落語「狸の化け寺」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「狸の化け寺」(たぬきのばけでら)より


 

 相変わらず、これも古い噺でございますが「狐の嫁入り」といぅ言葉がございましてね。狐が嫁入りをするので、準備万端いろいろと道具を揃えたり必要な物を並べたりしているうちに「あぁ、金屏風がないやないか、金屏風どないしょ~?」、「狸のとこ行って借りてこいッ」と、こんな噺がございます。
 狸と金といぅのはもぉ切っても切れん縁がございますが『狸の金玉、八畳敷き(はっちょ~じき)』なんといぅよぉなことを昔から言ぃましてね、狸がぎょ~さん揃ろて伊勢参りしたちゅな噺がございます。ゾロゾロ、ゾロゾロ団体旅行で宿屋行て「泊めてくれ」ちゅうたら「あんさん方、狸の団体さんでっしゃろ。ちょっと困りまんなぁ」、「何で?」、「何でて、あんた、八畳敷き持ったはりまっしゃろがな。それにこないぎょ~さんでっしゃろがな。とてもお部屋がございません」、「いえ、みんなメンでございますわ」といぅよぉな、そんな噺です。まぁ、メンには八畳敷きはないわけでございますが。

 「え~、お庄屋はん。畦鍬(くろくわ)の連中さんが村へ着きましてなぁ」、「もぉ着きなはったかえ? 」、「とりあえずまぁ井戸端へ案内して、汗拭いたり、顔洗ろたり、足洗ろたり、水飲んだり、まぁ一息入れてもろてまんねけど。その頭(かしら)の領五郎さんちゅう人が『お庄屋はんにご挨拶したい』言ぅてみえてまんねけど」、「こっち通しなはれ」、「わたしは畦鍬の連中の束ねをいたします、火の玉の領五郎といぅもんでございますが、お見知り置かれまして、どぉぞよろしゅ~お頼の申しま」、「わたしがこの村の庄屋じゃが、”きつね川”の堤が、この前の大雨のときに切れてなぁ。村の者がとりあえず繕ぉておきましたが、間もなく二百十日もやってきますで、畦鍬の皆さんに頼んで、あれをきっちりと固めておきたいと・・・」、「来るときに、傷口も見てまいりました。六日(むいか)か七日あったら大丈夫、まぁ雨も降ったりしまっしゃろさかい・・・、十日(とおか)もみといてもらいましたら大丈夫でございます」、「万事、お頼の申します。お宿じゃ。この村には宿屋も無いし・・・、一行は何人さんじゃ?三十人さんか。分宿してもらいます」、「お寺かなんか、ございまへんやろかな?」、「寺は有るんじゃがなぁ・・・、泊ってもらえん。と言ぅのはなぁ・・・、化け寺でなぁ。住職が亡くなって跡継ぎが無いもんじゃさかい、しょ~がなしに村の者がこぉ交代で、仏さんのお守をしたりしてましたんじゃが、段々だんだんおろそかになってるうちにお寺も段々荒れてきてなぁ、何かおかしなモノが住み着いたらしぃ。誰も恐れて近寄らんのじゃ。旅の修行者や剣術使いや山伏や、そぉいぅ人が、『わしが一番退治てやる』と言ぅて、あの寺へ入って行くのんを見たもんは有っても、出て来たのん見たもんが無い。あんたらに泊ってもろて、もしものことがあったらいかんと思て・・・」、「達(たっ)て、そのお寺へ泊めていただきとぉございますがなぁ。『物好き』ちゅうわけやないが、知らんうちならともかく、『化けもんが出る』てなことを聞ぃて、この火の玉の領五郎があとへ寄ったてなことがこの界隈に噂されますと、大きな顔してこの街道を歩けんよぉになりますでな。それにまぁ、こっちは三十人もおりまんねんから、化けもんかていっぺんに三十人もよぉ食わんやろと思いますわ。退治ることはでけぇでも、その正体なと見届けられたらと思うんで」、「いやいや、そちらさえ構わなんだら、こっちは結構やでな・・・。畦鍬の連中さん化け寺へ泊まるっちゅうたはるで」。
 「あの頭ちゅうのはえらいもんやで、パ~ッと裸になってるとこ見たら体中絵が描いたぁるねやないか、えらい彫りもんや、あの人やったらやるかも分からんで」、「何年も人入ったことない・・・、お庄屋はん、とてもホコリでホコリで、雑巾でも二十や三十では足らんで」、「あそこで炊事もしてもらわんならんでな、米俵一俵持っといで、それから干物やとか青物やとか、味噌も塩も要るでな、油も用意しなはれ」。
 村じゅ~が寄ってバタバタバタッ、用意がでけます。山のよぉにこぉ荷物が積み上がったぁる。

