落語「館林」の舞台を行く
   

 

 春風亭一之輔の噺、「館林」(たてばやし) 別名「上州館林」より


 

 ”泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず” 黒船がやってくる幕末のころ、武士は勿論、八つぁんや熊さんも剣道をやってみようかなと言う時代でもあった。

 「こんちは、こんちわ、先生いますかッ」、「八つぁん、良いときに来たな、稽古をしようか」、「稽古じゃなく、聞きたいことが有って・・・、吉公と話していたら『狭い道場で稽古してたってダメだから、武者修行に行かなければダメだ』と言われたんです。本身を持って修行に出なければダメですかね?」、「武者修行に出なければ強くは成らないが、八つぁんはここに居なさい」、「潤んだ目で『行っちゃ嫌』と言うと思っていました。弟子は幸右衛門さんと錦之介さんと私の3人ですから。幸右衛門さんは昔は腕が立ったでしょうが九十五歳ですから、錦之介さんは筋が良くて10回に1回は負けるんです。来年六つでしょう、道場背負うには未だ早い」、「当たり前だ。八つぁんは未だ早すぎる」、「先生も武者修行に行ったんですか?」、「行ったな。所は上州館林だ」。

 「ご城下を歩いていると、一軒の造り酒屋の前に人だかりがし、何やら騒いでいる。 聞いてみると、まだ夕方なのに泥棒が入り、そいつが抜き身を振り回して店の者を脅し、土蔵に入り込んだ。 外から鍵をかけ、雪隠詰めにしたものの、入ってくる奴がいれば斬り殺そうと待っているので、誰でも首が惜しいから、召し捕ろうとする者もいない。『しからば拙者が・・・』 と言うと、そこが武芸者への礼儀で、飯、味噌汁、奈良漬けが出た」、「奈良漬けは嫌いなんです」、「食事は礼儀だから断った。生け捕りにしてくれようと、主人を呼んで空き俵二俵用意させ、刀を脇に置いて、右手で俵を中に放り込んだ。 向こうは腹が減って気が立っているから、俵にぱっと斬りつけるところを、首をぐいと差し込み、小手をつかんで肩に担いで岩石落とし」、「首は引っ込めないの」、「引っ込めると間合いが狂う。で、みごと退治したな。八つぁん」。
 「首を差し出したら勝てるんですね?」、「わしの場合はな」、「先生、首を出せば間合いが取れて勝てますねッ」、「(うるさいな)勝てるよ」、「そうですか」、「八つぁん、未だ腕が無いから・・・」、「良いこと聞いた。飯を食いに帰ろう。武者修行、行きたいな~」。

 「酒屋の前に人だかり。どうしたのかな~。あッ、源さんどうしたの」、「髭の立派な侍に若い侍が酔っぱらって、喧嘩を吹っかけた。『斬るほどのこともない』 と峰打ちを食わせ、その場を納め帰って行った。息を吹き返した若侍は相手は帰ってしまったと聞くと、『連れてこい。連れてくるまではここを動かない』と言って蔵の中に入ってしまった。刀を下げて立て籠もってしまった」。
 「助太刀を・・・」、「止めろよ」、「そこをどけ。主、(先生のまねをして)『しからば拙者が生け捕りにいたしてくれる』。武者修行の途中だ」、「八つぁんは、この裏に住んでいるんだろ」、「所は上州館林。そやつを捨ておけば数日の妨げ。主人、炊き立ての飯を出せッ」、「上州館林とは何だ。飯も味噌汁も奈良漬けも用意した。食えッ」、「奈良漬けは嫌いだ」、「お前が言ったんだろ」、「食わないッ」、「素手で入ったら危ない」、「黙ってろ。俵を持ってこさせ、土蔵の戸を開け、俵を放り込む。ひるんだところを捕まえる」、「戸が開いているんだ、丸聞こえだ」、「大丈夫だッ」、「静かだ、寝ちゃったかな。入ってみよう」、中の侍が刀を振り下ろしてきた。八つぁん、パンと除けると、周りの者は「逃げろ、逃げろ」、「逃げるのは素人。ここで首をぐいっと出す」、侍は刀を「やぁッ」と振り下ろした。首がポ~ンと飛んでコロコロ。そこに先生が駆けつけ、「八つぁん、大丈夫か?」、「先生、うそばっかり」。

 



