落語「淀の鯉」の舞台を行く
   

 

 桂九雀の噺、「淀の鯉」(よどのこい)より


 

  え~、まぁ乗り物嫌いでよく言われるのが飛行機嫌いな人って、よくいらっしゃいますね。だいたいそぉいぅ方の理屈は一通りでございまして、「あんな大きな鉄の塊が、空を飛ぶ理屈が分からへん」と、こぉおっしゃるんですけども、理屈が分かれへんからて乗らへんねやったら、たぶん自動車の動く理屈かて分かってないはずでございますけどね、その人らわ。
  まぁほかにも、船がお嫌いといぅ人がいらっしゃいます「板子一枚下は地獄」なんて言ぃまして、確かに板一枚下は水でございますから、泳げない人にとっては大変恐い乗り物(のりもん)なのかも知れません。

 暑い暑い、夏のお噺でございます。

  「女将、ごめんやす。いやぁ~、もぉ暑つおまんなぁ~。今もね、外歩いてましたら、上からボ~ト、ボ~トと何やら落ちてきまんねがな。何が落ちてくんのかなぁ? 思て拾い上げてみたら、あんまり暑いさかい、空飛んでる雀が焼き鳥になって落ちてきてまんねや」、「そんなアホな」、「いえ、ホンマホンマ、一つずつちゃ~んとタレ付けて・・・」、「一八とん今日はな、あんたのその太鼓持ちの口の軽いとこを見込んで、頼みがあんねんやわぁ。播磨屋の旦さん、あの方がな、毎日あんまり暑いさかいに、『今日は淀川に船を浮かべて船遊びをしょ~』と、おっしゃんねんわ。『板場の喜助を一緒に乗せて、その場で料理をさせて食べたい』と、こない言ぃはんねわ」、「喜助どんは旦さんの一のお気に入りでっさかい、結構なご趣向でんなぁ」、「ちょっとも結構なことないねや」、「何で?」、「板場の喜助どんは、いたっての船嫌いやがな」。
 「あんたに頼みといぅのは、その口でうまいこと口車に乗して、喜助どんを今晩の船に乗して欲しぃねんわ」、「かしこまりました。喜助どんはお酒に目がおまへんさかいね、酒塩で炒めて下げて行きまっさかいに」、「あんた。どれぐらい用意したらえぇやろ?」、「まぁとりあえず、えぇ酒を一升」、「ほなすぐに仕度さすさかい、頼んましたで」。

 「喜助どん」、「一八どんか」、「ちょっとこれの味見をして、と思いまして」、「まだ明るいで、こんな時刻から呑んでえぇのんかい?」、「ちゃんと女将さんにはお許しもぉてまんねんで。お料理の研究のために酒、呑みまんねやろ」、「ほな、研究さしてもらおかなぁ? (クゥ~、クゥ~、クゥ~、クゥ~)」、「女将が『あの喜助どんだけは男の中の男や』ちゅうて」、「これがまぁ板場の、心意気やと思うさかいなぁ(クゥ~、クゥ~、クゥ~、クゥ~)おおきありがとぉ」。
 「ほな船に乗ってぇな」、「けど『板子一枚下は地獄』やろ」、「まだあんなこと言ぅてまんのかいな、まぁまぁ、お酒とりあえずいきまひょ」、「酒はよばれるけどな、船だけはちょっと堪忍してもらいたい」、「えぇ呑みっぷりやな~、男らしぃな~、ね~、こんな男らしぃ人が船が恐いとはね~」、「おい、一八、今お前何言ぅた?」、「『男らしぃ人や』言ぃましてん」、「誰が船が恐い? わしは船が苦手やちゅうねん」、「人間誰でも恐いもんありまんねん、あんたは船が恐い、それでよろしぃ」、「まだ言ぅか、お前。恐わないっちゅうたら恐わないねや」、「ハイハイ、恐わない恐わない」、「ほな恐わない証拠にちょっと船に乗ったるわい、付いて来いッ、やッどっこいさのサッ」。

