■吉原(よしわら);廓と言えば江戸では吉原を指します。新吉原(浅草に移った後の吉原)は、江戸の北にあったところから北州、北里とも呼ばれました。俗にお歯黒ドブに囲まれた土地で、総坪数二万七百六十坪有りました。ドブには跳ね橋が九カ所有りましたが、通常は上げられていて大門が唯一の出入り口でした。大門から水戸尻まで一直線の道路を仲の町と言い、その両側には引き手茶屋が並んでいました。
仲の町の右側には、江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目が、左側には伏見町、江戸町二丁目、角町、京町二丁目が並んでいました。なかでも、江戸町一,二丁目、京町一,二丁目、角町を五丁町と呼んでいました。揚屋町には元吉原当時の揚屋が並んでいました。また、酒屋、寿司屋、湯屋が有り、裏には芸者達が住んでいました。
この五丁町の入り口には、それぞれ屋根付き冠木門の木戸がありました。また、各町の路の中央には、用水桶と誰(た)そや行灯が並んでいました。
江戸町一丁目の西河岸を情念河岸と呼ばれました。また、江戸丁二丁目の河岸を別名羅生門河岸とも呼ばれました。志ん生の落語「お直し」の舞台です。
廓の四隅にはそれぞれ稲荷神社が祀ってあります。大門を入って右側に『榎本稲荷社』、奥に『開運稲荷社』、羅生門河岸奥に『九郎助稲荷社』、戻って『明石稲荷社』があって、その中でも九郎助稲荷社が名が通っていました。明治29年頃、この四稲荷と衣紋坂にあった吉徳稲荷が併合され、吉原神社となりました。現在はお歯黒ドブが無くなって、水戸尻を越えた右側に社殿を構えています。
吉原遊女3千人と言われていたが、安永、天明の頃は三千人を切っていたが、寛政になると三千を越えて四千人台に突入します。
『江戸吉原図聚』 三谷一馬画より吉原略図。
上図、天才絵師・葛飾北斎の三女、葛飾応為筆 「吉原格子先之図」
上図、「青楼二階の図」 歌川国貞画 文化10年(1813)3月 江戸東京博物館蔵
■芸者(げいしゃ); <吉原芸者> 昔といえば、もともと正式に芸者とよぶことができたのは、吉原の芸者に限られていました。昭和の初期には、柳橋、新橋、赤坂、日本橋、深川などの芸者衆は、吉原の芸者に一目おいて、吉原の芸者が白の半襟を使っていたので、色を少しかけた半襟にしていたものです。
よく、芸者衆が「わたしたちが芸を磨いてこられたのは、花魁さんたちのおかげよね」と言っていますが、私もそのとおりだと思うんです。吉原には花魁という、身体を売る人たちがいましたから、芸者は芸だけを売ればいいので、その分、厳しく芸を磨くことができたのでした。
芸がまだ一人前でないときは玉代が半分だというので、こういう人たちを半玉とよんでいましたが、この半玉が芸者として一人だちをするとき、お披露目をします。そのときには必ず旦那がつくものと思ってる方があるかもしれませんが、吉原では自前なんです。水揚げをしないんですね。ですから、道具や着物、お披露目の費用は借金をして、自分で作ります。
”褄(つま)をとる“という言葉がありますでしょう。これは芸者や花魁の着物は裾が長く、ひきずるので、手で、着物の裾を引き上げて、ひきずらないようにして歩くことをいいますが、右棲をとるのは、花嫁と寝所に行く花魁の着付。芸者は寝所とは縁がありませんから、それで左棲をとるというのでございます。
芸者衆のことを”綺麗どころ”なんていいますけれど、実際は色香を売るのではなく、芸を売る人達ですから、お化粧も控えめ、服装なども花魁と違って地味でした。これは花魁をひきたてるためでもあったのです。「そのころの吉原芸者って、どんな感じだった?」って先日人さまから聞かれましたが、「そうねえ、花魁が匂うような牡丹なら、芸者は、凛とした竹ね」とお答えしました。
この項、 「吉原はこんな所でございました」 吉原”松葉屋”女将・福田利子著(主婦と生活社)より抜粋
■大門(おおもん);大門跡(台東区千束4-11と33に道路をまたいで立っていた)、吉原の入り口に有った門。
江戸から明治の初めまでは黒塗りの「冠木門(かぶきもん)」が有ったが、これに屋根を付けた形をしていた。何回かの焼失後、明治14年4月火事にも強くと時代の先端、鉄製の門柱が建った。ガス灯が上に乗っていたが、その後アーチ型の上に弁天様の様な姿の像が乗った形の門になった。これも明治44年4月9日吉原大火でアーチ部分が焼け落ちて左右の門柱だけが残った。それも大正12年9月1日震災で焼け落ち、それ以後、門は無くなった。
