落語「掛け取り萬歳」の舞台を行く 三遊亭円生の噺、「掛け取り萬歳」(かけとりまんざい)より
■掛け取り萬歳(かけとりまんざい);上方落語では天下一浮かれの掛け取り(てんかいち うかれの かけとり)。現在は東西とも、省略形の掛け取り(かけとり)という題で演じられることが多い。
主人公のもとに4人の人物が登場する構成のうち、ひとり目が登場する場面だけ演じるものを狂歌家主(きょうかいえぬし、きょうかやぬし)、ふたり目の人物までを借金取り撃退法(しゃっきんとりげきたいほう)の題で演じることがある。
■ツケ;かつて食料品の小売では、月末にまとめて支払う方法が一般的だった。その内、盆暮れの年2回になった。その為、ツケの利く店には町内の店で買うのが通例となった。6ヶ月分の集金ですから、取る方も真剣ですが、逃げる方も真剣勝負。
大晦日の掛け取りは、取り立てが厳しく鬼や閻魔に見えたことでしょう。国芳画「極月大晦日の鬼」
■「貸しはやる 借りは取られる 世の中に何とて大家つれなかるらん」;歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』に登場する、「梅は飛び桜は枯るる 世の中に何とて松のつれなかるらん」のパロディ。
平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。
『菅原伝授手習鑑』・寺子屋の段
左浮世絵:「寺子屋」 二代目中村仲蔵の松王丸(左)と、二代目中村のしほの松王丸女房・千代。寛政8年(1796)7月、江戸都座。初代歌川豊国画。
(寺子屋の段)源蔵が帰ってきた。だがその顔色は青ざめている。ところが戸浪が小太郎を紹介すると、その育ちのよさそうな顔を見て機嫌を直した。戸浪は子供たちを奥へやり遠ざけ、源蔵になにかあったのかと尋ねると、ついに菅秀才捜索の手が源蔵のところに迫ってきたのだという。村の集まりというのは嘘で、行った先で待ち構えていたのは時平の家来春藤玄蕃と事情を知り尽くした松王丸であった。この村はすでに大勢の手の者が囲んでいる、この上は菅秀才の首を討って渡せと言われ、帰って来たのだった。
もはや絶体絶命かと思われたが、しかし源蔵は小太郎の顔を見て、これを菅秀才の身替りにしようと考えたのである。もしこれが偽首と露見したらその場で松王はじめ手の者を斬って捨て切り抜けよう、それでもだめなら菅秀才とともに自害して果てようとの覚悟である。しかし今日寺入りしたばかりの子を、いかに菅秀才の身替りとはいえ命を奪わなければならぬとは…戸浪はもとより源蔵も「せまじきものは宮仕え」とともに涙に暮れるのであった。
寺子屋より、左、寺子屋に戻ってきた小太郎の母千代と、右、首桶を持って出て来た武部源蔵。国貞筆。
この項、落語「菅原息子」より孫引き
■早桶(はやおけ);粗末な棺桶。死者のあったとき、間に合わせに作るところからいう。座棺が中心であったから桶を作るのと同じようにその場で作り上げた。落語「付き馬」参照。
■狂歌(きょうか);短歌の一種。和歌に対して、狂体の和歌、すなわち純正でない和歌の義。ひなぶり (夷曲、夷振)
、えびす歌、狂言歌、ざれごと歌、たはれ歌、ざれ歌、俳諧歌、興歌、へなぶり、などの異名がある。古くは『万葉集』の戯笑歌、『古今集』の誹諧歌、軍記物語中の落首なども狂歌とみるべきであり、鎌倉時代には暁月房が詠じたといい、室町時代には『永正狂歌合 (きょうかあわせ) 』がある。全盛期は江戸時代で、初め松永貞徳ら俳人が盛んにつくり、やがて鯛屋貞柳らの専門作家が出た。明和頃から江戸に中心が移り、四方赤良 (よものあから。大田南畝 )
、朱楽菅江 (あけらかんこう) らが輩出、「天明ぶり」の全盛期を迎えたが、幕末にはようやく凋落し、明治以後はほとんど姿を消した。狂歌は滑稽、諧謔を主眼とし、題材も自由で多く日常卑近の生活に取材し、用語は雅俗を併用し、機知頓才を重んじる当意即妙の遊戯文学である。
■『仮名手本忠臣蔵』の「上使」;朝廷・主家などの上級者から上意伝達のため派遣される使者。
仮名手本忠臣蔵四段目、二人の上司を迎えた塩谷判官。 国貞画
■近江八景(おうみはっけい);日本の近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つ。
江戸後期の浮世絵師・歌川広重によって描かれた錦絵による名所絵(浮世絵風景画)揃物『近江八景』は、彼の代表作の一つであり、かつ、近江八景の代表作である。名所絵揃物の大作である『保永堂版 東海道五十三次』が成功を収めた後を受けて、天保5年(1834)頃、版元・保永堂によって刊行された。全8図。 浮御堂
■石山の秋の月;石山寺は月の名所と知られ、近江八景の一つに入っています。滋賀県大津市にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)、開基は良弁。西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。
■三井寺(みいでら);正式には「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興され、以来一千百余年にわたってその教法を今日に伝えてきました。三井の梵鐘で知られる。
■三河萬歳(みかわまんざい);、愛知県の旧三河国地域であった安城市・西尾市・豊川市小坂井町・額田郡幸田町に伝わる伝統芸能である。もとは正月の祝福芸だが、現在は季節を問わず慶事の際などにも披露される。1995年(平成7年)12月26日に国の重要無形民俗文化財に指定された。
神道三河万歳(安城の三河万歳保存会) 扇を持った太夫(右)と小鼓を持った才蔵。
■義太夫(ぎだゆう);義太夫節の略で、浄瑠璃(三味線音楽における語り物の総称)の一流派。もともとは、現在の文楽につながる人形浄瑠璃の音楽やせりふ、ナレーション、効果音などとして生まれた。人形浄瑠璃では、近松門左衛門らによって名作が生まれ、それが歌舞伎にもとり入れられた。歌舞伎の世界では、その演目を「義太夫狂言」という。群馬には県古典芸術義太夫協会という組織があり、会長は安中市松井田町の八城人形浄瑠璃城若座保存会の原田徳四郎会長(90)が務めている。
落語家で義太夫が本格的に語れるのは円生しかいません。円生は6歳の頃、母親の豊竹小かなの三味線で寄席の舞台に立ちました。芸名、豊竹豆仮名大夫で、義太夫を語り、寄席を掛け持ちで母親と回っていました。2~3年後に伊香保に出掛けました。子供のことで坂の多い町中を走っていたら、階段でつまずいて胸を強く打って動けなくなった。医者が声を搾って語っていると、身体に無理が掛かり早死にすると宣告され、やむを得ず親が「何になりたい」と言うので、噺家になると言って許して貰って、橘家円童(たちばなや えんどう)と言う名で高座に上がるようになった。(三遊亭円生「書きかけの自伝」より)。
子供時分、この様に義太夫を語っていたので、その素養があって、無理に、らしく演じているのでは無く、自然に語り聞かせるのです。途中で「上手い!」と、掛け声が掛かるほどです。義太夫の素養の無い噺家は難しい話の代表格です。
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