落語「小いな」の舞台を行く
   

 

   落語「小いな」(こいな)より


 

 幇間の一八が、 この間の約束どおり芝居に連れて行ってくれと、旦那にせがみに来た。 ところが旦那、今日は都合で行けないからと、変わりに、おかみさんに、女中と飯炊きの作蔵をつけて出そうとする。 作蔵は、実は、これが旦那と一八の示し合わせた狂言らしいと見抜いているので、仮病を使って、家に残って様子をうかがった。

  二人きりになると、案の定、旦那は作蔵に、柳橋の”小いな”という芸者の所まで使いに行け、と言いつけた。かって知ったる旦那の女。
 作蔵、にんまりして「そう来べえと思ってた。行かれねえ。おまえさま、あんだんべえ、今日はお内儀様芝居にやったなァ、柳橋の小いなをこけえ呼んで、大騒ぎする魂胆だんべえ」と、すべて見通されては、旦那も二の句が継げない。 一八だけでなく、作蔵の代わりに芝居にやった藤助もグルなのだが、実はだんなは男の意気地で、小いなを三日でも家に入れてやらなければならない義理があるので、今日一日、お内儀さんを芝居にやり、口実をこしらえて実家に帰すつもり。 決して、本妻を追い出そうというのではないからと、作蔵を納得させ、やっと柳橋に行かせた。

  まもなく、小いな始め、柳橋の芸者や幇間連中がワッと押しかけ、たちまち飲めや歌えのドンチャン騒ぎ。
 そこへ、藤助が血相変えて飛び込んできて、おかみさんが観劇中、急に加減が悪くなり、これから帰ってくるとご注進、さあ大変。 一八は、風を食らって逃げてしまった、という。 膳や盃洗を片づける暇もなく、小いなをどこかに隠そうとウロウロしている間に、玄関で、おかみさんの声。

  しかたなく、部屋の中に入れないように、旦那以下、総出で襖(ふすま)を押さえる。玄関に履物が散らばっているので、もうバレていておかみさんは、カンカン。
  「きよや、早く襖をお開け」、「中で押さえてます」、「もっと強くおたたき」女中が思い切りたたいたので、襖の引手が取れて穴が開いた。その穴から覗いて、「あらまあ、ちょいと。お座敷が大変だこと。お内儀さんご覧あそばせ」と言うと、襖の向こうから幇間が、縁日の覗きカラクリの節で・・・、
 「やれ~、初段は本町二丁目で、伊勢屋の半兵衛さんが、ソラ、お内儀さんを芝居にやりまして、後へ小いなさんを呼び入れて、飲めや歌えの大陽気、ハッ。お目に止まりますれば先妻(先様)はお帰りッ」。

 



ことば

すたれた新作;明治の新作三代目柳家小さんの、明治45(1912)年の速記が残るだけで、現在はすたれた噺で誰もやり手は居ません。
 噺の中で、かみさんや女中を芝居見物にやる場面がありますが、その劇場は、新富座となっています。
 新富座(しんとみざ)は、明治8年(1875年)に守田座を改称して設立された株式会社組織の劇場。経営者は十二代目守田勘弥。所在地は京橋区新富町六丁目36・37番地(現在の中央区新富二丁目6番1号)。日本最初の西洋式座席、ガス灯による照明を備えた近代的な劇場として、明治8年(1875)に開場。 この噺は、それ以後の作になります。

のぞきカラクリ;のぞきからくり【覗機関】。箱の中に、物語の筋に応じた幾枚かの絵を入れておき、これを順次に転換させ、箱の手前の眼鏡を通して覗かせる装置。のぞきめがね。からくりめがね。(広辞苑)。
 紙芝居の大掛かりなもので、それを見るのには、お金を払って手前の覗き穴から中を覗き、物語のストーリーを追うものです。縁日やイベント会場などで盛んに催された。
 右図;「からくり」大阪天満宮 1957 写真家・木村伊兵衛撮影  別冊太陽189平凡社。「木村伊兵衛」人間を写しとった写真家より。落語「くしゃみ講釈」より

