落語「やんまの久次」の舞台を行く
   

 

 八代目林家正蔵の噺、「やんまの久次」(やんまのきゅうじ)より


 

  番町御厩谷に三百石の旗本で、青木久之進というお方が御座いました。この方の舎弟で久次郎というのが、道楽を覚えるてぇとお定まりの刺青を彫りまして、背中一面に大やんまとんぼの刺青、人呼んでこれをやんま久次と云った。本所方の良からぬ者の仲間に入って博打場出入り、とうとう商売人の様になって仲間の家でゴロゴロ転がっています。

 「久次、どうしたんだお前、元気が無いじゃぁねぇか。こんな所で寝たり起きたりしゃぁがってどうしたんだ。博打場へ来て派手な勝負でもやったらどうだい」、「そんなことぁとても出来ねぇ。出るたぁ取られ、薬罐に蛸で、手も足も出ねぇ」、「情ねぇ事を言いやがる。やい久次。今兄貴が世を張っているが、手前はそこの御舎弟様だ。兄貴が家督を相続していりゃ手前にだって分け前がきたって好いわけだ。おい久次郎、又、兄貴の屋敷へ強請り(ゆすり)に行けよ。いい金の蔓じゃぁねぇか」。着物まで取られ裸同様、女物の着物を借りて出掛けた。

 二声掛けておいて、表玄関へずかずかっと上がると、上がり框の所へクルッと着物の裾をまくって、背中を向けて大胡座(おおあぐら)。
 「誰かいねえのかィ。御舎弟様がお見えになったんだ。出て来いやぇ。誰か出てこい。久次郎だ。久次郎様だ」、大きな声で悪態をついている、この時に御錠口から案内も乞わずにズッと入って参りましたのが、久次郎の剣術の師匠で、浜町に道場を開いている、大竹大助と云うお侍。

 「これは殿様、突然に伺いまして・・・」、「いやいや、先生は家人も同様、よくお見えになりました」、「こちらの方に用事があってな」、「左様で御座るか。よくおいで遊ばされました。ま、どうぞ、おしとねを。早く煙草盆を持って参れ。それから、茶の支度をしてな」、「殿様、御母堂樣お変りはないか。あぁそれは何より。時に、殿様、何やら罵る声が聞こえますが、あれは一体何者でございますか」、「は、先生、お恥ずかしい次第で御座いますが、久次郎にございます。博打とやらに金を取られますと、当家へあの様に度々無心に参ります。誠に面目次第も御座いません」、「しかし殿樣、あのままではいずれ御家名に傷がつきますぞ。ここは恩愛の絆を断ち切って、何とかなさらんければなりますまい。彼をこの座へ呼び入れて、腹を切らせましょう。みどもが介錯を致す。いや、これは殿様では出来ぬ事。まぁお任せ下され。これこれ御用人の伴内殿はおられぬか。今、ここで久次郎に腹を切らせる。早速に支度をして下され」、「は、かしこまりまして御座います」。

 伴内の指図で、腹切りの場所が整いました。
 「支度は調いました。どうぞ殿様、久次郎をこれへお招きください」、「は、かしこまりました」。
 立ち上がった兄久之進が玄関へ。「何をしてやがんだろうな、本当に。火をつけられてもいいのけぇ。いらいらさせやがるな」と、啖呵を切っている久次郎の後ろへ回って、ぐっと後ろ手を取る。「あっ、何をしやぁがる。おっ、これはこれは兄上様で御座いますか。ここ二三日、夢見が悪う御座いますので、如何遊ばしていらっしゃるかと余所ながら、お見舞に上がりましたので御座います。御無事で結構でございますな、兄上様」、「久次郎、こちらへ参れ」。
   腕を取ったまま、ズルリズルリと屋敷の中へ引き入れる。久之進の血相が変わっているので、そのまま久次郎が、座敷の中へ入る。突き当りの唐紙をサッと開けておいて押し込むように入れて、背中をひとつトーンと突くと、前へのめってペタペタッと座ったのが、その腹切りの場所の真っ只中。

