落語「産湯狐」の舞台を行く
   

 

 原作:小佐田定雄  
 桂枝雀の噺、「産湯狐」(うぶゆぎつね)より


 

 「狐・狸は人を化かす」といぅことをよく申すのでございますが、昨今は 余り化かさなくなりました。そぉいぅ話、聞かんよぉなりましたね。動物園へまいりましても、たいてぇ横着でみな寝ております。

 「嬶(かか)、今戻った」、「お帰りやす、ど~だした?」、「いやいや、まぁそない心配することない。先生じきに来てくれはってな『風邪をばこじらしたんやろ。年寄りのこっちゃさかい、ものの十日も寝てたら良ぉなるやろ』ちゅうて」、「まぁ、さよか、よろしおましたな~」、「ビックリしたやないかいな、産湯の森でお婆んがひっくり返ってるっちゅうこと聞いたときには、てっきりお婆んあかんと思たけどな~」、「こぉいぅ時にあのお米さんとこの吉(き)っちゃんさえいててくれたらな~、何ぼか心丈夫やと思うんやけれども」、「その吉ちゃんや、その吉っちゃんのために、お婆んあんなえらい目に遭いよったよぉなもんや」、「何だんのん『吉っちゃんがために』ちゅうのは・・・」、「わいかて思た『お婆ん何でや?』て尋んねたらな、毎朝お供えの膳をこしらえて、産湯の森の稲荷さんの祠(ほこら)へお供えの膳を上げに行てるそ~な」、「お供えの膳を?」、「七年前極道の限り尽くして家飛び出しよった、あの一人息子のためや、『吉松(きちまつ)がどぉぞ無事でおりますよぉに、息災でおりますよぉにお守りください』ちゅうて、毎朝まいあさお供えの膳こしらえて向こぉさして上げに行くねや。夕(ゆん)べからちょっと風邪気味で熱があんのん無理に起きてお供え上げに行て、その帰りホッと気が緩んだんかひっくり返ってしまいよった。とまぁ話はこぉいぅこっちゃねん」。
 「ことにわたしゃ吉松に陰膳(かげぜん)を据えてるつもりで上げさしてもろてますのじゃで、どぉぞ好いたよぉにさしといとくなはれ」、「お婆ん、えぇ加減にしてや。冷とぉ堅とぉなったお婆ん放っとくわけにいかへんやないかい、ウソでも葬礼(そぉれん)のひとつも出さんならんやないかい。ひょっこり吉っちゃんが帰って来でもしたら、わしら近所のもんとしてどない言い訳したらえぇねん。お婆ん、自分のことばっかり考えんと、こっちのことも考えてや」、「えらいすまんこっとす。けどな、あの願掛けした手前・・・」、「まだそんなこと言ぅてんのか」、「お婆んの代わりにわいが上げに行たろ。代参ちゅうこともあんねよって、誰ぞが上げに行たらそれでえぇねん」。
 「嬶、お供えの膳、お婆んのんみたいなん、あんな結構なもんでのぉてもえぇさかいな、ひとつ見繕いで何なとこしらえてやってぇな」、「よろしおます、明日からお供えのお膳こしらえさしてもらいます。お米はん自分のご飯ごしらえもでけしまへんねやろ。よろし、余計に一人分こしらえるのも二人分こしらえるのも、そない変わらしまへんがな。わたいに任しといとくなはれ」。

 世話をしてくれる人があるといぅのは、まことにありがたいもんでございます。

 「嬶、今戻った」、「お帰りやす」、「お膳か」、「これ見とぉ空やし」、「どぉしたんやそれが?」、「わたい最前下げに行たらこのとぉり空んなってまんねんで」、「食たら空になるやないかい」、「誰が食べんの?わてビックリしたやないかいな、その場でヘタヘタとへたってしもた。そこへ宮司さん通りかからはって、笑わはって、『そら恐らくこの産湯の森に住んでる狐の仕業じゃろ』ちゅうて」、「何じゃい、狐かい」、「狐嫌いだすねん、お膳上げに行くのと下げに行くのとあんた行てもらえまへんやろか。こしらえんのはわたしこしらえまっさかい、頼んますわ」、「よしよし分かった。しかしな、このことはお婆んに言ぅたらあかんで、倅(せがれ)のお膳上げに行てるつもりがやで、実は狐の餌運んでた。てなことが分かって、また病が長引くてなことがあったらいかんよって、お婆んにこのこと言いなや」。