 「領五郎さん、ほなわしらこれお寺まで担ぐよってにな」、「送ろおくろ。ほな領五郎さんを寺まで、送れおくれぇ~」、「この坂上がったらお寺や。この階段上がったら震い付いて死んでしまうっちゅう噂が立ってんねや。せやからわしら、もぉここまでよりよぉ送らんけどな、あとは万事あんた頼んまっせ」、「ここまで運んでもらや結構じゃ」。
 「おい、みんな聞け。化け寺とかなんとか言ぅても恐がることはないぞ。畦鍬やってたら年がら年中旅してんねやないかい、こんなことは何べんも遭ぉたわい。幽霊の正体見たり枯尾花っちゅうやっちゃ、めったにほんまもんの化けもんなんか出たことは無い。こんなもん恐れてたら畦鍬はつとまらんぞ。とりあえずなぁ、荷物を寺の中へ運び込め」。
 ザ~ッと階段上がって、お寺の門をくぐります。以前は立派な寺であったとみえて、山門なんかはなかなか結構なもんで、境内へ入りますといぅと、もぉ長い間ほったらかしになってましたんで、夏草がビッシリと茂ってます。

 「えらい草じゃなぁ、おい、みな荷物の中から鎌を出せ」、こぉいぅことには手慣れてる連中でございまっさかいに、鎌を取り出すと、サッサッサッサッ、サッサッサッサッ・・・。
 「親方、こらぁなぁ、狸か狐か狢(むじな)か何か知らんけど、何か住み付いとぉるに違いおまへんで」、「何でや」、「見てみなはれ、こぉ草刈ってたらコロコロ、コロコロ丸いフンが出てくるがな、ホンに臭(草)かった」、「しょ~もないこと言ぅてんねやあらへんがな。刈り上げた草はひと所へまとめとけ、荷物運び込め」。ザァ~ッ、スックリお寺の中へ入れます。
 「本堂のな、大戸を外せ大戸を。大戸を外してこっち持ってこい、それからその辺の仏具をみな運び出せ。畳を上げ・・・」。
 さぁ、手馴れた連中でございまっさかいに、寺の什器のよぉなもの、阿弥陀はんから何からすっくり外へ運び出しますといぅと、上のほぉからザ~ッと箒(ほうき)でこいつを、ススやらホコリを払い落としまして、ザ~ッと掃き出す。今度は手桶やらタライを運び込んで雑巾がけでございますなぁ、綺麗ぇに片付きます。長いこと使ってない井戸の水を汲み出し、風呂に水張って、飯炊く用意もして・・・。手馴れた連中です、片一方では飯の用意が始まる、風呂を沸かし付ける、綺麗ぇに掃除をして畳を入れまして仏具を元通りに、建具を入れると見違えるよぉに綺麗になりました。
 「何でもえぇ、とにかくまた明日頼むよってに、今日のところは早いこと寝てしまえ。風呂入って飯食たあとはもぉ酒はないぞ、朝早いぞ」。

 みんな寝かしまして火の玉の領五郎、太い真鍮のキセルをパク~リ、パクリやりながら、火ぃのそばで何か起こらんか起こらんかと待ってるうちに、段々と夜が更けてまいります。やっぱりコックリ、コックリ昼間の疲れで眠気がさしてくる。ウトウトッとなって、「こらいかん」口の中が辛ろぉなるぐらい煙草を吸ぅ。またコックリとなりかけた時分。
 正面の本尊、阿弥陀はんを祀ったぁる横手にポッと光りものがしたかと思うと、それへポッと飛んで出ましたのが、二八(にはち)ばかりの小娘。頭を姉さん被りにしまして紺絣、手甲、脚絆、甲掛けで紅のたすき掛けまして、手ぇに花カゴを持った「忍(シノブ)売り」といぅ風俗で・・・。
 領五郎さん、お~い、お~い・・・♪ りょ~ごろさん、りょ~ごろさん♪  そばまで来たとところで、急にガッと様子が変わると、大きな目をむいて口を開けて、「噛もか~~ッ!」と飛びかかった。寝たふりをしておりましても領五郎、油断はございません。枕元に有った道中差しをサ~ッと抜くなり、バシッと切り付ける。
 手応えはあったんですが、「ギャッ」ちゅう声を出して黒い犬のよぉなものがツツ~~ッと祭壇のほぉへ走って逃げた。
 皆起こして、燭台出してロ~ソク立てて、ズ~ッと火を増やさせたが見つからない。「おい、この阿弥陀はんの数がおかしぃなぁ。確か、掃除したときは三体やったやろ」、「三体の阿弥陀が四体になってる」、「こん中に化けもんの阿弥陀がいとぉんねやなぁ」、「いぶり出すねん」、最初の三体は何でも無かった。「今度こそ油断すな、この阿弥陀が怪しぃさかい」、「あらっ? いま阿弥陀はんの顔がピクッと動いたよぉな気がしましたが」、「おぉ~、動いてる動いてるホンマに、阿弥陀はん、オモロイ顔なってきたオモロイ顔なってきた」、顔がピクピクピクピクッと動いたかと思いますと、「ヘ~クショ~ンッ!」といぅえらいクシャミをして、阿弥陀はんがそこへバッと倒れるよぉにしますと、大ぉきな大ぉきな狸、それへ、ツ~~ッと大広間走り出した。 みんなてんでに柄物を持ってまっさかい、それでこぉ突き付ける。逃げ回ってる狸、大黒柱のよぉな大きな太い柱が両側に立っとりますが、それへスルスルスルスルッと駆け上がったきり見えんよぉになってしもた。
 上を探すと、こぉ欄間がありまして、それに天人の彫り物がしてございます。まぁ二間に三人といぅぐらい、ところどころにこの天人がこぉ羽衣を身にまといましてな、こぉいぅ風に・・・、中には格好つけたやつとか、こぉやってる天人の絵が彫り付けてある。そん中で一人の天人が横目つこてるやつがある。

