落語「掛け取り萬歳」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「掛け取り萬歳」(かけとりまんざい)より


 

 暮れの掛け取りを描いた噺で、あすこはズウズウしいからと言って旦那が掛け取りになってきます。
 「大晦日首でも取ってくる気なり」と出掛けますが、払う方もシャアシャアして「大晦日首で良ければやる気なり」。

 長屋に住む男・八五郎は、大晦日だというのにたまった家賃や、食料品に掛かったツケを払う金が無かった。 去年は八五郎が、早桶の中に入って死んだふりをしてやり過ごそうとしたが、騙された長屋の大家が、妻に香典代わりの心付けを渡そうとした。妻が固辞するので、八五郎は思わず手を出し「もらっとけッ」。大家は驚いて下駄を履かずに逃げ出したのだった。その下駄を履いて年始の挨拶に行った。
 今年も死んだふりをするわけにはいかず、八五郎は困った末に、掛け取りたちの好きなもので断りを入れれば、気分よく帰っていくのではないかと思いつきやることにした。

 さっそく大家は四ヶ月分の家賃を催促にやって来た。狂歌家主と言うくらい狂歌狂いであった。八五郎は大家に、自分の作った狂歌を披露した。
 「何もかもありたけ質に置き炬燵 かかろう島の蒲団だになし」
 「貧乏のボウ(棒)も次第に長くなり 振り回されぬ年の暮れかな」
 「貧乏はすれば悔しや裾綿の 下から出ても人に踏まるる」
 「貧乏をすれど我が家に風情あり 質の流れに借金の山」。
 「山水になって風流だな」、感じ入った大家は、「貸しはやる 借りは取られる 世の中に何とて大家つれなかるらん」と詠み、返済の猶予を約束して帰って行った。

 魚屋の金公は喧嘩っ早い性格。彼が「借金をとるまでは、テコでも動かない」と言ったのを逆手に取って、八五郎は「金が入るまで、そこに何十年でも座っていろッ」とやり返して挑発。「町中で会ったときに、目をそらさないで、一言言い訳すれば取りに来ないんだ」と押し問答のうちに、「決して動くんじゃ無いぞ」、「お前一軒だけ取りに来ているんじゃ無い。座っていられないんだ」、「街角で会ったときに、目線を外して逃げるからいけないんだ」、「それは俺が言った台詞だ」。
 魚屋の金公は帰ろうとすると、「金を受け取ったのか」と突っ込まれ、仕方なしに「もらった」と言うと、「受取を出しな」、金公がにらみつけるが後の祭り。判まで押させて帰してしまった。

 大坂屋の旦那は義太夫好き。八五郎は「お掛け取り様の、お入ーりぃー」と叫び、義太夫節で「・・・払えません」、「なんていう声を出してるんだ。わしが浄瑠璃が好きだからと言って義太夫で断りを言うか、何時なら払えるんだ」。(太棹が入る)♪「ころは・・・春が済んで五月に・・・、盆過ぎて、菊のころ・・・、大晦日には払えない。10年、100年・・・千年、万年」、「その時には払えるのか」、「おぼつきません」。「それは冗談ですが、来春には払います」、「それではお願いしますよ」、「帰っちゃった。面白いね」。

 酒屋の番頭さんが来た。番頭さんは芝居が大好き。「お掛け取り様のお入り~」、この掛け取りを歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の「上使」に見立てて招きいれると、彼はどぶ板を花道に見立ててやって来た。(下座から笛太鼓三味線が入る)番頭さん上使になったつもりで八五郎に催促する。「謹んで承れ。ひとつ、月々溜まる味噌醤油、酒の勘定、積もり積もって二十八円六十五銭、主人吝兵衛の厳命、(芝居口上が良いので客席から、「音羽やッ」の声が掛かる。円生上使の扇子を取り落とす)。その言い訳、扇面をもってとな」。八五郎は、芝居調子で「雪晴るる 比良の高嶺の夕間暮れ 花の盛りを過ぎし頃かな」と、近江八景を組み込んだ歌を読む。「こころ矢橋(やばせ)と商売に浮き御堂やつすかいもなく膳所(ぜぜ)はなし、城は落ち堅田に落ちる雁金の、貴殿に顔を粟津のも比良暮雪の雪ならで 元手の代(しろ)は尽き果てて、今しばらく唐崎の・・・」と言い訳。「あの石山の秋の月・・・三井寺の鐘を合図に」と、来年の9月まで支払いを遅らせる約束を果たす。掛け取りは、役者が舞台を下がるようにして長屋を出て行く。

