落語「万歳の遊び」の舞台を行く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「万歳の遊び」(まんざいのあそび)より


 

 江戸の正月には三河万歳が町辻を流していた。三河から出て来るのは万蔵だけで、才蔵の方は野州栃木から出て来ていた。暮れになると江戸橋広小路に市が立ち、万蔵と才蔵が一組になり、ひと月の間一緒に万歳の稼業をしていた。

 「才蔵さん、これで正月も終わってお別れだが、今年はいい天気続きでよかったな。さて、何か欲しい物はあるかな」、「万蔵さん、おら~、江戸に六年も来ているが、まだ吉原へ行ったことがねえダ。一度女郎買いに行って見てえと思っているんだ」、「そうか、それじゃ~、これから行って見るか」。
 万蔵と才蔵が女郎買いに行ったとお得意さんに知れたら具合いが悪いから、俺は刀を置いて羽織を着て行こう。お前は下男ということにしよう。才蔵はまずいから才兵衛としよう。これ才兵衛」、「へえ、太夫さま」、「太夫さまではない、旦那さまと言いなさい」と打ち合わせて、万歳コンビは大門をくぐった。

 吉原の賑やかさに、「どうもたまげやした。おや、どこかで万歳が参りましたようで」、「あれは二階で芸者が鼓を打っているのじゃ。才蔵さん、この見世は若松楼か。縁起のいい名じゃな。ここにあがるとしようか」、「なるほど、♪めでたぁ、めでたぁ~の若松さ~ま~よ・・・」。
 「どうぞ、お見立てを願います」、「こっちゃの端にいる別嬪さんはなんちゅうお名前で」、「ええと、黒い内掛けの、へえ、亀鶴さんでございます」、「はは~、♪鶴は千年~、亀は万年~」、「才兵衛さん、やめんかい」、「旦那さんもお見立てを」、「その二番目の赤い着物のねえさんは」、「へえ、赤いしかけの花魁は、長太夫さんとおっしゃいます」、「へえ、花魁にも太夫さんがありますか」。

 二階へ上がって台のものが運ばれ酒が出て、芸者も来て才蔵さんも酔って来た。
 「おい、三味の姐さん、なんぞ、めでてえものをやってくれよ」、「大津絵の替え歌にしましょうか。おめでたい”お正月”はいかが」、「おお、正月はめでてえもんだ。おら~、正月ひと月で一年の暮らしが取れるぐれえだから」、「それじゃぁ、唄いましょ。♪お正月松立て注連飾り、年始のご祝儀に年玉投げ込んで、陽気な声をしてお宝お宝と、二日は初夢、姫はじめ、万歳が素袍着てまじめ顔、才蔵がおぽ~らぽんの、まっちゃらこ」。才蔵が、「よっしゃ、おらぁも唄うべ。♪一本目にふぁ池の松、二本目にふぁ庭の松、・・・四本の柱が志賀の社で、五本の柱が牛頭天王」、「これ、才兵衛、もういい加減に寝てしまいなさい」、「旦那さまがお休みなさいとさ」。
 「ソレ、♪旦那ぁさまぁもお好きなぁら、ご新造さぁまもお好きで、夜中の頃にはむっくり、才蔵なんぞは・・・」、「ほんとにお前さんはおもしろいお方ねえ。どうも旦那さまのお供ではありませんね。そう、きっと芸人衆でしょ」、「いや~、芸人なんぞじゃねえ」、「じゃ~、たいこ(幇間)衆ですね」、「な~に、おら~鼓(つづみ)だ」。 

 



ことば

松づくし(まつづくし);花柳界で踊りを交えて歌われる目出度い歌詞が付きます。

歌詞
 ♪うたい囃せや大黒 一本目には池の松
 二本目には庭の松
 三本目には下り松
 四本目には志賀の松
 五本目には五葉の松
 六ツ昔の高砂や 尾上の松や曽根の松
 七本目には姫小松
 八本目には浜の松
 九ツ小松を植え並べ
 十で豊久能伊勢の松

