落語「三助の遊び」の舞台を行く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「三助の遊び」(さんすけのあそび)より


 

 上京して湯屋で釜焚きをしている男。
 今日は釜が壊れて店が休みになったので、久しぶりにのんびりできると喜んだが、常連客が次から次へとやってきて、その度に 「今日は休みかぃ」 と聞かれるので、うるさくてしかたがない。
 で、浅草あたりをぶらついていると、幇間の次郎八が寄って来た。次郎八は吉原へお供で遊びに行きたいと誘う。
 権助は仕事仲間の辰公と吉原へ行って懲りている。辰公が女たちの前で
 ”古木集めて金釘ためてそれが売れたら豚を食う”
なんて都都逸を聞かせたもんだからすっかりふられてしまったという。
 次郎八は「手前がお供をするからには、必ずもてさせてみせる」といい、権助を蔵前の両替商の若旦那で大見世での遊びに飽きて、今晩は小見世で遊ぶ趣向ということにして吉原に繰り込む。

  段取り通り小見世に上がり、次郎八は若い衆に「今日は若旦那が小見世遊びがしたいというのでお供をした。・・・御意に召せば、後のこともあろうから、そこは万事飲み込んで・・・」、「・・・旦那様の御意にかなえば、お流連(おながし・連泊)になりますかな」、横から権助が「いや~、わしは流し(湯客の背中を洗うこと)はやらねえでがす」と、ぶち壊しそうな事を言う。
 次郎八は「若旦那は黙っていらっしゃい・・・」と、上手く受け流し、こんな調子だといつボロが出るやも知れず、早いお引けとする。
「では、若旦那、おやすみなさい。ご用があったら次郎公と呼んでください」。

 廊下で女郎達の話し声が聞こえる、「可祝さん、今夜の人はおつだねえ、でも”白木の三宝で、ひねりっぱなし”はごめんだよ」、「次郎公、とうとう俺の商売があらわれた。向こうの方で女子(おなご)同士が『白木の三宝で、・・・・ひねりっぱなしはごめんだよ』と、言ってるだ。はあ、三が日の番台があらわれたかな?」、「ははは、正月三が日には銭湯じゃ~、番台の白木の三宝に客から祝儀をもらうしきたりですが、それじゃござんせんよ。この遊郭(さと)では、白木の三宝というのは掛け流しに使うもので、使い捨ててしまうもの。『ひねりっぱなしはごめん』というのは一晩きりじゃいやだと言葉で、銭湯とは関わりありゃ~しませんで」。
 「左近さん、今夜あの人が来ているんだってねえ。お楽しみ、憎らしいねえ、叩いてやるよ」、「左近さん、あッ、痛い、叩かれちゃ、うまらないやね」。
 権助聞き間違えて、「叩かれちゃ、うまらねえと言ったが、おらあ、叩いたら、うめてやるべえじゃねえか」、「そりゃ~、銭湯ではお客が羽目板を叩くと、水をうめますが、あれは、背中なんか叩かれちゃつまらない、というこを言ってるんですよ」。
 女たちの話し声もなくなり静かになって権助はいびきをかいて寝てしまった。しばらくすると、梯子をトントントン、廊下をパタンパタンと上草履の音がして、障子がすらりと開いて、相方の花魁(おいらん)が入って来た。
 「あら、ちょっと、お寝(やす・休)みなの?」と揺り動かすと、 権助さん、寝ぼけ眼(まなこ)で、
「へえ、釜が損じて、早じまえでがんす」。

 



ことば

廃れた噺;明治中期までは、四代目三遊亭円生が得意にしていましたが、現在残る古い速記は、明治34年(1901)7月、「文藝倶楽部」に掲載の三代目柳家小さんのもの、大正8年(1919)9月に出版された、初代柳家小せんの遺稿集『廓ばなし小せん十八番』所収のものがあります。 戦後は、おそらく小せん直伝と思われる五代目古今亭志ん生の一手専売でした。明治の小さんでは、三助が吉原で振られて洲崎遊郭へ行く設定で、したがって舞台は洲崎でした。門下の小せんの演出では、反対に洲崎で振られて、吉原に行きます。志ん生は、二度とも吉原で、以前振られた原因となった都都逸の最後を「これが売れたらにごり酒」としていました。 志ん生没後は、三助そのものが死語になり、噺に登場する符丁などの説明が煩わしいためか、演じ手はありません。

 この落語の題名「三助の遊び」ですが、三助は何処にも出て来ません。出てくるのは釜焚きの権助です。題名が噺の内容と違い、「権助の遊び」とか「釜焚きの遊び」がしっくりします。