 「あの天人おかしぃんとちゃうか? あいつだけ横目つことおる。あれや」、「あの天人を突き出せ」。六尺棒やとか棍棒や、長いやつでズ~ッと突き出しますと、突かれた天人だけでなく、ぐるりに彫り付けてある天人が一斉にそれへさして、ズズズ~~ッと抜けて出た。一同の頭の上で十数人の天人が、ゆらりゆらりと天人の舞を舞い始めました。こぉやって見てますと、流れるよぉに泳ぐよぉに、ゆらゆらと天人が頭の上で舞う。
 さすがの火の玉の領五郎も、どれが狸の天人か分からん。呆然と見ておりますうちに、泳ぐよぉに流れてるその天人の一人が、何やらブツブツブツブツ言ぅてます。
 「何を言ぅてんのんかいなぁ?」、と聞ぃてみると・・・、こぉ泳ぎながら、
 「あぁ、金が擦れる・・・。金が、擦れる」。

 



ことば

狐・狸は人を化かす;化け狸(ばけだぬき)は、日本に伝わる狸の妖怪である。人間をたぶらかしたり、人間の姿に化けたりすると考えられている。
 野山に棲息している狸(たぬき)たちが人間を化かしたり不思議な行動を起こしたりすることは、史料・物語または昔話・世間話・伝説に見られ、文献にも古くから変化(へんげ)をする能力をもつ怪しい動物・妖怪の正体であると捉えられていた一面が記されている。
 江戸時代以降は、たぬき、むじな、まみ等の呼ばれ方が主にみられるが、狐と同様に全国各地で、他のものに化ける、人を化かす、人に憑くなどの能力を持つものとしての話が残されています。狢(むじな、化け狢)猯(まみ)との区別は厳密にはついておらず、これはもともとのタヌキ・ムジナ・マミの呼称が土地によってまちまちであること・同じ動物に異なったり、同一だったりする名前が用いられてたことも由来すると考えられています。
 狸の大きな特徴にはふくらませた腹部を叩いて腹つづみを鳴らす(狸囃子)、巨大な陰嚢を用いて人間を襲ったりする、などが挙げられ、いずれも江戸時代から狸の特徴として絵画や物語などを中心に確認できる。大きな陰嚢については「狸の金玉八畳敷き」という狸全般に関する慣用句から発生したものと考えられています。

左図、河鍋暁斎画『狂斎百図』より「佐渡国同三狸」。人間の商人を相手に金貸しを営む団三郎狸(左上)。
右図、たぬき。

 佐渡の団三郎狸、徳島県の金長狸・六右衛門狸、香川県の太三郎狸、愛媛県松山市のお袖狸などのように、大きな能力や神通力を特にもつと考えられた狸は寺社や祠などが造営され、民間からの祭祀や信仰の対象にもなっている。現在確認されるその多くは江戸時代末期から昭和初期にかけて整備されたもので、霊験などが話題となり「流行神」といえるかたちで民間に大きな人気を得たものもある。それでは、下記に紹介します。

●団三郎狸(だんざぶろうだぬき)は、新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に伝わる化け狸。佐渡ではタヌキを狢と呼んでいたことから、団三郎狢(だんざぶろうむじな)ともいう。錦絵では同三狸とも表記される。淡路島の芝右衛門狸、香川県の太三郎狸と並び、日本三名狸に数えられている。
 佐渡のタヌキの総大将。人が夜道を歩いているところに壁のようなものを作り出したり、蜃気楼を出したりして人を化かしたり、木の葉を金に見せかけて買物をしていた。自分の住処である穴倉に蜃気楼をかけ、豪華な屋敷に見せかけて人を招き入れたりもした。病気になったときには人に化けて人間の医者にかかっていた。 悪さをするばかりでなく、困った人には金を貸していた。その金は人に化けて金山で働いたり、盗んだりして稼いでいたという。また、団三郎の住処は相川町下戸村にあり、借用書に金額、返却日、自分の名を記して判を押して置いておけば、翌日にはその借用書は消え、代りに金が置いてあったという。

 佐渡にキツネがいない理由として、団三郎が佐渡からキツネを追い払ったためといった伝説があり、ここに2つほど紹介すると。
 ・ 団三郎が旅の途中、キツネに出会い「佐渡へ連れて行ってください」と頼まれた。団三郎は「連れて行ってはやるが、その姿ではまずい。わしの草履に化けなさい」と言った。キツネは言われた通り草履に化け、僧姿の団三郎がそれを履いて船に乗った。海の真っ只中で草履を脱いで海に放り込んだ。以来、キツネは佐渡に渡ろうとは考えないようになった。
 ・ 団三郎は旅の途中で1匹のキツネに会った。自分の術を自慢するキツネに対し、団三郎は「自分は大名行列に化けるのが得意なので、お前を驚かせてやる」と言って姿を消した。間もなく大名行列がやって来た。キツネは行列の中の殿様の駕籠のもとに躍り出て「うまく化けやがったな」などとからかい、たちまちキツネは捕えられ、狼藉の罪で斬殺されてしまった。行列は団三郎ではなく本物であり、彼はあらかじめ行列がここを通ることを知っていたのである。