 世話をする人といぅのはとことん世話好きなもんでございます。それから、雨の降る日も風の日も毎日まいにち、朝お膳をこしらえてこれを上げに行く。日が暮れになりますというとこれを下げに行くと、ちゃ~んとお膳の上のものが空になっている。ものの十日も経ちましたある日の夜中でございます。

 「お咲、お咲、チョット起きてみろ」、「ご膳こしらえる時刻?」、「いや、そやない」、「隣から・・・、あら~お米はんの声と違いまんのか」、「おかしいことに相手の声が聞こえへんねや。あのお婆ん、ついぞ独り言いうたり寝言いうたりするお婆ん違うよってにな。ちょっとまたうなされてるのん違うか?」、「熱でもぶり返したんかも分からん・・・、わたいちょっと・・・」、「俺にちょっとえぇ考えがあるから待て。このノミでちょっとこの壁を・・・。シィ~ッ」。
 「えッ、吉っちゃん帰って来てんのん? ちょ、ちょっと退(の)いとぉ。まぁ、あれ吉っちゃんやないかいな」、「吉っちゃんにいっぺん言うたんねやないかい」、「今日はこのままにしといたげなはれ。あのとぉりお米はんと吉っちゃんが嬉しそぉに話してんねやないかいな。親子ふたぁりが水入らずで・・・」、「ちょっと見してくれ・・・。うわぁ~ッ、ホンにお婆ん嬉しそぉに笑ろとぉる、お婆んにあんな顔もあったんやな~。久し振りやないか、あんな顔見んのん。吉っちゃんもまた、黙ってコックリコックリうなずいとぉる。吉っちゃん変わらんな~、七年前に家飛び出した時とおんなじよぉな・・・、何でや?あぁ、どぉやら向こぉも明かりが消えたよぉな、ほんだらわいらももいっぺん寝直そか」、「ホンマだんなぁ、明日からもぉお膳を上げに行くこともないし、久し振りにゆっくり寝とくなはれ」、「よっしゃ、寝さしてもらうわ」。

 その晩はふたぁりのもんが寝ます。さて、明くる朝でございます。

 「お咲さんお早よぉさんでございます」、「まぁ、お米はん。もぉ起きてよろしぃのか? やっぱりなぁ、吉っちゃんの看病が第一だんなぁ~」、「何で知ってなはんねん?夕べの晩方、夜中にふと目を覚ましましたらな、その枕もとに座ってるお人のお顔見ましたらな、お咲さん、吉松でした。何ぞ言うたろと思たけど、やっと言えたと思たら、『お帰り、お腹空いたないか?』あの子が家出る前の晩に言うたセリフとおんなじことしか言えまへなんだ。あの子がタライで手ぬぐい絞ってくれましてな、わたしの頭に乗せてくれまんねん」、「ほいで吉っちゃん今も家にいまんのか?」、「朝目が覚めましたら、あの子おりませんのや」、「じきに帰って来ますわいな。そんなことよりお米はん、風に当たってまた病がぶり返したらいかんよって、とりあえず帰ってなはれ」。

 お婆さんを帰しましてお膳ごしらえにかかります。一日が過ぎるのは早いもんでございまして、夫婦のもんが夕ご飯を済ましまして、さて寝床のなか。昼間の疲れでグ~ッと眠りました。