 喜助どん、船に乗り込んだんはえぇんですけど、酔ぉて走ったもんですから、乗り込んだときにはすっかり酔いが回って、船ん中で寝込んでしまいよった。
 鍋島の浜といぅところから、船が蜆川(しじみがわ)を西へ西へ進みます。大川のほぉへ出ますといぅと、たくさんの遊山の船、夕涼みの船が浮いておりまして、独りでチビチビ呑んでいる船もあれば、また、三味や太鼓で囃している船もある。大勢の千差万別の夕涼みの景色でございまして。             
 「おい船頭はん、この辺で停めよか。一杯もらおか・・・」、「一八、そろそろ喜助起こしてくれるか。といぅのが、突き出しみたいなもんで呑んでんねや」、「もぉ酔いも覚めた頃やろと思います、行てまいります」。
 「あのな、旦さんが何ぞこしらえて言ぅてはんねん、ちょっと・・・、あかんのかいな? もぉ困ったなぁ、旦さんに言ぅてくるわ。旦さん、旦さ~ん」、「おぉ、どないや? 喜助、何をこしらえる言ぅた?」、「船が恐いっちゅうて船底へへばり付いてまんねん」、「喜助がそんなやったら仕方がない。一八、お前向こぉ岸まで泳いで行って、料理段取りして泳いで戻って来いッ」。
 「頼むわ、何ぞこしらえてぇな、播磨屋の旦さんしくじったら女将さんにどんだけ叱られる思てんねんな。まな板も庖丁も用意してあるし、生簀(いけす)に魚も入ったぁんねん。な『武士はクツワの音に目を覚ます』っちゅうやろ、なぁ、とりあえず起き上がってぇな」、「あかん、あかん、この船揺れてる」、「そら揺れてるわいな、浮かんでんねんさかい」、「道頓堀のかき船揺れへんで」、「あれは繋いであんねや。とりあえず包丁持って~な庖丁」、「あかん、この庖丁、コンニャクみたいに震える」、「あんたが震(ふる)てるねん。ホンマにも~、ちょっとしっかりせんかいな」、(ポンッ)と、叩かれました拍子に喜助どん、持っておりました庖丁を川ん中へザブ~ンッ!。

 「あぁビックリしたッ、何や上から落ちてきたでおい。おいフナ、フナ」、「何やコイ?」、状況、お分かりでございますか、皆さん? 川の中のコイとフナの会話になってるんですよ。
 「わいも分かれへん、あ、向こぉからナマズの親っさん泳いで来た、あの人もの知りや、あの人に聞ぃてみよか」、「あッ、えらいもんが落ちてきたなぁ。お前ら覚えとけよ、これはな、人間がわしら魚をさばくときに使う『庖丁』ちゅう道具や」、「うちの親っさんがね、この庖丁で三枚に下ろされて、コイの洗いになってあえない最期を遂げたんですよ。え~い、ここで出会ぉたがウドンゲの、花咲く春の心地してぇ」、「人間はあん中で何やってまんねん?」、「散財してるに決まってるやろ」、「楽しそぉでんなぁ」、「お前、敵討ちどこいったんや?」、「死んだもんしょ~がおまへんわなぁ」、「切り替え早いなぁ、お前」、「親っさん、わたいね、一ぺん船の上、見に行きとおまんねんけど」、「ヒョッと捕まってみ、親っさんとおんなじよぉに三枚に下ろされてまうねん」、「だいじょ~ぶですって、庖丁がここにおまんねんさかい」、「庖丁は何も一丁だけと決まったもんやないがな、やめとき、やめとき」。

 「あぁ~、もぉちょっとやねんけどなぁ、見えへんがな悔しぃな~。よし、いっぺん水の面(おもて)で跳ねてこましたろ」と、コイ、水の面を尾ビレでもって一つピチィ~ッと跳ねますといぅと、ブルブル震えております喜助どんの目の前のまな板にドサッ!
 「ワッ、ビックリした。コイが飛び込んできたで・・・、大きなコイだっしゃないかいな、洗いにして食いまひょ、押さえなはれッ!」。 聞くより早いか、コイ、もぉ一ぺんまな板をピシィ~ッと叩きますといぅと川ん中へザブゥ~ンッ。
 「戻って来よった、戻って来よった、どないや? 遊山の船はオモロかったか?」、「オモロイことおまっかいな、もぉちょっとでえらい目に遭うとこですわ。も~、船こりごりですわ」、「船て、そない恐いか?」、「『えぇもぉ、板子一枚、上は地獄』でおますわ」。

 



