落語「按摩の炬燵」の舞台を行く
   

 

 八代目桂文楽の噺、「按摩の炬燵」(あんまのこたつ)より


 

  年に二回の藪入りがあったという時分の噺です。冷たい冬の極寒の風が吹く夜。店の小僧たちは寒くて寝られないと、番頭に願い出た。
 「布団が薄過ぎますので・・・、大勢の中へ五、六枚でも増やしていただきたいんで・・・」、「おまえさんたちは奉公を何と心得ている。そのくらいのことが辛抱出来なくて奉公先は勤まりゃしないよ。あと少しすれば桜が咲く、それまでの我慢じゃないか。それが奉公というものだ」と、つれない返事。
 「番頭さん、お言葉を返して何ですが、煎餅布団ってえのはよくありますが、この店のは餅抜きの煎布団で。番頭さんは一枚でも二枚でも多く布団を掛けて、炬燵を入れていれば暖かですよ」、「オイオイ、何時私が炬燵を入れたッ。松ドン『へい』では無いよ。布団の多いのは年のせいだ。10年もすれば、お前達でも出来る。炬燵だって、私が入れれば、皆も入れる、それで粗相が有ればご主人に申し訳がない」、「ごもっともです。修行ですから」。
 「でも、奥に言えば済むことだが、今晩一晩温かく寝かせてやりたいな」。怒って説教したものの番頭も小僧たちと同じような布団で寝ているので、ここ二、三日の寒さは身にしみている。

  「奥に按摩の米市が来ているだろう」、「はぃ、来てます」、「米市にたっぷりと酒を飲ませて店に泊まらせ、米市の酔って暖かくなった体を炬燵(こたつ)代わりにして寝るという算段だ。絶対に火事になる心配はない安全安心炬燵だ」、「番頭さん、酒を飲めば温かくなりますか」、「寒の内は暖まるよ」、「米市さんは、聞いてくれますかね」、「私が話をするよ」。

 番頭は奥での揉み療治が終わった米市を引き留め、「療治が終わりましたが、寒くて、手がかじかんで・・・」、「今日は泊まっていかないか」、「盲人は帰っても何の楽しみも有りません。久しぶりに店の小僧さんたちとも話ができるので、泊めていただきます」、「今晩はタンと酒を御馳走するよ」、「さいですか、酒と聞けば”目も鼻も無い”のです」、「酒と言わなくても目は無いじゃ無いか」、「ははは、一本やられた。では盲人は何というのですか」、「”耳も鼻も無い”という」、「言いにくいね」、「酒をご馳走になるのは”盆と正月が一緒に来たよう”です」、「米市さん、私と一緒に寝てもらうよ。寝てからお願いがあるんだ」、「チョット待てよ・・・。泊まっていけ。酒を飲ませるよ。一緒に寝て、頼みがあるよ。?・・・、ははは、番頭さん、それだけは勘弁してください」。
 「考え違いしているよ、寒いだろう、今晩一晩だけ人間炬燵になってくれないか」、「炬燵? へえへえ、よろしゅうございます。断っておきますが、酒は一合、二合では消し炭ぐらいで・・・」、「何だい、消し炭ってえのは?」、「へえ、消し炭はすぐつくけど、すぐに消えちまいますから炬燵にはなりゃしません。せめて五合なら炭団(たどん)の二つ、三つ、一升なら備長ってところまで・・・」、「それじゃ、中を取って五合で、それで炬燵になっとくれ」。

 交渉成立で米市さんは番頭を前にして酒を美味そうに飲み始めた。「湯呑みに指が入っているよ」、「温度を調べて」。余り物のお酒では美味くない。やはり酒は燗が良い。肴はハゼの佃煮。お見合いでの話。闇夜なのに提灯を借りて歩いていると目明きがぶつかって来た、文句を言うと、『提灯消えてるよ』。話好きな米市は身の上話などをいろいろと話し続けて行く。
 右写真、米市を演じる、八代目文楽。