 「お、何で御座います。何故にこの様な支度を・・・」、「久次郎、久しいのう」、「おっ、これぁ浜町の先生」、「久次郎、今殿様からお前の身上をよく聞いたところだ。お前はまっとうならぬ道を外れたならず者。生かしておいては御当家の名折れに相なる。そなたも武士の出であろう。この場に於て潔く切腹致せ。この大竹大助が介錯を致し遣わす」、「な何でございますね先生、御冗談が過ぎるじゃあありませんか。私ぁ、大小捨てて気楽な町暮らしで御座います。刃物も御座いませんし、どうか御勘弁を・・・」、「刃物がない。それではこの大竹大助の差し添いを貸して遣わす。さ、これで腹を切れ」、「いえ、もう、先生、兄上、勘弁してくださいまし。もう二度とこの様な事は致しませんから。それに腹ぁ切れったって、とっくに腹の切り方などは忘れております。死ぬのは嫌で御座います。どうぞ御助けを願います。兄上様、御勘弁を願います。母上様、母上様~、どうぞ先生に詫びを申して下され。助けて下され。母上様~ッ」、「見苦しいぞ久次郎。それ程までに命が惜しいか」、「惜しゅう御座います。死ぬのは嫌で御座います。どうぞ助けて下さりませ」、「不甲斐ない奴。貴様にはもはや侍の血は流れておらぬか。このうつけめがッ」。
 「大竹様」、「これは御母堂様」、「これめをお手討ちになさろうと云う御心底、御尤もでは御座いますが、この様に改心を致したらしゅう御座いますので、今ひと度、命をお助け下さいまして、私にお預けを願いとう御座います」、「いや、御母堂様の口添えとあらば、致し方も御座いません」、「大竹様、ちょっとこちらへ」。

 おふくろ樣と大竹大助が、暫く話をしている間、久次郎は兄からこんこんと意見をされます。その内に話を済ませて奥から出て参りました大竹大助。「久次郎、手間取らせたな。その方住いは本所方であったな。途中まで同道を致せ。殿様、それではこれにてお暇をつかまつる。どうぞお身体をおいとい下さいます様に。久次郎、支度がよくば参ると致そう」。

 これから大竹大助に連れられて、九段の坂を下りる。
 そろそろ日も暮れかかり、田安の物見の櫓に明々と明りがついている。辺りは人通りも途絶え・・・。「久次郎」、「へぃ」、「最前は驚いたか」、「驚いたどころの沙汰じゃ御座いません。あれで五、六年は寿命が縮まりました」、「そうか、少しは懲りる方がよい。その方に渡す物がある。最前御母堂様と話をした時に、このきんちゃくの中に、観世音に納める祠堂金が三両余り、小粒で入っておる。これを久次郎に遣わして、身なりを調えて侍奉公でも出来る様に、お渡し下さる様にと云う、有難いお志しではないか。さ、受け取れ」、「へい、御師匠様の御意見、骨の随まで染みまして御座います。有難う御座いました」、「それでは拙者はここら辺りで分れる事に致す。久次郎、どこまでも身をいとって堅固で暮らせよ」、「へい、今度お目にかかります時には、裃つけてお礼に上がります。有難う御座いました。先生、御意見有難うございました。先生、御師匠様ぁ~ッ、有難う御座いました~」。

 ゆっくりと顔を上げ、大竹大助の行ったのを見届けて、フンと鼻で笑い、左手の巾着をたもとに入れ、右手で額の傷を押え、血のついたのを嘗めて唾を吐く。
 「以前の師匠と思って下手へ立ってりゃ~、御大層な御託を並べやがったッ。何をぅ、母に孝を尽くし、兄に忠を励み、そうして身を謹んで生きろとな。おきゃあがれっ。烏や鼠じゃあんめぇし、コウのチュウのと笑わせやがら。手前達朴念人にこの久次郎様の意見が、されると思うていやぁがるか。男と男が博打場で身体ぁ賭けて丁半張って、大当りをして宙へ舞い上がる様な心持ちも、あべこべにとことん取られに取られて、地獄の渕へ片足入れて身振るいする様な思いもした事はあるめぇ。どうで手前達には飛びっ切りの酒肴の味も、喰らいつきたい様ないい女を手込めにする様な乙な味も、生涯知る事はあるめぇ。そうしてお前達は歳を取れ。俺ぁ真っ平御免だッ。人間五十年。俺のやりてぇ事をやって生きるまでの事だ。手前達木偶坊に、意見をされてたまるものかいッ」。
 袖と裾を捌いて、吐き捨てる様に、 「大べらぼうめぇッ」。

 