●阿波狸合戦(あわたぬきがっせん)は、江戸時代末期に阿波国(後の徳島県)で起きたというタヌキたちの大戦争の伝説。
 天保年間(1830~1844年)、小松島の日開野(後の小松島市日開野町)での話。大和屋(やまとや)という染物屋を営む茂右衛門(もえもん)という者が、人々に虐められそうなタヌキを助けた。間もなく、大和屋の商売がどんどん繁盛し出した。やがて、店に務める万吉という者にタヌキが憑き、素性を語り始めた。それによればタヌキは「金長(きんちょう)」といい、206歳になる付近の頭株だという。万吉に憑いた金長は、店を訪れる人々の病気を治したり易を見たりと大活躍し、大評判となった。 しばらく後、まだタヌキとしての位を持たない金長は、津田(後の名東郡斎津村津田浦、現・徳島市津田町)にいるタヌキの総大将「六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出た。金長は修行で抜群の成績を収め、念願の正一位を得る寸前まで至った。六右衛門は金長を手放すことを惜しみ、娘の婿養子として手元に留めようとした。しかし金長は茂右衛門への義理に加え、残虐な性格の六右衛門を嫌ってこれを拒んだ。 これを不服とした六右衛門は、金長がいずれ自分の敵になると考え、家来とともに金長に夜襲を加えた。金長は、ともに日開野から来ていたタヌキ「藤ノ木寺の鷹」とともに応戦した。しかし鷹は戦死し、どうにか金長のみが日開野へ逃れた。 金長は鷹の仇討ちのため同志を募り、六右衛門たちとの戦いが繰り広げられた。この戦いは金長軍が勝り、六右衛門は金長に食い殺された。しかし金長も戦いで傷を負い、まもなく命を落とした。 茂右衛門は正一位を得る前に命を落とした金長を憐み、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向き、正一位を授かって来たという。 この戦いの頃、六右衛門へ攻め込む金長軍が鎮守の森に勢揃いすると、人々の間で噂されていた。人々が日暮れに森へ見物に押しかけたところ、夜ふけになると何かがひしめき合う音が響き、翌朝には無数のタヌキの足跡が残されており、合戦の風説も決して虚言ではないと話し合った。  

●太三郎狸(たさぶろうたぬき、たさぶろうだぬき)は、香川県高松市屋島に伝わる化け狸。山上の四国八十八箇所霊場第八十四番札所、屋島寺の「蓑山大明神由来」の説明板は、「屋島太三郎狸」である。伝説や民俗学に関する文献類では、「屋島の禿狸(やしまのはげだぬき)」と表記され、太三郎狸の通称とされている。
 平家の滅亡後は太三郎狸は屋島に住みつき、屋島に戦乱や凶事が起きそうなときはいち早く屋島寺住職に知らせたといい、そうした経緯で太三郎狸は屋島寺の守護神となった。その変化妙技は日本一と称され、やがて四国の狸の総大将の位にまで上り詰めた。大寒になると300匹の眷族が屋島に集まり、太三郎狸はかつて自分が見た源義経の八艘飛びや弓流しといった源平合戦の様子を幻術で見せたという。また屋島寺の住職が代替わりする際にも、寺内の庭園「雪の庭」を舞台とし、合戦の模様を住職の夢枕で再現してきたという。 屋島寺は唐の僧である鑑真による開創と伝えられるが、伝説ではその際に盲目のために難儀する鑑真を、太三郎狸が案内したといわれる。また空海(弘法大師)が四国八十八箇所の霊場を開創した頃、霧の深い山中で道に迷った空海を、老人に化けた太三郎狸が案内したともいう。鑑真や空海に感銘を受けた太三郎狸は狸の徳を高めるべく、屋島に教育の場を設け、全国から集まった若いタヌキたちに勉学を施していたともいう。
 後に太三郎狸は猟師に撃たれて命を落とすが、死後の霊は阿波(後の徳島県)に移り棲み、人に憑くようになった。嘉永年間には阿波郡林村(現・阿波市)の髪結いの女性に憑き、吉凶を予言したり、狸憑きを落としていたといわれる。1994年(平成6年)にスタジオジブリで制作された、アニメーション映画『平成狸合戦ぽんぽこ』のキャラクターである「太三朗禿狸」のモデルとなったことでも知られる。

●八股榎お袖大明神(やつまたえのきおそでだいみょうじん)は、愛媛県松山市にある神仏習合の祠。
 かつて勝山城(現在の松山城)にすんでいた神通力をもつ狸、お袖が1830年(文政13年)にこの地に生えていた榎の大木に住み着いたのに始まるとされる。 祠が置かれていた榎の大木は明治44年(1911)に松山電気軌道が開通する際に邪魔になるからと切られてしまい、この時に上一万(現在の勝山町2丁目)の常楽寺境内の六角堂に合祀された。この堂には現在も八股榎大明神が祀られている。 後に別の榎の下に祠が建てられた。その榎も伊予鉄道が路面電車の複線化を進める際に切られることとなったが、切り倒す作業は難航し、結局昭和9年(1934)に石井村の喜福寺に移植された。しかし古木のためその後間もなく枯れてしまった。直後に大井村の大井駅で一人の女学生が降車し、それがお袖狸の化身ではないかと噂になり、小西村の山奥の明堂という小さな堂に移り住んだということにされ、一時的にそこへの参詣者が増加した。その後お袖狸は松山城の堀端に帰り、昭和20年代に生えた榎に棲み付いたとされ、昭和27~8年頃に小さな祠が建てられた。その後昭和30年(1955)に仮殿が造られ、翌年には本殿が造営された。以降信奉する民間人によって祭祀が続けられている。