ことば

桂米朝作『淀の鯉』;五代目桂米團治は、高座で披露させていただきました。これは父・米朝が21歳の時に書いた新作落語です。まだ四世桂米團治師匠に正式に入門する前のことで、すなわち中川清という名前で米團治師に宛てて書いた作品なんです。ところが、米團治師匠はこれを演じることなく、そのまま“お蔵入り”となり、いつしか米朝宅の膨大な書類の束の中に紛れ込む結果となってしまいました。しかし、今回、小ホールで同時開催されることとなった「米寿記念・桂米朝展」の準備にあたり、姫路在住の落語研究家である小澤紘司さんが、反古(ホゴ)の山の中からその直筆原稿を見つけ出して下さったのです。 そして、それを私が演じることに! 父が若かりし日に作った作品が65年ぶりに陽の目を浴びる…! この作品は、船場の旦那が淀川に屋形船を浮かべて芸者衆に鯉を釣らせ、それを板場の喜助に料理させる。ところが、喜助は船が大の苦手、さぁどうなるかという筋立てなんですが、私はこれをどう演ずるべきかと大いに迷いました。
 ようやく、ある程度の目処がついた7月31日、ふと私の心に「京都の神泉苑(シンゼンエン)に行きたい」という思いがよぎったのです。何故だか分かりません。で、ネット検索をしてみると、神泉苑は平安時代の初めに空海によって作られた庭園であることが分かりました。そこには大きな池があり、「善女龍王」と呼ばれる龍神さまが住んでおられるとのこと。ちなみに、「御池通り」という名前はこの池に由来するんだそうです。そして、神泉苑は東寺の真北に位置することが判明。最近、空海に興味を覚えるようになってきた私・・・これは、いよいよ行かなアカンぞ。実は私、しょっちゅう京都に行ってるのに、恥ずかしながらこれまで一度も東寺にも神泉苑にも入ったことがなかったのです。
 まことに遅ればせながら、満を持しての東寺拝観。正式名称は真言宗総本山、教王護国寺。日本最初の密教寺院です。 いやぁ、素晴らしかった! 境内から仰ぎ見る五重塔はとても凛々しく、堂々と聳えていました。55mという高さは、木造建築物としては今なお日本一だとか。中には空海が唐より持ち帰った仏舎利が納められてあるとのこと。 次に、金堂と講堂を順に拝観。その見事な佇まいに、心洗われました。金堂には薬師如来、講堂には大日如来を初め、数々の国宝や重要文化財となっている仏さまが穏やかな表情で並んでおられるのです。張り詰めた気持ちがみるみるうちに緩み、心が落ち着きました。特筆すべきは、お堂の中が涼しいこと! 外は酷暑であるにも拘わらず、中は風通しが良く、とても居心地が良いのです。日本の木造建築の素晴らしさに改めて感じ入った次第(^0_0^) さて、いよいよ眼目の神泉苑です。善女龍王が祀られてある祠(ホコラ)をお参りし、池に架かる橋を渡ると、とても良い氣を感じました。 ふと足元に目をやると、何十匹もの鯉の大群がこちらに近づいて来るではありませんか! そして、池の端に目をやると、何と綺麗に彩色を施された屋形船が繋がれてあるのです! びっくりしました(0_0)  まさに『淀の鯉』や☆☆☆ 私の『淀の鯉』の構成が京都の神泉苑で完成したということは、ここだけの秘密にしておいて下さいね(^_^ゞ
(2012年8月5日 米團治)

 まさか、ここを舞台に噺を展開したのでは無いでしょうね。寺院の庭園神泉苑は殺生禁断の地です。また、この神聖な場所で芸子や太鼓持ちを引き連れて、どんちゃん騒ぎ、生け簀から魚を取りだして命を取って料理するなんて、とんでもないことです。
 やはり舞台は、父・米朝さんが創った、蜆川がベストでしょう。蜆川がイメージできないので有れば、淀川だって良いでしょう。それも出来なければ手を着けない方が良いでしょう。