ことば

三遊亭圓朝の「緑林門松竹」の内とされているが、圓朝全集には載っていない。また、落語事典にも載っていません。と云うのは初代志ん生が「大べらぼう」として演じて評判の良かったものを「緑林門松竹」に取り入れて演っていたものの様で、流石に全集には入れ難かったのでしょう。どうやら圓朝師はこの「大べらぼう」をまたかのお関と云う女悪党に置き換えて演っていた様です。圓朝師は柳派で評判の良かった「子別れ」を「女の子別れ」として似た噺に拵え上げて演っていたりします。昔はこう云うことが多かったんですかね。大体圓朝師は翻訳ものなど他から持ってきて自分のものにしてしまう事が多かったようです。この噺の本来の下げは、啖呵のところで立ち上がり、「大べらぼうめっ」と見栄を切り、右手は弥蔵(やぞう=袖の中でゲンコを作る)、左手は裾を持って、「さつまさ」を唄いながら引っ込むと云うものだったそうです。正蔵師がこの形で演ったことがあるそうですが、あたしは見ていません。まだこの形で演るのは照れ臭いので、自分なりの工夫にしました。(五街道雲助)

圓朝の人となり
 江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。
 二代目三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、子圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。
 17歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなる。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博すが、援助出演を乞うた師匠に準備していた演目を先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする噺は決してなすまじ」と心に決める。以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組んだ。

 生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博す。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。
 歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した。
 「お笑い」の分野である滑稽噺より、人情噺や怪談噺など、笑いのない真面目な、いわば講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派の人情噺というスタイルを決定づけた。
 鳴物や大道具を用いた噺の祖としても知られ、その技法は代表作の一つである「 真景累ヶ淵 」にて完成を見せたのみならず、今日でも怪談噺の定番演出であるライティングやBGM等として受け継がれている。
 また怪談噺の参考とした幽霊画のコレクターとしても知られ、遺されたコレクションは全生庵蔵として圓朝まつりで毎年公開されている。

旗本(はたもと);中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。 元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。
 俗に「旗本八万騎」と呼ばれたが、1722年の調査では総数約5000人、御目見以下の御家人を含めても約1万7000人の規模であった。ただし、旗本・御家人の家臣を含めると、およそ8万人になるといわれている。 旗本で5000石以上の者は、交代寄合を含み約100人。3000石以上の者は約300人であり、旗本の9割は500石以下であった。

 武家に生まれた嫡男にすれば、家督を相続でき知行高もそのままですが、次男・三男に生まれますとどうにもなりません。生涯無役で、冷や飯喰いの飼い殺しで。出来が良ければ他家へ養子に行く位で御座います。そこで大概は道楽に走って、稽古屋の御師匠さんの亭主同様になるとか、洒落た方は芝居の囃子方なぞになっていたそうで、ですから囃子部屋には必ず刀掛けが有ったという。中には大きく道を外れて、博打場の用心棒になるとか、どのみち良い方へは向きません。

番町御厩谷(ばんちょう おんまやだに);千代田区三番町の大妻通りを南から北に登る坂道です。坂下には、江戸時代に田沼意知(老中田沼意次の子)を斬った佐野善左衛門の居住地跡の標識があります。
 この坂を御厩谷坂といいます。「新撰東京名所図会」には「一番町と上六番町との間、すなわち井伊家邸前より南の方に係れり。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川家の厩舎ありしに因り此名あり」と記されています。また、「新編江戸志に今も紅梅勘左衛門屋敷に御馬の足洗いし池残りてあるなりというと見えたり」とも書かれています。

 

 

 上写真、大妻大前の御厩谷坂。 下、その現地地図、右が北側で靖国神社に突き当たります。 

 佐野善左衛門宅跡  大妻学院の辺りには、元禄11年(1698)から、旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は、禄高五百石で、代々、江戸城の警備を勤めていました。天明4年(1784)3月24日、ときの当主佐野善左衛門政言は、江戸城中之間において、老中田沼意次 の子で若年寄の田沼山城守意知に斬りつけました。田沼意知は傷がもとで4月2日に死亡し、佐野政言も翌日切腹を命じられ、御家断絶となりました。しかし、世間の人々からは「世直し大明神」とあがめられました。また、佐野家の屋敷には桜の名木があり、番町の名物として知られていました。 平成十六年三月 千代田区教育委員会 

舎弟(しゃてい);人に対して自分の弟をいう語。他人の弟にもいう。

御錠口(おじょうぐち);将軍・大名などの邸宅で、表と奥との境にあった出入り口。内外から錠がおろされていた。錠口 。

おしとね;座るときや寝るときに下に敷く物。しきもの。ふとん。座布団。

大やんまとんぼ;ギンヤンマ・オニヤンマ・カトリヤンマなど、大形トンボの総称。
 トンボ目ヤンマ科に属する昆虫の総称。一般に大型のトンボで、美しい色彩の種が多く、強大な飛翔力をもつ。複眼は一線をもって左右が相接し、下唇中片の中央に1対の小突起がある。翅は、前後とも三角室は横長で翅端方向に長く、中に小横脈がある。雄の後翅肛角が突き出る。雌は発達した産卵管をもち、普通植物組織内に産卵する。オニヤンマ科、ムカシヤンマ科、サナエトンボ科などと近縁で、日本にはギンヤンマなど約20種が知られる。

