落語「三人無筆」の舞台を行く
   

 八代目春風亭柳枝の噺、「三人無筆」(さんにんむひつ)より


 

 お出入り先の伊勢屋の隠居が死んだ。 弔いの帳付けを頼まれたのが熊五郎と源兵衛の二人。
 熊は字が書けないので、恥をかくのは嫌だから、どう切り抜けようかとかみさんに相談すると、「朝早く、源さんよりも先に寺に行って、全部雑用を済ましておき、その代わり書く方はみんな源さんに押しつけちまえばいい」 と言う。

  「なるほど」 と思って、言われた通り夜が明けるか明けないかのうちに寺に着いてみると、なんと、源さんがもう先に来ていて、熊さんがするつもりだった通りの雑用を一切合切片づけていた。
  源さんも同じ無筆で、しかも同じことをかみさんに耳打ちされてきたわけ。お互い役に立たないとわかってがっかりするが、しかたがないので二人で示し合わせ、隠居の遺言だからこの弔いは銘々付けと決まっていると、仏に責任をおっかぶせてすまし込む。
 ところが、おいおい無筆の連中が悔やみに来だすと、ごまかしがきかなくなってきた。 困っていると地獄に仏、横町の手習いの師匠がやってきた。

 こっそりわけを話して頼み込み、記帳を全部やってもらって、ヤレヤレ一件落着、と、後片付けを始めたら、遅刻した八五郎が息せききって飛び込んでくる。 悪いところへ悪い男が現れたもので、これも無筆。 頼みのお師匠さんは、帰ってしまって、もういない。 隠居の遺言で銘々付けだと言ったところで、相手が無筆ではどうしようもない。 三人で頭を抱えていると、源さんが 「そうだ。熊さん、おまえさんが弔いに来なかったことにしとこう」。

 



ことば

無筆(むひつ);江戸中期の享保年間(1716-36)あたりから寺子屋が普及、幕末には、日本人の識字率は70%を超えたといわれ、当時の世界最高水準でしたが、それでも三割近くは無筆。19世紀前後では、寄席に来る客の三、四割が無筆という割合で、「無筆が無筆の噺に笑っていた」ことになります。現代なら人権問題に及びそうですが、なんとも大らかな時代ではありました。

八代目春風亭柳枝(しゅんぷうてい りゅうし);(1905年12月15日 - 1959年10月8日)は、戦後活躍した東京の落語家。本名は島田勝巳。
 東京本郷の生まれ。音曲師である四代目柳家枝太郎の子。温厚篤実な性格で、何を言われても「結構です。」と言うので「お結構の勝っちゃん」と呼ばれた。客に対しても丁寧な物腰で語る芸風に人気があった。ただ、それは平時のときであり、酒が入っていない時の物腰の柔らかさとは裏腹に、酒が入ると一変。酔うと人格が変わって荒れるのが欠点だったと言う。
 入門から睦会所属だった。1937年の睦会解散後、落語協会に入会した。(春風亭小柳枝襲名をめぐるいざこざで、日本芸術協会(会長柳橋・三木助師弟)とのわだかまりがあった)。
 1959年 9月23日、ラジオ公開録音で『お血脈』を口演中に脳出血で倒れ、10月8日日比谷病院にて死去。奇しくも師匠四代目柳枝もNHKのラジオ口演中に脳卒中で倒れていた。また、実父の柳家枝太郎も脳溢血で倒れたことがある。

帳付け(ちょうづけ):参列者の出席を記録するために会葬者名簿に記帳すること。

銘々付け(めいめいづけ):会葬者簿に幹事さんに任せず自分で名前を書くこと。

遺言(ゆいごん);死後のために物事を言い遺ノコすこと。また、その言葉。いごん。いげん。ゆいげん。法律用語では「いごん」という。

地獄に仏(じごくに ほとけ);地獄で仏。地獄で仏に会ったようとは、危機や苦難の中で、思わぬ助けにあったときの嬉しさのたとえ。苦しく恐ろしい状況を「地獄」として、そこで出会った救いを仏様にたとえたことば。

手習いの師匠(てならいの ししょう);江戸時代の寺子屋で、子供に読み書きを教える人。

   

 寺子屋の筆子(生徒)と女性教師  一寸子花里画「文学ばんだいの宝」より

 寺子屋にて指南された学問は「いろは」は方角・十二支などからはじまり、「読み書き算盤」と呼ばれる基礎的な読み方・習字・算数の習得に始まり、さらに地理・人名・書簡の作成法など、実生活に必要とされる要素の学問が指南された。教材には『庭訓往来』『商売往来』『百姓往来』など往復書簡の書式をまとめた往来物のほか、漢字を学ぶ『千字文』、人名が列挙された『名頭』『苗字尽』、地名・地理を学ぶ『国尽』『町村尽』、『四書五経』『六諭衍義』などの儒学書、『国史略』『十八史略』などの歴史書、『唐詩選』『百人一首』『徒然草』などの古典が用いられた。中でも往復書簡を集めた形式の書籍である往来物は特に頻用され、様々な書簡を作成する事の多かった江戸時代の民衆にとっては実生活に即した教科書であり、「往来物」は教科書の代名詞ともなった。また、手習師匠が自身で教材を作る場合もあった。 1711年には幕府から寺子屋の手習師匠に九ヶ条のふれを出して寺子屋を統制しようとした。
 明治初期、東京府が小学校整備のため実施した寺子屋の調査書に、寺子屋の教師(師匠)726名分の旧身分が記録されている。多いのは平民(町人)で、雑業、農民、商人などの江戸の町人で、次に多いのが士族である。女性の師匠も86名が記載されていた。一方で地方によっては士族の教師が最も多い地方や、平民に次ぎ僧侶の教師が多い地方も存在していた。地方修学者の多くが各地の寺子屋教師となった足利学校のように、寺子屋の教師を養成する学校すらあった。男女共学の寺子屋が多数であったが、男子限定や女子限定の寺子屋も少なくなかった。 また今日の塾と違い、当時の寺子屋の師匠は、往々にして一生の師である例も多かった。
 寺子屋はまったくの私的教育施設であり、無学年制のフリースクールのように一定した就学年齢は存在せず、筆子(生徒)は下はおよそ9-11歳から通い始め、13~18歳になるまで学ぶなど、幅広い年代層であり、卒業時期や修学期間も特に定まっていなかった。1校当たりの生徒数は、10-100人と様々であった。



                                                            2020年6月記

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