 三河屋の旦那がやって来ると、八五郎は三河屋を三河萬歳の太夫に見立て、三河萬歳の才蔵の調子で掛け合いになった。「待っちゃろか。待っちゃろか。待っちゃろかと申さ~ば。ひと月ならひと月目、ふた月ならふた月目、こけらあじゃ、どうだんべえ」とはやす。「なかァなか、そんなことじゃあ勘定なんかできねぇ」、「できなけれぇば、待っちゃろか」とするうちに、掛け合いに持ち込み、最後には呆れた旦那が「ならばいつ払えるんだ」と問うと、「ああら、ひゃく万年もォ、過ぎたなら払います」。

 



ことば

掛け取り萬歳(かけとりまんざい);上方落語では天下一浮かれの掛け取り(てんかいち うかれの かけとり)。現在は東西とも、省略形の掛け取り(かけとり)という題で演じられることが多い。 主人公のもとに4人の人物が登場する構成のうち、ひとり目が登場する場面だけ演じるものを狂歌家主(きょうかいえぬし、きょうかやぬし)、ふたり目の人物までを借金取り撃退法(しゃっきんとりげきたいほう)の題で演じることがある。

ツケ;かつて食料品の小売では、月末にまとめて支払う方法が一般的だった。その内、盆暮れの年2回になった。その為、ツケの利く店には町内の店で買うのが通例となった。6ヶ月分の集金ですから、取る方も真剣ですが、逃げる方も真剣勝負。

 

 大晦日の掛け取りは、取り立てが厳しく鬼や閻魔に見えたことでしょう。国芳画「極月大晦日の鬼」

■「貸しはやる 借りは取られる 世の中に何とて大家つれなかるらん」;歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』に登場する、「梅は飛び桜は枯るる 世の中に何とて松のつれなかるらん」のパロディ。

 平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。
菅丞相(かんしょうじょう) : 菅原道真がモデル(「丞相」は本来「じょうしょう」と読むが、本作では「しょうじょう」という)。右大臣で、高潔かつ英明な人物故に悲運をたどる。
菅秀才(かんしゅうさい) : 菅丞相と御台所との間の子。七歳。
武部源蔵(たけべげんぞう) : 以前は菅丞相の家来で、またその書道の弟子でもあったが、過去に問題を起こし丞相に勘当され、現在は寺子屋を開いてそれを身過ぎにしている。
戸浪(となみ) : 源蔵の妻。これも以前腰元として菅丞相の家に仕えていたが、源蔵とともに館を追われた。
松王丸(まつおうまる) : 三つ子の次男。 藤原時平の舎人、兄弟の中の切れ者。
千代(ちよ) : 松王丸の妻。
小太郎(こたろう) : 松王丸と千代の子。

 『菅原伝授手習鑑』・寺子屋の段
 (寺入りの段)、京の外れ、芹生の里にある源蔵の寺子屋では今日も近在から百姓の子供たちが集まり手習いをしているが、源蔵は村の集まりがあって留守にしていた。そんな中で姿をやつした菅秀才が、これもほかの子供とともに机を並べて手習いをしており、よい歳をしてへのへのもへじなど書いている十五のよだれくりを嗜めたりしている。そこへ、同じ村に暮らしているという女が子供を連れ、下男に机や煮染めの入った重箱などの荷を担がせて訪れる。戸浪が出てきて応対する。聞けばこの寺子屋に寺入り(入門)させたいとわが子を連れてきたという。子供は名を小太郎といった。戸浪は小太郎を預かることにし、母親は後を頼み隣村まで行くといって下男とともに出ていった。

