落語「胴斬り」の舞台を行く
   
 

 二代目桂枝雀の噺、「胴斬り」(どうぎり)より


 

 お侍が、新身 (あらみ)の一刀を手に入れまして「一度試し切りがしてみたい」。夜が更けましてから、人通りの少ないところへさして身を潜めております。向こうからやってまいりましたのが、能天気な呑気な男で、風呂帰りと見えまして濡れ手拭でございますな。「ん、この男に決めよぉ」なんてね、決めるほうはよろしぃ、決められるほうが災難でございます。サァ~ッと後ろへ回りますと言うと「エヤ~ッ」。居合抜きと言うやつでございます。刀が業物、腕が冴えとうりましたもんとみえまして、大きな声もろとも人間の体がズバ~ッと上下真二つになったわけでございます。胴のほうは斬られたはずみに横手の天水桶の上にちょこん。

 「お~い、無茶し~ないな。ひとの体後ろからビャ~ッと放り上げるてな、そんな乱暴なことしたらどんならんぞ。おら大人しく歩いてんねん、それを後ろからソ~ッと寄って来てやで、いきなりひとの体ビャ~ッと上へ放り上げるてな、ビックリするで。おッ・・・、あかんあかんあかん、足あれへんがな。胴切りに遭うたんや斬られてんねん、足あれへんどんならんで、胴と足の泣き別れ・・・。そらそ~と足どこにおんねん? この暗闇・・・、あッ、あんなとこに足立ってけつかる。あぁ、そうか、わいが上に乗ってな、どっち向いて走ってえぇや分からんのんか・・・、ちょっと待て、バタバタすんな、ウロウロしたらいかん。とりあえずこっちおいで。声聞こえてるか、こっち、おいで。うちで嫁はん心配しとるやろな~。待ってたらそのうちに誰ぞ通りよるに違いないわい。通りよったらそいつに連れて去(い)んでもらおー」。
 待っとりますと、向こうからやってまいりましたのが、この男の友達でございますが、冷やかし帰りと見えまして一杯機嫌でね、ちょっと袂へ手を放り込みよって頭のてっぺんから声出しよって・・・、ケッタイな歌唄とる。

 「又はんや、連れて帰ってもらお・・・。又はんッ」、「おぅ・・・。誰か呼んだか。恐わ~。真っ暗がりの中で誰呼ぶねんお前・・・。ねぇ・・・、俺、平生、偉そうに言うてるけど恐がりやで・・・」、「又はん、えらそうなこと言うてて、えらい恐がり・・・」、「何(なん)してんねんお前は? 家でも行儀に座ったことのないお前が、暗闇ん中で用水桶の上へ行儀に座って、お茶でもいただくような恰好(かっこ)して何してんね」、「わい何も用水桶の上に座ってるわけやあれへんがな」、「座ってるやないかい」、「わいが座ってるか座ってないか、ちょっとこの体持ち上げてごらん」。
 「わぁ~~、何じゃい、足あれへん足あれへんッ、足どしたんや」、「隣に立っている。ひとのこと聞かんよって胴斬りにあうねん。えらいことなってしもたるやないか、バラバラなってしもたるやないか。いのいの、いの」、「いにたいけど、わいいなれへんのでね」、「俺が連れていんだろ、抱いていんだろか? 何? 顔と顔とが近くで目ぇ合わすのが恥ずかしぃ? 何ぬかしてけつかる、しゃ~ない、背負うて行ったる」、「足も連れて帰えんね~けども、歩くのは勝手に歩くけども、どっちへ向いて歩いてえぇや分からんよって、とりあえずフンドシでも何でもええさかい支えしたって」、「持ったったら歩きよんのん? ホンに歩きよるやないか。オモロイな~、おい水溜まりや飛べよ(よっとしょっ)オモロイやないか、ひとの言うことよう聞きよるやないか。胴体背中に背たろうて、足、手で持って歩くやなんて、こんなことあるやろか・・・。家、閉まってるけどまだ起きてるてか? よし、足ちょっと待ってよ・・・」。
 「ちょっとお咲さん、開けとくなはれ」、「又はんだすか、ちょっと待っとくれやす。まだ寝てんのやおまへんの、うちのひと風呂行てまんねやけれども、このごろ物騒な侍がウロウロしてるっちゅうこと聞いてまんのでな、用心が悪いよって閉めてまんねん。とりあえず、じきに開けます。どうぞこっちお入り・・・、んまぁ~、また酔ぉてなはんのか? こうしてまた又はんにご迷惑かけて・・・」、「ちょっと、待った、こいつ酔うとんのと違うねん、ちょっと待ったってや。いヨットショッと、さぁ見たって」、「どこで足忘れてきてやってん? この慌てもん」、「アホなこと言いないな、足忘れてくる慌てもんがどこにあんねんな、実は胴斬りにあってこのざまだ」、「胴と足とが別々に?んまぁ・・・。足どこにいてまんねん」、「表で待たしたんねん・・・。おい、足、こっち入っといで。 (トン、トン、トン、トン・・・)」、「んまぁ~~ッ、足が足で歩いてるわ」、「いろいろと言いたいことあるやろけどもな、とりあえず今日は遅いよって、明日の朝と言うことにしょ~か」。