 左、ぎんやんま。 右、おにやんま。

本所(ほんじょ);東京都墨田区の町名。または、旧東京市本所区の範囲を指す地域名。隅田川東部の街。

 上図、本所北西部。江戸時代に本所に有名な賭場が有ったところと言えば、現在の吾妻橋を渡った正面に有る細川若狭守下屋敷の中間部屋で賭場が開帳されていた。町人地では町奉行所の目がうるさく、大名屋敷内では探索が入らなかった。落語「文七元結
 江戸時代にこの周辺は、深川と並んで、拡大する大都市江戸の新興居住区域の一翼となった。本所の宅地化が進んだのは元禄年間だが、それでもまだ当時は町外れの辺鄙な土地だった。 この頃本所に住んでいた人物に赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)で有名な吉良義央がいるが、彼も「江戸の外れに追い出された」といった愚痴を綴った私信を残している。 同じ江戸市中でありながら東の外れとされていたことは正式採用された町名から窺い知れる。隅田川(大川)を挟んで、日本橋両国(現在の中央区東日本橋)と本所東両国(現在の墨田区両国)、東両国の別称「向こう両国」。浅草駒形と本所東駒形など。 幕末には江川太郎左衛門*の屋敷が置かれた。明治時代に入り、この本所から名をとった本所区が設置される。この南部の本所区は1947年(昭和22年)に北部の向島区と合併して現在の墨田区となった。
 *江川英龍 36代当主、1801年 - 1855年。号は坦庵。英毅の子。一般には江川太郎左衛門といえば彼を指すことが多い。洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に実績を挙げる。品川台場(お台場)を造り、鉄製の大砲を鋳造するための反射炉も造り始めた。日本で初めてパンを焼いた人物としても知られる

薬罐に蛸(やかんに たこ);手も足も出ねぇ。どうにもやりようがないこと。

強請り(ゆすり);人をおどして金品を要求する。

浜町(はまちょう);現・東京都中央区の町名で、旧日本橋区に当たる地域で、頭に日本橋を付して日本橋浜町という。江戸時代は、広大な武家屋敷が存在した。浜町川が流れていた。 舞台では、久次郎の剣術の師匠大竹大助が、浜町に道場を開いてた。

御母堂樣(ごぼどうさま);母の尊敬語。「おかあさん」より丁寧な言い方。御母さん=(江戸末期、上方の中流以上の家庭の子女の語。明治末期の国定教科書に使われて以後一般に広まった) 子供が親しみと敬意をこめて母親を呼ぶ語。子供以外の者が、子供の立場で、その母親を指していうことがある。

切腹(せっぷく);江戸時代、武士に科した死罪の一。検使の前で自ら腹を切るところを、介錯(カイシヤク)人が首を打ち落した。その介錯人を師匠大竹大助がすると言った。

九段の坂(くだんのさか);(江戸時代に坂に9層の石段を築いて徳川氏の御用屋敷の長屋があり、九段屋敷と称したことによる) 市ヶ谷から靖国神社脇を経て神田方面に下る急で長い坂。

 九段坂の高燈篭(常燈明台)

祠堂金(しどうきん);中世・近世、先祖代々の供養のために祠堂修復の名目で寺院に喜捨する金銭。寺院はこれを貸し付けて利殖した。無尽財。長生銭。祠堂銀。祠堂銭。

小粒(こつぶ);小粒金の略。一分金(イチブキン)の俗称。1/4両。

 時代によって金含有量が違っていた。江戸東京博物館蔵。

人間五十年(にんげん50ねん);江戸の平均的寿命は50年と言われた。これは平均寿命では無く余命です。平均寿命は30歳ぐらいで、乳幼児の死亡率が高く、生き残って成人した人間が、約50歳位まで生きたのでこの様に言われます。

木偶坊(でくのぼう);人形。でく。くぐつ。役に立たない人、また、気転がきかない人をののしっていう語。

大べらぼうめぇッ;べらぼう=寛文(1661~1673)年間に見世物に出た、全身まっくろで頭がとがり目は赤く丸く、あごは猿のような姿の人間。この見世物から「ばか」「たわけ」の意になったという。
 人をののしりあざける時に言う語。ばか。たわけ。あほう。それに”大”を付けて最大級のののしり語とした。



                                                            2020年3月記

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