 左浮世絵:「寺子屋」 二代目中村仲蔵の松王丸(左)と、二代目中村のしほの松王丸女房・千代。寛政8年(1796)7月、江戸都座。初代歌川豊国画。 

 (寺子屋の段)源蔵が帰ってきた。だがその顔色は青ざめている。ところが戸浪が小太郎を紹介すると、その育ちのよさそうな顔を見て機嫌を直した。戸浪は子供たちを奥へやり遠ざけ、源蔵になにかあったのかと尋ねると、ついに菅秀才捜索の手が源蔵のところに迫ってきたのだという。村の集まりというのは嘘で、行った先で待ち構えていたのは時平の家来春藤玄蕃と事情を知り尽くした松王丸であった。この村はすでに大勢の手の者が囲んでいる、この上は菅秀才の首を討って渡せと言われ、帰って来たのだった。 もはや絶体絶命かと思われたが、しかし源蔵は小太郎の顔を見て、これを菅秀才の身替りにしようと考えたのである。もしこれが偽首と露見したらその場で松王はじめ手の者を斬って捨て切り抜けよう、それでもだめなら菅秀才とともに自害して果てようとの覚悟である。しかし今日寺入りしたばかりの子を、いかに菅秀才の身替りとはいえ命を奪わなければならぬとは…戸浪はもとより源蔵も「せまじきものは宮仕え」とともに涙に暮れるのであった。
 菅秀才の首を受け取りに、春藤玄蕃と松王丸が来た。松王丸は病がちながら、菅秀才の顔を知っているので首実検のためについてきている。村の子供たちを一人ずつ確めそれらをすべて帰したあと、いよいよ菅秀才の首を討つ段となり、源蔵は首桶を渡された。源蔵は奥で小太郎の首を討ち、それを首桶に入れて出てきて松王丸の前に差し出す。張り詰めた空気の中、松王丸は首を実検した。ためつすがめつ、首を見る松王丸。
 「ムウコリャ菅秀才の首討ったわ。紛いなし相違なし」
 松王丸は玄蕃にそう告げた。玄蕃はそれに満足して首を収め、時平公のところへ届けようと手下ともども立ち去る。松王丸は病を理由に、玄蕃とは別れて帰ってゆく。あとに残った源蔵と戸浪はひとまず安堵した。だが今度は小太郎の母親が、小太郎を迎えにやってきたのである。 致し方ないと源蔵は隙を見て母親に斬りかかるが、母親は小太郎の文庫(手習の道具箱)で源蔵の刀を受け止めた。ところが刀を受け止めた文庫が割れると、その中から出たのは死者の着る経帷子や南無阿弥陀仏と記した葬礼用の幡、そして母親は涙ながらに、「菅秀才のお身代り、お役に立ってくださったか、まだか様子が聞きたい」というので源蔵はびっくりする。そのとき表の門口より、「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」という声。続いて「女房悦べ、せがれはお役に立ったぞ」との言葉に、母親は前後不覚に泣き崩れ、外から現れたのは松王丸であった。この様子に唖然とする源蔵と戸浪。
  松王丸は事情を語る。小太郎とはじつは松王丸の実子、その母親とは松王丸の女房千代だったのである。松王丸は本心では菅丞相に心を寄せ、牛飼いとして仕えながらも菅丞相に敵対する時平とは縁を切りたいと思っていた。そして菅秀才の身替りとするため、あらかじめ小太郎をこの寺子屋に遣わしていたのだと。 戸浪は千代の心中を察して涙する。松王丸はなおも嘆く千代を叱るが、小太郎がにっこり笑っていさぎよく首を差し出したと源蔵から聞くと、「でかしおりました、利口なやつ立派なやつ、健気な…」と言いつつ、「思い出すは桜丸…せがれが事を思うにつけ思い出さるる」と涙し、千代も「その伯父御に小太郎が、逢いますわいの」と泣き沈む。忠義のためわが子を犠牲にした松王夫婦の姿に、菅秀才も涙するのであった。
 やがて松王丸が駕籠を招き寄せると、駕籠から菅丞相の御台所が現われ菅秀才と再会する。以前北嵯峨で御台を助け連れ去った山伏とは、松王丸であった。松王夫婦は上着を脱ぐと葬礼の白装束となり、御台が乗ってきた駕籠に首のない小太郎のなきがらを乗せ、野辺の送りをする。悲しみの中、皆は小太郎の霊を弔う。御台所と菅秀才は河内の覚寿のもとへ、松王夫婦は埋葬地の鳥辺野へとそれぞれ別れてゆく。  

 

 寺子屋より、左、寺子屋に戻ってきた小太郎の母千代と、右、首桶を持って出て来た武部源蔵。国貞筆。

 この項、落語「菅原息子」より孫引き

早桶(はやおけ);粗末な棺桶。死者のあったとき、間に合わせに作るところからいう。座棺が中心であったから桶を作るのと同じようにその場で作り上げた。落語「付き馬」参照。