 「お早ようさん」、「ま~、又はん、夕(ゆん)べはえらいすんまへんでした」、「あほらしもない、わいとしたことがやで、あいつの体とりあえず医者に診せんならんのんコロッと忘れてて、寝てられへんねん。起き抜けに来てみたんやが、どや苦しんでるか?」、「ちょっとも、何の苦しみもおまへんのん。あのひとの体、不死身とでも言いまんのんか、それぞれが、まことに達者にしてまんね」、「おかしな言いようやなぁ」、「やかましいさかいにそぉ~ッと覗いてみたら、うちのひとが大きな声で歌唄たいまっしゃろ、足が合わして踊りまんのん」、「そらオモロイやないかい、ちょっと話もあるんで・・・」、「又はん、ゆんべはえらいすんまへんでした」、「体が大丈夫ちゅうことになると今度は仕事や。お前こんな体になったさかいちゅうて遊んでるわけにいけへんけれどもやで、この体で大工ちゅうのん無理や。でや、ひとつ風呂屋の番台へ座ってみんか?」。

 で、胴体は風呂屋の番台に、足は足で麩(ふう)踏む職人になりました。

 そんなある日、「おい、やってるか」、「いや~、お越しやす。ホンマえぇとこ世話してもろた思て喜んでまんねん。ご主人も奥さんもえぇ人で、もうずっとここですわい、職場もご飯もみなここですわい、寝床もここですわい、ありがたいことですわい、じっとしてたらえぇ、ウロウロせんでもよろしいねん、こんなことなら何でもっと早いこと胴切りに遭わなんだかと思て、災い転じて福となすと言う・・・」、「そら結構、けっこう、気張ってやってもらいたい」。
 「又はん、弟のとこへ行かはることおまへんかいな」、「お前に弟って? たしかお前一人っ子と違うのんかい?」、「いや~、あんたの世話で麩ぅ屋へ行ってるあの弟ね」、「えッ、あの足かい?」、「たった一人の血肉を分けた弟です」、「お前が上で、足が下か、なるほど理屈は合ったるわい。いや、向こうも心配やのでいっぺん行ってみよとは思てるねん」、「えらいすんまへん、ちょっと言付けが願いたい。湯気で目がかすんで、しょ~がおまへんねん『三里に灸(やいと)据えてもろてくれ』と、こう言ってもらえまへんやろか」、「足にヤイトが据えたいけど、お前が何ぼ頑張ってみても足向こうやさかいな・・・」、「一風呂浴びて行かはったら・・・」、「いや、また帰りにでも寄してもらうわ」。

 「こんちわ」、「又はんでっか、どぉぞどぉぞ。ええ職人世話しとくなはったな~。家内ともども喜んでるんです。よ~働いてくれまっせぇ~。よそ見はせん、無駄話はせん、ご飯も食べずに、朝から晩まで働き通しですわ。あんなん結構です、あんなもん五、六組おまへんかい」、「アホなこと言いな」、「一番奥で麩踏んでます」。
 「おい足、やってるな」、「(ドス、ドス、ドス、ドス)又はんでっか? お越しやす」、「もの言えるようになったんかい」、「お陰さんで、おとついあたりからボチボチものが言えるように・・・」、「しかし、どこでもの言うてるねん? え? あ~、なるほど、せやろな~。そこしかないわな~、どうりで何やこのあたりがフワフワ臭いと・・・。実はお前の兄貴からの言付けやけどな」、「風呂屋の番台へ座ってる、あの兄貴ですかい」、「『目がかすむので三里にヤイト据えてくれ』と、こない言うとったで」、「なるほど、分かりました。又はん、えらいすまへんけど、また兄貴んとこへ行かはることおまっしゃろか」、「ああ『帰りに寄るわ』とは言うたんけど、何やねん」、「お水やお茶あんまりガブガブ飲まんよぉに言うとくなはれ・・・、おしっこが近こうてしょがおまへんねん」。