三助(さんすけ); 湯屋の若い衆の異称でした。使われだしたのは文化年間(1804-18)からです。
別に、下男の「権助」の別称だったこともあり、下働きをするという意味の「おさんどん」から付いた言葉です。やや皮肉と差別意識を含んだ「湯屋の番頭」という別称も使われました。
  同じ三助でも、釜焚きと流しははっきりと分かれており、両方を兼ねることありません。 この噺の主人公は釜焚き専門です。過日は古材を刻んで燃料としていましたが、現在は自動運転が出来る重油に変わっています。
 昭和初期に至るまで、東京の銭湯は越後(新潟県)出身の者が多かったと言われています。

 右図:中央で背中を流しているのが三助で、右側小窓の奥に腰掛けて上がり湯の配給しているのが権助さんです。その左側の背の低いくぐり口がザクロ口で、その奥に湯船があります。
三谷一馬画「湯屋・ザクロ口」。

洲崎遊廓(すさきゆうかく);別演者では、ここで振られて吉原へ。前身の深川遊廓は、江東区深川富岡八幡宮周辺で「七場所」と称する岡場所を形成し、吉原の「北廓」に対して「辰巳」として対抗しました。 文化文政期には、「いなせ」と「きゃん」の本場として通に愛されましたが、遊廓は天保の改革でお取りつぶしとなりました。
 明治維新後、現在の江東区東陽一丁目が埋め立て地として整地され、明治21年(1888)7月、根津権現裏の岡場所がここに移転。新たに洲崎の赤線地帯が生まれました。 最盛期には百六十軒の貸座敷、千七百人の娼婦、三十五軒の引手茶屋がありました。
 須崎について、落語「辰巳の辻占」に詳しく語っています。

禁演落語五十三題;戦時中の昭和16年10月30日、時局柄にふさわしくないと見なして、浅草寿町(現台東区寿)にある本法寺境内にはなし塚を建立して、ここに葬られて自粛対象となった。廓噺や間男の噺などを中心とした53演目のこと。戦後の昭和21年9月30日『禁演落語復活祭』によって解除。建立60年目の2001年には落語芸術協会による同塚の法要が行われ、2002年からは”はなし塚まつり”も毎年開催されている。 また、毎年8月下席の浅草演芸ホール夜の部の興行は「禁演落語の会」と銘打ち、落語芸術協会が評論家の解説をつけて禁演落語を口演している。


 
 本法寺
(台東区寿2-9)。戦後、昭和21年9月30日噺家が集まり、禁演落語復活祭を執り行い、全面的に解禁された。「付き馬」は当然、「明烏」「五人廻し」「木乃伊取り」「居残り佐平次」「文違い」「突き落とし」等の噺も含まれていた。碑の裏側には当時の名人落語家20数人が発起人として名前を連ねている。金語楼から先代金馬、またその中に文楽、志ん生、円生、の名前も見える。以下53演目、
 「明 烏」、「粟 餅」、「磯の鮑」、「居残り左平次」、「お茶汲み」、「お見立て」、「おはらい」、「親子茶屋」、「首ったけ」、「郭大学」、「五人廻し」、「子別れ」、「権助提灯」、「三助の遊び」、「三人片輪」、「三人息子」、「三枚起請」、「品川心中」、「高尾(紺屋高尾)」、「辰巳の辻占」、「付き馬」、「突き落とし」、「搗屋無間」、「つるつる」、「とんちき」、「二階ぞめき」、「錦の袈裟」、「にせ金」、「文違い」、「白銅の女郎買い」、「坊主の遊び」、「木乃伊取り」、「山崎屋」、「よかちょろ」、「六尺棒」、「一つ穴」、「星野屋」、「悋気の独楽」、「城木屋」、「引っ越しの夢 」、「包 丁」、「氏子中」、「紙入れ」、「駒 長」、「葛籠の間男」、「蛙茶番」、「疝気の虫」、「不動坊」、「宮戸川」、「目 薬」、「後生鰻」、「ひねりや」、「万歳の遊び」。
 「ひねりや」、「漫才の遊び」は近日中解説します。

