落語「三国志」の舞台を行く 五代目春風亭柳昇の噺、「三国志」(さんごくし)より
■五代目 春風亭 柳昇(しゅんぷうてい りゅうしょう);1920年〈大正9年〉10月18日 - 2003年〈平成15年〉6月16日)、東京府北多摩郡武蔵野村(現: 東京都武蔵野市)出身。本名、秋本 安雄(あきもと やすお)。ペンネーム、林 鳴平。数々の新作落語を創作した。出囃子は『お前とならば』。
太平洋戦争中は陸軍に召集され、歩兵として中国大陸に渡ったが、敵機の機銃掃射で手の指を数本失っている。利き手をやられたため、元の職場に復職することもできず途方に暮れていたところ、戦友に六代目春風亭柳橋の息子がおり、その縁で生活のために柳橋に入門して落語界入り。 手を使った表現が多い古典落語では成功はおぼつかないと考え、新作落語一本に絞って活動して成功を収めた。数は少ないが古典落語のネタも持っており、『雑俳』や『お茶漬け』(茶漬間男)等を演じた。 年齢を重ねるごとに老人然とした風貌になり、しなびた声・口調に変わっていったが、これがとぼけた味となり、新作派の大御所として、地位を確固たるものとしていく。80歳を過ぎても高座やテレビへの出演を積極的に続け、まさに生涯現役の噺家であったが、高座やテレビ出演での挙措に衰えが囁かれるようになった矢先の2003年6月16日、胃癌のため82歳で死去。
■三国志(さんごくし);魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇した、三国時代の歴史を述べた歴史書。撰者は西晋の陳寿(233年 - 297年)。
後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まった。
中国、後漢滅亡後、三国時代の魏(ぎ)、呉(ご)、蜀 (しょく→蜀漢) の三国が鼎立(ていりつ)した時代。黄巾の乱を契機として後漢王朝の支配力はまったく失われ、各地に群雄が起ったが、華北を平定した曹操、江南に拠る孫権、蜀 (四川) に入った劉備による三国鼎立の大勢が次第に輪郭を明らかにしてきた。延康1 (220) 年曹操が死亡するとその子丕(ひ)が跡を継ぎ、後漢の献帝の譲りを受けて即位し、国号を魏といった。これが魏の文帝である。翌年劉備は成都で帝位につき、国号を漢(かん)といった (普通それを蜀、蜀漢という) 。孫権もまた黄竜1 (229) 年建業で皇帝の位につき、国号を呉といった。ここに三国鼎立が確立した。のち魏王朝の実権は司馬氏に移り、司馬昭は景元4 (263) 年漢を滅ぼした。昭の子炎 (→武帝) は泰始1 (265) 年魏の皇帝の譲りを受けて晋の国を建て、ここに三国時代は幕を閉じた。帝は大康1 (280) 年呉を滅ぼし、天下を統一した。この時代は豪族勢力の進展が著しく、天下が3つに分裂したのもこれと関連がある。三国ともに財力を確保するため屯田に力を注ぎ、兵力確保のため兵士の家に永代兵役の義務を負わせる制度を設けた。魏の九品官人法の設定、清談の流行などはこの時代において特に注目されるものであった。
* 九品官人法(きゅうひんかんじんほう);中国、魏晋南北朝時代の官吏任用制度で、隋代に科挙が行われるまで続いた。九品中正法とも。220年魏の文帝の時に始まるという。地方に地方官とは別に中正の官を置き、官吏志望者を1〜9等に分けて中央に報告させ、中央ではそれに応じて1〜9品の官職に望ある者を任じたため、家柄によって官の高下が決められる弊害を生じ、貴族連合政権が形成された。
■関羽(かんう);( ~219)右図。三国の蜀漢の武将。字は雲長。諡は忠義侯。山西解の人。劉備・張飛と義兄弟の約を結ぶ。容貌魁偉、美髯(ビゼン)を有し、義勇をもってあらわれ、劉備を助けて功があり、のち魏・呉両軍に攻められ呉の馬忠に殺された。後世各地に廟(関帝廟)を建てて祀った。
■燕人張飛(えんぴちょうひ);張飛(ちょう ひ、拼音: Zhāng Fēi ヂャン フェイ、生年不詳 - 章武元年(221年)6月)右図は、中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家。字は益徳。幽州涿郡(現在の河北省涿州市)の人。『三国志』蜀志に伝がある。封号は新亭侯、のち西郷侯。諡は桓侯。子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。孫は張遵。
建安13年(208)、荊州牧の劉表が死去し、曹操が荊州へ進軍すると劉備は江南へと逃げた。曹操は昼夜をかけてこれを追い、当陽県の長坂まで到着した。劉備は曹操がやってきたと聞くと妻子を棄てて逃走し、張飛は20騎ほどを従えて殿軍を引き受けた。張飛は川に拠って橋を落とし、目を怒らせ矛を横たえて「俺が張飛だ、死にたい奴からかかって来い!」と曹操軍に向け呼ばわったところ、誰もあえて近づこうとしなかった。これによってついに劉備は落ち延びる事ができた(長坂の戦い)。
