落語「サギ獲り」の舞台を行く
   

 

 桂枝雀の噺、「サギ獲り」(さぎとり)より


 

 「喜六か。ま、お上がり。最近どうしてるんだぃ」、「甚兵衛さん、十階の身の上でんね」、「十階とは高いところだ」、「いえ、よその二階にやっかい(八階)になっている、足して十階の身の上です」、「なにか金もうけになることを考えているか」、「鳥獲りで、それは上町の知り合いの家の庭に伊丹のこぼれ梅をまいて雀を取る『鳥とり』だ」という。
 「その計略とは、雀が撒いてあるこぼれ梅を食べようとすると用心深い雀が、なにかたくらみがあるかもしれないから大坂の雀は食べるなという。そこへ江戸っ子の雀が来て、『おッ、おめっち何してんだぃ。虎穴に入らずんば虎児を得ず、と言うだろう』、平気で食べてみせ、なんともない乙な美味い物だというと、雀たちは一斉に食べ始める。チュチュンのチュ、バタバタ。こぼれ梅は、みりんのしぼり粕、いわば酒粕のようなもの。食べているうちに雀たちは酔ってきて眠くなってしまう。頃合を見計らい、そこへ用意した南京豆をまく」、「それは何じゃい」、「雀たちは丁度いい枕があるといってみんなそこへ寝てしまう。寝入ったところで、ほうきとちり取りでササ、サァ~と一網打尽という寸法だ」。
 「アホなこと考えて・・・。試したことがあるか」、「一度やったことがある。こぼれ梅をまいて雀たちが食べ始めたまでは計画通りだったが、南京豆をまいたら一斉に飛び立って逃げてしまった。えらい損を・・・」、「損をしたらアカンがな」。

 「サギを捕りに行った。ドジョウをつまんでいるサギに大きな声で『サギ~ァ~』といい、サギが油断をしているところで、近づき『サギ~』と先ほどより小さな声で叫ぶ。また近づいて『サギ~』とだんだん小さな声になっていくと、サギはだんだん遠ざかって行くと見て安心してドジョウをつまんでいる。真後ろに回ってピョッと捕まえる」、「そんなことではサギは捕まらん」。

 「サギが沢山集まる池がある、萩で有名な円頓(えんどう)寺に夜行ってみろ」と、教える。「行ってきます」。
 夜になると、松屋町筋(まっちゃまちすじ)をば北へ北へ、天神橋ヒョイッと渡りまして、道を左へとりますといぅと一帯がキタノでございます。萩の円頓寺へやってまいります。遅い時間ですから門は閉まっています。植木屋さんが忘れた梯子を使って境内へ、よく見ると池にはサギがビ~ッシリと寝ています。喜六はサギの首をつかんで持ち上げても全然寝ていて起きない。こりゃ~しめたと、入れ物がないので手当たり次第のサギの首をつかんで帯の間に挟み込む。もうこれ以上は無理となって、帰ろうと塀に上がり梯子を探すが見当たらない。寺の夜回りが片したらしい。
 塀の上でうろうろする内にあたりが白み始め、一羽のサギが眼を覚ます。寝ぼけながらもやっと人間に捕まっていることが気づく。仲間のサギを起こし、喜六の帯の間に挟まったまま空へ飛び出す。
 驚いた喜六、どこかにつかまる物はないかとサギに運ばれながら探していると目の前に鉄の棒。必死にこれにつかまり、帯の間のサギを逃がして一息ついてあたりを見回し、ここが天王寺さんの五重塔のてっぺんだと分かる。五重塔の九輪に捕まって腰を抜かしてしまった。大阪中の人々が集まってきて騒いでいる。寺の方でも放っておられず、五重塔の下で大きな布団の四隅を僧が持ち、ここへ飛び降りろと大声で叫ぶが上の喜六には聞こえず、大きなノボリが上がってきた、『ここへとへすくうてやる』。
 「『ここへ飛べ、救うてやる』と書いてあるのか、助かったな~。シューと行ったら助けておくれやす。それ行きまっせ。ひい、ふのみッ」で飛び降りた。
 うまく布団の上へズボッと落ちたが、坊さんたちが一生懸命、力一杯布団の四隅を引っ張っていたもんだから、四隅の僧さんの頭がゴチゴチゴチとぶつかって、一人助かって4人の僧さんたちが死んでしまった。

 



ことば

本来のサゲ;「男が布団の真ん中に勢いよく落ちてきたはずみに四隅の坊さんが頭をぶつけ、一人助かり四人死んじゃった」で、枝雀もこのサゲで演じていました。せっかく男を助けようとした坊さんたちが死んでしまうのは可哀想ではありますので、トランポリンのようにはね飛んで元の屋根に戻ってしまった、と変えたオチもあります。
  前半の雀を捕まえる話では、用心深い雀、江戸っ子の雀、若い女の雀、老人の雀などや、ちゅん助、ちゅん三郎、ちゅん吉なんて名前を付けそれぞれの雀の個性?を出して演じている。江戸っ子の雀が江戸弁で喋るところは、枝雀も楽しんで巻き舌で演じています。

