落語「館林」の舞台を行く 春風亭一之輔の噺、「館林」(たてばやし) 別名「上州館林」より
■春風亭 一之輔(しゅんぷうてい
いちのすけ);(1978年1月28日 -
)は、落語協会所属の落語家。千葉県野田市出身。本名は川上隼一(かわかみ としかず)。出囃子は『さつまさ』(二つ目時代は『戻り駕籠』)。紋は『中蔭光琳蔦』。
■落語的な落語; 落ちた首が口をきくという、同工異曲の噺に「胴切り」、「首提灯」がありますが、オチの切れ味、構成とも、問題なくこちらが優れています。
原話は不詳で、別題を「上州館林」。昭和初期には八代目桂文治が得意にし、同時代には六代目林家正蔵(1929年没)も演じましたが、戦後、文治没後は、惜しいことにこれといった後継者はありません。
六代目正蔵は、首が口をきくのが非現実的というので、八つぁんはたたきつけられるだけにしていました。正蔵自身が、現実を飛び越える落語の魅力を理解できず、噺をつまらなくしてしまう最悪の例でしょう。
今回は春風亭一之輔の噺で概略とします。一之輔は三遊亭兼好から習ったと言っています。面白い噺なのですが、やったら面白くない噺です。(高座から)
■剣術指南;江戸の町道場は、権威と格式はあっても、総じて経営が苦しいので背に腹はなんとやら、教授を望む者は、身分にかかわらず門弟にしたところが多かったようです。
身分制度のたてまえから、幕府はしばしば百姓や町人の町道場への入門を禁じましたが、江戸は武士の町で、その感化で町人にも尚武の気風が強く、また治安も悪かったため、自衛の意味で、柔や剣術を身につけたいという町人が江戸中期ごろから増加しました。
町人の間では、稽古の掛け声から、剣術を「ヤットウ」と呼びならわし、特に幕末には、物騒な世相への不安からか、江戸の四大道場と称される、神田お玉ケ池の千葉道場、御徒町の伊庭道場、九段坂上の斎藤道場、京橋蛤河岸の桃井道場など、有名道場には志願者が殺到。町人原則だめのたてまえは怪しくなりました。町道場の「授業」時間は、午前中かぎりが普通でした。
■館林(たてばやし);群馬県南東部にある市。旧邑楽(おうら)郡。1954年1町7村が合併して市制施行。上毛かるたで「ツル舞う形」と喩えられた群馬県県域図の「ツルの頭」に位置する。徳川四天王の1人、榊原康政の城下町でもある。また、徳川綱吉が城主の時代には二十五万石の城下町であった。
関東大都市圏に属する。また近隣の町などから労働人口流入があり、本市を中心とする館林都市圏を形成している。
茂林寺=群馬県館林市堀工町にある曹洞宗の寺院。山号は青竜山(せいりゅうざん)。本尊は釈迦牟尼仏。分福茶釜で有名。分福茶釜には、お伽話としての「ぶんぶく茶釜」と伝説としての「分福茶釜伝説」の二通りの説話がある。寺が所蔵する分福茶釜は一般参拝者も見学可能(拝観は有料)。
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分福茶釜=当山は分福茶釜の寺として知られております。寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました。元亀元年(1570)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました。その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから161年の月日が経っていました。(茂林寺の説による)
■上州館林のご城下;館林は、戦国時代に足利幕府の内乱により台頭してきた在地武士達の拠点として築城され、江戸幕府成立後は、幕府を支える譜代大名たちの治める近世城下町として幕末まで繁栄しました。
館林城は、この地域に数ある沼の一つ、城沼に突き出した舌状の低台地上に築かれました。
本丸、南郭、八幡郭、二の丸(二郭)、三の丸(三郭)など堀で細分化された数郭からなる館林城は、いわば「城沼に浮かぶ」連郭式の平城で、それぞれの郭は城沼から入り込む自然の堀により区画されていました。
■泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず;