 



ことば

オチの別バージョン;「女湯ばかり見るな。褌が外れていけない」というバレ(艶笑)がかったサゲもある。

試し切り(ためしぎり);
 日本刀は1本1本が手作りの鍛造品であり、名手とよばれる刀工の手によるものであっても品質や性格には違いがあり、実用に堪えるものか装飾的美麗さにとどまるものかは実際に試してみなければ分からない。 日本刀の切れ味や耐久性を試すために、藁、畳、竹、兜、豚肉、新聞紙、段ボール等の物体を、木製ないしは金属製の台や土(土段)の上に乗せ、袈裟あるいは真向あるいは真横(胴斬り)に切り抜く。江戸時代には罪人の死体を使用していた。 純粋に刀の切れ味を試すための試し斬りを試刀術と呼び、抜刀道や居合道の稽古として行われる試し斬りとは区別される。試刀術は敵を想定していないため、地面を踏み締め、背中に刀が着くほど大きく振りかぶって斬り込むが、抜刀道や居合道における試し斬りは対敵を想定しているため、動作に隙を生じさせないように斬り込む。 ほかには、巻藁数本を縦に並べ、真上から切り下ろす方法や、ぴったりと横や縦一列に並べ、それらをまとめて斬るというものもあるが、それらの多くは見物者にインパクトを与えるために行う場合がほとんどである。

 江戸時代以前には人体が試し斬りの対象として用いられた。戦国時代のルイス・フロイスの報告書においても、ヨーロッパにおいては動物を使って試し斬りを行うが、日本人はそういうやり方を信用せず、必ず人体を用いて試し斬りを行っているという記述がある。 江戸幕府の命により刀剣の試し斬りする御用を勤めて、その際に罪人の死体を用いていた山田浅右衛門家等の例がある。また大坂町奉行所などには「様者」(ためしのもの)という試し斬りを任される役職があったことが知られている。その試し斬りの技術は「据物(すえもの)」と呼ばれ、俗には確かに忌み嫌われていた面もあるが、武士として名誉のあることであった。試し斬りの際には、一度に胴体をいくつ斬り落とせるかが争われたりもした。例えば3体の死体なら「三ツ胴」と称した。記録としては「七ツ胴」程度までは史実として残っている。 据物斬りは将軍の佩刀などのために、腰物奉行らの立会いの元、特に厳粛な儀式として執り行われた。本来は斬首と同様に町奉行所同心の役目とされていたが、実際には江戸時代中期以後、斬首・据物斬りを特定の者が行う慣例が成立し、徳川吉宗の時代以後、山田浅右衛門家の役目とされた。なお、山田浅右衛門家が斬首を行う際に、大名・旗本などから試し斬りの依頼を受け、その刀を用いて斬首することがあった。

 生き胴(いきどう=上図)は、江戸時代に金澤藩やその他で行われた死刑の刑罰の一種。
  刑場に土を盛って「土段場(土壇場)」というものを作り、そこに目隠しをした罪人をうつぶせに横たえて、2名の斬手が同時に頸と胴を斬り放すものである。延宝8年(1680)と元治年間(1864年から1865年)にこの刑に処せられた者がある。  