ことば

春風亭 一之輔(しゅんぷうてい いちのすけ);(1978年1月28日 - )は、落語協会所属の落語家。千葉県野田市出身。本名は川上隼一(かわかみ としかず)。出囃子は『さつまさ』(二つ目時代は『戻り駕籠』)。紋は『中蔭光琳蔦』。
 200を超える持ちネタがあり、滑稽噺から人情噺まで広く古典落語を演じる落語家。独自のくすぐりや現代的なギャグを盛り込むなど、随所に創意工夫を織り込んだ独創的な高座が特徴。また熊さん八つぁんや隠居など、古典落語の登場人物のキャラクター設定を今風に変えるなど、現代の人にもとっつきやすい落語を演じることで知られる。 当代きっての人気を誇り、年間900席もの高座をこなすなど、寄席、ホール落語問わず精力的に活動している。
受賞歴
 第10回岡本マキ賞受賞
 NHK新人演芸大賞落語部門大賞受賞
 文化庁芸術祭大衆芸能部門新人賞
 国立演芸場花形演芸大賞、ほか

落語的な落語; 落ちた首が口をきくという、同工異曲の噺に「胴切り」、「首提灯」がありますが、オチの切れ味、構成とも、問題なくこちらが優れています。 原話は不詳で、別題を「上州館林」。昭和初期には八代目桂文治が得意にし、同時代には六代目林家正蔵(1929年没)も演じましたが、戦後、文治没後は、惜しいことにこれといった後継者はありません。 六代目正蔵は、首が口をきくのが非現実的というので、八つぁんはたたきつけられるだけにしていました。正蔵自身が、現実を飛び越える落語の魅力を理解できず、噺をつまらなくしてしまう最悪の例でしょう。 今回は春風亭一之輔の噺で概略とします。一之輔は三遊亭兼好から習ったと言っています。面白い噺なのですが、やったら面白くない噺です。(高座から)

剣術指南;江戸の町道場は、権威と格式はあっても、総じて経営が苦しいので背に腹はなんとやら、教授を望む者は、身分にかかわらず門弟にしたところが多かったようです。 身分制度のたてまえから、幕府はしばしば百姓や町人の町道場への入門を禁じましたが、江戸は武士の町で、その感化で町人にも尚武の気風が強く、また治安も悪かったため、自衛の意味で、柔や剣術を身につけたいという町人が江戸中期ごろから増加しました。 町人の間では、稽古の掛け声から、剣術を「ヤットウ」と呼びならわし、特に幕末には、物騒な世相への不安からか、江戸の四大道場と称される、神田お玉ケ池の千葉道場、御徒町の伊庭道場、九段坂上の斎藤道場、京橋蛤河岸の桃井道場など、有名道場には志願者が殺到。町人原則だめのたてまえは怪しくなりました。町道場の「授業」時間は、午前中かぎりが普通でした。

館林(たてばやし);群馬県南東部にある市。旧邑楽(おうら)郡。1954年1町7村が合併して市制施行。上毛かるたで「ツル舞う形」と喩えられた群馬県県域図の「ツルの頭」に位置する。徳川四天王の1人、榊原康政の城下町でもある。また、徳川綱吉が城主の時代には二十五万石の城下町であった。 関東大都市圏に属する。また近隣の町などから労働人口流入があり、本市を中心とする館林都市圏を形成している。
  ツツジの名勝・つつじが岡公園や、全国的に有名な分福茶釜の物語で知られる茂林寺、東武トレジャーガーデン、群馬県立館林美術館、製粉ミュージアムなどの観光地がある。

 茂林寺=群馬県館林市堀工町にある曹洞宗の寺院。山号は青竜山(せいりゅうざん)。本尊は釈迦牟尼仏。分福茶釜で有名。分福茶釜には、お伽話としての「ぶんぶく茶釜」と伝説としての「分福茶釜伝説」の二通りの説話がある。寺が所蔵する分福茶釜は一般参拝者も見学可能(拝観は有料)。

・ 分福茶釜=当山は分福茶釜の寺として知られております。寺伝によると、開山大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴は、代々の住職に仕えました。元亀元年(1570)、七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。その時、守鶴は一夜のうちに、どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。ところが、この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。守鶴は、自らこの茶釜を、福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は、開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言いました。その後、守鶴は十世天南正青の代に、熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。これ以上、当寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せます。人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから161年の月日が経っていました。(茂林寺の説による)
 上図、月岡芳年画『新形三十六怪撰』より「茂林寺の文福茶釜」。タヌキが僧に化けたという説に基いて描かれたもの。
 おとぎ話では、和尚が手放した茶釜(狸の化身で、頭・足・尻尾が生える)が、綱渡りなどの芸をし、これを見世物商売に屑屋が財を築き、茶釜を元の寺(茂林寺)に返還する。

