落語「尼恋」の舞台を行く
   

 

 二代目桂小南の噺、「尼恋」(あまごい)より


 

 喜六という男が、お店(たな)のお嬢さんに気に入られて、ちょくちょく遊びに行くたびに、恋い焦がれてしまった。

 このお嬢さんが尼になることになり、この世の思い出にと、喜六を呼んで色々面白い話をさせた。喜六の思いは益々つのるばかり。
 手紙を書きたいが、無筆なので源兵衛に頼んで、早速それを渡したが、いきなりお嬢さんに張り倒された。
 ビックリして源兵衛に何と書いたのだと聞くと、『結構なお天気でございます』と、百遍書いたという。「どういうわけで?」、「結構なお天気が百日続けば日照りになる。雨が恋しいだろう。お嬢さんは尼さんになるのだから、雨乞いじゃ」、「えッ、雨乞い(尼恋)? 道理で降(振)りやがった」。

 



ことば

二代目桂小南(かつら こなん);(1920年1月2日 - 1996年5月4日)は、東京で上方落語を演じた落語家。本名は谷田 金次郎(たにた きんじろう)。 右写真。
 1939年(昭和14年)、三代目三遊亭金馬の内弟子となり、山遊亭金太郎を名乗る。入門当初は金馬が東宝専属であったため、寄席の定席には出られず、主に東宝名人会で前座を務めていた。太平洋戦争中は召集を受け、1945年(昭和20年)に復員した。1951年、定席の高座に出るために金馬の口利きで二代目桂小文治の身内となる。1958年(昭和33年)9月、八代目桂文楽の好意で二代目桂小南を襲名して十代目桂文治、春風亭柳昇、三笑亭夢楽、三遊亭小圓馬、四代目春風亭柳好とともに真打となった。落語芸術協会所属。出囃子は『野崎』。
 丹波なまりが抜けず伸び悩んでいたところ、師匠の三代目金馬より上方噺に転向するように言われ、それまで習得した江戸噺を封印した。以降、大阪の「富貴」「戎橋松竹」などといった寄席に出かけては、ヘタリ(囃子方)を勤めるかたわら、上方の若手(三代目桂米朝、三代目桂春團治、六代目笑福亭松鶴、五代目桂文枝ら)に混じって、古老落語家から上方噺を教わった。このとき、小南に稽古をつけた橘ノ圓都が自信を取り戻し高座に復帰した、という上方落語復興の一側面を物語るエピソードがある。
 独特な口調は「小南落語」とも呼ばれた。芸に厳しく、終生「稽古の鬼」と称された。1969年(昭和44年)には文化庁芸術祭大賞を受賞しており、1968年(昭和43年)と1981年(昭和56年)には文化庁芸術祭の奨励賞、1989年(平成元年)には芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1990年、紫綬褒章受章。 1996年(平成8年)に死去した。76歳没。

喜六と源兵衛(きろくと げんべい);上方落語の登場人物としては常連の二人です。ここから分かるようにこの噺は上方落語です。

(あま);尼僧(にそう)。20歳以上の未婚、もしくは結婚経験があっても沙弥尼(しゃみに)の期間を経て出家した女性のこと。比丘尼(びくに)とも呼ばれる。キリスト教の修道女(en:Nun)も尼と称することがある。本来は比丘尼 (サンスクリット:bhikSuNii) のことであり、男子の出家修行者(比丘=びく)に対して、女性の出家修行者をいう。 女性が髪を肩のあたりで切ることやその髪型を尼削ぎ(あまそぎ)というが、そのような髪形の童女を尼という場合がある。また近世以降少女または女性を卑しめて呼ぶときにも尼という語を用いた。
 日本では一般に、出家得度して剃髪し染衣を着け、尼寺にあって修行する女性を指す。尼入道、尼女房、尼御前(あまごぜ)、尼御台などと呼ばれた。