幇間(ほうかん);別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」とも呼ばれた。歴史は古く豊臣秀吉の御伽衆を務めたと言われる曽呂利新左衛門という非常に機知に富んだ武士を祖とすると伝えられている。秀吉の機嫌が悪そうな時は、「太閤、いかがで、太閤、いかがで」と、太閤を持ち上げて機嫌取りをしていたため、機嫌取りが上手な人を「太閤持ち」から「太鼓持ち」となったと言われている。ただし曽呂利新左衛門は実在する人物かどうかも含めて謎が多い人物なので、単なる伝承である可能性も高い。  鳴り物である太鼓を叩いて踊ることからそう呼ばれるようになったとする説などがある。 また、太鼓持ちは俗称で、幇間が正式名称である。「幇」は助けるという意味で、「間」は人と人の間、すなわち人間関係をあらわす意味。この二つの言葉が合わさって、人間関係を助けるという意味となる。宴会の席で接待する側とされる側の間、客同士や客と芸者の間、雰囲気が途切れた時楽しく盛り上げるために繋いでいく遊びの助っ人役が、幇間すなわち太鼓持ちである、ともされる。
 専業の幇間は元禄の頃(1688年 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751年 - 1764年)の頃とされる。江戸時代では吉原の幇間を一流としていたと伝えられる。 現在では東京に数名(その中に、芸名・桜川 七太郎という若い女性が1名いる)しかおらず絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が失伝されつつある。古典落語では江戸・上方を問わず多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。台東区浅草にある浅草寺の本坊伝法院には1963年に建立された幇間塚がある。
 幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい たますけ。右似顔絵)が挙げられる。男性の職業として「らしくない仕事」の代名詞とされた時代もあった。正式な「たいこ」は師匠について、芸名を貰い、住み込みで、師匠の身の回りの世話や雑用をこなしながら芸を磨く。通常は5~6年の修業を勤め、お礼奉公を1年で、正式な幇間となる。師匠は芸者置屋などを経営していることが多いが、芸者との恋愛は厳禁である。 もっとも、披露も終わり、一人前の幇間と認められれば、芸者と所帯を持つことも許された。
 芸者と同じように、芸者置屋(プロダクション)に所属している。服装は、見栄の商売であるから、着流しの絹の柔らか物に、真夏でも羽織を着て、白足袋に雪駄、扇子をぱちぱち鳴らしながら、旦那に取り巻いた。 一方、正式な師匠に付かず、放蕩の果てに、見よう見まねの素人芸で、身過ぎ世過ぎを行っていた者を「野だいこ」という。 落語の中で野だいこは、「鰻の幇間」、「野ざらし」、「居残り佐平次」等に出てくる。これは正式な芸人ではないが、「師匠」と呼ばれることも多かった。 幇間は芸人の中でも、とりわけ難しい職業で、「バカをメッキした利口」でないと、務まらないといわれる。 噺家が舞台を「高座」と云うのに対して、幇間はお座敷を「修羅場」と云うほどである。
 落語「明烏」より
 「太鼓持ちあげての末の太鼓持ち」 江戸川柳、遊びすぎて幇間を上げて粋だと言われていたが、気が付いたら自分がその幇間になっていた。 

回し(まわし);吉原は回しと言って、一晩に複数の客を取るのは当たり前でした。で、「ちょいと行って来るから」と言うセリフが出て来ます。朝まで帰ってこない女郎もいたようです。落語にも「五人回し」等に有ります。  まわしを取られる時は、お客は起きてても仕方が無いので、寝て待つのですが、本当に寝てしまったら何のために来たのか判らなくなりますので、寝たふりをして待ちます。花魁の上草履の音がしてくると、順番が回ってきたかと思って待っていると、上草履の音が遠ざかってしまい、がっかりすることがあります。”間夫はひけどき”と言うこともあって、遅くなっても我慢して待ちます。しかし、朝まで来ないときは『振られた』と言います。 

若い衆(わかいしゅう);江戸訛りで、わかいしと言います。年齢に関係なく妓楼で働く男の奉公人を総称して若い者、若い衆と言った。別名、妓夫(ぎゅう)、喜助(きすけ)とも言った。飯炊きや風呂番の裏方は雇い人と言い、接客に関する男連中を指す。江戸っ子は”わかいし”または”わけいし”と呼んだ。
 仕事は、店番、客引き、案内役、二階の責任者(二階回し)、床回し(寝床の用意)、掛け取り、等が有って、喧嘩口論があれば仲裁に入り、女郎の我が儘があればなだめたり、仕事は多岐にわたっています。 

間夫(まぶ);情夫。特に、遊女の情夫。遊女が真に惚れた男が情男(いろ)であり、間夫とも言った。
 遊女は真の恋愛にあこがれ「客に身体は許しても心は許さない」の心意気で、間夫を愛した。「間夫は勤めの憂さ晴らし」とも言って、本心好きな男と逢瀬を楽しんだ。客は皆、自分が間夫だと思っています。 
 この噺でも、女郎同士の会話にある様に、間夫が来ているので、相棒にドンと叩かれます。

