイス・フロイスの報告書においても、ヨーロッパにおいては動物を使って試し斬りを行うが、日本人はそういうやり方を信用せず、必ず人体を用いて試し斬りを行っているという記述がある。
江戸幕府の命により刀剣の試し斬りする御用を勤めて、その際に罪人の死体を用いていた山田浅右衛門家等の例がある。また大坂町奉行所などには「様者」(ためしのもの)という試し斬りを任される役職があったことが知られている。その試し斬りの技術は「据物(すえもの)」と呼ばれ、俗には確かに忌み嫌われていた面もあるが、武士として名誉のあることであった。試し斬りの際には、一度に胴体をいくつ斬り落とせるかが争われたりもした。例えば3体の死体なら「三ツ胴」と称した。記録としては「七ツ胴」程度までは史実として残っている。
据物斬りは将軍の佩刀などのために、腰物奉行らの立会いの元、特に厳粛な儀式として執り行われた。本来は斬首と同様に町奉行所同心の役目とされていたが、実際には江戸時代中期以後、斬首・据物斬りを特定の者が行う慣例が成立し、徳川吉宗の時代以後、山田浅右衛門家の役目とされた。なお、山田浅右衛門家が斬首を行う際に、大名・旗本などから試し斬りの依頼を受け、その刀を用いて斬首することがあった。
生き胴(いきどう=上図)は、江戸時代に金澤藩やその他で行われた死刑の刑罰の一種。
■辻斬り(つじぎり);『甲子夜話』第1巻には、「神祖駿府御在城の内、江戸にて御旗本等の若者、頻りに辻切して人民の歎きに及ぶよし聞ゆ。(省略)所々辻切の風聞専ら聞え候、それを召捕候ほどの者なきは、武辺薄く成り行き候事と思召候。いづれも心掛辻切の者召捕へと御諚のよし申伝へしかば、其のまま辻切止みけるとぞ」とある。
幕末には薩摩藩士の間で、江戸辻斬が流行したが、歩行しながら居合斬りをするため、相手は対応できず、警護を2人つけた幕臣ですら殺害された上に、全く表情に動揺がないので気づかれなかったことが『西郷隆盛一代記』に記されており、その一人をこらしめ(辻斬をする薩摩藩士達に警告し)た達人として、50余歳になる斎藤弥九郎(九段に道場を開く)の話が記述されている(のちにその辻斬犯は弟子になっている)。
テロ行為の一つとして扱われる事もある。
刀剣・念仏丸、結翁十郎兵衛の三尺余りの刀である「念仏丸」は、辻斬の際、斬られた相手が走って逃げた際、石につまずき、南無阿弥陀仏と声を立てるや否や身体が二つになったため、名付けられた。
落語「首提灯」で、辻斬りに首を切られても分からずに歩き、火事場近くに来て野次馬が多いので、落ちるといけないので、首を持ち上げ提灯代わりにしたと言う。落語の噺ですよッ。
落語の中にも辻斬りの噺が有ります。橋の上でコモをかぶって寝ている乞食が居た。「此奴なら切っても良いだろう」と、刀を上段に振りかざし、コモの乞食めがけて切り下ろした。屋敷に帰ってこの話をすると、「わしも行ってこよう」と、翌日橋の上に来ると、昨日と同じようにコモをかぶった乞食が寝ていた。「ヤーッ」と気合い諸共刀を振り下ろした。この晩も屋敷に帰り仲間に自慢話をすると、「今度はわしが・・・」と、出掛けて行った。
■新身 (あらみ)
;新たに鍛えた刀。新刀(シントウ)。
■能天気(のうてんき);軽薄で向うみずなさま。なまいきなさま。また、物事を深く考えないさま。
■居合抜き(いあいぬき);居合術(いあいじゅつ)、もしくは居合(いあい)抜刀術(ばっとうじゅつ)とは、日本刀(打刀とは限らない)を鞘に収めた状態で帯刀し、鞘から抜き放つ動作で一撃を加えるか相手の攻撃を受け流し、二の太刀で相手にとどめを刺す形、技術を中心に構成された武術である。
