落語「猿丸太夫」の舞台を行く 三代目柳家小さんの速記、「猿丸太夫」(さるまるだゆう)より 別名「道中の馬子」
■原話;宝暦5年(1755)刊、京都で刊行の笑話本『口合恵宝袋』中の「高尾の歌」です。
これは、京の高尾へ紅葉狩りに行った男の話。
帰りに雇った駕籠かきに、歌を詠んだかと聞かれ、「奥山の……」の歌でごまかす筋は、まったく同じで、オチも同一です。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、箱根で「猿丸太夫」をめぐる、そっくり同じようなやりとりがあり、これをタネ本にしたことがわかります。
江戸や京大坂の者が、旅先で、在所の百姓などを無知と侮り、手痛い目にあう実話は結構あったのでしょう。
オチは、馬子が「奥山」の歌を知っていて皮肉ったわけですが、別に、知ったかぶりの江戸っ子を逆に「猿」と嘲る、痛烈な風刺もあると思われます。
■廃れた噺;この噺の、江戸を出発するところ、俳句の問答を除いた馬子とのくだりは、「三人旅」にそっくりなので、これを改作したものと思われます。
小咄だったのを、「三人旅」から流用した発端を付け、一席に独立させたものなのでしょう。
古くは三遊亭円朝が「道中の馬子」の題で速記を残し、大正13年(1924)の、三代目柳家小さんの速記も残りますが、今はすたれた噺です。
■猿丸太夫(さるまるだゆう);三十六歌仙の一人。生没年不明。「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者の称。
「小倉百人一首」に「おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき」、が撰ばれていますが、これが実はすべて「古今和歌集」の詠み人しらずの歌であることから、平安時代の歌人といわれます。別に、柿本人麻呂説もあります。
■運座(うんざ);俳諧・俳句用語。数人が集まり、兼題または席題によって俳句を作り、互選、選評をする方式。もと宗匠の選によっていたところ江戸末期から互選形式が行われるようになり、正岡子規らの新しい俳句運動の中で合理化され、作句の習練の場として広く行われるようになった。連句では、文台・捌き手をおかずに一巻を巻き、清書して宗匠に点を請う方式のこと。
■水杯(みずさかずき);酒ではなく、水を互いに入れ合って飲む別れの杯。再会を予期できない時などにする。
■東海道(とうかいどう);五街道の一。江戸日本橋から西方沿海の諸国を経て京都に上る街道。幕府はこの沿道を全部譜代大名の領地とし五十三次の駅を設けた。
『東海道名所図会』(とうかいどうめいしょずえ):京都三条大橋から江戸日本橋までの東海道沿いの名所旧跡や宿場の様子、特産物などに加えて歴史や伝説などを描いたもので、一部には東海道を離れて三河国の鳳来寺や遠江国の秋葉権現社なども含まれる。
著者は秋里籬島。序文は中山愛親が書き、丸山応挙、土佐光貞、竹原春泉斎、北尾政美、栗杖亭鬼卵など約30人の絵師が200点を越える挿絵を担当。寛政9年(1797年)に6巻6冊が刊行された。1910年(明治43年)には吉川弘文館から復刻されている。
なお、歌川広重による天保4年(1833)の保永堂版『東海道五十三次』では京都に近い宿場の図が『東海道名所図会』から採られているものが多いことが指摘されている。国立国会図書館リンク、「東海道名所図会・上」、「東海道名所図会・下」、原宿は下巻の19頁にあります。
■原宿(はらじゅく);東海道五十三次の13番目の宿場である。現在の静岡県沼津市にある。宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていた。
「東海道五十三次・原」 広重画
神奈川県横浜市戸塚区の地名。古くは相模国鎌倉郡原宿村であり、東海道(現国道1号)が通過する。原宿は戸塚宿と藤沢宿の中間の高台に設けられた間(あい)の宿であり、「原宿」の名もこれに由来する。
■馬子(まご);馬をひいて人や荷物を運ぶことを業とする人。うまおい。うまかた。古く駅伝制度のもとでは農民が夫役 (ぶやく) で駅馬の馬子をつとめたが、鎌倉時代以降次第に専業の交通労働者としての馬子が現れ、馬借 (ばしゃく) といわれて、年貢米や商品の運搬にあたった。江戸時代には、伝馬、助郷などの課役をはじめ、乗用馬の口をとる馬方が多かった。馬子の労働歌が馬子歌です。
■俳句(はいく);五・七・五の17音を定型とする短い詩。連歌の発句(ホツク)の形式を継承したもので、季題や切字(キレジ)をよみ込むのをならいとする。明治中期、正岡子規の俳諧革新運動以後に広まった呼称であるが、江戸時代以前の俳諧の発句を含めて呼ぶこともある。
有名な例句:
■立場(たてば);江戸時代の宿場は、原則として、道中奉行が管轄した町を言う。五街道等で次の宿場町が遠い場合その途中に、また峠のような難所がある場合その難所に、休憩施設として設けられたものが立場です。茶屋や売店が設けられていた。俗にいう「峠の茶屋」も立場の一種です。馬や駕籠の交代を行なうこともあった。藩が設置したものや、周辺住民の手で自然発生したものもある。また、立場として特に繁栄したような地域では、宿場と混同して認識されている場合がある。
この立場が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは間の宿(あいのしゅく)という。間の宿には五街道設置以前からの集落もある。中には小さな宿場町よりも大きな立場や間の宿も存在したが、江戸幕府が宿場町保護のため、厳しい制限を設けていた。
現在、五街道やその脇街道沿いにある集落で、かつての宿場町ではない所は、この立場や間の宿であった可能性が高い。
■鉢たたき(はちたたき);十世紀日本での浄土教の民間布教僧であった空也(903年 - 972年)は、都市から地方へと庶民を対象に「阿弥陀信仰」と念仏を広めたが、踊念仏あるいは念仏踊を行った形跡はなく、「空也上人像」に描かれる、鉦を叩き口から如来すなわち念仏を吐く姿は、伝承によるものとされる[右写真]。
■「くちなしや鼻から下がすぐにあご」;落語の中にはたびたび出てくるフレーズです。
クチナシの花は、見た目の美しさと香りが抜群によいため、生け花の切り花として使われる。「三大芳香花」の一つに数えられる植物です。
■中山道(なかせんどう);南回り・太平洋沿岸経由の東海道に対し、北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。草津追分以西は東海道と道を共にする。江戸から草津までは129里10町余(約507.7
km)あり、67箇所の宿場が置かれた。また、江戸から京都までは135里34町余(約526.3 km)である。
■板橋(いたばし);江戸四宿の一つとして栄えた中山道の第一宿で、現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも称。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。
『木曾街道 板橋之驛』天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆。
「現在の板橋」 石神井川に掛かる板橋が地名の元になった。日本橋までの距離を示した標柱。
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