 大黒、 黒頭巾をかぶって大黒さんのような扮装で木づちでもって家々を回る門付け芸人。
 志賀の松、志賀の唐崎は 古来から有名な歌枕で、大津市の北7kmほどの琵琶湖畔の土地。著名な文人たちが歌や句を残している。唐崎の松は、現在、唐崎神社の境内にある。
 五葉の松、
マツ科の常緑高木。山地に生え、また庭木・盆栽とする。樹皮は暗褐色。針形の葉が五本ずつ束になってつく。松かさは卵状長楕円形。ゴヨウノマツ。ヒメコマツ。
 高砂、兵庫県高砂市の高砂神社。 この後に出てくる相生の松は高砂神社の境内にあります。 黒松と赤松が基部で合わさっていて男女仲睦まじい象徴です。 ちなみに現在の相生の松は五代目です。
 尾上、兵庫県加古川の尾上神社。 こちらも高砂と同じく境内に相生の松があります。 ちなみに現在の相生の松は八代目。
 曽根、兵庫県高砂市の曽根天満宮。 菅原道真が無実の罪で九州大宰府に配流された時に日傘山に登って、現在の曽根天満宮の地で休んだ時、 「我に罪なくば栄よ」 と小松を手植えしたという言い伝えがあります。 そのあと播磨に配流となった四男敦茂が父の形見の曽根の松の傍らに父を祀り、曽根天満宮となりました。 つまり曽根の松のあとに曽根天満宮ができたことになります。
 姫小松、相生の松の黒松、赤松のうちの赤松の方で女松。 黒松は男松になります。 盆栽にもする。東日本では五葉の松のことを姫小松ともよぶ。
 浜の松、大阪府泉北群高石町一帯にあった浜。 浜の松は太正天皇の歌に出てくるのが有名です。 大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ
 豊久野(とよくの)の伊勢の松、三重県津市安濃町内田にあります。 伊勢音頭に・・・、「♪伊勢のナア豊久野 銭掛け松は 今は枯れてもヤンレ 名は残るヤートコイセーノヨイヤナ アララ コレ ハイセコノヨイトコイセー 」という有名な歌詞があります。 銭掛け松とは、伊勢神宮参拝の旅行客が銭に紐を通して松にかけたそうです。 いまでも石碑が残っています。
 有馬、温泉で有名な兵庫県神戸市北区有馬町のことです。 こちらの温泉には藤原道長や定家が入った名湯。
 連理の松、島根県益田市高津の琴平神社境内に生育していた黒松の巨木。 長く伸びた一本の枝が別に生えた黒松に癒着し、二株が完全な連理の状態を示している松で、昔から夫婦松と呼ばれています。

三河万歳(みかわまんざい);愛知県の旧三河国地域であった安城市・西尾市・豊川市小坂井町・額田郡幸田町に伝わる伝統芸能である。もとは正月の祝福芸だが、現在は季節を問わず慶事の際などにも披露される。1995年(平成7年)12月26日に国の重要無形民俗文化財に指定された。
 右図、「三河万歳師」 三谷一馬画。

 土御門家、 平安時代の陰陽師である安倍晴明の系譜を引き、陰陽道を家業とした京都の公家で、江戸時代の1683年に将軍の徳川綱吉から「占いを行う者は全て土御門家の差配に従うように」という朱印状が出され、陰陽師らを統括する陰陽道宗家とされた。万歳は元来、新年を言祝ぐ芸能であり儀式でもあったため、万歳師は陰陽師と同じ括りであった。そのため三河万歳の万歳師は土御門家から免許状をもらい、毎年貢納料を納めて江戸をはじめ関東十七カ国を巡回する権利を得ていた。いわゆるこのお墨付きがあるおかげで、通行手形なしで関所を通過でき、万歳をするために江戸城内や大名の屋敷にも入ることができた。

素袍(すおう);鎌倉時代以降礼服化していった直垂(ひたたれ)の中でも、簡素で古様なものが室町時代になると素襖と呼ばれるようになった。初めは下級武士の普段着だったが、室町時代末期に至り大紋(だいもん)に次ぐ礼装となる。
 形状は大紋とよく似ているが、直垂と大紋では袴の腰紐が白布であるのに対し素襖の腰紐は共裂(ともぎれ、同一布の意)である。また袖に通す括り紐や露が省略され、胸紐や小露(袖や胸の飾り紐)は革製だった。そのため「革緒の直垂」とも呼ばれた。袴の背中側には腰板を付けた。色や文様は様々だった。
 江戸時代になると、元和元年(1615年)の江戸幕府の服制により、素襖は無位無官の旗本の礼装と定められた。すなわち旗本の中でも従四位下の高家と従五位下の諸大夫は大紋を礼装とし、無位無官だが幕府より布衣の格式を許された旗本はこれを六位相当とみなして布衣を礼装とし、これ以外の旗本は平士といって素襖を礼装とした。 三河万歳の太夫・万蔵が着けていた服装。相撲の行司さんが着る服装です。
 ウイキペディアより 