 「炬燵がおきてきたよ。へえ、それではお先にご免」、「米市さん、長々と横になってしまったら、それじゃ、炬燵にならない、炬燵の形になりなさい」、「こうですか? (四つん這いになって炬燵になる)」、「お前達3人は右側に入りなさい。彦どん、金どんはお尻の方に、左側は私が一手に引き受ける。長吉は頭の方だ。当たりにくければ、股で頭を挟みなさい」、「チョット、チョット、待って下さい。そんなに大勢ですか。それに股で頭を挟むなんて・・・」、「これこれ、そんな騒々しい炬燵があるかい。奥に内緒だよ」、「壊れもんだから、そっと入ってくれよ。冷たいッ、動かしちゃダメだよ、触ったところ皆冷たくなっちゃう。炬燵の股ぐらに足突っ込むのは誰だぃ、炬燵だって急所があるよ。番頭さんも入りなさい。冷たいな~。・・・ねえ、番頭さん」。
 「・・・」、「寝ちゃったよ。疲れているんだな。小僧さん達も寝てるよ。奉公はつらいんだな~、あたしなんか貧乏したって家に帰れば一軒のあるじだ。・・・臭せいな、誰か一発やったなッ」。

 
 「誰か、歯ぎしりしてるな。気味が悪いな。誰か寝言を言ってるな。『合羽屋の小僧、よくもさっきいじめやがったなッ』、喧嘩してるな、可愛いな。『松どん、もう我慢ができないから、ドブにやっちゃうよ』、おい、変な寝言言ったね。ドブにやっちゃうって・・・。アッ、冷て~ッ。寝小便だ。いい加減にして下さい。あんた方、炬燵に寝小便を引っかければ・・・」、「しー、シッ、これ定吉、おまえたちが寒くて寝られないって言うから、米市さんに炬燵になってもらったのに、寝小便をするやつがありますか。米市さん勘弁してください。おまえのおかげでやっと暖まってやれやれと思ったら、小僧のせいでまた冷たくなっちまった。今、布団をすっかり取り替えるから、もう一ぺん炬燵になっとくれ」、
「いいえ、もう炬燵はだめでござんす。小僧さんがこのとおり、火を消してしまいました」。

 

★イラスト:橋本金夢氏 『あんまの炬燵』



ことば

原話は古く、寛文12年(1672)刊の笑話本「つれづれ御伽草」中の「船中の火焼」です。これは、大坂の豪商・鴻池が仕立てた、江戸へ伊丹の酒を運ぶ、二百石積の大型廻船の船中での出来事となっていて、乗船している鴻池の手代が、冬の海上であまり寒いので、大酒のみの水夫を頼んでぐでんぐでんに酔わせ、その男に抱きついて寝ることになります。

藪入り(やぶいり);草深い田舎に帰る意から、正月と盆の16日前後に奉公人が主人から休暇をもらって、親もとなどに帰ること。また、その時期。特に正月のものをいい、盆のものは「後(のち)の藪入り」ともいう。宿入り。宿さがり。宿おり。「藪入りの寝るやひとりの親の側(そば)」 炭 太祇(たん たいぎ)。

 落語「藪入り」に詳しい。「藪入りや何にも言わず泣き笑い」。
 先代三遊亭金馬が良くやっていましたが、親子の情愛が色濃く出ていて、他の落語家さんがやれなかったぐらい素晴らしかったものです。噺の中で、前の晩から寝られずに子供の帰りを待つ男親の気持ちが滲み出ています。
  藪入りとは商家の奉公人などが主人から一時、休みをもらい、家に帰ることが許された。丁稚や徒弟制度など、奉公人が住み込みで働いていた頃の風習で、年に1月と7月の16日にしか休みがなかった時代の話です。
  主人公の息子も、里心がつくと言って3年間は休みを貰えなかった。その三年目の初めての休み。出掛ける時は、 「藪入りに旅立ちほどのいとまごい」 で、家に喜び勇んで帰ってきたのです。

按摩(あんま);身体をもんで筋肉を調整し、血液の循環をよくする療法。もみりょうじ。マッサージ。また、それを業とする人。(あんまが盲人の業だったことから) 俗に、盲人。
 なでる、押す、揉む、叩くなどの手技を用い、生体の持つ恒常性維持機能を反応させて健康を増進させる手技療法である。 また、江戸時代から、按摩の施術を職業とする人のことを「按摩」または「あんまさん」と呼ぶ。
 按摩は中国発祥の手技療法で、按摩の按とは「押さえる」という意味であり、摩とは「なでる」という意味。 按摩は西洋発祥のマッサージなどとともに手技療法の一種にあたるが厳密には区別されている。按摩は衣服の上から遠心性(心臓に近い方から遠い方)に施術を行うのに対し、マッサージは求心性(指先から心臓に近い方)に原則として肌に対して直接施術を行う。按摩とマッサージはそれぞれ発祥となった地や治療方法は異なるが、東洋医学と西洋医学の長所を互いに取り入れた統合的なケア(統合治療)が重要視されるようになっている。
 按摩の流派には、江戸期の関東において将軍徳川綱吉の病を治したと伝えられている杉山和一を祖とする杉山流按摩術と吉田久庵を祖とする吉田流按摩術が知られるようになる。杉山流は祖である杉山和一が盲目の鍼医であったこともあり盲目の流派として、これに対して吉田流は晴眼の流派として知られた。一方、関西ではこのような流派はない。
 『守貞謾稿』によれば、流しの按摩が小笛を吹きながら町中を歩きまわって町中を歩いた。京都・大坂では夜だけ、江戸では昼間でも流す。小児の按摩は上下揉んで24文、普通は上下で48文、店を持って客を待つ足力(そくりき)と呼ばれる者は、固定客を持つ評判の者が多いために上下で100文が相場であったと言う(ただし、足力は江戸のみで京都・大坂には存在しない)。