狂歌(きょうか);短歌の一種。和歌に対して、狂体の和歌、すなわち純正でない和歌の義。ひなぶり (夷曲、夷振) 、えびす歌、狂言歌、ざれごと歌、たはれ歌、ざれ歌、俳諧歌、興歌、へなぶり、などの異名がある。古くは『万葉集』の戯笑歌、『古今集』の誹諧歌、軍記物語中の落首なども狂歌とみるべきであり、鎌倉時代には暁月房が詠じたといい、室町時代には『永正狂歌合 (きょうかあわせ) 』がある。全盛期は江戸時代で、初め松永貞徳ら俳人が盛んにつくり、やがて鯛屋貞柳らの専門作家が出た。明和頃から江戸に中心が移り、四方赤良 (よものあから。大田南畝 ) 、朱楽菅江 (あけらかんこう) らが輩出、「天明ぶり」の全盛期を迎えたが、幕末にはようやく凋落し、明治以後はほとんど姿を消した。狂歌は滑稽、諧謔を主眼とし、題材も自由で多く日常卑近の生活に取材し、用語は雅俗を併用し、機知頓才を重んじる当意即妙の遊戯文学である。
 ブリタニカ国際大百科事典

『仮名手本忠臣蔵』の「上使」;朝廷・主家などの上級者から上意伝達のため派遣される使者。
 仮名手本忠臣蔵四段目、塩谷館の段。塩谷判官に切腹を申し伝えに石堂右馬之丞と副使の薬師寺次郎左右衛門が来館。領地を没収の上切腹を申しつけられる。

 仮名手本忠臣蔵四段目、二人の上司を迎えた塩谷判官。 国貞画

近江八景(おうみはっけい);日本の近江国(現・滋賀県)にみられる優れた風景から「八景」の様式に則って8つを選んだ風景評価(作品の場合は題目)の一つ。
  石山秋月 (いしやま の しゅうげつ) = 石山寺(大津市)。
  勢多(瀬田)夕照 (せた の せきしょう) = 瀬田の唐橋(大津市)。
  粟津晴嵐 (あわづ の せいらん) = 粟津原(大津市)。
  矢橋帰帆 (やばせ の きはん) = 矢橋(草津市)。
  三井晩鐘 (みい の ばんしょう) = 三井寺(園城寺)(大津市)。
  唐崎夜雨 (からさき の やう) = 唐崎神社(大津市)。
  堅田落雁 (かたた の らくがん) = 浮御堂(大津市)。
  比良暮雪 (ひら の ぼせつ) = 比良山系。
落語「近江八景」を参照。膳所は含まれない(膳所はなし)。

 江戸後期の浮世絵師・歌川広重によって描かれた錦絵による名所絵(浮世絵風景画)揃物『近江八景』は、彼の代表作の一つであり、かつ、近江八景の代表作である。名所絵揃物の大作である『保永堂版 東海道五十三次』が成功を収めた後を受けて、天保5年(1834)頃、版元・保永堂によって刊行された。全8図。

石山秋月
勢多夕照
粟津晴嵐
矢橋帰帆
三井晩鐘
唐崎夜雨
堅田落雁
比良暮雪(下絵)

 浮御堂(うきみどう);近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。先代の堂は昭和9年(1934)に室戸台風によって倒壊、現在の堂は昭和12年(1937)に再建されたもので、室戸台風の直後に竜巻も近くで発生している。昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。広重の「堅田の落雁」のバックにも描かれた御堂。

石山の秋の月;石山寺は月の名所と知られ、近江八景の一つに入っています。滋賀県大津市にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観世音菩薩(如意輪観音)、開基は良弁。西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。

三井寺(みいでら);正式には「長等山園城寺(おんじょうじ)」といい、天台寺門宗の総本山です。平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興され、以来一千百余年にわたってその教法を今日に伝えてきました。三井の梵鐘で知られる。