 才蔵市、 江戸時代、毎年12月28日に江戸の日本橋南詰四日市(現在の東京都中央区日本橋一丁目あたり)に立った、万歳の相方となる才蔵を雇う市場のこと。三河万歳の場合、三河から太夫が単身で江戸に向い、現地で才蔵を期間雇用するが慣習となっていた。才蔵は主に下総(千葉県北部。噺では、野州栃木)からきた農民で、太夫に雇われると正月までの短期間に才蔵を演じる手ほどきを受けた。しかし太夫は、呼吸の合う気に入った才蔵を見つけると、年末に再び万歳を組むことを約束し三河に帰るため、新規に雇われる機会が減っていき、江戸時代後期の天保の頃には廃れていった。三河から来る万歳の太夫も房総から来る才蔵も、互いに遠方同士ではあったが、農閑期に万歳師となる農民という同じ境遇故に義理固く、年末に江戸にある太夫の定宿に才蔵が尋ねて行き再会するが、病気や弔事で行けない時などは代わりのものを差し向けた。

江戸橋広小路(えどばし ひろこうじ);江戸の中心日本橋の一本下流に架かった橋が江戸橋で、その両側に火除けのために広小路を作ってあった。その場所で太夫と才蔵が組を作った。

  

吉原(よしわら);廓と言えば江戸では吉原を指します。新吉原(浅草に移った後の吉原)は、江戸の北にあったところから北州、北里とも呼ばれました。俗にお歯黒ドブに囲まれた土地で、総坪数二万七百六十坪有りました。ドブには跳ね橋が九カ所有りましたが、通常は上げられていて大門が唯一の出入り口でした。大門から水戸尻まで一直線の道路を仲の町と言い、その両側には引き手茶屋が並んでいました。
  仲の町の右側には、江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目が、左側には伏見町、江戸町二丁目、角町、京町二丁目が並んでいました。なかでも、江戸町一,二丁目、京町一,二丁目、角町を五丁町と呼んでいました。揚屋町には元吉原当時の揚屋が並んでいました。また、酒屋、寿司屋、湯屋が有り、裏には芸者達が住んでいました。
  この五丁町の入り口には、それぞれ屋根付き冠木門の木戸がありました。また、各町の路の中央には、用水桶と誰(た)そや行灯が並んでいました。
  江戸町一丁目の西河岸を情念河岸と呼ばれました。また、江戸丁二丁目の河岸を別名羅生門河岸とも呼ばれました。志ん生の落語「お直し」の舞台です。
  廓の四隅にはそれぞれ稲荷神社が祀ってあります。大門を入って右側に『榎本稲荷社』、奥に『開運稲荷社』、羅生門河岸奥に『九郎助稲荷社』、戻って『明石稲荷社』があって、その中でも九郎助稲荷社が名が通っていました。明治29年頃、この四稲荷と衣紋坂にあった吉徳稲荷が併合され、吉原神社となりました。現在はお歯黒ドブが無くなって、水戸尻を越えた右側に社殿を構えています。
  吉原遊女3千人と言われていたが、安永、天明の頃は三千人を切っていたが、寛政になると三千を越えて四千人台に突入します。
  『江戸吉原図聚』 三谷一馬画より吉原略図。