辻斬り(つじぎり);『甲子夜話』第1巻には、「神祖駿府御在城の内、江戸にて御旗本等の若者、頻りに辻切して人民の歎きに及ぶよし聞ゆ。(省略)所々辻切の風聞専ら聞え候、それを召捕候ほどの者なきは、武辺薄く成り行き候事と思召候。いづれも心掛辻切の者召捕へと御諚のよし申伝へしかば、其のまま辻切止みけるとぞ」とある。 幕末には薩摩藩士の間で、江戸辻斬が流行したが、歩行しながら居合斬りをするため、相手は対応できず、警護を2人つけた幕臣ですら殺害された上に、全く表情に動揺がないので気づかれなかったことが『西郷隆盛一代記』に記されており、その一人をこらしめ(辻斬をする薩摩藩士達に警告し)た達人として、50余歳になる斎藤弥九郎(九段に道場を開く)の話が記述されている(のちにその辻斬犯は弟子になっている)。 テロ行為の一つとして扱われる事もある。

 刀剣・念仏丸、結翁十郎兵衛の三尺余りの刀である「念仏丸」は、辻斬の際、斬られた相手が走って逃げた際、石につまずき、南無阿弥陀仏と声を立てるや否や身体が二つになったため、名付けられた。

 落語「首提灯」で、辻斬りに首を切られても分からずに歩き、火事場近くに来て野次馬が多いので、落ちるといけないので、首を持ち上げ提灯代わりにしたと言う。落語の噺ですよッ。

 落語「試し切り」、「大坂屋花鳥」、等の噺が有ります。

 落語の中にも辻斬りの噺が有ります。橋の上でコモをかぶって寝ている乞食が居た。「此奴なら切っても良いだろう」と、刀を上段に振りかざし、コモの乞食めがけて切り下ろした。屋敷に帰ってこの話をすると、「わしも行ってこよう」と、翌日橋の上に来ると、昨日と同じようにコモをかぶった乞食が寝ていた。「ヤーッ」と気合い諸共刀を振り下ろした。この晩も屋敷に帰り仲間に自慢話をすると、「今度はわしが・・・」と、出掛けて行った。
 やはり、橋の上に来ると、コモをかぶった乞食が寝ている。「此奴だなッ」と刀を振り下ろすと、乞食がコモを撥ね除けて、「毎晩寝ているところを、叩きに来る奴はお前か?」。 叩くのと切るでは大違いです。

新身 (あらみ) ;新たに鍛えた刀。新刀(シントウ)。

能天気(のうてんき);軽薄で向うみずなさま。なまいきなさま。また、物事を深く考えないさま。

居合抜き(いあいぬき);居合術(いあいじゅつ)、もしくは居合(いあい)抜刀術(ばっとうじゅつ)とは、日本刀(打刀とは限らない)を鞘に収めた状態で帯刀し、鞘から抜き放つ動作で一撃を加えるか相手の攻撃を受け流し、二の太刀で相手にとどめを刺す形、技術を中心に構成された武術である。
 刀を抜くと同時に相手に切りつける技は、古くからあり、香取神道流や立身流など古い流派でも居合術(抜刀術)は含まれているが、一般には室町時代末の林崎甚助が居合を集大成した人物と考えられている。
 相手と近い間合いでは不利な鞘に収まった長刀で、短刀を持った相手に如何に勝つか、という所から居合が生まれたとされている。 実際、林崎甚助を祖とする、古い形態を残すと考えられる流派、林崎新夢想流、神夢想林崎流、関口新心流などでは、間近に座した相手が小太刀や短刀で突いてくる想定を伝えている。その他の新しい流派でも、相手に胸倉、柄等を掴まれた場合の形や、帯刀はしているが、最後まで抜刀せずに対処する柔術と区別しがたい形や、逆に相手と離れた状態で抜刀し切り合う、剣術のような形が居合の形として伝えている場合もある。居合の流派が柔術の流派に併伝された場合も多い。振武館の黒田鉄山は、剣、柔、居合は、全て同じコンセプトの運動体系であり、単に得物や間合いが変わっただけだと考えている。
 幕末などではすれ違い様、出会い頭の暗殺術としての抜刀術も隆盛した。

 

業物(わざもの);文化12年(1815年)、首切り執行人・山田浅右衛門五代吉睦は多くの刀の試し斬りを行い、刀工ごとに切れ味を分類した結果を『懐宝剣尺』という本にまとめて公表した。刀剣の業物一覧(とうけんのわざものいちらん)は同書に記される、最上大業物14工、大業物20工、良業物50工、業物80工、大業物・良業物・業物混合65工の計229工をいう。 尚、分類の読みはそれぞれ、最上大業物(さいじょうおおわざもの)、大業物(おおわざもの)、良業物(よきわざもの)、業物(わざもの)。