 「隣に吉っちゃん帰って来よっんや、お咲、ちょっと着物出せ」、「今時分どこ行きなはる?」、「こんなもんおる時に行かな、またどこぞへ・・・。
 うっわぁ~ッ、何とのぉ明るいなぁと思たら夕べの晩のうちに降りよったんや、真っ白やないかいな。お婆ん(トン、トン、トン)開けるで。吉っちゃん。何じゃい、吉っちゃんおれへんのか? お婆ん一人だけやないか、お婆ん朝早よぉにすまんなぁ」、「はいはい、吉はわたしの枕もとにな・・・、あれ? おりませんな」、「頼んないこと言ぅてんねやないがな」、「お手水へでも行たんと違いますか?」、「手水へ行くねんやったらわいとすれ違わないかんやないかい・・・。しかしおかしいこともあるもんやなぁ」。
 表へ出て長屋の路地(ろ~じ)を見ますると、一面の雪明りでございます。薄ぼ~んやりと明かいその軒先から軒先へ、横っ飛びに飛んで行く犬のような獣の姿が見えましたんで。
 「あッ、狐や・・・。ははぁ~ッ、お婆んに餌もろたそのお礼に、吉っちゃんの代わりにお婆ん看病に来てくれよったんや。『おっきありがと、よ~来てくれたな、お婆ん喜んでたで~、自分が腹痛めて産んだホンマの子みたいにな~』。実の子みたいに・・・。思うはずや・・・。住んでるとこが産湯の森や」。

 



ことば

産湯稲荷の舞台は、桂米朝の噺、「稲荷俥」(いなりぐるま)でも出て来ます。小さな神社なのですが大阪では有名な神社なのでしょう。

小佐田 定雄(おさだ さだお);(1952年2月26日 - )演芸研究家、演芸作家、落語作家、狂言作家。関西演芸作家協会会員。本名、中平定雄。大阪府大阪市生まれ。1974年に関西学院大学法学部卒業。妻は、弟子のくまざわあかね。
 中学生の頃に、桂米朝やSF作家の小松左京が出演する番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)を聴いて落語に興味を持つ。関西学院大学法学部では古典芸能研究部に没頭。 卒業後サラリーマンをしながら落語会通いをする。1977年に桂枝雀に宛てて新作落語「幽霊の辻」を郵送したことで認められ、落語作家デビュー。1987年まで2足のわらじでサラリーマンを続けていたが退社し本格的に落語作家に転進。以後上方の新作や滅びた古典落語などの復活、改作や江戸落語の上方化などを手掛ける。
 1988年に上方お笑い大賞秋田実(日本の漫才作家。上方漫才の父)賞。
 1989年度咲くやこの花賞文芸その他部門受賞。
 1995年に第1回大阪舞台芸術賞奨励賞受賞。
 2006年、大銀座落語祭2006にて「小佐田定雄の世界 新作落語」のつくり方というイベントを開催。自身作の落語の公開と、桂小春團治との対談を行った。
 2016年8月、東京・歌舞伎座で上演された新作歌舞伎『廓噺山名屋浦里』の脚本を手掛けている。この物語の原案は笑福亭鶴瓶の新作落語『山名屋浦里』で、その噺のもとは、ブラタモリでタモリが吉原を訪れた際に聞いた話を「落語にできないか」と鶴瓶にもちかけたもの。

産湯稲荷(うぶゆ いなり);大阪市天王寺区小橋(おばせ)町3丁目3(小橋公園内、大阪城真田丸跡まで北に約500m)。東成区東小橋の式内社「比売許曽(ひめこそ)神社」は元々この地に鎮座していたと言われています。(下の写真の稲荷)
 神功皇后の近臣・雷大臣の子大小橋命(おぼおばせのみこと)を祀る。約700m東にある比賣許曽(ひめこそ)神社の末社にあたる。本社は約2千年前の垂仁天皇の時代、愛久目(あくめ)山に下照比賣命(したてるひめのみこと)を祭ったのが起源。また稲荷の本殿に向かって右側には「産湯」の起源となった井戸「産湯玉之井」が今も残る。これも大国主命(おおくにぬしのみこと)の御子降臨の折にわき出したとされ、その後、地元の開拓神である大小橋命(おぼおばせのみこと)が誕生した際、この湧き水を産湯に使ったことから名付けられた。


眷属・眷族(けんぞく);血のつながる一族、従者。家来、仏や菩薩に従うもので、薬師仏の十二神将、不動明王の八大童子の類で、お稲荷さんは狐。天神さんは牛。大黒さんはネズミ。弁天さんは蛇。谷中天王寺毘沙門天は百足。等が有ります。