円頓寺(”えんとんじ”、地元では”えんどうじ”と呼ぶ);大阪市北区大融寺町6、ここからJR大阪駅までは西に直線で400mくらいです。また五重塔にしがみついた天王寺さんには約5.5km位です。円頓寺は日蓮本宗の寺で扇町通に近い太融寺町のお寺。「落語の『サギ(さぎ)とり』に出てくる円頓寺(えんとんじ)です」。お堂の屋根に立派な相輪(そうりん)が印象的。昔は萩(はぎ)の名所として知られたお寺は、サギ(さぎ)の寝床でもあったようです。大阪駅東側の太融寺町の寺で、今は小さな寺で池はなく萩もないようです。
 右図、北野円頓寺萩花盛之図 「円頓寺物語」より 浮世絵師二代目長谷川貞信の作品で、郷土研究雑誌「上方」の表紙絵です。境内で月夜の萩の花を楽しんでいたのでしょうか。縁台でお茶を楽しんでいるようです。向こうに見える樹木と屋根は大融寺です。 

 江戸時代から北野の萩の寺といえば、円頓寺(えんどうじ・えんとんじ)のことだったようです。場所は大融寺の少し西側になります。この辺りまでが北野地区だったんです。円頓寺は落語にも出てきます。「サギとり」という噺で、最近の落語ブームで初心者にも分かりやすくて面白い噺なのでよく掛けられています。当時この辺りはサギがたくさん集まってくる湿地帯だったようです。

 上、現在の円頓寺

こぼれ梅;みりんの本場、愛知県の三河地方の醸造元で搾られたみりん粕(かす)です。そのままお召し上がり下さい。 アルコール分を含んでいますので、食べ過ぎると酒酔いされる場合があります。
 原材料名 もち米、米こうじ、アルコール  「庭の雀 (すずめ)にえさをまき、南京豆をまくらに寝込んだところを捕まえようと・・・。 ご記憶の方も多いはず。そう、故・桂枝雀師匠の十八番 (おはこ)、上方落語の「サギ (鷺)とり」だ。でもこのえさが何かと聞かれると……。はて? それが今回の主役、「こぼれ梅」である。 といっても、梅そのものはこれっぽっちも関係ない。実はこれ、みりんを造るときのしぼりかす。ほろほろした様子が、梅の花が咲きこぼれるさまに似ているから名付けられたとか。
 関西では昔から、神社の参道や商店街でおやつとして売られていたらしい。そのまま口に入れるだけ。上品な甘さが広がる」。
 株式会社 さん志ょうや本家の商品説明より

サギ(鷺);コウノトリ目サギ科の鳥の総称。くちばし・くび・脚が長い。飛ぶときにくびを乙字形に曲げる。水辺にすみ魚を捕食するが、草原や森林にすむもの、昆虫などを常食とするものもある。62種が極地・砂漠を除く世界各地に分布。白いダイサギ・コサギやアオサギ・ゴイサギなど。

ダイサギ=全長95cmほどで、日本産のシラサギ類では最大。首・くちばし・脚が長い。日本には、夏鳥として渡来して繁殖する亜種チュウダイサギと、冬鳥として渡来する亜種ダイサギとがある。

  

コサギ=全長約60cmで、白サギ類では小形。全身白色、くちばしは黒、後頭部に数本の長い飾り羽がある。足は黒色で長く、指は黄色。水辺にすみ、カエル・魚などを捕食する。本州以南で繁殖し、一部は南に渡って越冬する。

  

アオサギ=全長約95cm。首・足・くちばしは長く、背面は青灰色、風切り羽は灰黒色、後頭の長い飾り羽は青黒色。ユーラシアの大部分およびアフリカに分布。北海道には夏鳥として渡来し、本州・四国では留鳥あるいは漂鳥として繁殖。

  

ゴイサギ=全長60cm 内外。頭と背は緑黒色、腹面は汚白色、翼は灰色。繁殖期には後頭から二本の長い黒色の飾り羽がたれる。夜行性で、夕方、水辺で魚やカエルを食べる。温帯・熱帯に広く分布。日本では本州以南で繁殖する留鳥。一部は冬に台湾・フィリピンなどに渡る。五位。 〔醍醐天皇が神泉苑の御遊のとき、五位を授けた故事によるという〕。

   

(はぎ);マメ科ハギ属の総称。落葉低木。秋の七草のひとつで、花期は7月から10月。
 背の低い落葉低木ではあるが、木本とは言い難い面もある。茎は木質化して固くなるが、年々太くなって伸びるようなことはなく、根本から新しい芽が毎年出る。直立せず、先端はややしだれる。 葉は3出複葉、秋に枝の先端から多数の花枝を出し、赤紫の花の房をつける。果実は種子を1つだけ含み、楕円形で扁平。 荒れ地に生えるパイオニア植物で、放牧地や山火事跡などに一面に生えることがある。
 中秋の名月に萩・薄(ススキ)を月見団子と共に月に供える風習がある。萩も薄も、昔の日本では山野に自生する身近な植物であった。