三河萬歳(みかわまんざい);、愛知県の旧三河国地域であった安城市・西尾市・豊川市小坂井町・額田郡幸田町に伝わる伝統芸能である。もとは正月の祝福芸だが、現在は季節を問わず慶事の際などにも披露される。1995年(平成7年)12月26日に国の重要無形民俗文化財に指定された。
 基本的には太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の2人が1組となる。明治時代以降に取り入れられた尾張万歳系の演目の場合は、太夫1人に対し才蔵が2~6人で披露される。 が、西尾の森下万歳は太夫と才蔵の2人1組である。
 一般的には、太夫は風折烏帽子に素襖(素袍)、才蔵は侍烏帽子か大黒頭巾に裁着袴(たっつけばかま)という衣装である。太夫は手に扇子か舞扇を持つ。 江戸時代に三河出身の徳川家によって優遇されたため、江戸城や大名屋敷の座敷にあがり万歳をすることが可能であった。そのため太夫は武士のように帯刀、大紋の着用を許され、頭には風折烏帽子を、扇は中啓(能楽で使う扇の一種で、閉じた状態を横から見た時に先が広がっている)を用いた。これらの出で立ちは五位以上(一般の大名が任ぜられる位)の武士が、大紋を着用するための慣わしに沿ったものである。また才蔵も素襖を着用し、頭に侍烏帽子を着けた。太夫、才蔵共に足元を引きずる長い袴を着用する。西尾の森下万歳はこの形で演じられる。
 才蔵市= 江戸時代、毎年12月28日に江戸の日本橋南詰四日市(現在の東京都中央区日本橋一丁目あたり)に立った、万歳の相方となる才蔵を雇う市場のこと。三河万歳の場合、三河から太夫が単身で江戸に向い、現地で才蔵を期間雇用するが慣習となっていた。才蔵は主に下総(千葉県)からきた農民で、太夫に雇われると正月までの短期間に才蔵を演じる手ほどきを受けた。しかし太夫は、呼吸の合う気に入った才蔵を見つけると、年末に再び万歳を組むことを約束し三河に帰るため、新規に雇われる機会が減っていき、江戸時代後期の天保の頃には廃れていった。三河から来る万歳の太夫も房総から来る才蔵も、互いに遠方同士ではあったが、農閑期に万歳師となる農民という同じ境遇故に義理固く、年末に江戸にある太夫の定宿に才蔵が尋ねて行き再会するが、病気や弔事で行けない時などは代わりのものを差し向けた。
 ウイキペディアより

 神道三河万歳(安城の三河万歳保存会) 扇を持った太夫(右)と小鼓を持った才蔵。

義太夫(ぎだゆう);義太夫節の略で、浄瑠璃(三味線音楽における語り物の総称)の一流派。もともとは、現在の文楽につながる人形浄瑠璃の音楽やせりふ、ナレーション、効果音などとして生まれた。人形浄瑠璃では、近松門左衛門らによって名作が生まれ、それが歌舞伎にもとり入れられた。歌舞伎の世界では、その演目を「義太夫狂言」という。群馬には県古典芸術義太夫協会という組織があり、会長は安中市松井田町の八城人形浄瑠璃城若座保存会の原田徳四郎会長(90)が務めている。
 貞享元年(1684)初代竹本義太夫(筑後掾)によって創始された浄瑠璃の代表的流派。播磨、嘉太夫の二流と当時流行の語り物などの長所をとり入れて大成したもの。門弟豊竹若太夫が一派を起こし二派になる。近松門左衛門、紀海音ら名作者を生み、歌舞伎をしのぐ流行をみせた。人形芝居や歌舞伎で用いられる。

 落語家で義太夫が本格的に語れるのは円生しかいません。円生は6歳の頃、母親の豊竹小かなの三味線で寄席の舞台に立ちました。芸名、豊竹豆仮名大夫で、義太夫を語り、寄席を掛け持ちで母親と回っていました。2~3年後に伊香保に出掛けました。子供のことで坂の多い町中を走っていたら、階段でつまずいて胸を強く打って動けなくなった。医者が声を搾って語っていると、身体に無理が掛かり早死にすると宣告され、やむを得ず親が「何になりたい」と言うので、噺家になると言って許して貰って、橘家円童(たちばなや えんどう)と言う名で高座に上がるようになった。(三遊亭円生「書きかけの自伝」より)。  子供時分、この様に義太夫を語っていたので、その素養があって、無理に、らしく演じているのでは無く、自然に語り聞かせるのです。途中で「上手い!」と、掛け声が掛かるほどです。義太夫の素養の無い噺家は難しい話の代表格です。



                                                            2020年4月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system