落語「ついたて娘」の舞台を行く 柳家喬太郎の噺、「ついたて娘」(ついたてむすめ)より
■青木(白梅園)鷺水(あおきろすい);
1658-1733 江戸時代前期-中期の俳人、戯作(げさく)者。
万治(まんじ)元年生まれ。京都の人。伊藤信徳(しんとく)にまなび、俳諧(はいかい)、雑俳の点者になり、おおくの俳書を刊行した。元禄(げんろく)後期からは浮世草子作者として活躍。享保(きょうほう)18年3月26日死去。76歳。名は五省。通称は次右衛門。別号に白梅園、歌仙堂、三省軒。著作に「誹諧指南大全」、作品に「御伽(おとぎ)百物語」など。
■『衝立の娘』は、小泉八雲が江戸時代の作家 白梅園鷺水が伝えた話を小説としたもので、喬太郎が落語に仕上げています。
主役を若旦那と馴染みの芸者として話をはじめ、芸者が語る物語を劇中劇として、最後にもう一度主役を登場させる演出は、映画を見ているような秀逸さです。
■ギリシャ神話にもこんな話があります。
女性嫌いの彫刻家のピグマリオンは「結婚はしない」と決意していましたが、若さの情熱と欲求から、大理石で美しい乙女の像ガラテアを彫ります。
生きているようなガラテアの像にピグマリオンは恋に落ち、頬をさすり、抱きしめてこの像を愛します。
『ピグマリオンとガラテア』
ジャン=レオン・ジェローム
メトロポリタン美術館蔵。
耳飾りや指輪、真珠の首飾りを像につけ、ドレスを着せるとますます人間のよう。
ピグマリオンは、この像をベッドに寝かせ、枕にそっと頭をのせ、いつしか妻と呼ぶようになっていきます。
キュプロス島で行われる女神 アフロディーテの祭の日。
ピグマリオンは祭礼の後、祭壇の前でアフロディーテに「あの像に似た乙女を授けてください」とお願いします。
アフロディーテは、ピグマリオンの心を知り、ガラテアの像に命を与えます。
「ジョゼフ・デニス・オデバイア作 1882年」彫刻の乙女を妻にしたいと強く願い、期待通りとなったピュグマリオン。
ピグマリオンとガラテアはアフロディーテの祝福のもと結婚し、子供をパポスと名付けます。パポスの子キニュラスは王となって、アプロディーテ生誕の地を父の名「パポス」と名付けてアフロディーテに捧げ、立派なアフロディーテの神殿を築いてキュプロス島を繁栄させたと言われます。
■日本の話にも有ります。
落語だけでは無く、上野寛永寺に有ったという、鐘撞き堂の柱に彫られた龍が夜ごと隣の不忍池に水を飲みに行っていたと言います。夜遊びが過ぎるので、後ろ足を釘で留めたら、その後飛び立たなくなった。これも左甚五郎の作で、残念ながら明治の初年に戊辰戦争で焼けてしまいました。
また、浅草寺周辺の田畑を荒らす馬がいました。百姓が困って、夜番をすると、その馬は浅草寺に入って行って姿が見えなくなってしまいました。翌日探しに行くと、その馬は絵馬の中に描かれた馬で、手綱を書き加えると、それ以後、田畑を荒らすことはなくなりました。『江戸砂子』より
上絵;谷文晁(1763-1840)の絵馬「神馬」
金箔押し地に葦毛(あしげ)の駿馬を繋馬として描いた大絵馬。上記の左甚五郎の伝説を継ぐと言われる秀作。なお、伝説の絵馬は現存しない。天保2年(1831)奉納。
■ついたて(衝立);奥が見えないように腰高で足の付いた移動式目隠し。
上、大型の衝立。これなら『おとわさん』がかがまなくても入れます。
■茶屋(ちゃや);徳川幕府は茶屋や茶屋女を取り締まり、延宝(1673‐81)以後おもに数量規制で対処したが、実効は薄かった。料理茶屋の多くは貸席的性格をもっていたが、その中から貸席専業の待合茶屋、席貸(せきがし)が現れ、さらに男女の密会を専門とする出合茶屋(または大阪では盆屋(ぼんや))が分岐した。遊郭には編笠茶屋、引手茶屋があり、茶屋と略称されることがあった。
■朴念仁(ぼくねんじん);言葉少なく無愛想な人。また、道理のわからない者。わからずや。浮世風呂4「ぶしつけながらこの朴念仁につかまつてみじめヱ見るぜ」。
■特恵(とっけい)さん;架空の名前で、私が勝手に漢字表記した名前です。
■花魁(おいらん);(妹分の女郎や禿(カブロ)などが姉女郎をさして「おいら(己等)が」といって呼んだのに基づくという)
江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。
■落款(らっかん);(落成の款識の意)
書画に筆者が自筆で署名し、または印をおすこと。また、その署名や印。
■引いて下さる;その職業(芸者)から止めさせ自分の元に来させる。進むのに合せてひき寄せながらある区域を経過する。力を加えて、自分の進むのに合せてついて来させる。
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