落語「天河屋義平」の舞台を行く
   

 

 八代目林家正蔵(彦六)の噺、「天河屋義平」(あまかわやぎへい)より


 

 忠臣蔵十段目で長持ちの上にどっかと座り、「天河屋の義平は男でござる」の科白で有名な豪商。

 この天河屋がある日、自宅へ大星由良助を招いて酒宴を開いた。途中で天河屋がはばかりに席を立つと、義平の女房が美人なのに目をつけていたスケベ親父の由良助が女房に近寄って、「拙者の妾になれとッ」と、酒臭い息を吹きかけながらしつこく迫った。
  以前から由良助の女好き、助平親父ぶりは噂に聞いているので女房はちっとも驚かない。適当にあしらいながら、酔っ払いに逆らってもしょうが無いと、「今夜、九つの鐘を合図に私の部屋に忍んで来てくださいまし」。
  喜んだ由良助は戻って来た天河屋と飲み続けて、先に部屋に引っ込んで寝てしまった。

 女房は義平にさらに飲ませて、べろべろに酔わせ自分の部屋に寝かせ、自分は義平の部屋で寝てしまう。
  九つの鐘が鳴ると、由良助は待ちかねたとむっくりと起き上がって、約束通り女房の部屋に忍び込んで行った。布団をめくって抱きつくと、天河屋はびっくりして飛び起きて長持ちの上に座って、 「天河屋義平は男でござる」。

 



ことば

天河屋義平(あまがわや ぎへえ);モデル、天野屋利兵衛(寛文元年(1661年) - 享保18年8月6日(1733年9月13日))は、江戸時代の大坂の商人。名は直之(なおゆき)。 赤穂事件を題材にした「忠臣蔵」の物語において、赤穂浪士の吉良邸討ち入りを支援をした「義商」として知られているが、実在の天野屋利兵衛は赤穂藩や浪士と接点や関係が無い人物です。
 討ち入り直後に書かれた加賀藩前田家家臣杉本義隣の『赤穂鐘秀記』に、「天野屋次郎左衛門」という大坂の商人が、赤穂義士のために槍の穂20本を密かに鍛冶に製作させたことが記される。これを怪しまれた天野屋は町奉行所の詮議に対して口を割らずついに投獄されたが、討ち入りの成功後にやっと大石の名を出した。町奉行は、天野屋が名主役を務めながら法を犯したことを咎めつつ、その心根は奇特であるとして、寛大な処分(大坂からの追放処分とするものの、家財や屋敷は妻子に下げ渡し、「通行中」に妻子に会うことは問題ないとした)を行った。天野屋は京都に移り住み「宗悟」と称したという。
 赤穂浪士切腹から6年後の宝永6年(1709)、津山藩士小川忠右衛門恒充によって書かれた『忠誠後鑑録或説』には、大坂の惣年寄である「天野屋理兵衛」が大石のために武器(袋槍数十本)を調達、町奉行松野河内守助義により捕縛され拷問にかけられたが口を割らなかったとする。討ち入り後に自白したこと以後は『赤穂鐘秀記』と同様の展開であるが、京都に移り「松永士斎」と称したとされる。
 天川屋儀兵衛は、自らが商人として成功したのは塩谷(塩冶)家の引き立てによるものと恩義を感じている人物であった。彼は町人であるために討ち入りに同行できないものの、由良之助たちのために依頼された武器の調達をするととに決意を固める。そのためには店や家族の犠牲もいとわず、秘密を守るために奉公人には暇を出し、妻は離縁する。
 天川屋に押し掛けた役人たちは儀兵衛の一人息子を人質に取り、子供の喉元に刃を突きつけて儀兵衛に長持の中身を自白させようとするが、儀兵衛は長持の上にどっかと座り込み取り調べを拒否、さらには自ら子供に手をかけようとすらする。この際「天川屋の儀兵衛は男でござるぞ、子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」という科白を廻す。右図。