●芝右衛門狸、柴右衛門狸(しばえもんたぬき、しばえもんだぬき)は、兵庫県淡路島に伝わる化け狸。佐渡島の団三郎狸、香川県の太三郎狸と並び、日本三名狸に数えられている。江戸時代の奇談集『絵本百物語』にも記述がある。人間に化けて芝居見物をしている最中、犬に襲われて命を落としたといわれる。
 芝右衛門狸は淡路島の洲本市の裏山の三熊山の頂上に、妻のお増(おます)と共に住み、月夜にはよく陽気に腹鼓を打っていた。人間に化けて木の葉を金に見せかけて買物をするような悪戯も働いたが、その一方では酔って山中に迷い込んだ人間を案内したりと親切な行ないもしていたので、誰からも憎まれていなかった。親切にされた人々は、彼らの住処に礼として一升徳利を収めた。 あるときに芝右衛門は浪速(現・大阪市)の中座で大人気の芝居があると聞き、お増と共に人間に化けて大阪へ渡った。初めて踏む地である大阪を見物する内に2匹はすっかり陽気になり、化け比べをすることになった。まずはお増が大名行列に化け、芝右衛門の前を通り過ぎた。続いて芝右衛門が化かす番。お増の前を長い殿様行列が続いた。お増が「うまいうまい」と声を上げて褒めたところ、たちまち行列の武士に斬り殺された。行列は芝右衛門ではなく本物だったのである。 悲嘆に暮れた芝右衛門は淡路へ帰ろうとしたが、せめて最後にお増も見たがっていた芝居を見ることにして、術で木の葉を金に変え芝居小屋へ通うようになった。しかし芝居小屋では毎日の入場料に木の葉が混ざっていることから、タヌキが人間に化けて紛れ込んでいると疑い、番犬を見張らせることにした。 芝居見物も今日を最後にして淡路へ帰ろうと、芝右衛門は小屋へやって来ると、大の苦手な犬がいた。芝右衛門は恐怖心を隠しつつ入口を通り抜けたが、その安心した隙をついて犬が襲い掛かってきた。たちまち芝右衛門はタヌキの姿に戻ってしまい、犬を連れた人々に追い回され、遂には頭を殴られて命を落とした。淡路には大阪で化け狸が殺された噂が届き、芝右衛門の腹鼓が聞こえないことから、彼が殺されたとわかり、人々は口々に彼の死を惜しんだ。 芝右衛門の死後、中座では客の入りが悪くなり「芝右衛門を殺した祟りだ」と噂が立ったので、芝右衛門を芝居小屋に祀ったところ、また客足が良くなった。以来、芝右衛門は人気の神として中村雁治郎、片岡仁左衛門、藤山寛美といった多くの役者たちに厚く信仰されてきた。後に芝右衛門の里帰りと称し、寛美や仁左衛門らの寄進により洲本市に芝右衛門の祠が建てられた。現在では芝右衛門の祠は三熊山頂上の洲本城跡に近くにあり、芝居好きであった芝右衛門の伝説から、今なお芸能人の参拝が多い。中座に祀られていた「柴右衛門大明神」も2000年に「里帰り」し、現在は洲本八幡神社に祀られている。

●文福茶釜(ぶんぶくちゃがま); 狸が化けた茶釜が寺の持ち物となる昔話。群馬県館林市茂林寺の伝説では、狸が守鶴(しゅかく)という僧に化けて七代寺を守り、汲んでも尽きない茶を沸かしたとされている。

●狸囃子(たぬきばやし); 発生源をはっきりつかむことも確かめることも出来ない不思議な太鼓やお囃子の音。江戸(東京都)では、本所七不思議や番町七不思議のひとつなどにも数え挙げられており、深夜にどこからともなく太鼓の音が聞こえてくるものを「狸囃子」といった。童謡『証城寺の狸囃子』は證誠寺に伝わる伝説を元に作られた。

●宗固狸(そうこだぬき); 茨城県飯沼弘教寺に墓がある。寺の僧に化けていたが、ある日昼寝をして正体を現した。しかし、長く仕えたというのでその後も給仕をさせていたと伝えられている。

以上、この項、ウイキペディアより

狸の金玉八畳敷き;何であんなこと言ぃ出したかといぅと、金を金箔にする場合に一匁(もんめ=3.75g)の金を狸の皮の間へ挟んで、それをトントン、トントンと叩くんですなぁ。で、段々だんだん広がって、これぐらい広がったやつを四つに切りまして、四分の一をまた真ん中に当てごぉてトントン、トントン叩いてまた広げる。  またその四分の一をまた・・・、とこぉいぅ風にドンドンドンドン広げていきますと、一匁の金がタタミ八畳に広がると、そぉいぅとっから、
”狸の金玉八畳敷き”といぅ言葉がでけた。と、まぁ落語学のほぉではこぉいぅことになっとりまんねん。
  金沢の金箔屋さんにお目にかかったときに、そのこと言ぃましたらね、「わたしらのほぉでは鹿の皮で叩きます」と。狸やない、鹿皮でトントントントンやるんですと。差し向かいになって四つの槌でこぉ叩くんですなぁ。「やっぱり八畳敷きになりますか?」ちゅうたら、「さぁ、四畳半ぐらいにしかならんと思いますがなぁ・・・」なんか、言ぅたはりましたが。もしも念入りに、本当に念入りに叩いたら六畳以上に広がる可能性はあるそぉでして、しかしそぉいぅ風にしてあんまり薄してしまうと使いにくいので、まぁ一匁の金がタタミ四畳半か、五畳ぐらいが精一杯やそぉでございます。昔からよぉこぉいぅことを言ぅたもんでございまして。
 マクラより