米市(よねいち);盲目で按摩を生業としていた。座頭では、市の名を付けていた。座頭市など。
  座頭は、江戸期における盲人の階級の一つ。またこれより転じて按摩、鍼灸、琵琶法師などへの呼称としても用いられた。
  当道座(盲人の官位をつかさどり、その職業を保護する組合)は、彼らは検校、別当、勾当、座頭の四つの位階に、細かくは73の段階に分けられていたという。これらの官位段階は、当道座に属し職分に励んで、申請して認められれば、一定の年月をおいて順次得ることができたが、大変に年月がかかり、一生かかっても検校まで進めないほどだった。金銀によって早期に官位を取得することもできた。
  江戸時代に入ると当道座は盲人団体として幕府の公認と保護を受けるようになった。この頃には平曲は次第に下火になり、それに加え地歌三味線、箏曲、胡弓等の演奏家、作曲家としてや、鍼灸、按摩が当道座の主要な職分となった。結果としてこのような盲人保護政策が、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展の重要な要素になったと言える。当道に対する保護は、明治元年(1868年)まで続いた。
  専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる。
 米山検校(銀一);勝海舟、男谷信友の曽祖父。男谷検校とも
 塙検校(保己一=はなわ ほきいち);学者として活躍し『和学講談所』を設立。「群書類従」「続群書類従」の編者 。「目あき盲目に物を聞き」とは塙検校の事を言った言葉です。 落語「石返し」に詳しい。
 杉山和一(すぎやま わいち)検校。
  検校の権限は大きく、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。視覚障害は世襲とはほとんど関係なく、江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった。

惣録屋敷(そうろくやしき);江戸時代、江戸にあって関八州とその周辺の座頭を支配した、検校の座順の最古参の者。執行機関として惣録役所が置かれた。関東総録(惣録)と言いその屋敷。元禄5年(1692)本所一つ目に土地を拝領、杉山和一(すぎやま わいち)検校が取り仕切った。下図;明治東京名所図会より「一つ目弁天」

 

  杉山和一の献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答え、その答え通り(?)に同地(本所一つ目)を拝領した。綱吉のお付きの者のウイットに富んだ対応が見事。
 以上、落語「柳の馬場」より孫引き

揉み療治(もみりょうじ);按摩の基本手技。按摩の基本手技は以下に分類される。

 軽擦法(按撫法)=術手を患部に密着させ、同一圧で同一速度で同一方向に遠心性で「なで」「さする」手技。作用としては弱い軽擦法は知覚神経の刺激による反射作用を起こし、爽快な感覚を起こさせる。強い軽擦法の場合は循環系の流通を良くし新陳代謝を盛んにし、また鎮静効果を期待する。

 揉捏法(揉撚法)=術手を患部へ密着させ、垂直に圧をかけ、その圧を抜かずに筋組織を動かす手技。作用としては主として筋肉に作用を及ぼし、組織の新陳代謝を盛んにする。また腹部におこなう時は、胃腸の蠕動機能を高め、便通をよくする。

 叩打法=身体の表面を術者の手指ですばやく打ち、叩く方法。力が深部に達するような叩き方は避け、関節を滑らかに動かして弾力をつけて左右の手で交互に叩く。作用としては断続刺激がリズミカルに作用するので筋、神経の興奮性を高め、血行をよくし、機能を亢進させる。

 圧迫法=圧がある頂点に達したらそれを減圧する方法である。圧を漸増、漸減に施す。漸増、漸減であるから急激に力を加えてはならない。作用としては機能の抑制である。神経痛などの痛みを鎮め、痙攣を押さえるなどの効果がある。

 振せん法= 施術部へ術手を密着させ術手を固定し、肘関節を少し屈曲し、前腕伸筋屈筋、上腕伸筋屈筋を同時に収縮させアイソメトリックを起こし振動させ、その振動を患部へ伝える。作用としては細かい断続的刺激により神経、筋の興奮性を高め、また快い感覚を覚えさせる。