 上図、天才絵師・葛飾北斎の三女、葛飾応為筆 「吉原格子先之図」 

 上図、「青楼二階の図」 歌川国貞画 文化10年(1813)3月 江戸東京博物館蔵

芸者(げいしゃ); <吉原芸者> 昔といえば、もともと正式に芸者とよぶことができたのは、吉原の芸者に限られていました。昭和の初期には、柳橋、新橋、赤坂、日本橋、深川などの芸者衆は、吉原の芸者に一目おいて、吉原の芸者が白の半襟を使っていたので、色を少しかけた半襟にしていたものです。
 よく、芸者衆が「わたしたちが芸を磨いてこられたのは、花魁さんたちのおかげよね」と言っていますが、私もそのとおりだと思うんです。吉原には花魁という、身体を売る人たちがいましたから、芸者は芸だけを売ればいいので、その分、厳しく芸を磨くことができたのでした。
 芸がまだ一人前でないときは玉代が半分だというので、こういう人たちを半玉とよんでいましたが、この半玉が芸者として一人だちをするとき、お披露目をします。そのときには必ず旦那がつくものと思ってる方があるかもしれませんが、吉原では自前なんです。水揚げをしないんですね。ですから、道具や着物、お披露目の費用は借金をして、自分で作ります。
  ”褄(つま)をとる“という言葉がありますでしょう。これは芸者や花魁の着物は裾が長く、ひきずるので、手で、着物の裾を引き上げて、ひきずらないようにして歩くことをいいますが、右棲をとるのは、花嫁と寝所に行く花魁の着付。芸者は寝所とは縁がありませんから、それで左棲をとるというのでございます。
 芸者衆のことを”綺麗どころ”なんていいますけれど、実際は色香を売るのではなく、芸を売る人達ですから、お化粧も控えめ、服装なども花魁と違って地味でした。これは花魁をひきたてるためでもあったのです。「そのころの吉原芸者って、どんな感じだった?」って先日人さまから聞かれましたが、「そうねえ、花魁が匂うような牡丹なら、芸者は、凛とした竹ね」とお答えしました。
 
この項、 「吉原はこんな所でございました」 吉原”松葉屋”女将・福田利子著(主婦と生活社)より抜粋

大門(おおもん);大門跡(台東区千束4-11と33に道路をまたいで立っていた)、吉原の入り口に有った門。
 江戸から明治の初めまでは黒塗りの「冠木門(かぶきもん)」が有ったが、これに屋根を付けた形をしていた。何回かの焼失後、明治14年4月火事にも強くと時代の先端、鉄製の門柱が建った。ガス灯が上に乗っていたが、その後アーチ型の上に弁天様の様な姿の像が乗った形の門になった。これも明治44年4月9日吉原大火でアーチ部分が焼け落ちて左右の門柱だけが残った。それも大正12年9月1日震災で焼け落ち、それ以後、門は無くなった。
 大門は常時開放されているが、「大門を打つ」と言って、遊里で事件が起こったとき、大門を閉じて人の出入りを禁じた。また、郭内の遊女を買い切って豪遊する時にも閉じられた。紀伊国屋文左衛門が吉原を一晩借り切って豪遊したことは有名である。
 吉原の回りは堀に囲まれ出入りは大門だけ。大門を入ると、右には出入りを監視する「会所(詰め所)」が有り、左には与力、同心、岡っ引きの詰める、「番所」が有った。これは遊女の脱出防ぎ、犯罪者の侵入を防いだ。女性は全て証明書(切符)が無いと出入りできなかった。落語「明烏」の中で「大門でとめられる」は嘘でもなかった。善良(?)な男は関係はないが。

お見立て(おみたて);客待ちで、女郎が並んでいるところで、好みの女を指名する事。または入店してからお店の紹介する女郎から好みの相方を指名する事。このお見立ての瞬間がなんともゾクゾク、ワクワクするのでしょうね。
 落語「お見立て」より孫引き

台の物(だいのもの);台屋(だいや)の料理。吉原の遊廓では料理は通常作らなかった、その為外部から出前を取った。その出前をする仕出し屋。料理屋、菓子屋、弁当屋、鰻屋、・・・等々、今のデリバリー屋。料金は高かったのに、容器が大きく飾り物が多く、料理そのものは少なかったが、見た目は豪華であった。
 右浮世絵:上図「青楼二階之図」下部分 国貞画 中央に台の物を担いでいる人物が台屋。

大津絵(おおつえ);滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。 下図。
 江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。文化・文政期(1804- 1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って減少し、現在では百余種とされる。
 神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられている。多くの絵画・道歌には、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されている。

           