畔鍬組(くろくわぐみ);畦鍬(くろくわ)といぅものがございます。これはこの畦鍬組といぅのは、ものの本で読みますと戦国時代からあったそぉでございまして、クロは畦(あぜ)クワは鍬(くわ)でございまして、そぉいぅ農事に急に人手が要るときに手伝いに行くといぅよぉな、はじめはそんなもんやったんやそぉでして。で、戦国時代にはこのいわゆる雑兵(ぞ~ひょ~)ですなぁ、急に人足が要るとか、食料やら弾薬やら運ばないかんちゅうときに増員される。そのうちにこれが土木事業に従事するよぉになりまして、江戸時代に入ると畦鍬組といぅたら、まぁ土木・建築の足ごしらえ下場といぅ、いわば何々組の元祖みたいなもんで。こぉ屈強な若い男がぎょ~さん集まってやるんでっさかいね、かなり力仕事でもテキパキと片付けていくといぅので、こらもぉズッと幕末頃まであったよぉでございます。戦国時代、築城や道路づくりなどに従った人夫。黒鍬、久六鍬(きゅうろくぐわ)ともいう。  
 マクラより

狐の嫁入り(きつねのよめいり);日本の本州・四国・九州に伝わる怪異。「狐の嫁入り」といわれるものには、昭和中期頃までの嫁入り行列の提灯の群れを思わせる夜間の無数の怪火。俗にいう天気雨、古典の怪談、随筆、伝説などに見られる異様な嫁入り行列などがある。いずれも伝承上で人間を化かすといわれたキツネと密接な関連があり、平成以降の現代においても、それらにちなんだ神事や祭事が日本各地で開催されている。
 天気雨をこう呼ぶのは、晴れていても雨が降るという嘘のような状態を、何かに化かされているような感覚を感じて呼んだものと考えられており、かつてキツネには妖怪のような不思議な力があるといわれていたことから、キツネの仕業と見なして「狐の嫁入り」と呼んだともいう。

 「王子道狐の嫁入り(飛鳥山の図)」 広重画

庄屋(しょうや);10万石以上の大名よりも裕福であった大庄屋もいたと伝えられている。有力家による世襲が多く、庄屋の呼称は関西、北陸に多く、関東では名主というが、肝煎というところもある。 城下町などの町にも町名主(まちなぬし)がおり、町奉行、また町年寄(まちどしより)のもとで町政を担当した。身分は町人。町名主の職名は地方・城下町によってさまざまである。
 庄屋宅には組頭等の村役人が集まり、年貢・村入用の割当てをしたり、領主から命ぜられる諸帳簿や、村より領主への願書類等の作成に当った。 また領主から触書、廻状類は、それを帳面に書き写したうえで、原文を定使に命じて隣村へ持って行かせた。ほとんどの公文書には庄屋の署名・捺印が必要とされ、村人相互の土地移動(主として質地)にも庄屋の証印が必要とする場合が多く、それゆえ最低限の読み書き算盤の能力が必要だった。

二百十日(にひゃくとおか); 立春 (2月4日か5日) から数えて210日目の日。9月1日頃にあたるが、この頃はちょうどイネの結実時期であるうえに、台風の来襲する季節とも一致するので、昔から農家には厄日として警戒されている。10日過ぎた頃も台風の来襲することが多いので、二百二十日として警戒されている。雑節の一つ。

幽霊の正体見たり枯尾花(ゆうれいのしょうたいみたりかれおばな);「尾花」はススキの穂のことで、幽霊だと思って恐れていたものが、よく見たら枯れたススキの穂だったという意味から。 疑心暗鬼で物事を見ると、悪いほうに想像が膨らんで、有りもしない事に恐れるようになるということ。 横井也有(よこいやゆう)の俳文集『鶉衣(うずらころも)』にある「化物の正体見たり枯れ尾花」が変化した句といわれる。

山門(さんもん); 禅宗寺院の七堂伽藍(がらん)の一つで、寺院の正式な入口。古くは寺の南と東西に面して三つ、あるいは中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門としたもので三門と書かれた。また一つの門でも、空(くう)、無相(むそう)、無作(むさ)の三解脱門(さんげだつもん)の意味で三門とされた。三門が山門と書かれるのは、寺の多くが山に建立されたことによる。一般に二階造りの楼門で、入口の左右に金剛力士(こんごうりきし)の像、あるいは四天王像を祀(まつ)り、楼上には十六羅漢(らかん)像を祀る。なお、山門は寺院の総称ともなり、天台宗では園城寺(おんじょうじ)流を寺門(じもん)(派)とよぶのに対し、延暦寺(えんりゃくじ)流を山門(派)という。