黒船来航の際に詠まれたもの。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰=黒船)のために幕府が混乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。
同じ幕府を比喩したものに、
■黒船(くろふね);日本とポルトガルの最初の接触は1543年とされている。1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。この際に使用されたのがキャラック船と呼ばれる、遠洋航海を前提に開発された大型の帆船である。全長は30m~60m、全長と全幅の比は3:1とずんぐりしている。排水量は200トンから大きなものは1200-1600トンとサイズには個体差が大きい。これらのキャラック船は防水のためにピッチで船体を黒色に塗っていたため、黒船と呼ばれた。1587年に豊臣秀吉が発布した伴天連追放令(松浦家文書)では、「黒船」の来航を認める内容が書かれており、1603年に編纂された日葡辞書にも Curofune として、「インドから来るナオ(キャラックのポルトガル呼称)のようなピッチ塗りの船」と記載されている。キャラックが発展したガレオン船や、「鎖国」中に長崎に来航したオランダ東インド会社のスヒップ船、ヤハト船、フリュート船も全て黒船と呼ばれた。
幕末に浦賀へ来航したペリーの艦隊の軍艦も黒船と呼ばれた。日本に蒸気船が来航したのはこのときが初めてであったため、しばしば黒船=蒸気船というイメージがあるが、上述の通りそれ以前から来航している西洋帆船は総じて黒船と呼ばれていた。またペリーの黒船のうち蒸気船は半数程度であり、2度とも残りのは純粋な帆船であった。またこの当時の蒸気船は、蒸気機関を使った航行は港湾内のみで行うものであり、外洋では帆走を用いる。艦体も鉄製というイメージがあるが、実際は全木製であった。その後、木製軍艦への鉄製装甲の付加、さらには全鉄製軍艦への移行が急速に進んでおり、日本幕府もそういった軍艦を購入している。
嘉永7年(1854)横浜への黒船来航図 東京国立博物館蔵。 落語「喜撰小僧」より
■武者修行(むしゃしゅぎょう);諸国をめぐり歩き,武術の修行をすること。武術全般にこの修行が行われたが,特に剣術に関するものが最も盛んで,剣術の発達に果した役割は大きい。応仁の乱 (1467~77) 頃から始り,戦国時代から江戸時代にかけ,浪人の増加とともに盛んになった。各地の他流派の人や自分より技能のすぐれた著名な武芸の達人や道場を訪れ,試合や指導を受け,その技術と心身の修練に努めることを目的とした。初期の真剣勝負から江戸時代中期以後の木刀 (ぼくとう) や竹刀 (しない) によるものまで,時代とともにその様式は変化した。宮本武蔵などが有名。現代では他の土地に入って技芸を磨くこともいう。
■本身(ほんみ);竹光 (たけみつ) 、木刀などに対して、鉄でつくった本物の刀。真剣。
国宝「太刀 備前国宗『銘 国宗』」 東京国立博物館蔵 栃木・東照宮所有
■造り酒屋(つくりざかや);蔵で酒を醸造し、店舗でそれを販売する職業。造り酒屋は元々資産家が多く、地域の名士的存在である。酒を醸造して卸す店。
■抜き身(ぬきみ);刀・槍などを、鞘から抜き放ったもの。
■雪隠詰め(せっちんづめ);逃げ道のない所へ追い詰めること。
■小手(こて);肘と手首との間。また、手首。手先。
■岩石落とし(がんせきおとし);バックドロップ(Back Drop)は、レスリングやプロレスで用いられる投げ技の一種で、日本名は岩石落とし。相手の背後から片脇に頭を潜り込ませて相手の腰を両腕で抱え、後方へと反り投げる。相手は後頭部を強打するので危険な技です。
上、連続写真 合気道での岩石落とし。上から素手で対峙しています。
■峰打ち(みねうち);両刃ではない刀剣、また日本刀の背面にあたる峰の部分で相手を叩くこと。棟打ち(むねうち)ともいい、両方の読み方で刀背打ちと書くこともある。なお、刀剣の側面でたたくことは平打ち(ひらうち)という。
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