居続け(いつづけ);遊所などで、晩に遊ぶだけではなく、翌日も一日中帰らずに遊ぶこと。費用が掛かるのは当然、仕事をしないのでその内に遊ぶ金が不足してきます。 女郎や見世側では売り上げが上がりますから歓迎ですが、客は大変なことになります。

お引け(おひけ);江戸訛りで「おシケ」と言います。遊廓では即寝床に向かう事はなく、酒盛りをするか、芸者、幇間をあげて飲みあかします。ま、どちらにしても、酒を飲んで遊んでから個室に向かいます。お酒を切り上げたその時、または、その時間を言います。例外として超安い女を買うと、それだけの事もあります。これを無粋といいます。
 また、遊廓にはお終いの時間が決められていた。吉原では、お引けが意外と早い午後10時、中引けが午前0時、大引けが午前2時です。それ以後は大戸を閉めて客は取りません。 

都々逸(どどいつ);江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された、口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う。
 元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。 主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。
 落語「犬の災難」に、都々逸作品集があります。

花魁(おいらん);妹分の女郎や禿(カブロ)などが姉女郎をさして「おいら(己等)が」といって呼んだのに基づくという。江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。
  落語家の説では、狐狸は尾で騙すが、吉原の花魁は尻尾が無くても騙すから、お・いらんと言った。

  花の魁(はなのさきがけ)と言うと、意味が違って、他の花に先がけて咲く花。特に、梅の花を指して言います。決して若い女郎の事ではありません。 

蔵前の両替商(くらまえのりょうがえしょう);札差(ふださし)。江戸時代に幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介を業とした者。 浅草の蔵前に店を出し、米の受け取り・運搬・売却による手数料を取るほか、蔵米を担保に高利貸しを行い大きな利益を得た。札差の「札」とは米の支給手形のことで、蔵米が支給される際にそれを竹串に挟んで御蔵役所の入口にある藁束に差して順番待ちをしていたことから、札差と呼ばれるようになった。
 そのうち蔵米の受け取りを代行するだけではなく、旗本や御家人に蔵米を抵当にして金を用立てるという金融業務が、札差の重要な役割となっていった。金に困った武士は、自分の札差に、次回支給される蔵米の受領・売却を依頼すると確約し、借金をする。札差は蔵米の支給日に、売却した現金から手数料と右の借金の元利を差引き、その残りを武家の屋敷に届けるのである。札差はこうした札旦那を何人も持つことによって、米問屋としての性格のほかに、金融業者としても次第に力を持つようになっていった。
 明和~天明(1764~88年)期、いわゆる田沼時代最盛期が札差業大繁栄の頃と目され、十八大通などと呼ばれ騒がれた時期です。吉原も武家中心の客から商家中心の客に移行していった。その典型が蔵前の両替商だったのです。そこの若旦那ら間違いなしの金ズルです。

大見世(おおみせ);吉原では、店の大きさで区別していました。間口と奥行きが違います。 次に玄関横が、大見世は大籬(おおまがき)、中見世は半籬(はんまがき)、小見世は小格子(こごうし)になっていました。 そして遊女の数と質の違いでしょう。花魁がいるのは大見世と中見世までです。

・大見世:惣(総)籬。揚げ代2分。格子が見世(みせ)前から入口土間脇まである。揚代1分以下の遊女はいなかった。 茶屋を通さないとあがれない。佐野槌、角海老、三浦屋など
・中見世:半籬。揚げ代2朱・2分。土間脇の格子が上半分から四分の一ない。揚代2分以上の遊女が交じっていたので交見世(まじりみせ)とも呼ばれた。茶屋を通さないとあがれない。
・小見世:惣(総)半籬。揚げ代1分以下。格子のすべてが下半分しかない。揚代1分の遊女がいても一人のみ、ほとんどが揚代2朱。 フリーの客でも大丈夫。

お流連(おながし・連泊);吉原の遊女間の隠し言葉(業界用語)で、朝帰らず居続けして下さいと言っています。権助は、湯屋の中で壁を叩くのは、湯をうめて下さいというサインだと言います。

白木の三宝で、ひねりっぱなし;噺の中で、「正月三が日には銭湯じゃ~、番台の白木の三宝に客から祝儀をもらうしきたりですが、それじゃござんせんよ。この遊郭(さと)では、白木の三宝というのは掛け流しに使うもので、使い捨ててしまうもの。『ひねりっぱなしはごめん』というのは一晩きりじゃいやだと言葉で、・・・」

 三方の上には、お客さんのご祝儀でおひねりが沢山積んであります。国貞改め二代豊国画。



                                                            2020年4月記

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