(たぬき);体長50~80cm。体重2~8.4kg。秋季には体重8~10kgに達することもある。冬場に向けてのタヌキは長短の密生した体毛でずんぐりとした体つきに見えるが、体毛に隠れて実は足も尾も長い。体色はふつう灰褐色で、目の周りや足は黒っぽくなっている。幼獣は肩から前足にかけて焦げ茶の体毛で覆われており、有効な保護色となっているが、成熟すると目立たなくなる。オスの精巣は、俗に「狸の金玉八畳敷き」と言われるが、それほど大きいわけではない。人を化かすと言うことも無い。 食肉目の共通の先祖は森林で樹上生活を送っていたが、その中から獲物を求めて森林から草原へ活動の場を移し、追跡型の形態と生態を身につけていったのが、イヌ科のグループである。タヌキは湿地・森林での生活に適応したイヌの仲間であり、追跡形の肉食獣に較べて水辺の生活にも適した体型である。胴長短足の体形など、原始的なイヌ科動物の特徴をよく残している。

 民間伝承では、タヌキの化けるという能力はキツネほどではないとされている。ただ、一説には「狐の七化け狸の八化け」といって化ける能力はキツネよりも一枚上手とされることもある。実際伝承の中でキツネは人間の女性に化けることがほとんどだが、タヌキは人間のほかにも物や建物、妖怪、他の動物等に化けることが多い。また、キツネと勝負して勝ったタヌキの話もあり、佐渡島の団三郎狸などは自身の領地にキツネを寄せ付けなかったともされている。また、犬が天敵であり人は騙せても犬は騙せないという。
 右、「和漢百物語」小野川喜三郎 月岡芳年画 慶応元年<1865>作
喜三郎臆することなく怪物を取り押さえると、年老いた狸が現れた。署名に「月岡魁斎芳年」とある。

■狐(きつね);日本では、本州・九州・四国の各本島と淡路島にホンドギツネが、北海道本島と北方領土にキタキツネが生息している。佐渡島にも人為的な移入がなされたが、定着は確認されていない。 イヌ科には珍しく、群れず、小さな家族単位で生活する。イヌのような社会性はあまりないとされるが、宮城県白石市の狐のように、大きなグループで生活していた例も知られる。 生後1年も満たないで捕獲訓練をマスターし、獲物を捕らえるようになる。食性は肉食に近い雑食性。鳥、ウサギ、齧歯類などの小動物や昆虫を食べる。餌が少ないと雑食性となり人間の生活圏で残飯やニワトリを食べたりする。夜行性で非常に用心深い反面、賢い動物で好奇心が強い。そのため大丈夫と判断すると大胆な行動をとりはじめる。人に慣れることで、白昼に観光客に餌をねだるようになる事が問題になっている。 夜行性で、瞳孔はネコと同じく縦長である。野生のキツネは10年程度の寿命とされるが、ほとんどの場合、狩猟・事故・病気によって、2~3年しか生きられない。
 キツネが騙す、化ける妖怪の一種であるという概念は、仏教と共に伝来したもので、中国の九尾狐の伝説に影響されたものである。狐や狸は人を化かさないと言うことは、ロマンが無い事になってしまいます。

(むじな);アナグマの異名。また、毛色がアナグマに似ていることから、タヌキのことも混同して言う。
 タヌキと最も混同されやすい動物はアナグマであり、「タヌキ」「ムジナ(貉)」「マミ(猯)」といった異称のうちのいずれが、タヌキやアナグマ、あるいはアナグマと同じイタチ科のテンやジャコウネコ科のハクビシンのような動物のうちのいずれを指すのかは、地方によっても細かく異なり、注意を要する。 たとえば、関東周辺の農村部には、今もタヌキを「ムジナ」と呼ぶ地域が多い。山形県の一部には「ホンムジナ」とよぶ地域もあった。栃木県の一部では「ムジナ」といえばタヌキを指し、逆に「タヌキ」の名がアナグマを指す。タヌキとアナグマを区別せず、一括して「ムジナ」と呼ぶ地域もある。タヌキの背には不明瞭な十字模様があるため、タヌキを「十字ムジナ」ということもある。

大戸(おおど);家の表口にある大きな戸。

阿弥陀はん(あみだはん);阿弥陀如来(あみだにょらい)は、大乗仏教の中心をなす如来の一つ。
 『仏説無量寿経』では、一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行し、衆生救済のための五劫思惟し、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる。また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。
 平安時代に信仰が高まり、浄土宗・浄土真宗の本尊となる。弥陀。阿弥陀仏。阿弥陀如来。無量寿仏。無量光仏。無碍(げ)光仏。清浄光仏。尽十方(じんじっぽう)無碍光如来。阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を配する。
 右、阿弥陀如来

二八(にはち);2X8で十六歳。そう、小娘です。

姉さん被り(あねさんかぶり);女性の手ぬぐいのかぶり方の一。手ぬぐいの中央を額に当て左右の端を後頭部へ回し、その一端を上に折り返すか、その角を額のところへ挟むかする。あねさまかぶり。