大門は常時開放されているが、「大門を打つ」と言って、遊里で事件が起こったとき、大門を閉じて人の出入りを禁じた。また、郭内の遊女を買い切って豪遊する時にも閉じられた。紀伊国屋文左衛門が吉原を一晩借り切って豪遊したことは有名である。
吉原の回りは堀に囲まれ出入りは大門だけ。大門を入ると、右には出入りを監視する「会所(詰め所)」が有り、左には与力、同心、岡っ引きの詰める、「番所」が有った。これは遊女の脱出防ぎ、犯罪者の侵入を防いだ。女性は全て証明書(切符)が無いと出入りできなかった。落語「明烏」の中で「大門でとめられる」は嘘でもなかった。善良(?)な男は関係はないが。
■お見立て(おみたて);客待ちで、女郎が並んでいるところで、好みの女を指名する事。または入店してからお店の紹介する女郎から好みの相方を指名する事。このお見立ての瞬間がなんともゾクゾク、ワクワクするのでしょうね。
落語「お見立て」より孫引き
■台の物(だいのもの);台屋(だいや)の料理。吉原の遊廓では料理は通常作らなかった、その為外部から出前を取った。その出前をする仕出し屋。料理屋、菓子屋、弁当屋、鰻屋、・・・等々、今のデリバリー屋。料金は高かったのに、容器が大きく飾り物が多く、料理そのものは少なかったが、見た目は豪華であった。
右浮世絵:上図「青楼二階之図」下部分 国貞画 中央に台の物を担いでいる人物が台屋。
■大津絵(おおつえ);滋賀県大津市で江戸時代初期から名産としてきた民俗絵画で、さまざまな画題を扱っており、東海道を旅する旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。
下図。
江戸時代を通じ、東海道大津宿の名物となった。文化・文政期(1804-
1829年)には「大津絵十種」と呼ばれる代表的画題が確定し、一方で護符としての効能も唱えられるようになった(「藤娘」は良縁、「鬼の寒念仏」は子供の夜泣き、「雷公」は雷除けなど)。画題は増え続け、幕末には最盛期を迎えたが、画題の簡略化に伴って減少し、現在では百余種とされる。
神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられている。多くの絵画・道歌には、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されている。
■牛頭天王(ごず てんのう);神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹(すいじゃく)であるとともにスサノオの本地ともされた。京都東山祇園や播磨国広峰山に鎮座して祇園信仰の神(祇園神)ともされ現在の八坂神社にあたる感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。また陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神だが、中国の文献には見られない。
日本各地に天王祭や蘇民祭が伝わる。中部地方にあっては八坂神社のみならず津島神社の祭礼も天王祭と呼称される。愛知県津島市の津島神社はその総本社であり、旧暦6月15日は尾張津島天王祭となっている。天王祭(夏越の祓)にあわせ、厄除けのため、蘇民将来説話に由来する「茅の輪くぐり」とよばれる風習が各地にのこり、とくに厄年の人びとがこれに参加することが多い。
江戸には有名な3カ所があります。
★千住天王(素盞雄神社。下写真。荒川区南千住6-60);開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があり、黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)4月8日の夜、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様が翁に姿を変えて現れ、「吾はスサノオ大神・アスカ大神なり。吾れを祀らば疫病を祓い福を増し、永く此の郷土を栄えしめん」と御神託を授け、黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が御創建されました。