上州館林のご城下;館林は、戦国時代に足利幕府の内乱により台頭してきた在地武士達の拠点として築城され、江戸幕府成立後は、幕府を支える譜代大名たちの治める近世城下町として幕末まで繁栄しました。
 史料における館林城の初見は文明3年(1471)です。 当時、足利幕府に抵抗する古河公方足利成氏と幕府方の管領上杉氏との争いに関東の在地武士達が巻き込まれていった中で、当時、館林城(立林城)にいたのが足利成氏に従っていた赤井氏で、上杉方の武将長尾景信により攻撃されたことが記されています。
 永禄5年(1562)、管領職を譲り受けた越後守護代の長尾影虎(上杉謙信)は上野国に進出し、この時後北条氏(北条早雲)に組していた赤井氏は追放され、長尾景長が城主として館林城に入ります。 一方、信濃を制圧した甲斐の武田信玄も上野国に侵攻し、上野国は越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、そして小田原を本拠とする北条氏の三つ巴の勢力争いが繰り広げられますが、この争いは、上杉、武田両氏の勢力が弱まったところに、秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡するという形で決着が着きます。
 同年に秀吉から関東八州を与えられて江戸に入部した徳川家康は、関東の要所に家臣を配置する中で、徳川四天王のひとり榊原康政を館林10万石の城主として配します。康政は、領内の検地を断行するとともに、館林城の拡張整備と城下町の改造に着手します。 従来の館林城を拡張して、外堀開削と土塁築造を行い、町人の居住区を城の西側に移転して城下町を改造します。 この時の町割りが現在の館林の町の原型となります。
 榊原氏三代藩主忠次が寛永20年(1643)に陸奥白河に転封した後、大給松平氏が遠江国浜松から6万石で入封し、寛文元年(1661)に松平氏が下総佐倉に転封すると、替わって将軍家光の第4子綱吉が25万石で入封しますが、綱吉が第五代将軍になると、館林は一時的に天領として代官支配となります。 宝永4年(1707)に越智松平氏が入封して再び立藩すると、その後も関東の要所として譜代大名の転封が相次ぎます。越智松平氏の後、太田氏、再び越智松平氏、井上氏、秋元氏と続き明治2年の廃藩置県を迎えます。
 そしてこの年、館林城は大名小路からの出火で焼失して、戦国時代から続いた館林城の歴史は終焉を迎えます。

   

 館林城は、この地域に数ある沼の一つ、城沼に突き出した舌状の低台地上に築かれました。 本丸、南郭、八幡郭、二の丸(二郭)、三の丸(三郭)など堀で細分化された数郭からなる館林城は、いわば「城沼に浮かぶ」連郭式の平城で、それぞれの郭は城沼から入り込む自然の堀により区画されていました。
まちあるきの考古学 ホーム より

泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず; 黒船来航の際に詠まれたもの。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰=黒船)のために幕府が混乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。
 上喜撰(じょうきせん)は、緑茶の銘柄(ブランド名)。宇治の高級茶。本来の銘柄名は喜撰で、その上等なものを上喜撰(あるいは正喜撰)と呼んだ。

 同じ幕府を比喩したものに、
『白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき』 寛政の改革の際に詠まれたもの。白河は松平定信の領地。定信の厳しい改革より、その前の田沼意次の多少裏のあった政治の方が良かったことを風刺している。大田南畝作という評判もあったが本人は否定した。
 別に寛政の改革批判の狂歌である、『世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜も寝られず』も 「詠み人知らず」とされているが、大田南畝作の説が有力である。

黒船(くろふね);日本とポルトガルの最初の接触は1543年とされている。1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。この際に使用されたのがキャラック船と呼ばれる、遠洋航海を前提に開発された大型の帆船である。全長は30m~60m、全長と全幅の比は3:1とずんぐりしている。排水量は200トンから大きなものは1200-1600トンとサイズには個体差が大きい。これらのキャラック船は防水のためにピッチで船体を黒色に塗っていたため、黒船と呼ばれた。1587年に豊臣秀吉が発布した伴天連追放令(松浦家文書)では、「黒船」の来航を認める内容が書かれており、1603年に編纂された日葡辞書にも Curofune として、「インドから来るナオ(キャラックのポルトガル呼称)のようなピッチ塗りの船」と記載されている。キャラックが発展したガレオン船や、「鎖国」中に長崎に来航したオランダ東インド会社のスヒップ船、ヤハト船、フリュート船も全て黒船と呼ばれた。