 北斎画 「潮干狩り図 部分」より 姉さんかぶり。

紺絣(こんがすり);紺地に白を主体にして絣模様を織り出したもので、普通は綿織物。本来は染料にアイ(藍)を用いたが、近年は化学染料によるものが多い。耐久性があるので仕事着や普段着に用いられた。久留米絣、伊予絣、備後(びんご)絣などが代表的。

手甲(てっこう);手の甲を覆うもの。武具は多く革製、旅行・労働用には多く紺の木綿が用いられた。てこう。

脚絆(きゃはん);旅や作業をするとき、足を保護し、動きやすくするために臑(すね)にまとう布。ひもで結ぶ大津脚絆、こはぜでとめる江戸脚絆などがある。脛巾(はばき)。

甲掛(こうがけ);労働や旅行のとき、日差しやほこりをさえぎるために手足の甲にかける布。特に、足の甲をおおうものをいう。

忍(シノブ)売り;京都の大原女(おはらめ)は冬に焚き木を売り、夏にはシノブを売り歩いた。シノブは「釣り忍(シノブ)」として観賞用に用いる。

 上、京都市時代祭で、大原女に扮した女性。
  はじめ大原女は炭(木炭)を売っていた(『本朝無題詩』)。これは大原の地が炭の産地だったためである。しかし鎌倉時代以降、京近隣の炭の名産地は山城国小野里に移った。大原は薪で有名となり、大原女も薪や柴を売り歩くようになった。
 その装束は、島田髷に手拭を被り、薪を頭上に載せ、鉄漿(かね)をつけ、紺の筒袖で白はばきを前で合わせ、二本鼻緒の草鞋を履いている。明治時代頃までの旧装束と、それ以降の新装束で違いがあり、手拭の色が藍色から白色に変わるなど変化が見られる

 シノブ(Davallia mariesii Moore ex Baker)は、シダ植物門シノブ科に属するシダである。樹木の樹皮上に生育する着生植物である。 葉は三~四回羽状複葉っぽく裂け、全体としては卵形になる。小葉は先がやや細い楕円形。やや厚みがある革状の葉質をしている。小葉の裏面には、小葉全体より一回り小さいだけの胞子のう群がある。胞子のう群は包膜に包まれて、全体としてはコップ形で、先端の方に口が開いている。葉は冬に落ちる落葉性。ただし、南西諸島のものは常緑である。 茎は太くて長く伸び、表面には褐色の鱗片が一面にはえる。茎は樹皮に根で張りつき、枝分かれしながら樹皮の上をはい回る。よく育てば、木の幹の回り一面に広がって葉をつける。
 右写真:釣り忍。

道中差し(どうちゅうざし);江戸時代、町人などが旅に出る時、携帯した護身用の刀。通常の刀よりもやや短い。道中差しは、
 ①、農、工、商の身分の者であれば可。被差別階級の場合は許されていません。 刀の種類とか拵えなどについて規制があります。通常「道中差し」は刃渡り2尺までの物で、拵えは身分相応のもの、本数は1本です。贅沢な拵えをしていると時代によってお咎めがあります。
 ②、抜刀は盗賊に襲われたりした場合以外は「けんかをした」ことになりお咎めを受けます。また、殺生禁断の地において抜刀したら相手の有無にかかわらず罪になります。遊郭などでは帯刀は禁止です。
  ③、隣の家に行く程度でも可。 ただし、城中であるとか、禁止されている場所では「帯刀御免」を許されていないと帯刀できません。。。。
 ④、女性の懐剣ですが、和装の花嫁の白無垢綿帽子の際には袋に入れた懐剣を胸に抱いているのが正装です。冠婚葬祭時のような正装の場合には女性も懐剣を懐に差すのが正式です。女性の懐剣は嫁入り道具の必須品でもありました。また、旅行時にも山賊や雲助に襲われないように懐剣を持って旅をしました。

燭台(しょくだい);寺院でろうそくを立てるための台。蝋燭(ろうそく)立て、蝋燭台、火立て、キャンドルスティック、キャンドルスタンドとも称される。

欄間(らんま);部屋と部屋との境目や、部屋と廊下や縁側との境目に設けられ、採光、換気、装飾等を目的として、障子、格子、透かし彫り等の彫刻を施した板を嵌め込む。欄間に嵌め込まれる障子は欄間障子、格子は欄間格子と呼ばれる。 奈良時代から寺社建築において採光を確保するために用いられたと考えられ、後に貴族の住宅建築にも用いられるようになり、江戸時代以降には一般住宅にも採り入れられた。

天人の彫り物(てんにんのほりもの);一般には虚空を飛ぶ天人のこと。ことに仏教において、仏(如来)の浄土の空中を飛びながら天の花を散らし、あるいは天の音楽を奏し、あるいは香を薫じて仏を讃える天人を意味する。天人のほかに菩薩も仏の徳を讃嘆して虚空に舞うが、日本ではそれを区別せず、いずれも飛天の名で呼び、多く女性像で表されるため天女とも呼ばれる。仏教の初期から表現されており、作例が見いだせる地域は仏教が普及した全域に及ぶ。インド地方では、サーンチー大塔東門の浮彫をはじめとして、ガンダーラ、マトゥラーなどに作例がある。

 上、欄間の天女。

横目つこてる(よこめ つこてる);流し目で見る。

六尺棒(ろくしゃくぼう);樫材で作った、六尺(約180cm)の棒で泥棒退治に使った。

 


                                                            2020年9月記

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