 露の団姫(つゆの まるこ);1986年10月生まれ33歳(2020年現在)。尼僧。兵庫県尼崎市在住。上方落語協会・MC企画所属。本名は鳴海春香。法名は春香(しゅんこう)。旧名は鳴海ハトルだったが、現在は戸籍上の本名も「春香」となっている。全国各地で法話や講演を年間100回以上行う、引っ張りだこの人気尼さんだ。
 古典落語のほかに、自作の仏教落語(お説教落語)にも力を注いでいる。小さい頃から「人間が死んだらどうなるのか」と悩んでいて、宗教に興味を持っていた。高校生の頃からは仏教に深く関心を抱き、落語家になるか尼僧になるか迷って落語家になった。初代・露の五郎兵衛が僧侶であったことから二代目五郎兵衛にも関心を持ち、露の一門へ入門した経緯も語っている。
 団姫のホームページ=http://www.tuyunomaruko.com/ 

  瀬戸内寂聴 (せとうち じゃくちょう); 1922年(大正11年)5月15日 - )は、日本の小説家、天台宗の尼僧。俗名晴美。京都府在住。 僧位は権大僧正。1997年文化功労者、2006年文化勲章。学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県立城東高等学校)、東京女子大学国語専攻部卒業。学位は文学士(東京女子大学)。元天台寺住職、現名誉住職。比叡山延暦寺禅光坊住職。元敦賀短期大学学長。徳島市名誉市民。京都市名誉市民。代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。1988年以降には『源氏物語』に関連する著作が多い。これまで新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞している。
 「本当のね、恋の醍醐味は不倫ですよ」 という衝撃の名言を残しています。

■無筆(むひつ);文字を読んだり書いたりすることを知らないこと。読み書きのできないこと。無学。文盲。
  識字は日本では読み書きとも呼ばれる。読むとは文字に書かれた言語の一字一字を正しく発音して理解できる(読解する)ことを指し、書くとは文字を言語に合わせて正しく記す(筆記する)ことを指す。この識字能力は、現代社会では最も基本的な教養のひとつ。
 1443年に朝鮮通信使一行に参加して日本に来た申叔舟は、「日本人は男女身分に関わらず全員が字を読み書きする」と記録し、また幕末期に来日したヴァーシリー・ゴローニンは「日本には読み書き出来ない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もゐない」と述べている。日本の識字率は極めて高く、江戸時代に培われた高い識字率が明治期の発展につながったとされる。
 近世の識字率の具体的な数字について明治以前の調査は存在が確認されていないが、江戸末期についてもある程度の推定が可能な明治初期の文部省年報によると、1877年に滋賀県で実施された一番古い調査で「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は男子89%、女子39%、全体64%であり、群馬県や岡山県でも男女の自署率が50%以上を示していた。 また、1881年に長野県北安曇郡常盤村(現・大町市)で15歳以上の男子882人を対象により詳細な自署率の調査が実施されたが、自署し得ない者35.4%、自署し得る者64.6%との結果が得られており(岡山県の男子の自署率とほぼ同じ)、さらに自署し得る者の内訳は、自己の氏名・村名のみを記し得る者63.7%、日常出納の帳簿を記し得る者22.5%、普通の書簡や証書を白書し得る者6.8%、普通の公用文に差し支えなき者3.0%、公布達を読みうる者1.4%、公布達に加え新聞論説を解読できる者2.6%となる。したがってこの調査では、自署できる男子のうち、多少なりとも実用的な読み書きが可能であったのは4割程度であった。
 近世の正規文書は話し言葉と全く異なる特殊文体によって書かれ、かなりの習熟が必要であった。近世期「筆を使えない者」を意味する「無筆者」とは文書の作成に必要な漢字を知らない者を意味しており、簡単なかなを読めることはどの庶民の間でも常識に属し、大衆を読者に想定したおびただしい平仮名主体の仮名草子が発行されていた。
 義務教育開始以前の文字教育を担ったのは寺子屋であり、かなと簡単な漢字の学習、および算数を加えた「読み書き算盤」は寺子屋の主要科目であった。寺子屋の入門率から識字率は推定が可能であるが、確実な記録の残る近江国神埼郡北庄村(現・滋賀県東近江市)にあった寺子屋の例では、入門者の名簿と人口の比率から、幕末期に村民の91%が寺子屋に入門したと推定される。