次いでスサノオ大神の御社殿を西向きに御造営し6月3日、アスカ大神の御社殿を南向きに御造営し9月15日、それぞれ御神霊をお遷し致し、4月8日「御創建疫神祭」・6月3日「天王祭」・9月15日「飛鳥祭」の祭禮日が定まりました。江戸時代享保3年(1718)、類焼による両社炎上のため、同12年に相殿(あいどの:一つの御社殿)として二柱を祀る御殿(瑞光殿:ずいこうでん)を建築し奉斎した。
素盞雄神社 http://www.susanoo.or.jp/
★蔵前の団子天王(須賀神社。下写真。台東区浅草橋2-29);天照大御神の弟で八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治した事でも有名な、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祭神と祀る。創建壱千数百年を経る古社で、江戸十社に入った神社。素戔嗚尊の別称を牛頭天王と言った。社名も牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社といろいろ呼ばれ、そこから地元の町名を天王町と言われた。また、橋名も俗に天王橋と呼ばれた。明治に入って、神仏分離令によって須賀神社と改名。地名も須賀町となり、橋名も須賀橋となった。
祭礼日に氏子連が笹団子を奪い合う風習があったが、これはその昔この辺りに住む百姓の一人娘が疫病から平癒したのを、願をかけた両親が団子を笹に刺して神前に奉納した故事から出たもの。現在、笹団子は授与品となっている。祭礼日には神輿、山車が出され境内は露店で賑わう。
★品川のカッパ天王(荏原神社。下写真。品川区北品川2-30)。南の天王祭(かっぱ祭り);和銅2年(709)9月9日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高神(龍神)を勧請し、長元2年(1029)9月16日に神明宮、宝治元年(1247)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っています。明治元年には、准勅祭社として定められました。神祗院からは府社の由来ありとされました。現在の社殿は弘化元年(1844)のもので、平成20年で164年を迎えました。
往古より貴船社・天王社・貴布禰大明神・品川大明神と称していましたが、明治8年、荏原神社と改称。神殿に掲げる荏原神社の扁額は、内大臣三条実美公、貴布禰大明神の扁額は、徳川譜代大名源昌高の筆です。 荏原神社 http://ebarajinja.org/top.html
天王祭は、素戔雄尊が水神様でもあり、「かっぱ」が水神様の使いであることから、祭礼に参加する崇敬者たちを「かっぱ」になぞらえ、俗称として「かっぱ祭り」と呼ばれるようになりました。
落語「高野違い」より転載
■幇間(ほうかん);太鼓持ち。男芸者。宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業。歴史的には男性の職業。
昔はいろんな遊び方があったんだけど、もう今は駄目だね。みんな杜用族になっちやって、自分のお金で遊ぼうなんて人はいないんだ。今の男の人は、幸せのようで幸せじやあないね。遊びの味を味わおうったって、味わえないんだから。昔は遊びっていうと、お客について、五軒も六軒も歩いて回ったもんだ。居続けなんてのも、しょっちゅうだしね。今じや、宴会の時間なんて二時間で終わりなんて最初から決められているんだから。そんなの遊びじやないよ。女中さんも、板さんも終業時間が決まっているしね。郵便局と同じだよ。味気なんてありやしない。
最後の幇間と言われた師匠の本、「たいこもち玉介一代」悠玄亭玉介著 草思社より
専業の幇間は元禄の頃(1688 - 1704年)に始まり、揚代を得て職業的に確立するのは宝暦(1751- 64年)の頃とされる。江戸時代では吉原に属した幇間を一流としていた。現在では絶滅寸前の職業とまで言われ、後継者の減少から伝承されてきた「お座敷芸」が途切れつつある。古典落語では多くの噺に登場し、その雰囲気をうかがい知ることができる。浅草寺の鎮護堂には昭和38年(1963)に建立された幇間塚がある。幇間の第一人者としては悠玄亭玉介(ゆうげんてい_たますけ。本名、直井厳、1907年5月11日 - 1994年5月4日。右絵;山藤章二画)が挙げられる。
落語「王子の太鼓」より孫引き
2020年4月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