松屋町筋(まっちゃまちすじ);中之島公園付近から天王寺動物園までを結ぶ道路。 沿道には、おもちゃ、人形、花火、駄菓子など老舗が集まる玩具の街「まっちゃまち」があります。 距離は、「公園北口交差点(天王寺区)」~「天神橋交差点(中央区)」の全長約4.1km。 南行き一方通行です。
 大阪市中央区の南北約1kmにわたる松屋町筋沿いに、ひな人形をはじめ、おもちゃ、駄菓子、和紙などさまざまな種類の問屋や専門店が100軒以上並んでいる。「松屋町」は、大阪弁で「まっちゃまち」といい、そこから取った「ごっちゃまち」との愛称もある。その愛称通り、地元大阪人の間では、「松屋町に行けばなんでも揃う」と人気があり、5月前になると、五月人形を買い求める人たちで溢れかえり、それが終わると、今度は花火や浮き輪など、夏の商品が並ぶ町に様変わりする。近年では、付近に残っている古い長屋などを見に来る若い人たちの姿も多くなってきたとか。 住所 大阪市中央区松屋町~瓦屋町付近 。北に行くと下記の天神橋を渡る。

天神橋(てんじんばし);大阪市の大川に架けられた橋。また同市北区の町名。現行行政地名は天神橋一丁目から天神橋八丁目。
 大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、大阪市北区天神橋1丁目と大阪市中央区北浜東を結ぶ。中之島の拡張(後述)により、実質的には堂島川と土佐堀川の2つの川を渡る。車道は全線南行き一方通行となる。難波橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、真ん中に位置する。 浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちたらこわいな」と童歌に歌われた。
 明治初期までは木橋だったが、1885年(明治18年)の淀川大洪水により流失。1888年(明治21年)にドイツ製の部材を主に用い鋼製のトラス橋として架け替えられた。先述の童歌からもわかるように、天神橋の下に陸地はなかったが、大正時代の1921年(大正10年)に大川の浚渫で出た土砂の埋め立てをする土木工事があり、1920年代以降に上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。1934年(昭和9年)には松屋町筋の拡幅に合わせて、ほぼ現在の形である全長219.7mの3連アーチ橋となった。鉄橋の橋名飾板は、現在天神橋北詰に保存されている。 天神橋南詰には、天神橋交差点があり、ここより北を天神橋筋、南を松屋町筋という。
 

 明治初期の天神橋。

(キタ);大阪市北区の梅田・北新地を中心とした繁華街の総称。難波を中心としたミナミと並ぶ大阪の2大繁華街の一角をなす。
 難波駅周辺をミナミと呼ぶのに対して、大阪駅・梅田駅周辺をこう呼ぶ。ミナミより使用頻度は劣る。 1685年に拓かれた堂島新地の歓楽街が大坂城下の北の外れであったことから「キタの遊里」「キタの新地」などと呼ばれるようになったのが発祥とされる。また、梅田駅東側一帯が摂津国西成郡北野村であったことから、キタと呼ばれるようになったという説もある。 18世紀に入ると、堂島は米取引の場となって歓楽街は曾根崎新地(北新地)へ移り、明治以降は駅の出来た梅田の発展で繁華街は更に北へと拡大していった。

 現在の大阪駅周辺の梅田界隈。

天王寺さんの五重塔(てんのうじ ごじゅうのとう);大阪市天王寺区四天王寺一丁目11 番18 号。聖徳太子によって建立された大阪「和宗・四天王寺」。

 四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。

http://enjoy-jp.net/kansai/sightseeing/shitennouji/ に境内の建物写真があります。

 四天王寺の五重塔。

五重塔の九輪(ごじゅうのとう くりん);五重塔の上層部である相輪の一部をいう。九重になっているので九輪と呼ばれるが、空中にあるので空輪 (くうりん) とも呼ばれる。もとはインドの貴人の標幟である傘蓋 (さんがい) に由来し、その数が増して九輪となったものである。下から「一の輪」と数え、最上層の輪が「九の輪」と呼ばれる。
 その上部に飾られている水煙は、 (形が火に似ているのを忌み、同時に火を調伏(ちょうぶく)する縁起からいう) 仏語。塔の九輪(くりん)の上部にある火焔(かえん)形の装飾。そして、最上部に宝珠と言われる珠が付きます。
日本の相輪の全長は、塔総高の1/3から1/4を占める長大なものが多い。
 そこにしがみついた喜六さん、高さに驚いたことでしょう。

 東京・浅草寺の九輪。

紙芝居サギとり;脚本、桂文我。 絵、国松エリカ。 制作、童心社。 一部を紹介します。



                                                            2020年8月記

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