 運動法=患者の関節を十分弛緩させて術者がこれを動かす方法である。各関節の運動方向及び生理的可動域に注意する。作用としては関節内の血行を良くし、関節滑液の分泌を促し、関節運動を円滑にして関節の拘縮などを予防する。

奉公(ほうこう);他人の家に雇われて、その家事・家業に従事すること。元来は、朝廷・国家のために一身をささげて尽くすこと。

 江戸時代から昭和の初めまでは、年少の子供が商売人や職人に預けられて、仕事のことやしつけ、常識などを身につけたと言います。それが「丁稚奉公」です。「丁稚奉公」の「丁」は働き盛りの青年、「稚」は十分に成長していない、「奉公」は他人に召し使われて勤める、という意味です。 つまり「丁稚奉公」とは、まだ働き盛りに達しない、十分に成長していない子供が、他人に仕えて勤めるという意味で、年齢は10歳前後から対象となった、と言われています。 具体的には、年少の頃から親元を離れ、商人や職人の家に住み込み、商売のノウハウや職人の技を教えてもらいながら、その店舗や家のために働く、という状況です。
 「丁稚奉公」の給与形態などについては、奉公先によって違ったようですが、基本的には最低限の衣・食・住が約束され、小遣い程度の不定期な給金をもらっていたようです。親元には年に2回しか戻れなかった、とも言われています。 しかし、商いや職人の知識・技術や作法を教えてもらえるだけでなく、奉公先によっては、後にのれん分けをして店を持たせてくれることもあったため、江戸時代には奉公先が決まることは幸運なことと受け止められていたようです。
 寝言などは大人になっても言いますが、寝小便だけは・・・。そのぐらいの年齢から一日中働かされていたのでしょう。真冬に煎餅布団一枚の生活や、貧しい食事など、修行だからとは悲しい時代です。

 丁稚と小僧:年少の雇い人のことを上方では丁稚、江戸では小僧と言っていました。

目も鼻も無い(めもはなもない);目がない=夢中になって、思慮分別をなくすほど好きである。「日本酒には―・い」。按摩さんが言うには、最上級として目だけではなく、鼻も無いと言ったのです。めちゃめちゃ好き。

消し炭(けしずみ);まきや炭の火を途中で消して作った軟質の炭。火つきがよいので火種に用いる。
 『消し炭のすぐおこりたつ淋しさよ 』 虚子

炭団(たどん);炭(木炭、竹炭、石炭)の粉末をフノリなどの結着剤と混ぜ団子状に整形し乾燥した燃料。右写真。
 木炭製造時には売り物にならない細かい欠片が大量発生する。さらに木炭を運搬する際には衝撃などで炭が砕け、炭俵や炭袋などの中には大量の炭の粉末がたまる。これらはそのままでは燃焼させにくいので、練って丸く固めて成形させたものが炭団の始まりである。火力は弱いが種火の状態で1日中でも燃焼し続けるため、火鉢やこたつ、煮物調理に向いていた。また一般家庭でも余った炭の粉を集めて自家製の炭団を造っていた。江戸期には塩原太助が木炭の粉に、粘着剤としての海藻を混ぜ固めた炭団を発明し、商業的に大成功した。

備長炭(びっちょうたん);紀伊国田辺の商人備中屋長左衛門(びっちゅうや ちょうざえもん)が、ウバメガシを材料に作り販売を始めたことから、その名をとって「備長炭」の名がついた。狭義にはウバメガシの炭のみを備長炭と呼ぶが、広義において樫全般、青樫等を使用した炭を指す場合もある。
 製造時に高温で焼成されていることから炭素以外の木質由来の油やガス等の可燃成分の含有量は少なく、かつ長時間燃焼する。また炎や燻煙も出難く調理に向いているとされる。 煙が少ない為、雑味が付きにくく、炭火焼を売り物にする料理屋(鰻屋、焼き鳥屋)などの燃料として使用される。樫による白炭を備長炭と呼ぶが、製法等が広く伝わって同様の製法を行う白炭に用いられる事もある。 燃料以外に、さまざまな用途に利用されている。備長炭は無数の小さな空洞(細孔)に様々な物質を取り込む(吸着)ことができる。備長炭1g当たり200~300㎡(テニスコート1面強)の表面積があると言われている。また、備長炭は普通の黒炭よりもかたくて叩くと金属音がする。

米市が湯飲みに指をいれる;燗をされた酒を湯呑みに注がれて、「温度を調べて…」と言ってますが本心ではちゃんと口一杯まで注いでくれているか心配して確かめているんですね。眼が悪い友人が言うのには、そうして量を確認することがあります。文楽師匠は、さすが芸が細かい。

ハゼの佃煮(はぜのつくだに);ハゼはほぼ年中漁獲されるが、旬は秋から冬にかけてとされる。美味な白身魚で、天ぷら、唐揚げ、刺身、吸い物の椀種、煮付け、甘露煮などいろいろな料理で食べられる。仙台など一部の地方では、ハゼの焼き干しは伝統的な雑煮の出汁として、なくてはならないものである。
 関東地方では、冬にかけて甘露煮は食べられるが、特に正月のおせち料理には欠かせない。また酒のつまみには最高ですが、ハゼは魚屋では売っていないことが多く、自分で釣ってこなくては食べられません。
 代表的なハゼに、マハゼ(真鯊、真沙魚)、がいる。スズキ目ハゼ科に分類されるハゼの一種。東アジアの内湾や汽水域に生息するハゼで、日本では食用や釣りの対象魚として人気がある。
 繁殖期にはオスが巣穴にメスを誘い、産卵を行う。巣穴は自分で作ったり、エビやカニの巣穴、捨てられた空き缶など種類や環境によって様々である。産卵後はオスが卵を守る。 藻類や水底の有機物(デトリタス)を主食にする種もいるが、ほとんどのハゼは肉食である。プランクトン、多毛類、甲殻類、小魚などを大きな口で捕食する。

 米市が酒をご馳走になっているとき、番頭さんからハゼの佃煮をもらいます。手づかみでハゼをもらい、美味しそうに口に運んで、その濡れた手を首の後ろで拭く動作が何とも粋で、「ここに布巾があるんです」とは心憎い台詞です。

歯ぎしり(はぎしり);小児期から始り、主として睡眠中に起る。咬合(こうごう)の異常習癖の一つで、歯を強くこすり合わせて断続音を出すもの。睡眠中にみられる上下の歯を強くすり合わせて、特有のきしり音を生ずるタイプは、一般に睡眠の浅いときに多いといわれる。昼間無意識に行われる場合は、かみしめたり、くいしばったり、上下の歯をカチカチさせる癖となる。睡眠中に用いるナイトガードもあるが、暗示療法や咬合調整で治療できることもある。
 歯ぎしりの原因はまだ十分に明らかにされていないのですが、とくに早期接触と呼ばれる噛み合わせの不良に、ストレスなどの精神的因子が重なった場合によく発生するといわれています。でも、ほとんどの場合子どもの歯ぎしりは心配することはありません。 大人の歯ぎしりと違って成長過程で起こる行動の場合がほとんどだからです。子どもの歯ぎしりは、多くの場合成長とともになくなります。

■寝言(ねごと);睡眠中の無意識状態で発する言葉を指し、言葉を発している本人には意識が無いことから、記憶に残らない場合がほとんどである。 寝言は一般的に夢を見ているレム睡眠の際に発せられると考えられており、当人が見ていた夢の内容に影響される傾向が強い。夢を見ている際に無意識に体が動く反射運動の一種とされる。当人に明確な意識が無いため、その内容はとりとめが無く、時に珍妙な発言が聞かれることも多い。 動物でもある程度の知能があるものは夢を見ることが知られているが、その夢に影響されるのか、寝ながら鳴く個体も見られる。
 専門家の間では、夜中にひとりで話すというこの癖は、しばしば幼少期に見られるものであることが知られている。「ほとんどの子どもが寝ながらしゃべっています。これは言語習得の一環と考えられています。大人になってからもさまざまな理由で、寝言を言うようになる場合があります」。

寝小便(ねしょうべん);夜尿症の定義 =5歳以降で月1回以上のおねしょが3か月以上続く場合。
 おねしょの定義 =幼児期に、夜寝ている間におもらしをする場合。(排尿に関わるメカニズムが未熟)
 ときどきおねしょをしてしまう程度の子どもの比率は5~6歳で約20%、小学校低学年で約10%と減少しますが、10歳児でも約5%にみられます。ごくまれに成人まで続くケースもあります。
 江戸時代の年少者の丁稚、小僧では、まだまだ寝小便が治らない子供達が多かったのでしょう。歯ぎしり、寝言、寝小便は子供を使用人としていればやむを得ないことだったのかも知れません。精神ストレスも多かったのでしょうし。



                                                            2020年7月記

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