 寺子屋で使われた、元治元年刊 「實語教」 の教本から『いろは』。

「櫛と言う字を無筆蒲焼きと読み」;櫛(くし)の字は、良く見ると蒲焼きに見えてきます。
「堪忍の四字だと、無筆知った風」、これは間違いで「堪忍の二字だと、無筆知った風」と言う。堪忍は漢字で書くから二字で、平仮名の”かんにん”の四字は間違っている。言い争いになって二字だという方が怒ってしまった。言い間違った方が笑い出し「いくら字が読めるからと言っても、堪忍が出来ないようでは読めないのと同じだ」。
(円生のマクラより)
 落語の「目薬」でも、粉薬の使い方を読んで、目尻を女尻と読み間違え、大変なこと(?)になってしまいます。

先生と師匠;講談の方は講釈師とも言いますが、先生と言います。落語の方は、先生と言われるとバカにされているようで、やはり師匠でしょうね。師匠というのは、お花の師匠、手習いの師匠、剣術の師匠で、先生とは言いません。でも、邦楽を教える人は、先生と言いました。やはり、清元や小唄は師匠でしょうね。(円生のマクラより)
  無筆の項からここまで、落語『心のともしび』より孫引き。

 噺に出て来る職人は読み書きが出来ないという人が揃っているようで。
「そこで何やっているんだい?」、「兄貴に手紙書いているんです」、「お前は字が書けないんだろう」、「良いんです。兄貴は字が読めないから」。

寺子屋(てらこや);子供は5~8歳になると寺子屋に入った。寺子屋の名称は江戸時代前の教育が寺で行われていた名残り。先生つまり手習いの師匠は浪人、僧侶、医師、神官、等で12~3歳までの生徒に読み・書き・そろばんを特に教えた。授業は平均あさ8時頃から昼休みを取って2時頃までで、月謝は決まってはいず、身分や貧富に応じて出していた。幕末の江戸には四千軒以上有った。寺子屋は現在の教室とは違って、個別授業であった。
 寺子屋を出ると、向学心が有る者(武家)では私塾に通ったり、幕府の肝いりの昌平黌に進んで最高の勉学に励んだ。
 昌平黌(しょうへいこう):江戸幕府の学校。昌平坂学問所、聖堂ともいう。1632年、林羅山が上野の忍岡に孔子廟を営んだのが起源。最初幕府の文教を担当した林家の私塾であったが、元禄3(1690) 年林家三代目鳳岡 (ほうこう) のとき、五代将軍徳川綱吉の文教奨励策によって、これを神田湯島に移し、孔子廟や学寮を建て、その地を孔子生誕の地にちなみ昌平坂と名づけ、聖堂と称した。寛政の改革に際し、朱子学を正学として寛政9 (1797) 年幕府の学問所として昌平黌と名づけ、庶人の入学を禁じ、幕臣、藩士らの子弟を教育した。別に諸生寮を設置して陪臣、浪人も入学させたので、幕末には諸国の人材が集った。明治維新後は昌平学校、大学校となり、明治4 (1871) 年廃校。
 その結果、明治に入って欧米化が急速に進んだのも、この下地があったからです。また、江戸時代には貸本屋という商売があって、繁盛していたのもこのお陰です。

  

 一掃百態より「寺子屋の図」 渡辺崋山画 (田原町教育委員会蔵) この自由奔放な教育風景。習字で紙が貴重品ですから何度も書き足し真っ黒、乾くまで、喧嘩で時間つぶし。



                                                            2020年5月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system