淀川(よどがわ);日本最大の湖・琵琶湖から流れ出る唯一の河川です。滋賀県大津市から出た流れは瀬田川と呼ばれ、京都府に入ると宇治川と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界、大山崎町で桂川、木津川と合流し、この合流地点より下流が淀川となり、最後は大阪湾にそそぎます。その場所を「大川」とも呼ばれています。なお、河川法上では琵琶湖が淀川の水源となっていますので、琵琶湖より流出する瀬田川・宇治川は法律上では淀川本流になる、流路延長75.1km、流域面積8240キロ平方の一級河川です。
 なお、この流路延長と流域面積は、琵琶湖南端からの計測になるもので、河口から一番遠い地点は、滋賀県と福井県の分水嶺である栃ノ木峠で、ここには淀川の源という石碑が設置されています。
  江戸時代までは大和川も淀川に合流していたのですが、付け替えによって本流が分離され、現在は独立した水系となっています。大坂は海が近いため井戸などの地下水には塩気があり、江戸時代には淀川の水が飲料水として使われており、天明年間(1781~89)など、江戸時代には水は京か大坂かともてはやされていたのですが、現在では大阪の水は京都の水と同じくまずい水の最右翼と言われています。
  淀川は古来から、日本の政治・文化・経済の中心地として極めて重要な位置を占めていたため、仁徳天皇時代の茨田堤の建設に始まる河川整備が繰り返されますが、洪水も度々起きました。平安時代末期の白河法皇は、意のままにならぬ「天下三不如意」として比叡山延暦寺の僧兵、双六博打の賽の目と並んで、淀川上流である鴨川の治水を挙げた事は有名です。
 そして、戦国時代に全国を統一した豊臣秀吉が晩年、伏見に居を移すに当たり、宇治川の改修を行います。まず、槇島堤を築き、京都盆地南部に流れ込む宇治川の流れを巨椋池に直接流れ込む形から、現在のような伏見への流れに変えました。これにより宇治川は桃山丘陵に築かれた伏見城の外濠の役目を担うとともに、水位が上がったことで伏見城下に港を開くことを可能にしました。また淀堤(文禄堤)を伏見・淀間の宇治川右岸に築き、流れを安定させたので、伏見は交通の要衝として栄えることになります。
 江戸時代に入ると、徳川家康の命により方広寺大仏殿造営のための資材運搬を鴨川を用いて行った角倉了以・与一親子が、恒久的な運河として高瀬川を開削して、京都への水運整備を行い、物流を発展させます。大坂においては道頓堀が開削され、大坂夏の陣で荒廃した市中の再建が進められる中で、水運と橋梁の整備も進みました。江戸の「八百八町」に対し、大坂は「八百八橋」と詠われました。更に農業技術の進歩と江戸幕府による新田開発奨励の中で、宇治にある巨椋池の干拓も始まります。
  経済が活発になると、薪炭の採取や新田開発が進み流域の伐採が進み、森林が喪失して、山間部からの土砂流入を招き、氾濫などの原因となる河床の上昇が進んだため幕府は万治3年(1660)に山城国、大和国、伊賀国で樹木の根株の採掘を禁ずる令を出します。さらに寛文6年(1666)には、全国に諸国山川掟を発しています。それでも土砂流入は収まらず、天和3年(1683)には稲葉正休による現地視察が、稲葉が失脚した翌貞享元年(1684)には河村瑞賢による河川改修工事が行われます。 また、文化4年(1807)5月には大雨により琵琶湖の水が溢れ、京都・大坂に洪水をもたらしたと、大坂の画家・暁鐘成は『雲錦随筆』に記していいます。
 落語とお江戸のフリーライター・福々亭 笑助(千葉落語同好会)まぐまぐ!メルマガより

 落語に登場する淀川というのは今の大川のことであり、街中を流れているので大した魚は住んでいないだろう、と思い込みがちなのですけど、実は結構釣れる穴場だそうです。
  “大川&釣り”で検索すれば想像以上の巨鯉が釣れていて、感心することしきりなのでした。ところが昨今、なんと大川で鰻釣りが流行っているというではないですか。しかもこの鰻、専門店がお墨付きを与えるほど美味しいと聞き、あんな川でも捨てたもんじゃないんだなと再認識したところです。 

鍋島の浜といぅところから、船が蜆川(しじみがわ)を西へ西へ進みます。と言ぃましても「わたしら、そんな大阪の地理に詳しないわッ」といぅ方がいらっしゃるかもしれませんが、ご心配なく。地理に詳しぃ方でも分からないことを申しております。
 と言ぃますのは、今無い川なんでございます、この川はね。「蜆川」いち名「曽根崎川」といぅふぅに申しまして、曽根崎新地のど真ん中を東から西へと流れておりました川でございます。
  ところが、曽根崎新地の大火、大火事の瓦礫によりまして、この川はみな埋まってしまいまして、川が無いよぉになってしまいました。で、川に掛かっておりました橋の名前だけが、今でも「桜橋」とか「出入橋」とか、交差点の名前で残っているわけでございますね。
 え~「鍋島の浜」と言ぅのは今の大江橋、市役所のあるところ、橋下市長のいらっしゃるところでございますが、あのちょっと北(対岸)のところにありまして、こぉちょっと北へ折れまして、ズ~ッと西のほぉへ進むのが蜆川でございまして、やがて再び大川へ合流するといぅ、そぉいぅルートやったそぉでございます。
 演者噺の中の解説による