最上大業物14工名
 ・長曽祢興里(初代 虎徹)、おきさと、 - 延宝6年(1678年)6月24日)、江戸時代寛文の刀工。剃髪して入道名を虎徹と名乗った。新刀第一の名工とされる。
 ・長曽祢興正(二代 虎徹)、 (ながそね おきまさ)は、江戸時代の刀工。新刀最上作にして最上大業物。
 ・孫六兼元(初代 孫六)、孫六は、兼元家の屋号である。後代兼元には「まこ六」などとかな文字で銘を切るものもある。古刀最上作にして最上大業物。
 ・仙台国包(初代)、(くにかね、文禄元年(1592年) - 寛文4年12月3日(1665年1月18日))は江戸時代の陸奥国の刀工。俗名は本郷源蔵、のちに吉之允。
 ・ソボロ助広(初代助広) 、播州津田出身。通称「弥兵衛尉」。そり浅く、地金小杢目、刃文は丁子刃、互の目乱れなどを焼く。 「ソボロ」とは、服装にかまわずいつもボロをまとっていたためとか諸説ある。
 ・肥前忠吉(初代)、肥前新刀鍛冶。橋本新左衛門。龍造寺家の家臣である橋本道弘の子。名手とされる。息子の近江大掾忠広以下、幕末まで一貫して続く肥前刀の開祖といえよう。勝海舟、 岡田以蔵所持刀。
 ・陸奥守忠吉(三代 肥前忠吉)、万治三年陸奥大掾受領。寛文元年陸奥守になる。 刃紋は中直刃を焼く。初代忠吉に迫るよい出来の作品がある。
 ・多々良長幸、万治三年陸奥大掾受領。寛文元年陸奥守になる。 刃紋は中直刃を焼く。初代忠吉に迫るよい出来の作品がある。大坂に移住し、大坂石堂と呼ばれ、備前一文字の作を思わせる大丁子乱を得意とする。
 ・三善長道(初代)、陸奥国会津藩の刀工。俗名は三好藤四郎。三好政長の子。その作風や斬れ味の良さから「会津虎徹」や「会津正宗」などと称される名工。
 ・長船秀光(二代)、備前国の日本刀の刀工。通称「右衛門尉」。 作柄としては、相伝備前、刃文は乱れ、まれに皆焼などもあり華やかな作風である。
 ・三原正家(四代)、備後国三原(現在の広島県三原市)の刀工。備後三原派の祖、もしくは中興の祖。および、その名跡、その刀の名。村正・正宗に次ぐ知名度だった。
 ・長船元重、南北朝時代の備前国の刀工。大蔵允と称したともいう。作柄としては地鉄は板目肌に映りが立ち、刃文は初期には片落互の目などを焼き、後期作には沸のついた直刃に足の入るものや直互の目に足・葉の入るものがある。
 ・長船兼光、備前国に住した刀工(長船派)であり、備前長船兼光を称する。重要文化財指定の作刀がある。大兼光。通称「孫左衛門」。
 ・和泉守兼定(二代 兼定、之定)、室町時代に美濃国関(現岐阜県関市)で活動した和泉守兼定(之定)が著名である。万人に好かれるものである。

 ここには、「村正」や、「正宗」は出てこない。

天水桶(てんすいおけ);日本の伝統的な雨水(うすい)タンク。雨水を貯めるための容器で、江戸時代には主に都市部の防火用水として利用された。その上に横板を渡し手桶が重ねて置いてあった。
右写真、「天水桶」 深川江戸博物館

冷やかし帰り(ひやかしがえり);ぞめき。色街などを登楼せずに冷やかし、見物して歩くこと。その帰り道。

風呂屋の番台(ふろやのばんだい);銭湯の最近はフロントとも言われ、女湯・男湯の両方を同時に目が届く。

  