■業物(わざもの);文化12年(1815年)、首切り執行人・山田浅右衛門五代吉睦は多くの刀の試し斬りを行い、刀工ごとに切れ味を分類した結果を『懐宝剣尺』という本にまとめて公表した。刀剣の業物一覧(とうけんのわざものいちらん)は同書に記される、最上大業物14工、大業物20工、良業物50工、業物80工、大業物・良業物・業物混合65工の計229工をいう。 尚、分類の読みはそれぞれ、最上大業物(さいじょうおおわざもの)、大業物(おおわざもの)、良業物(よきわざもの)、業物(わざもの)。
最上大業物14工名
ここには、「村正」や、「正宗」は出てこない。
■天水桶(てんすいおけ);日本の伝統的な雨水(うすい)タンク。雨水を貯めるための容器で、江戸時代には主に都市部の防火用水として利用された。その上に横板を渡し手桶が重ねて置いてあった。
■冷やかし帰り(ひやかしがえり);ぞめき。色街などを登楼せずに冷やかし、見物して歩くこと。その帰り道。
■風呂屋の番台(ふろやのばんだい);銭湯の最近はフロントとも言われ、女湯・男湯の両方を同時に目が届く。
左、明治・大正時代の番台。江戸東京たてもの園。 右、江戸時代の番台。 三谷一馬画 「江戸見世屋図聚」。
■麩(ふ);グルテンを主原料の1つとした加工食品。グルテンは、水で練った小麦粉に含まれるタンパク質のひとつである。
江戸落語「時蕎麦」に出てくる夜鷹蕎麦で、「それから竹輪をこんなに厚く切っても良いのかィ。それに本物じゃネェーか、竹輪麩なんかまがいもんで病人が食うもんだ」、と言って、馬鹿にしています。おでんの麩は味がしみて好き嫌いが分かれます。
■麩(ふ)踏む職人;小麦粉に食塩水を加えてよく練って生地を作り、粘りが出たところで生地を布製の袋に入れて水中で揉む。デンプンが流出した後に残ったグルテンを蒸して生麩(もち麩)が作られる。
生麩を油で揚げると揚げ麩になる。生麩を煮てから成形して乾燥させると乾燥麩になる。
上記のようにして作られたグルテンに、小麦粉、ベーキングパウダー、もち米粉などを加えて練り合わせ、焙り焼きしたものが焼き麩である。
生麩には、ゴマ、ヨモギ、紅花などの素材を加えて、風味や色をつけたものもある。
また、流出したデンプンを集めて乾燥させたものを正麩(しょうふ、漿麩)・浮き粉・じん粉と呼んで、玉子焼(明石焼き)や関東のくず餅、糊や菓子の原料にされる。
「蒟蒻踏みの職人」 三谷一馬画江戸店屋図聚 江戸落語では、蒟蒻を踏む職人になっています。
■三里に灸据えて(やいとをすえて);灸=やいと。灸のなかでも三里の灸は代表的なもので、古来から長寿の灸、または頭寒足熱(ずかんそくねつ)の実をあげる養生(ようじょう)灸として知られる。三里とは経穴(けいけつ=つぼ)の名称である。三里という名がつけられている経穴は手と足にあり、それぞれ手の三里、足の三里とよばれている。とりわけ足の三里は1人ですえられるうえ、効果もあるところから、とくに普及し、単に三里といえば足の三里をさすようになった。三里の灸は胃腸の働きをよくしたり、全身状態の調整を図るほか、直接的に足を軽くしたり、じょうぶにするということから、昔は旅のときなどに毎朝すえたという。民間療法としての三里の灸は、高血圧や脳卒中の後遺症のほか、目、耳、鼻などの症状を緩和し、これらの予防にもなるといわれるが、おもに下肢の神経痛、関節痛、麻痺(まひ)、脚気(かっけ)などの治療に用いられる。
写真、三里の場所、膝の外側、お皿の下から指4本分下がった、いちばんくぼんでいる場所。向こうずねの外側です。
2020年2月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |