落語「団子兵衛」の舞台を行く
   

 

 六代目桂文治の噺、「団子兵衛」(だんごべい)より


 

 『住みかへてみても浮世は鍋の尻 苦々せぬ日は一にもなし』といいます。

 七代目市川団十郎の弟子で、下回り役者の団子兵衛。毎晩芝居のハネが遅く、その後も何やかやと雑用があっていつも帰りが遅くなる。
  長屋では不審者の侵入防止や火の用心のため、四つには木戸を閉めるので、仕方なく大家を起こして開けてもらうので申しわけなくもあり、肩身が狭い思いをしている。
  大家の方も度重なって寝不足になり、もう我慢ができないと店立てを考え始めた。それを近所の噂話から知った団子兵衛は、菓子折りを持って大家を訪ねた。

 「大家さん、おかげさまで、師匠の団十郎と共演できる役者に出世いたしました。もう今までのように帰りが遅くなることもありません」、これを聞いた大家は大喜び。
 けちで堅物な大家だが、団十郎と共演するという団子兵衛を見たくなって芝居小屋に出掛けた。出し物は「清玄桜姫物」で、むろん大家はどんな筋なのかも知らないが、きっと団十郎相手の役回りで出て来るものと期待して、目を凝らして見ているが団子兵衛は一向に舞台に姿を現わさない。

  舞台では桜姫に恋慕した清玄が桜姫を手籠めにしようとして、桜姫に仕える奴の淀平に殺される。しかし清玄は死んでなお桜姫に執着し幽霊となって現れる(庵室の場)。
 淀平が花道にかかると斬られ役の雲助が出て来る。それが待ってましたの団子兵衛だ。さあ、縦横無尽の太刀回りかと思いきや、団子兵衛さん、すぐに投げ飛ばされて四つん這いになり、背中に足を乗せられて踏みつけられてしまった。

 ひょいと目を上げると、舞台そばの客席にいた大家と目が合ってしまった。

 「おや、団子兵衛さん。どうしたそんな不様なかっこうをして」、
 「大家さん、今夜も木戸をお願いします」。

 



ことば

木戸(きど);町裏へ入れば粗末な造作の借家、いわゆる長屋がありました。
  通りに面した表店と呼ばれるところには、落語「三軒長屋」にも描かれているように棟梁、鳶頭、隠居、町師匠などが住んでいましたが、江戸町人の大半が住んでいたのは裏長屋でした。通りに面した長屋木戸(下図)をくぐると、三尺から四尺幅の路地があり、中央には溝板をかぶせた下水が流れ、共同便所、掃き溜め(ゴミ捨て場)、井戸が付設されていました。路地は住人の共有通路であるばかりか、物売りの市になり、子供の遊び場になり、夏は縁台を出して夕涼み、井戸端会議の広場にもなりました。共同で使用する設備が多く、互いに助け合って生活していたわけです。 (深川江戸資料館解説書より)

 回りに目を向けると、各町内の間に木戸があり、木戸番を置くところも、店子が交代で番を務めるところもあった。夜は通行禁止で、木戸番に開けてもらわねばならない。
 身近の長屋では、長屋の木戸番は大家が受け持つ。火事の時は逃げるために、また、火消しが来るので開けました。
 通常大家は長屋の入り口に住んでいましたから木戸の開け閉めは大家の役目でした。閉めるのは夜の10時頃でしたので、それより遅く帰って来る長屋の住人には、開けてくれましたが、度々だと愚痴も出てくるでしょう。木戸によっては潜り戸が有ってそこから通してもらいました。

 上図、『浮世床』より/式亭三馬 著。 木戸の上には看板が出ていて、左から『口入れ屋』『祈祷師』『先達さん』『常磐津の師匠』『灸点所』『易者』等の看板が見えます。中央の『#』は井戸があるという表示です。

市川団十郎(いちかわ だんじゅうろう);は歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょうよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。 市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。

 初代(1660~1704):荒事を導入した。成田山新勝寺に近い所の出身で、父親は「乞食十蔵」「菰の十蔵」と呼ばれる侠客だったという。新しい物を生み出すが、舞台の上で他の役者に刺殺された。
  二代(1688~1758):初代の息子。父の急死で跡継ぎになるが、力不足で悩むが次第に力を付ける。享保6(1721)年、給金が千両となり、「千両役者」という言葉が生まれた。海老蔵の名で着用した着物の「海老茶」が大流行した。朝顔の「団十郎」は二代目なのだ。弟子に名を譲って「海老蔵」を名乗る。
  三代(1721~42):二代目の養子となり、三代目を継ぐが、翌年旅先の大阪で急死してしまう。
  四代(1711~78):芝居茶屋の息子であったが、三代目の急死で、急きょ二代目の養子となり、後を継いだ。二代目の実子で、自分が養子に出され、団十郎は養子の三代目が継ぐ、そのために男色にふけるという創作が評判となり、世間に広まる。荒事よりも深みのある芸が評判で、悪役が人気になる一方、女形も出来た。
  五代(1741~1806):四代目の子。洒落っ気の多い人で、父は立派な海老蔵だが俺は雑魚だから「蝦蔵」とか、祖父が栢筵という号を使ったが俺は毛が三本足らぬ「白猿」という具合。七代目の祖父に当たる。
  六代(1778~99):五代の妾の子だったので芝居茶屋の養子となるが、実録を認められて名を継ぐ。美男で人気となり「助六」が当たり役だが、風をこじらせてコロッと死んでしまう。
  七代(1791~1859):五代目の次女の子、六代目の急死で10歳で襲名。荒事も人気だが、『四谷怪談』の伊右衛門のような「色悪」を確立した。息子に後を継がせる時に、伝統の荒事から18作品を選んで『歌舞伎狂言組十八番』とした。天保の改革で、突然奉行所に呼び出され、手鎖・家主預かり処分の上、江戸十里四方処払いとなった。贅沢禁止の処分だが、天下の団十郎を罪にすることで改革を浸透させる目的だった。
 「鎌」と「丸」と「ぬ」の字をデザインして「かまわぬ」という手拭も有名。今回の落語の団十郎はこの人。
 愛人との子を含め七男五女にめぐまれた子福者で、男子は順に八代目市川團十郎、六代目市川高麗蔵(堀越重兵衛)、七代目市川海老蔵、市川猿蔵、九代目市川團十郎、市川幸蔵、八代目市川海老蔵。門人には上方で活躍した初代市川蝦十郎、幕末期の名優四代目市川小團次、博識で知られた五代目市川門之助などの人材がいる。 対照的に息子たちは子宝に恵まれず、市川團十郎家は11代目以降養子による別系統となった。
 右図、勧進帳 五代目市川海老蔵(七代目團十郎)の武蔵坊弁慶 (部分、国立国会図書館所蔵。)

  

 左、七代目團十郎(部分) 早稲田大学演劇博物館蔵。 右、「かまわぬ」の手ぬぐい柄。

   八代(1823~54):七代目の長男。10歳で名を継ぐが、美男で色気のある芸風が人気となり、水を浴びるとその水が1合1分(約2万5千円)で売れ、痰を吐くと女達が奪い合いでお守りとした。天保の改革で父が追放されると、茶断ちをして成田不動(蔵前=深川に遷される前)に日産して孝行の表彰を受ける。その後は人気の落ちた芝居町の復興に貢献した。大阪の芝居に行くが、そこで突然自殺した。予定外の上方芝居への出演で、江戸の座元に義理を立てたのだという。
 右図、「八代目團十郎助六の図」部分、歌川国貞筆。東京国立博物館蔵。
  九代(1838~1903):七代目の五男。物心つく頃から、目を覚ましてから寝るまで修行という毎日を送る。「体が自分のものになるのは便所くらいだった」と言っている。明治20年代には五代目菊五郎と共に「菊団時代」と呼ばれた。浅草寺の裏にある像はこの人。
  十代(1880~1956):市川三升。恋愛結婚で市川家に入り、三十歳近くなってから歌舞伎を始めた。葬儀で十代目を贈られたのも異色。
  十一代(1909~65):七代目松本幸四郎の息子で、十代目の養子となった。「花の海老蔵」と呼ばれる美男で、「海老様」と呼ばれた。大仏次郎の新歌舞伎も人気を呼び、大仏はことあるごとに「団十郎が生きていればなあ」と語った。53歳で団十郎を襲名するが、先代がおくり名だったため、舞台に団十郎が立つのは59年ぶり、襲名興業は「一億円襲名」と呼ばれ、歌舞伎人気を燃え上がらせた。癌のためわずか3年半だったため、寄席で物真似をする人も「前の海老蔵」と言うことが多かった。
  十二代(1946~2013):十一代目の長男、若くして父を失い、周りの支えで芸を磨く。2004年、海老蔵襲名の後白血病を発症し、後は病と闘いながら舞台をつとめ、2008年の移植手術で血液型が変わったと言っていた。この後は骨髄バンク推進にも努力した。浮世絵で四角い模様が見えたら、三升紋で、団十郎に間違いない。東京の芝居関連施設や美術館では十代までの浮世絵絵葉書セットが手に入る。
 十三代(1977年12月6日 -):2020年5月には十二代目の長男・十一代目市川海老蔵が「十三代目市川團十郎白猿(だんじゅうろう はくえん)」を襲名することが決まっていたが、新型コロナウイルスの感染拡大を受け延期。本名は堀越 寶世(ほりこし たかとし)。旧名は堀越 孝俊(読み同じ)。愛称に「海老さま」、「海老ちゃん」がある。身長176cm。 古典の大役に挑み、初役を多くつとめ、高い評価を得ている。「海老さま」と人気のあった十一代目市川團十郎に重ね合わせるファンもいる。現代の歌舞伎を担う若手スターの一人。また、NHK大河ドラマ『武蔵MUSASHI』で主役をつとめたほか、現代劇にも挑戦している。 小林麻央(フリーアナウンサー、2017年死没)との間に二子あり。長女は四代目市川ぼたん。長男は堀越勸玄(かんげん=八代目市川新之助を襲名予定)。