牛頭天王(ごず てんのう);神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹(すいじゃく)であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない。
 日本各地に天王祭や蘇民祭が伝わる。中部地方にあっては八坂神社のみならず津島神社の祭礼も天王祭と呼称される。愛知県津島市の津島神社はその総本社であり、旧暦6月15日は尾張津島天王祭となっている。天王祭(夏越の祓)にあわせ、厄除けのため、蘇民将来説話に由来する「茅の輪くぐり」とよばれる風習が各地にのこり、とくに厄年の人びとがこれに参加することが多い。
 江戸には有名な3カ所があります。
千住天王(素盞雄神社。下写真。荒川区南千住6-60);開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が御創建されました。
 次いでスサノオ大神の御社殿を西向きに御造営し6月3日、アスカ大神の御社殿を南向きに御造営し9月15日、それぞれ御神霊をお遷し致し、4月8日「御創建疫神祭」・6月3日「天王祭」・9月15日「飛鳥祭」の祭禮日が定まりました。江戸時代享保3年(1718)、類焼による両社炎上のため、同12年に相殿(あいどの:一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿:ずいこうでん)を建築し奉斎した。  素盞雄神社 http://www.susanoo.or.jp/ 

 

蔵前の団子天王(須賀神社。下写真。台東区浅草橋2-29);天照大御神の弟で八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治した事でも有名な、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祭神と祀る。創建壱千数百年を経る古社で、江戸十社に入った神社。素戔嗚尊の別称を牛頭天王と言った。社名も牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社といろいろ呼ばれ、そこから地元の町名を天王町と言われた。また、橋名も俗に天王橋と呼ばれた。明治に入って、神仏分離令によって須賀神社と改名。地名も須賀町となり、橋名も須賀橋となった。
 祭礼日に氏子連が笹団子を奪い合う風習があったが、これはその昔この辺りに住む百姓の一人娘が疫病から平癒したのを、願をかけた両親が団子を笹に刺して神前に奉納した故事から出たもの。現在、笹団子は授与品となっている。祭礼日には神輿、山車が出され境内は露店で賑わう。

 

品川のカッパ天王(荏原神社。下写真。品川区北品川2-30)。南の天王祭(かっぱ祭り);和銅2年(709)9月9日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高神(龍神)を勧請し、長元2年(1029)9月16日に神明宮、宝治元年(1247)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っています。明治元年には、准勅祭社として定められました。神祗院からは府社の由来ありとされました。現在の社殿は弘化元年(1844)のもので、平成20年で164年を迎えました。
  往古より貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と称していましたが、明治8年、荏原神社と改称。神殿に掲げる荏原神社の扁額は、内大臣三条実美公、貴布禰大明神の扁額は、徳川譜代大名源昌高の筆です。 荏原神社 http://ebarajinja.org/top.html   天王祭は、素戔雄尊が水神様でもあり、「かっぱ」が水神様の使いであることから、祭礼に参加する崇敬者たちを「かっぱ」になぞらえ、俗称として「かっぱ祭り」と呼ばれるようになりました。

 

 落語「高野違い」より転載

幇間(ほうかん);太鼓持ち。男芸者。宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業。歴史的には男性の職業。
 昔はいろんな遊び方があったんだけど、もう今は駄目だね。みんな杜用族になっちやって、自分のお金で遊ぼうなんて人はいないんだ。今の男の人は、幸せのようで幸せじやあないね。遊びの味を味わおうったって、味わえないんだから。昔は遊びっていうと、お客について、五軒も六軒も歩いて回ったもんだ。居続けなんてのも、しょっちゅうだしね。今じや、宴会の時間なんて二時間で終わりなんて最初から決められているんだから。そんなの遊びじやないよ。女中さんも、板さんも終業時間が決まっているしね。郵便局と同じだよ。味気なんてありやしない。
 
最後の幇間と言われた師匠の本、「たいこもち玉介一代」悠玄亭玉介著 草思社より
 専業の幇間は元禄の頃(1688 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751- 64年)の頃とされる。江戸時代では吉原に属した幇間を一流としていた。現在では絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が途切れつつある。古典落語では多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。浅草寺の鎮護堂には昭和38年(1963)に建立された幇間塚がある。幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい_たますけ。本名、直井厳、1907年5月11日 - 1994年5月4日。右絵;山藤章二画)が挙げられる。
  落語「王子の太鼓」より孫引き



                                                            2020年4月記

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