   

 大江橋上流部で北西へ堂島川から分流し、堂島一丁目と曽根崎新地一丁目の境界道路北側をほぼ西方回へ弧を描きながら流れ、船津橋付近で再び堂島川に合流する川があった。これが曽根崎川で、蜆川、梅田川、下流では福島川ともいった。元禄初期、河村瑞賢(かわむらずいけん)により改修され、曽根崎新地や堂島新地がひらかれ、茶屋がならび賑わった。明治42年北の大火後、焼跡の瓦礫の捨場となり、上流部が埋めたてられ、大正13年にはすべて姿を消した。川には上流部から難波小橋、蜆(しじみ)橋、曽根崎橋、桜橋、緑橋、梅田橋などが架かっていた。近松の名作「心中天網島(てんのあみじま)」の道行き「名残りの橋づくし」によみ込まれ、有名であった。
 2019年5月10日大阪市教育委員会事務局生涯学習部文化財保護担当の解説による

 江戸時代、各藩は米や特産物を換金するため主に中之島を中心とした場所に蔵屋敷をもっていた。 川沿いの蔵屋敷に直接船で多量の物産を搬入するため屋敷内には御船入という入堀を設けていた。 そのため、川沿いの道路は入堀への水路をまたぐために橋が必要であり、この橋を船入橋と総称した。 橋長は4間から8間半(約7.2mから15.3m)、幅員2間(約3.6m)程度で積荷を高く盛った船が通航しやすいように反りの大きな橋であった。
  蔵屋敷は明治維新後全て姿を消したが、一部の船入橋は所有各藩の名をとめ、高松橋、徳島橋、熊本橋などとして残っていた。 平成2年、この地に入堀跡が確認されて、現裁判所の地が鍋島藩蔵屋敷跡であることが裏付けられた。 またこの船入橋は近松門左衛門の「心中天の網島」の中で、冥土へ旅立つ男女の姿を見送る「名残の橋」としても読み込まれている。    (船入橋の碑文)

太鼓持ち(たいこもち);遊客の機嫌をとり、酒興を助けるのを仕事とする男芸者。幇間(ホウカン)。末社(マツシヤ)。太鼓。

淀川に船を(よどがわに ふねを);夏の暑い時は夕涼みに川端に出たりして、自然の風に当たるのが一番の涼み方です。大坂では芸者太鼓持ちを連れて、淀川に船を出すのが大店の旦那衆の定番です。
 落語「船弁慶」にそのドタバタがあります。また、「遊山船」にその情景が有ります。

船嫌い(ふねぎらい);船が嫌いになる理由は、揺れるからで、船酔いの原因になって遊ぶどころではなくなります。また、泳げない人では沈没したらと考えると、のんびり船に乗っていられません。で、「板子一枚下は地獄」と言うことになります。決して、浦島太郎のように亀に乗って竜宮城に行く気にはなれません。

板子一枚下は地獄(いたごいちまいしたは じごく);船乗り稼業の危険なことのたとえ。船上は極楽ですが、一歩間違えれば、船の下は地獄です。

酒塩(さかしお);煮物の調味のために、酒を加えること。食物を煮る時、味付けのために加える、塩で味を整えた酒。

鍋島の浜(なべしまのはま);佐賀藩の大坂蔵屋敷が大川の中之島、大阪市役所の対岸、現在の裁判所のあるところに有った。で、この様に呼ばれる。
 現在大坂高等裁判所のある辺りには佐賀藩松平肥前守35万7千石の蔵屋敷があり、辺り一帯を鍋島浜と呼び、夕涼みに絶好の地であった。米市場が近いため周辺には奥州弘前の津軽大隈守10万石、対馬の宗対馬守10万石、尼崎松平遠江守4万石、佐伯毛利安房守2万石の蔵屋敷も並んでいた。元禄年間(1688~1703)に架けられたといわれる大江橋から眺める佐賀藩蔵屋敷の白壁は見事なものであった。
 佐賀藩(さがはん)=肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島家が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)に置いた。