『三国志』蜀志「劉巴伝」が注に引く『零陵先賢伝』によると、庶民(当時の用語では庶人)上がりの張飛が士大夫の劉巴の下に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにその態度に腹を立て、諸葛亮もまた劉巴と張飛の間を取りなそうとしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)たる者がこの世に生を受けたからには、当然、天下の英傑とこそ交友を結ぶべきです。どうして一兵卒(張飛のこと)と語り合う必要がありましょうか」と言い捨て、ついに張飛とは親交を結ぶことが無かった。士大夫と庶民との間に、厳然たる身分差と、それによる差別があったことが窺える。
張飛を「ちょうひ」でなくて「ちょうし」と発音する江戸なまりをギャグの元としているため、オチでは張飛→銚子になっています。
■曹操孟徳(そうそう もうとく);曹操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))右図は、後漢末期の武将・政治家。詩人・兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。
後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。
羅漢中の小説『三国志演義』では敵役・悪役として設定される。
曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ太尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。また、橋玄が紹介した月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子将(許劭)は、「子治世之能臣亂世之奸雄」(子は治世の能臣、乱世の奸雄(姦雄))または「君清平之奸賊亂世之英雄」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)と評した。曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。
20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉・頓丘県令・議郎を歴任した。
洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。
■劉備玄徳(りゅうび げんとく);劉備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))右図は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。
■袁紹(えん しょう);(? - 建安7年5月21日(202年6月28日))右図は、中国後漢末期の武将・政治家。字は本初(ほんしょ)。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。 何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るう。最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。
■顔良(がんりょう);
顔良とは、後漢時代の袁紹軍の武将。
■文醜(ぶんしゅう);
文醜とは、後漢時代の袁紹軍の武将。
■栗毛で、四白流れ星;馬の体中が茶色で栗のような色を栗毛。胴体が栗色で、たてがみと尻尾だけ黒いのを鹿毛(かげ)。全部黒いのをアオと言います。白い馬はあし毛、と言います。一白は足首に一本だけ白くなった馬、二本を二白、三本を三白、四本を四白。星というのは眉間のところにテニスボール位の丸い毛が生えているのを言い、鼻の下まで白くなったのを流れ星と言います。(柳昇の説明)
■義兄弟(ぎきょうだい);義によって誓い合って、兄弟の交わりを結んだ者。ここでは劉備、関羽、張飛の3人を言う。
■リクルートの株;1988年(昭和63年)6月18日に発覚した贈収賄事件。
リクルートの関連会社であり、未上場の不動産会社、リクルートコスモス社の未公開株が賄賂として譲渡された。贈賄側のリクルート社関係者と、収賄側の政治家や官僚らが逮捕され、政界・官界・マスコミを揺るがす、大スキャンダルとなった。
当時、第二次世界大戦後の日本においての最大の企業犯罪であり、また贈収賄事件とされた。
■千葉県銚子(ちばけん ちょうし);三国志の張飛のことを、柳昇は江戸訛りで「ちょうし」と発音している。その為、張飛と銚子が混同されています。
銚子市は、千葉県北東部の海匝(かいそう)地域に位置する市。関東地方および千葉県最東端。市域は利根川下流および河口の南岸で、銚子ジオパーク、海岸部は水郷筑波国定公園に指定されている。醤油など醸造関連遺産は近代化産業遺産、港町の歴史的町並みは日本遺産に認定されている。
■やぁ~やぁ、遠からん者は音に聞け、近くに寄って目にも見よ、我こそは・・・;講談で使われる言葉だが・・・。
■偵察(ていさつ);(英:reconnaissance)は、敵などの情報を能動的に収集すること。受動的である監視の対義語。基本的には密かに行われる活動である。 軍事用語として用いられるが、そこから派生して一般においても「相手の情報の収集」の意味で用いられる。
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