 『仮名手本忠臣蔵』十段目そのものの話の筋は評価が低く、上演されることも稀である。しかし、一介の商人(芝居を観る庶民にもっとも近い存在)でありながら武士にひけをとらぬ義侠心をあらわし、「討ち入りの功労者」「忠義者」として描かれた天河屋は、「男でござる」の台詞とともに庶民に愛された。
 「忠臣蔵」に登場する天野屋利兵衛は商人ながら義に厚く、赤穂義士討入りの際、武器や武具の調達をして、義士を陰で支援したことで芝居や映画などでよく知られた人物である。仮名手本忠臣蔵10段目「天河屋(あまがわや)」では天河屋義平として登場するが、大坂の商人・天野屋利兵衛がモデルであろう。ただし天野屋利兵衛(1661-1733)は実在したが、赤穂事件と関係したかは不明である。
 天野屋と赤穂塩を関連させた説も歴史のあと知恵のようで、史料や文書があるわけでない。「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフや神崎与五郎の馬喰丑五郎堪忍袋(韓信の股くぐりのパクリ)など「忠臣蔵」にはそういった類の俗説も多い。

 

 天河屋義平と四歳になる息子・由松。 国芳画。

八代目林家正蔵(はやしや しょうぞう);1895年5月16日生まれ。本名は岡本 義(おかもと よし)。三代目三遊亭圓楽、五代目蝶花楼馬楽を経て襲名。東京府荏原郡品川町(現在の品川区)出身。生前は落語協会所属。後述する三平の死後に名跡を七代目と三平の遺族に返上し、自らは林家彦六を名乗った。浅草・稲荷町の長屋に住み、横町の隠居そのもので、とぼけた語り口を弟子がまねしたりした。俗に「彦六の正蔵」。 歴代正蔵の大多数と同じく怪談噺、芝居噺を得意としたが、これは八代目の元の大師匠の弟弟子であり、明治期から昭和初期まで活躍した落語家三遊一朝から教わったもの。八代目は個人的にも一朝を尊敬しており、前々名の圓楽は、元々一朝の名跡である。七代目とは、八代目が小さん門下に移籍して以降、従兄弟弟子の関係にあたる(八代目が入門した三代目小さんは七代目の大師匠)。