 代金は二銭で、絵看板のある小さな屋台で営業しました。眼鏡(直径約10cmのレンズ)をのぞくと、西洋画、風景写真などの様々な画面が次々と変わって現れます。 両側の男女が細い棒をたたきながら、独特の節回しで「解説」を付け、それに合わせて紐を引くと、画面が変わる仕掛けです。
 明治5年(1872)夏ごろから、浅草奥山の花屋敷の脇で始まり、神保町、九段坂上など十数か所で興行され、たちまちブームに。 原型は江戸中期にすでにありましたが、維新後の写真の普及とともに、開花新時代の夏の風物詩となりました。 早くも、明治10年前後には飽きられ、下火になったようです。 歌舞伎では、河竹黙阿弥が、幕末に書いた極悪医者の狂言「村井長庵巧破傘(むらいちょうあん たくみのやれがさ)」の下題を明治になり、「勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあく のぞきからくり)」と変えて、時代を当て込みました。

 サゲは、のぞきからくりの口上、特に先客を追い出す時の文句を取り込んだものですが、現在では事前の説明がいるでしょう。 小さんは、この噺のマクラとして、「権助提灯」を短縮して入れています。

男の意気地;この旦那、まだ小いなを正式に囲ってはいません。 あるいは、何か金銭的な理由その他で妾宅を持たせてやれない代わりに、二、三日なりと本宅に入れて、実を見せたいというところ。いかにも明治の男らしい、筋の通し方です。

幇間(ほうかん);太鼓持ち。男芸者。客の宴席に侍し、座を取り持つなどして遊興を助ける男。
  「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味の職業となります。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びのプロが、幇間すなわち太鼓持ちである、ともいわれる。
  専業の幇間は元禄の頃(1688 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751- 64年)の頃とされる。江戸時代では吉原に属した幇間を一流としていた。現在では絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が途切れつつある。古典落語では多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。浅草寺の鎮護堂には昭和38年(1963)に建立された幇間塚がある。

 幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい_たますけ。本名、直井厳、1907年5月11日 - 1994年5月4日。右絵;山藤章二画)が挙げられる。
  正式な「幇間」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5~6年の修業を勤め、お礼奉公をして、正式な幇間となる。芸者と同じように、見番に所属している。服装は、見栄の商売であるから、絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄または正目の通った下駄、扇子を鳴らしながら、旦那を取り巻いた。
   「幇間もち揚げての末の幇間もち」  
 一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。 これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。 「王子の幇間」の噺の主人公も野幇間。
  落語の中では野幇間が大勢出てきますが、野幇間の1歩手前が、品川で居残りをした佐平次こと”いのさん”でしょう。落語「居残り佐平次」に詳しい。

 

 浅草寺の鎮護堂の幇間塚。

芝居(しばい);歌舞伎。日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。

 歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
 そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。 「かぶき踊り」は主に女性が踊っていた事から、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」、「歌舞妃」、「歌舞妓」などの表記が用いられたが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった。現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代使われない事はなかったが、一般化したのは近代になってからである。 なお江戸時代「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた。 