左、明治・大正時代の番台。江戸東京たてもの園。 右、江戸時代の番台。 三谷一馬画 「江戸見世屋図聚」。

(ふ);グルテンを主原料の1つとした加工食品。グルテンは、水で練った小麦粉に含まれるタンパク質のひとつである。
 室町時代初期に明から渡来した禅僧によって製法が伝来したとされ、タンパク質が不足しがちな当時の精進料理を豆腐と共に蛋白源の一翼を担う食材。 原料を茹でて製品にした生麩(なまふ)、原料を焼成した焼き麩(やきふ)、中華料理などで使われる原料を油脂で揚げた揚げ麩(あげふ)、原料を煮た後に乾燥させた乾燥麩があり、それぞれ食感が異なる。煮物・汁物・和え物や、すき焼きなどの鍋物の具、沖縄料理の炒め物の材料としても多く用いられている。秋田などの東北地方の一部や北海道の一部ではラーメンの具として用いられている。また、近年では滋賀県の一部でもラーメンの具として用いられている。京都においては精進料理の材料の一つとして重用されるほか、京料理としても利用される。 生麩や焼き麩は、料理以外に、菓子として用いられる事があり、前者は小豆餡を包んで麩饅頭、後者は生地に着色して砂糖を練り込み、麩菓子などの駄菓子とする。黒糖で花林糖のような風味を持たせた麩かりんとうもある。
  ちくわ麩、グルテンに富んではいるが、小麦粉(強力粉)をそのまま用いているので実際には「麩」ではない。

 江戸落語時蕎麦に出てくる夜鷹蕎麦で、「それから竹輪をこんなに厚く切っても良いのかィ。それに本物じゃネェーか、竹輪麩なんかまがいもんで病人が食うもんだ」、と言って、馬鹿にしています。おでんの麩は味がしみて好き嫌いが分かれます。

麩(ふ)踏む職人;小麦粉に食塩水を加えてよく練って生地を作り、粘りが出たところで生地を布製の袋に入れて水中で揉む。デンプンが流出した後に残ったグルテンを蒸して生麩(もち麩)が作られる。 生麩を油で揚げると揚げ麩になる。生麩を煮てから成形して乾燥させると乾燥麩になる。 上記のようにして作られたグルテンに、小麦粉、ベーキングパウダー、もち米粉などを加えて練り合わせ、焙り焼きしたものが焼き麩である。 生麩には、ゴマ、ヨモギ、紅花などの素材を加えて、風味や色をつけたものもある。 また、流出したデンプンを集めて乾燥させたものを正麩(しょうふ、漿麩)・浮き粉・じん粉と呼んで、玉子焼(明石焼き)や関東のくず餅、糊や菓子の原料にされる。

 「蒟蒻踏みの職人」 三谷一馬画江戸店屋図聚  江戸落語では、蒟蒻を踏む職人になっています。

三里に灸据えて(やいとをすえて);灸=やいと。灸のなかでも三里の灸は代表的なもので、古来から長寿の灸、または頭寒足熱(ずかんそくねつ)の実をあげる養生(ようじょう)灸として知られる。三里とは経穴(けいけつ=つぼ)の名称である。三里という名がつけられている経穴は手と足にあり、それぞれ手の三里、足の三里とよばれている。とりわけ足の三里は1人ですえられるうえ、効果もあるところから、とくに普及し、単に三里といえば足の三里をさすようになった。三里の灸は胃腸の働きをよくしたり、全身状態の調整を図るほか、直接的に足を軽くしたり、じょうぶにするということから、昔は旅のときなどに毎朝すえたという。民間療法としての三里の灸は、高血圧や脳卒中の後遺症のほか、目、耳、鼻などの症状を緩和し、これらの予防にもなるといわれるが、おもに下肢の神経痛、関節痛、麻痺(まひ)、脚気(かっけ)などの治療に用いられる。
 東洋医学的には、胃経(いけい=胃の働きと関係のある経絡(けいらく))に属する経穴の灸であるため、胃の機能調整にも有効である。また、副腎(ふくじん)皮質の働きをよくし、各種ホルモンの分泌にも作用する。また、近年は胃部のX線写真によって、三里への刺針が胃の蠕動(ぜんどう)運動を促進することも確認されたほか、高血圧症に対して降圧作用をもたらすことも報告されている。
 
 『奥の細道』で芭蕉が旅に出る前にお灸をすえていたことでも有名な三里の灸。

写真、三里の場所、膝の外側、お皿の下から指4本分下がった、いちばんくぼんでいる場所。向こうずねの外側です。



                                                            2020年2月記

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