 彦六の正蔵=出囃子は『菖蒲浴衣(あやめ浴衣)』。噺家からは居住地の「稲荷町(の師匠)」また性格から「トンガリの正蔵」と呼ばれた。妻は岡本マキ。息子は日本舞踊家花柳衛彦。芝居噺や怪談噺を得意とし、「林家正蔵」の名を更に高めた。
 母方の祖父は、鎌倉河岸の船宿「岡本屋正兵衛」に生まれた息子だったが、岡本屋を飛び出して鳶職・火消しになってしまう。祖母は武士の家出身で、その二人の間に生まれた娘が、岡本義(後の八代目正蔵)の母親である。
 名跡の返還など古き良き噺家として名を残した事でも知られる。「かくしゃくとした老人の噺家の代名詞」としてビートたけしなどに引き合いに出され、秋本治の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」では「彦六みたいな奴だ」との台詞が登場する。
 独特な人柄で、最晩年の非常に特徴的なヘナヘナしたしゃがれ声やスローなテンポの話し方などから、落語家などに物真似されることが多い。語尾を曖昧にせず常に明瞭に発声する独特の語り口は、若いころに三遊一朝に徹底的に芝居噺を仕込まれたためだと本人は語っている。 弟子である林家正雀は彦六の物真似が得意で、寄席の高座で披露することがある。また、正雀の兄弟子である林家木久扇も二つ目昇進まで付人として面倒を見て貰った師匠彦六の物真似が得意で、新作落語「彦六伝」を十八番としている。
 曲ったことが嫌いで、すぐにカッとなるところから来ている。弟子に対しても、失敗する度に破門を口にする。しかし謝れば許し、翌日にはもうケロリとしている。 若い頃は、学があり理屈っぽいことから噺家仲間から「インテリ」「新人」(学生運動団体の新人会から)と呼ばれ、「菜ッ葉服(労働服)をきて共産党とつきあっている」と陰口を叩かれた。実際に日本共産党の熱烈な支持者として知られるが、イデオロギーに共感した訳ではなく、本人談によれば「あたしゃ判官贔屓」あるいは「共産党は書生っぽいから好きなんですよ。」とのことであった。
 30年以上に亘って朝日新聞を愛読したが、紙上で落語評論家が当代の名人について、五代目古今亭志ん生・八代目桂文楽・六代目春風亭柳橋・十代目金原亭馬生の名を挙げ「ここまでくると次の指が折れない」と書いたことに激怒し、執筆者に宛てて「お前さんの小指はリウマチじゃねえのかい」と書いた葉書きを速達で送りつけ、朝日新聞の購読を停止し、しんぶん赤旗を取るようになった。 江戸、明治の香りを持った人物だが、オフの時は英国調に洋服も着こなし、意外に現代的な面があった。巡業に出ると必ず昼食はカレーライスで、客が自宅に遊びにくると「どうです。コーシー(コーヒーの下町訛り)でも。」と勧めていた。朝食は必ずジャムを塗ったトーストにコーヒーだった。 無駄使いを嫌い、新聞の折込みチラシの中で片面印刷のチラシを見つけたら切ってネタ帳の代用していたという逸話があるほど。
 仕事で頻繁に寄席へ通うため「通勤用定期券」で地下鉄を利用していたが、「これは通勤用に割り引いて貰っているんだから、私用に使うべきでない」として、私用で地下鉄に乗る際には別に通常乗車券を購入し、改札口では駅員に突きつけるように見せていた。談志もこの律儀さには呆れつつも感心し、国会議員当時に「世の中にはこんな人もいる」と国会で彦六の逸話を紹介している。
 せっかちな性格で、飛行機を使って東京に帰った時、たまたま羽田空港が満員のため、しばらく上空を旋回したことに「てめえの家の玄関先まできてて入れねえって法があるもんけい。」と腹を立て、爾来、飛行機を使わず鉄道で地方巡業に行くようになった。それでも、出発の1時間前にホームに向かうので周囲から早すぎると止められても、「遅れることがあるんだから、間違って早く出るかもしれねえ。」と言って意に介さなかった。五代目柳家小さん名跡の襲名をめぐり、彦六は弟弟子九代目柳家小三治(後の五代目小さん)と争ったが、当時の大御所である八代目桂文楽に若いながらも見込まれていた九代目小三治が五代目小さんを襲名することになる。替わりに貰うことになったのが、空き名跡だった八代目の正蔵であった。この際に浅草の金看板だった「山春」山田春雄は興行の関係で彦六と縁があった関係で法界悋気を病んだと「聞書き」の中で北村銀太郎は説明している。
 稲荷町の住居は昔ながらの四軒長屋の隅の家で、近所に銭湯があり、まさに落語の世界そのままだったという。玄関には「林家」の暖簾がかかっており、春夏・秋冬で2色あった。現在、長屋は取り壊されコインパーキングになっている。銭湯は近所の「寿湯」が昔風の銭湯の印象を残した建物で営業している。
 「正蔵」襲名の経緯については、いずれは名跡を三平に返上するつもりでいたが、三平の好意により終生正蔵を名乗る事とし、自らの死後三平に返上する事にした。しかし1980年三平急逝に伴い、正蔵の名跡を海老名家に返上、「彦六」に改名する。「彦六」の由来は木村荘十二の監督した映画、『彦六大いに笑ふ』(1940年)で徳川夢声が演じた役名「彦六」から。

忠臣蔵(ちゅうしんぐら);忠臣蔵は浄瑠璃のひとつ。並木宗輔ほか合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期にとり、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。

 落語の中で引用されている忠臣蔵、
 「淀五郎」、四段目切腹の場、淀五郎を抜擢したが不味い芝居、「由良之助、待ちかねた、近う近う」と言うが、
 「赤垣源蔵」、「義士銘々伝より 赤垣源蔵・徳利の別れ」は講談でお馴のもの。円生が落語にしたもの。
 「中村仲蔵」、五段目の斧定九郎一役を、工夫して後世に残す。
 「元禄女太陽伝」、大石内蔵助の息子主税を男にしたのは、伏見一丁目栄澄楼の小春です。
 「九段目」、忠臣蔵九段目、桃井若狭之助の家老・加古川本蔵(かこがわほんぞう)の死。
 「七段目」、若旦那は芝居狂い。二階に上がると忠臣蔵七段目を演じ、小僧をおかるに見立て切りつけると、
 「四段目」(蔵丁稚)、忠臣蔵を観た小僧は蔵に、見てきた四段目切腹の場を熱演。それを見た女中が大慌て、
 「徂徠豆腐」、義士達の切腹を決めたという政策助言者、荻生徂徠の噺。
 「忠臣ぐらっ」、義理で参加した武士もいた。屋敷の絵図が無ければ成功しない。町人も協力して・・・。
 「忠臣蔵」、春風亭柳昇が調べた正調(?)忠臣蔵。

