落語「やんまの久次」の舞台を行く 八代目林家正蔵の噺、「やんまの久次」(やんまのきゅうじ)より
■三遊亭圓朝の「緑林門松竹」の内とされているが、圓朝全集には載っていない。また、落語事典にも載っていません。と云うのは初代志ん生が「大べらぼう」として演じて評判の良かったものを「緑林門松竹」に取り入れて演っていたものの様で、流石に全集には入れ難かったのでしょう。どうやら圓朝師はこの「大べらぼう」をまたかのお関と云う女悪党に置き換えて演っていた様です。圓朝師は柳派で評判の良かった「子別れ」を「女の子別れ」として似た噺に拵え上げて演っていたりします。昔はこう云うことが多かったんですかね。大体圓朝師は翻訳ものなど他から持ってきて自分のものにしてしまう事が多かったようです。この噺の本来の下げは、啖呵のところで立ち上がり、「大べらぼうめっ」と見栄を切り、右手は弥蔵(やぞう=袖の中でゲンコを作る)、左手は裾を持って、「さつまさ」を唄いながら引っ込むと云うものだったそうです。正蔵師がこの形で演ったことがあるそうですが、あたしは見ていません。まだこの形で演るのは照れ臭いので、自分なりの工夫にしました。(五街道雲助)
■圓朝の人となり
生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博す。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。
■旗本(はたもと);中世から近世の日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた。
元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。
武家に生まれた嫡男にすれば、家督を相続でき知行高もそのままですが、次男・三男に生まれますとどうにもなりません。生涯無役で、冷や飯喰いの飼い殺しで。出来が良ければ他家へ養子に行く位で御座います。そこで大概は道楽に走って、稽古屋の御師匠さんの亭主同様になるとか、洒落た方は芝居の囃子方なぞになっていたそうで、ですから囃子部屋には必ず刀掛けが有ったという。中には大きく道を外れて、博打場の用心棒になるとか、どのみち良い方へは向きません。
■番町御厩谷(ばんちょう おんまやだに);千代田区三番町の大妻通りを南から北に登る坂道です。坂下には、江戸時代に田沼意知(老中田沼意次の子)を斬った佐野善左衛門の居住地跡の標識があります。
上写真、大妻大前の御厩谷坂。 下、その現地地図、右が北側で靖国神社に突き当たります。
佐野善左衛門宅跡
大妻学院の辺りには、元禄11年(1698)から、旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は、禄高五百石で、代々、江戸城の警備を勤めていました。天明4年(1784)3月24日、ときの当主佐野善左衛門政言は、江戸城中之間において、老中田沼意次 の子で若年寄の田沼山城守意知に斬りつけました。田沼意知は傷がもとで4月2日に死亡し、佐野政言も翌日切腹を命じられ、御家断絶となりました。しかし、世間の人々からは「世直し大明神」とあがめられました。また、佐野家の屋敷には桜の名木があり、番町の名物として知られていました。
平成十六年三月
千代田区教育委員会
■舎弟(しゃてい);人に対して自分の弟をいう語。他人の弟にもいう。
■御錠口(おじょうぐち);将軍・大名などの邸宅で、表と奥との境にあった出入り口。内外から錠がおろされていた。錠口 。
■おしとね;座るときや寝るときに下に敷く物。しきもの。ふとん。座布団。
■大やんまとんぼ;ギンヤンマ・オニヤンマ・カトリヤンマなど、大形トンボの総称。
左、ぎんやんま。 右、おにやんま。
■本所(ほんじょ);東京都墨田区の町名。または、旧東京市本所区の範囲を指す地域名。隅田川東部の街。
上図、本所北西部。江戸時代に本所に有名な賭場が有ったところと言えば、現在の吾妻橋を渡った正面に有る細川若狭守下屋敷の中間部屋で賭場が開帳されていた。町人地では町奉行所の目がうるさく、大名屋敷内では探索が入らなかった。落語「文七元結」
■薬罐に蛸(やかんに たこ);手も足も出ねぇ。どうにもやりようがないこと。
■強請り(ゆすり);人をおどして金品を要求する。
■浜町(はまちょう);現・東京都中央区の町名で、旧日本橋区に当たる地域で、頭に日本橋を付して日本橋浜町という。江戸時代は、広大な武家屋敷が存在した。浜町川が流れていた。
舞台では、久次郎の剣術の師匠大竹大助が、浜町に道場を開いてた。
■御母堂樣(ごぼどうさま);母の尊敬語。「おかあさん」より丁寧な言い方。御母さん=(江戸末期、上方の中流以上の家庭の子女の語。明治末期の国定教科書に使われて以後一般に広まった)
子供が親しみと敬意をこめて母親を呼ぶ語。子供以外の者が、子供の立場で、その母親を指していうことがある。
■切腹(せっぷく);江戸時代、武士に科した死罪の一。検使の前で自ら腹を切るところを、介錯(カイシヤク)人が首を打ち落した。その介錯人を師匠大竹大助がすると言った。
■九段の坂(くだんのさか);(江戸時代に坂に9層の石段を築いて徳川氏の御用屋敷の長屋があり、九段屋敷と称したことによる)
市ヶ谷から靖国神社脇を経て神田方面に下る急で長い坂。
九段坂の高燈篭(常燈明台)
■祠堂金(しどうきん);中世・近世、先祖代々の供養のために祠堂修復の名目で寺院に喜捨する金銭。寺院はこれを貸し付けて利殖した。無尽財。長生銭。祠堂銀。祠堂銭。
■小粒(こつぶ);小粒金の略。一分金(イチブキン)の俗称。1/4両。
時代によって金含有量が違っていた。江戸東京博物館蔵。
■人間五十年(にんげん50ねん);江戸の平均的寿命は50年と言われた。これは平均寿命では無く余命です。平均寿命は30歳ぐらいで、乳幼児の死亡率が高く、生き残って成人した人間が、約50歳位まで生きたのでこの様に言われます。
■木偶坊(でくのぼう);人形。でく。くぐつ。役に立たない人、また、気転がきかない人をののしっていう語。
■大べらぼうめぇッ;べらぼう=寛文(1661~1673)年間に見世物に出た、全身まっくろで頭がとがり目は赤く丸く、あごは猿のような姿の人間。この見世物から「ばか」「たわけ」の意になったという。
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