大川(おおかわ);かつての淀川本流であるが、淀川放水路が開削された1907年(明治40年)以降は旧川扱いとなっている。当初「新淀川」「淀川」だった呼び分けは、次第に「淀川」「旧淀川」となったが、旧淀川は上述の区間ごとの名称で呼ばれることが多い。
 中之島より上流が大川、または天満川(てんまがわ)、下流が安治川と呼ばれる。中之島では南北両岸に分かれ、北が堂島川、南が土佐堀川(とさぼりがわ)と呼ばれる。なお、河川調書では土佐堀川は別河川扱いとなっている。 都島区毛馬町で淀川(新淀川)より分岐して南流、川崎橋をくぐると西流に転じ、東からは寝屋川が合流、天神橋の直前で、中之島の北へ堂島川、南へ土佐堀川となって分岐する。

遊山の船(ゆさんのふね);船遊山をする船。船遊びの船。江戸時代では、賃貸しをする町屋形船が主として使われた。

突き出し(つきだし); 料理屋などで本料理の前に出す軽い料理。お通し。注文の品が出来るまでの間のつなぎに、取りあえず酒の肴として出す、簡略な料理。

生簀(いけす);漁獲した魚介類を販売や食用に供するまでの間、一時的に飼育するための施設。いけす、生簀とも表記する。

武士はクツワの音に目を覚ます;ちょっとしたことにも敏感に反応することのたとえ。「轡」は馬の口につける金具で、その轡が鳴る小さな音でも武士は目を覚ましたということから。
 侍の子は轡の音で目を覚まし、商人の子は算盤の音で目をさまし、乞食の子は茶碗の音で目を覚ます。

道頓堀のかき船(どうとんぼりの かきぶね);水の都大阪には、道頓堀川、土佐堀川、江戸堀川、西横堀川、など、街を縦横に結ぶ 水路を形成する堀川がある。 そうした堀川の端にかならずと言ってよいほど見られたのが「かき船」であった。 毎年、晩秋になると広島からやってきて翌三月まで川面に薄暗い障子の灯りをうつす かき船は、浪花の冬の風物詩でもあった。船の中では「寄席のおどり」などが  よく演じられてにぎわったが、昭和四十年代になってしだいにその姿を消していった。
 道頓堀川、土佐堀川、堂島川、西横堀川など大阪市内いたるところの川で見られた「かき船」は、江戸時代の俳句にもうたわれた。大正から昭和の初めの最盛期には40〜50隻もあったが、しかし、川の汚濁や臭気のため、年々その姿を消していった。

写真は最後の生き残りと言われる道頓堀川の「かき広」=大阪市南区。

フナ(鮒、鯽、鮅);日本を含むユーラシア大陸に広く分布し、河川、湖沼、ため池、用水路など、水の流れのゆるい淡水域などにも生息し、水質環境の悪化にも強い。 他のコイ目の魚同様背びれは1つだけで、ひれの棘条は柔らかくしなやかである。背中側の体色は光沢のある黒色か褐色で、腹側は白い。全体的な外見はコイに似るが、口元にひげがない。また、コイに比べて頭が大きく、体高も高い。体長は10-30cm程度だが、ゲンゴロウブナやヨーロッパブナは40cmを超えるものもいる。また、色素変異を起こして体色が赤色となったものをヒブナとよぶ。キンギョはヒブナをさらに品種改良したもの。