 ★市川団子兵衛という役者はいないでしょうが、団子というのが歴代8人、現在の8代目(系統があって5代目と名乗っているの)は、九代目市川中車(香川照之)の息子で市川團子(香川政明)。

歌舞伎『桜姫東文章』(さくらひめあずまぶんしょう);『桜姫東文章』は四世鶴屋南北作の歌舞伎世話狂言で、文化14(1817)年3月、河原崎座初演。 鎌倉新清水寺の僧清玄が、吉田家の息女桜姫に邪恋を抱いて破戒。寺を追放された後、執拗に桜姫につきまとい、忠義の奴淀平に殺されても、なおも怨霊と化して姫に取り憑くという筋。 現在でも坂東玉三郎らによって、しばしば上演される人気狂言。

 歌舞伎『桜姫東文章』あらすじ

(発端 江の島稚児が淵の場)修行僧清玄は、稚児白菊丸と心中をはかるが、生き残ってしまう。

(序幕第一場 新清水の場)十七年後に話は飛ぶ。吉田家の息女桜姫は美貌ながらも生まれつき左手が開かない障害を持っている。そこへ父と弟梅若丸が殺害され、家宝「都鳥の一巻」の盗難と不幸が重なり、悲しみのあまり世をはかなんで出家しようと、新清水(鎌倉の長谷寺)にやってきたのであった。おりしも居合わせた高僧清玄坊は、姫を不憫に思い念仏を唱えると、姫の左手が開き香箱が現れる。そこには「清玄」と書かれてあった。それを見た清玄は十七年前の事を思い出し、香箱は白菊丸の形見の品、すなわち姫こそ死んだ恋人の生まれ変わりであることを知り愕然とする。皆が去った後、都鳥の一巻を狙う悪五郎は、姫の手が開いたことを知り仲間の釣鐘権助に縁組を求める艶書をことづける。

(序幕第二場 桜谷草庵の場)出家の準備のため草庵にいる桜姫のもとに釣鐘権助が艶書をもって出家をとどまらせに来る。権助は落とし噺を演じて姫や腰元たちを笑わせるうち、二の腕の釣鐘の刺青を見られてしまう。姫はとたんに態度を変え、腰元たちをさがらせて、権助に告白する。実は一年前屋敷に忍びこんで自分を強姦した男こそが権助なのであった。証拠が二の腕の釣鐘の刺青。姫はその時の快感が忘れられず、自身も二の腕に同じ刺青を彫っていた。「折助とお姫さま、とんだ夫婦だ。」と権助は姫に迫り二人はしっかと抱擁し愛を確かめ合う。だが、役僧の残月に見とがめられ権助は逃走。悪五郎もかけつけ大騒ぎとなる。そして姫のもっていた件の香箱から相手は清玄と決めつけられるが、なぜか清玄は一切弁明せず従容と女犯の冤罪を認める。

(二幕目第一場 稲瀬川の場)処罰され追放された桜姫と清玄が互いの境遇を悲しんでいる。権助との間にできた不義の子を抱き桜姫は今後の不安を述べる。清玄は因果の恐ろしさに心から姫の力になることを誓い、夫婦になろうと迫る。当惑する姫。そこへ悪五郎が出て自分の館に拉致せんとし、吉田家の忠臣粟津七郎と桜姫の弟松若が悪五郎一味と争ううち、悪五郎が天下の悪党忍の惣太と関係していることを知り、証拠の密書をめぐって争う。混乱の中桜姫は逃げ去る。