 幕末に浦賀へ来航したペリーの艦隊の軍艦も黒船と呼ばれた。日本に蒸気船が来航したのはこのときが初めてであったため、しばしば黒船=蒸気船というイメージがあるが、上述の通りそれ以前から来航している西洋帆船は総じて黒船と呼ばれていた。またペリーの黒船のうち蒸気船は半数程度であり、2度とも残りのは純粋な帆船であった。またこの当時の蒸気船は、蒸気機関を使った航行は港湾内のみで行うものであり、外洋では帆走を用いる。艦体も鉄製というイメージがあるが、実際は全木製であった。その後、木製軍艦への鉄製装甲の付加、さらには全鉄製軍艦への移行が急速に進んでおり、日本幕府もそういった軍艦を購入している。
  黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853)7月8日に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の2隻の外輪蒸気フリゲート「サスケハナ」(右写真)、「ミシシッピ」が、帆走スループの「サラトガ」、「プリマス」を曳航して江戸湾内へ侵入してきた。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。
 日本ではおもに、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。

  

 嘉永7年(1854)横浜への黒船来航図 東京国立博物館蔵。 落語「喜撰小僧」より

 武者修行(むしゃしゅぎょう);諸国をめぐり歩き,武術の修行をすること。武術全般にこの修行が行われたが,特に剣術に関するものが最も盛んで,剣術の発達に果した役割は大きい。応仁の乱 (1467~77) 頃から始り,戦国時代から江戸時代にかけ,浪人の増加とともに盛んになった。各地の他流派の人や自分より技能のすぐれた著名な武芸の達人や道場を訪れ,試合や指導を受け,その技術と心身の修練に努めることを目的とした。初期の真剣勝負から江戸時代中期以後の木刀 (ぼくとう) や竹刀 (しない) によるものまで,時代とともにその様式は変化した。宮本武蔵などが有名。現代では他の土地に入って技芸を磨くこともいう。

  

本身(ほんみ);竹光 (たけみつ) 、木刀などに対して、鉄でつくった本物の刀。真剣。

 国宝「太刀 備前国宗『銘 国宗』」 東京国立博物館蔵 栃木・東照宮所有

造り酒屋(つくりざかや);蔵で酒を醸造し、店舗でそれを販売する職業。造り酒屋は元々資産家が多く、地域の名士的存在である。酒を醸造して卸す店。
 造り酒屋は純粋に酒を造りそれを売っていた所という概念で、規模も必ずしも大きくなく、ときには蔵人が一人で営んでいて、場所も都市の中だけでなく農村部や山間部にも多かった。かなりさびれた街道沿いにも造り酒屋が点在していた様子が昔の紀行文などからうかがえる。
 新酒が出来上がると、軒先に提げてある杉玉が目印となる。 多くの造り酒屋では毎年2~3月ごろに蔵開きの最盛期を迎え、その年に醸造した新酒のお披露目や利き酒、酒粕・酒饅頭を始めとする関連商品の販売などが行なわれる。また、周辺では地域の特産品を生かした肴が販売されるなど、造り酒屋にとって一つの区切りであると同時に、地域にとっても一大行事となっている。

抜き身(ぬきみ);刀・槍などを、鞘から抜き放ったもの。

雪隠詰め(せっちんづめ);逃げ道のない所へ追い詰めること。

小手(こて);肘と手首との間。また、手首。手先。

岩石落とし(がんせきおとし);バックドロップ(Back Drop)は、レスリングやプロレスで用いられる投げ技の一種で、日本名は岩石落とし。相手の背後から片脇に頭を潜り込ませて相手の腰を両腕で抱え、後方へと反り投げる。相手は後頭部を強打するので危険な技です。
 合気道では、頭から背負い込んで投げ飛ばします。

 

 

 

 上、連続写真 合気道での岩石落とし。上から素手で対峙しています。

峰打ち(みねうち);両刃ではない刀剣、また日本刀の背面にあたる峰の部分で相手を叩くこと。棟打ち(むねうち)ともいい、両方の読み方で刀背打ちと書くこともある。なお、刀剣の側面でたたくことは平打ち(ひらうち)という。
 峰打ちは技としては存在せず、時代劇の殺陣などで相手を殺さずに倒す手段として使われる。牧秀彦は著書『剣豪 その流派と名刀』で、「本来の峰打ちは『峰で打つこと』ではなく、『普通に切りかかって相手の体に届く寸前で刃を返すこと』であり、斬撃や打撃の威力ではなく『斬られた』と思い込ませることで意識を断つものである」と記している。
 刃で斬らなければ切創などによる出血を伴わないために死ぬことはない」というイメージを持たれやすいが、実際は「棒状の鋼で打撃」することであり挫創や挫傷、骨折を負わせるには十分で、当たり所によっては死に至ることもある。つまり、凶器が刃物から鈍器に切り替わったに過ぎず、単純に峰で叩いても挫傷などにより深刻なダメージに至る可能性がある。



                                                            2020年8月記

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