 元になった事件は、赤穂事件(あこうじけん);18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で、高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)に斬りつけたとして、播磨赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央を殺し、当夜に在邸の小林央通、 鳥居正次、 清水義久らも討った事件を指すもの。(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件」としている場合もある)。
 この事件は「忠臣蔵」とも呼ばれる事があるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。
 この項、落語「忠臣蔵」より孫引き。

歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』十段目;典型的な創作場面。捕り手に囲まれた天野屋義平、大勢の捕り手が天野屋の門を叩き由良之助に頼まれた武具の調達について白状しろと迫る。十手を差し出し船に積み込んだはずの長持ちを解こうとするので、義平は長持ちの上に飛び乗って制した。実子を人質に取られても武具を隠し通して天河屋義平は男でござる」と叫ぶ義兵の侠気(おとこぎ)を感じさせます。
 十段目ですが、歌舞伎では天保以降幕末になるとあまり上演されなくなり、さらに戦前まではまだ上演の機会もあったが、現在ではほとんど上演されることがない。八代目坂東三津五郎は、この十段目が上演されなくなったのは幕末の世情不安から、その上演を憚る向きがあったのではないかと述べている。最近は、平成28年10~12月通し狂言として国立劇場で上演されたくらいである。ほとんど上演されないので、型らしい型も残っていない。 この十段目については、「作として低調」「愚作」といわれ評判が悪い。私も観に行ったのですが、記憶にありません。

 10段目、店で捕り手達を前に胸を張る義平。そこにおそのが子供会いたさに尋ねてくる。 国貞画

長持ち(ながもち);室町時代以前には収納具として櫃(ひつ)が用いられていたが、時代が進むにつれて調度品や衣類が増え、さらに江戸時代には木綿が普及したことで掻巻や布団など寝具が大型化し、より大型の収納具が必要とされたことで武家で長持が使用され始め、やがて庶民の間にも普及するようになった。
 長持は、 一般的な大きさは、長さ8尺5寸(約174cm)前後、幅と高さは2尺5寸(約75cm)。錠を備えたかぶせ蓋がある。上等の品は漆塗り、家紋入りのものもある。左右の長端部には棹(さお)を通すための金具があり、運搬時はここに太い棹(長持棹)を通して2人で担ぎ、持ち運ぶ。
 長持は代表的な嫁入り道具の一つでもあり、嫁入りに際して長持を運ぶ際の祝い歌は「長持歌」として伝承されたが、明治時代・大正時代以降、長持の役割は箪笥に譲られることとなった。

    写真:長持ち

大星由良助(おおぼし ゆらのすけ);浄瑠璃(じょうるり)「仮名手本忠臣蔵」の登場人物。 伯州の城主塩冶判官(えんやはんがん)家の筆頭家老。高師直(こうの-もろなお)との争いから切腹を命じられた主君の仇(あだ)討ちを計画指揮し,師直を討ちとる。播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩士の仇討ち事件をもとに2代竹田出雲(いずも)、三好松洛(しょうらく)、並木宗輔(そうすけ)が合作脚色した。
 大石内蔵助(くらのすけ)を大星由良助(ゆらのすけ)として登場させている。

 

左、討ち入り前の大星由良之助。 右、同、大星力弥。 左右とも一勇斎国芳画

九つの鐘(ここのつの かね);昔の時刻の呼び名。九つ時。子(ね)の刻(午前零時)また、午(うま)の刻(午後零時)のこと。この噺では、深夜0時に刻の鐘が鳴ります。0時ですよと。



                                                            2020年5月記

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