(二幕目第二場 三囲土手の場)それから数日が立った。なおも桜姫への思いが断ちがたい清玄は、雨のそぼ降るなか赤子を抱いて姫を探し求め、三囲神社の鳥居前まで来る。そこへ零落した桜姫も破れ傘をさしてさまよい出る。だが暗闇で互いに確認できない。清玄が焚いた火で、ようように二人は近づくが雨で火は消え、二人は相手を確かめられぬまま別れてしまう。

(三幕目 岩淵庵室の場)桜姫に恋焦がれるあまり清玄は病に倒れ、これまた女犯の罪で寺を追い出された残月と姫の腰元長浦が同棲する粗末な庵室に体を横たえている。そこへ近在の鳶の頭有明の仙太郎の女房、葛飾のお十が死んだ子の回向に来る。鼻の下をのばす残月に嫉妬する長浦。二人が争う物音に桜姫の子が泣き、皆赤子の養育に頭を抱える。だがお十は侠気を見せて赤子を引き取り家に帰る。これであとくされがなくなったと残月と長浦は青トカゲの毒薬を清玄に無理やり飲ませようと殴り殺す。二人は墓掘りとなっていた権助を呼び墓を掘らせる。
 そのあと人買いに連れてこられたのが桜姫。驚く残月であったがまたしても浮気の虫が動き出し姫に言い寄る。そこを外から覗いていた権助に見つかり残月と長浦は追い出され、桜姫は権助と再会を喜ぶ。積もる話も有らばこそ、権助は姫の身の振り方を決めようと小塚原の女郎屋に出かける。不安げに留守番をする桜姫。やがて雷雨となり落雷の衝撃で清玄が蘇生する。だが病み衰えさっきの毒が顔にかかり頬の焼けただれた醜い姿。恐怖のあまり立ちすくむ姫に清玄は真実を話し、ともに死のうと迫る。争うはずみに清玄は自分が持っていた出刃包丁で喉を突いて死ぬ。そこへ権助が帰ってくるが、彼の顔も清玄と同じく頬がただれていた。
 右図、「清玄の霊桜姫を慕ふの図」 「新形三十六怪撰」のうち、月岡芳年画。

(四幕目 山の宿町権助住居の場)権助は大家となって裕福な暮らしをしているが、故あって自身の不義の子と知らず件の赤子を預かる羽目となる。そこへ桜姫が小塚原の女郎屋から戻ってくる。二の腕の刺青から、「風鈴お姫」の異名をとり人気者であったが、清玄の亡霊が執りついて大騒ぎとなり止むなく休業となったという。権助は寄合に出かけ桜姫一人となる。そこへ清玄の亡霊が現れ、清玄と権助は実の兄弟であること。そばにいる赤子が稲瀬川で生き別れた子であることを告げる。因果の恐ろしさに驚く桜姫。そこへ帰ってきた権助は酔いも手伝って、自分は盗賊の忍ぶの惣太であり、吉田家当主を殺害して都鳥の一巻を奪い、梅若丸をも殺害したことも白状する。桜姫は仇の血を引いた赤子を殺し寝込んだ権助も殺害する。

(大詰 三社祭礼の場)三社祭でにぎわう浅草寺雷門の前、父と梅若丸の仇を討ち都鳥の一巻を奪い返した桜姫と松若、お十、粟津七郎らが集まり大団円となる。  

店立て(たなだて);自分が今住んでいる所を追い出されること。大家の一存で決められる。

四つ(よつ);時刻の表し方。現在の夜10時ごろ。

芝居小屋(しばいごや);芝居を興行する建物。劇場。

雲助(くもすけ);(住所不定で浮き雲のように定めないからとも、また、立場(タテバ=江戸時代、街道などで人夫が駕籠などをとめて休息する所。明治以後は人力車や馬車などの発着所、または休憩所)にいて往来の人に駕籠をすすめることが、蜘蛛が巣を張って虫を捕えるのに似ているからともいう) 江戸中期以後に、宿駅・渡し場・街道で駕籠舁(カゴカキ)・荷運びなどに従った住所不定の人足。「雲助駕籠」。

投げ飛ばされて四つん這いになり踏みつけられてしまった団子兵衛

   

 仏に踏みつけられた鬼。東京国立博物館蔵。団子兵衛さん、鬼ではありませんがその無念が伝わってきます。



                                                            2020年8月記

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