コイ(鯉);比較的流れが緩やかな川や池、沼、湖、用水路などにも広く生息する大型の淡水魚。ニゴイとは同科異亜科の関係にある。 コイの語源は体が肥えていることまたは味が肥えていることに由来するという。
 フナに似るが頭や目は体に対して小さい。吻はフナよりも長く伸出させることができる。また上顎後方及び口角に1対ずつ触覚や味覚を感知する口ひげがある。体長はフナより大きく約60cmで、100cmに達するものもある。飼育されたり養殖されてきた系統の個体は体高が高く、動きも遅いが、野生の個体は体高が低く細身な体つきで、動きもわりあい速い。食性は雑食性で水草、貝類、イトミミズなどを食べる。その他、昆虫類、甲殻類、他の魚の卵や小魚、米粒、トウモロコシ、芋、麩、パン、カステラ、うどん、カエルなど、口に入るものならたいていなんでも食べる。口に歯はないが、喉に咽頭歯という歯があり、これでタニシなどの硬い貝殻なども砕き割ってのみこむ。さらに口は開くと下を向き、湖底の餌をついばんで食べやすくなっている。なお、コイには胃がない。コイ科の特徴として、ウェーバー器官を持ち、音に敏感である。また髭には匂いや味を感じる器官が沢山集まっており、この感覚器を「味蕾」と呼ぶ。
 ウェーバー器官=硬骨魚類のコイ類(コイ、フナ、ナマズ、ウナギなど)では、椎骨(ついこつ)の前端3個から突起が生じ、変形してウェーバー小骨という骨片になる。3個のウェーバー小骨が連なったものがウェーバー器官で、発見者であるドイツの生理学者E・H・ウェーバーの名をとったこの器官は、うきぶくろと内耳とを連絡し、哺乳(ほにゅう)類の耳小骨と同じ働きをする。うきぶくろに生じた圧変化は、ウェーバー器官を介してリンパ管内の運動に変わり、球状嚢(のう)内の繊毛を動かし、聴覚を生じる。

ナマズ(鯰);日本においても現代では沖縄などの離島を除く全国各地の淡水・汽水域に幅広く分布している。 日本在来の淡水魚は雑食のものが多いため、在来魚としては数少ない大型の肉食魚である。大きな体をくねらせてゆったりと泳ぎ、扁平な頭部と長い口ヒゲ、貪欲な食性を特徴とする。 日本におけるナマズは、古代から食用魚として漁獲されたほか、さまざまな文化に取り入れられた歴史をもつ。神経質でデリケートな性格から暴れたり飛び跳ねることも多く、日本では中世以降地震と関連付けられ、浮世絵をはじめとする絵画の題材にされるなどして、人間との関わりを深めてきた。
 外観は大きく扁平な頭部と幅広い口、および長い口ヒゲによって特徴付けられ、全長60 - 70cm程にまで成長し、一般に雌の方がやや大きい。 口ヒゲは上顎と下顎に1対ずつ、計4本ある。仔魚の段階では下顎にもう1対あり、計6本の口ヒゲをもつが、成長につれ消失する。

三枚に下ろされ;魚の下ろし方の一。二枚下ろしにした後、中骨を下身からはずして、上身・中骨・下身の三つに分けること。

コイの洗い(鯉のあらい);下ろした魚を、そぎづくりや糸つくりなど薄切りにし、流水やぬるま湯で身の脂肪分や臭みを洗い流した後、冷水(氷水)にさらし漬けて身を引き締めて(身は、縮まり、ちりりと「はぜる」。)から水気を切って提供する手法。 コイ、フナなどの川魚、スズキ、ヒラメ、鯛、アジなど白身の魚が用いられる。鮮度の善さが必須条件で、鮮度の低下のはやい川魚の場合は生きているものを用いる。刺身で食するよりも身の脂分とクセが抜けあっさりと淡泊になるのと、刺身よりもやや弾力が、またこりこりとした独特の歯ごたえが出る。涼感あふれる夏むきの料理。 身を洗う時の水の温度加減や時間で、身の風味や食感をやや調節できる。 わさび醤油、ポン酢醤油など、またちょっとクセのある川魚は酢味噌などで食べる。 寄生虫(有棘顎口虫・吸虫類)の心配がありますので、野生のコイは生食に問題がある事を憶えておいて下さい(淡水魚は概ねそうです)。酸性の酢味噌や梅醤油などで頂きます。

ウドンゲ(優曇華);クワ科イチジク属の落葉高木。ヒマラヤ山麓・ミャンマー・スリ‐ランカなどに産する。高さ約3m。花はイチジクに似た壺状花序を作る。果実は食用。仏教では、3千年に1度花を開き、その花の開く時は金輪王が出現するといい、また如来が世に出現すると伝える。
 (3千年に1度開花すると伝えるところから) 極めて稀なことのたとえ。狂、花子「たまたま会ふこそ―なれ」。

板子一枚、上は地獄;オチのことばで、鯉にしてみれば水の無いところは地獄で、それも、鯉を三枚に下ろして食べるという。それは地獄です。地上に住む人間と、水中に住む魚では、真反対の環境です。



                                                            2020年6月記

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