左、三代目大谷鬼次(二代目中村仲蔵)の江戸兵衛、寛政六年五月、江戸河原崎座上演『恋女房染分手綱』〈1794年〉

 特徴として、歌舞伎の演目には他の演劇の演目にはない特徴がいくつかある。 まず歌舞伎狂言は世界という類型に基づいて構成されている。「世界」とは物語が展開する上での時代・場所・背景・人物などの設定を、観客の誰もが知っているような伝説や物語あるいは歴史上の事件などの大枠に求めたもので、例えば「曾我物」「景清物」「隅田川物」「義経物(判官物)」「太平記物」「忠臣蔵物」などがあり、それぞれ特有の約束ごとが設定されている。当時の観客はこれらの約束事に精通していたので世界が設定されている事により芝居の内容が理解しやすいものになっていた。ただし世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、基本的な約束事を除けば原作の物語から大きく逸脱して自由に作られたものである事も多く、登場人物の基本設定すらも原作とかけ離れている事も珍しくない。 複数の世界を組み合わせて一つの演目を作る事もあり、これを綯交ぜ(ないまぜ)とよぶ。世界毎に描いている場所や時代が異なるはずであるが、前述のように世界はあくまで題材にすぎないので、無理やり複数の世界を結び付けて1つの演目を作りだす。 江戸時代に作られた演目のその他の特徴として「その長さが長大な事」、「本筋の話の展開の合間に数多くのサイドストーリーを挟んだり場面ごとに違った種類の演出(時代物と世話物)が行われたりする事」等があげられる。前者はこれは当時の歌舞伎が日の出から日没まで上演した事による。一方後者は興行の中に様々な場面を取り込む事で多種多様な観客を満足させる事を狙ったものである。 現在ではこのような長大な演目の全場面を上演する事(通し狂言)はまれになり、複数の演目の人気場面のみを順に演じる事(ミドリ/見取り)が多い。昭和のはじめごろまでは、演目を並べるときに「一番目」(時代物)、「中幕」(所作事または一幕物の時代物)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが、現在では行われていない。 また江戸時代には(当時における)現代の人物や事件やをそのまま演劇で用いる事が幕府により禁止されていたので、規制逃れのため登場人名を仮名にした上で無理やり過去の出来事として物語が描かれるという特徴もある。しかし仮名といっても羽柴秀吉の事を「真柴久吉」と呼ぶ程度のものなので、このように歪曲された演目の内容から真に描きたい事件を読み解くのは容易であった。

  

 歌舞伎定式幕。国立劇場大劇場の幕間、市村座様式。銀座歌舞伎座の幕(森田座様式)とは色の配列が違います。

柳橋(やなぎばし);かつて東京都台東区柳橋に存在した花街で、新橋の花街が明治にできたのに対し、柳橋は江戸中期からある古い花街です。
  柳橋に芸妓が登場するのは文化年間(1804年-1817年)で、上田南畝の記録によると14名が居住していた。 天保13年(1842)、水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成される。やがて洗練され、江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚な街として栄えてくるようになる。安政6年(1859)には、芸妓140名から150名に増加した。
  明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」(りゅうしんにきょう)と称されるようになる。明治時代の客筋は、ほぼ商が5割、髭3割、雑2割(商は実業家、相場師、銀行家など。髭は、政治家、軍人、弁護士など。雑は、俳優、力士、芸人など)。このころは柳橋芸者のほうが新橋より格上で、合同した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかった。 昭和3年(1928)には、料理屋、待合あわせて62軒、芸妓366名の大規模を誇り、芸妓の技芸も優れ、新橋演舞場や明治座に出演し披露していた。代表的な料理屋は伊藤博文が利用した現存する「亀清楼」であった。
 現在は、芸者は絶滅して居ません。また、料理屋は亀清楼を除いて同じく絶滅し、オフィスビルやマンションになってしまいました。

 柳橋の芸者や幇間連中がワッと押しかけ、と言っていますが、柳橋までは、小伝馬町、馬喰町を抜けて行くと、約1.5kmで柳橋の入り口浅草橋に行けます。大店の旦那のご指名とあらば喜んで飛んでくるでしょう。

 正面に見えるのが、神田川に掛かる柳橋。その袂のビルが亀清楼、略して”亀清”です。橋の手前が柳橋(街)。

本町二丁目(ほんちょう2ちょうめ);現在の中央区日本橋室町二~三丁目、日本銀行の東側。当時の大店(おおだな)が集まっている商業の中心地。



                                                            2020年3月記

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