(キツネ);哺乳綱ネコ目(食肉目)イヌ科イヌ亜科の一部。 狭義にはキツネ属のことである。広義には、明確な定義はないがイヌ亜科の数属を総称するが、これは互いに近縁でない属からなる多系統である。 最も狭義にはキツネ属の1種アカギツネのことである。古来、日本で「狐」といえば、アカギツネの亜種ホンドギツネのことだったが、蝦夷地進出後は、北海道の別亜種キタキツネも含むようになった。
 イヌ科には珍しく、群れず、小さな家族単位で生活する。イヌのような社会性はあまりないとされるが、宮城県白石市の狐塚のように、大きなグループで生活していた例も知られる。 生後1年も満たないで捕獲訓練をマスターし、獲物を捕らえるようになる。食性は肉食に近い雑食性。鳥、ウサギ、齧歯類などの小動物や昆虫を食べる。餌が少ないと雑食性となり人間の生活圏で残飯やニワトリを食べたりする。夜行性で非常に用心深い反面、賢い動物で好奇心が強い。そのため大丈夫と判断すると大胆な行動をとりはじめる。人に慣れることで、白昼に観光客に餌をねだるようになる事が問題になっている。 夜行性で、瞳孔はネコと同じく縦長である。
 キツネは10年程度の寿命とされるが、ほとんどの場合、狩猟・事故・病気によって、野生では2-3年しか生きられない。

 キツネを精霊・妖怪とみなす民族はいくつかあるが、特に日本(大和民族)においては文化・信仰と言えるほどキツネに対して親密である。キツネは人を化かすいたずら好きの動物と考えられたり、それとは逆に、宇迦之御魂神の神使(眷属)として信仰されたりしている。アイヌの間でもチロンヌプ(キタキツネ)は人間に災難などの予兆を伝える神獣、あるいは人間に化けて悪戯をする者とされていた。キツネが化けた人間にサッチポロ(乾しイクラ)を食べさせれば、歯に粘り付いたイクラの粒を取ろうと口に手を入れているうちに正体を表すという。 キツネは特に油揚げを好むという伝承にちなみ、稲荷神を祭る神社では、油揚げや稲荷寿司などが供え物とされることがある。ここから、嘗ての江戸表を中心とした東国一般においての「きつねうどん」「きつねそば」などの「きつね」という言葉は、その食品に油揚げが入っていることを示す。(畿内を中心とした西国では蕎麦に関してはたぬきと呼ばれる場合がある)。
 稲作には、穀物を食するネズミや、田の土手に穴を開けて水を抜くハタネズミが与える被害がつきまとう。稲作が始まってから江戸時代までの間に、日本人はキツネがネズミの天敵であることに注目し、キツネの尿のついた石にネズミに対する忌避効果がある事に気づき、田の付近に祠を設置して、油揚げ等で餌付けすることで、忌避効果を持続させる摂理があることを経験から学んで、信仰と共にキツネを大切にする文化を獲得した。

 鳥獣戯画に見る擬人化されたキツネ

狐・狸は人を化かす;野山に棲息している狸(たぬき)狐たちが人間を化かしたり不思議な行動を起こしたりすることは、史料・物語または昔話・世間話・伝説に見られ、文献にも古くから変化(へんげ)をする能力をもつ怪しい動物・妖怪の正体であると捉えられていた一面が記されている。
 江戸時代以降は、たぬき、むじな、まみ等の呼ばれ方が主にみられるが、狐と同様に全国各地で、他のものに化ける、人を化かす、人に憑くなどの能力を持つものとしての話が残されている。狢(むじな、化け狢)、猯(まみ)との区別は厳密にはついておらず、これはもともとのタヌキ・ムジナ・マミの呼称が土地によってまちまちであること・同じ動物に異なったり同一だったりする名前が用いられてたことも由来すると考えられている。関西ではまめだ(豆狸・猯)、東北地方ではくさい、くさえ(くさいなぎ)などの呼ばれ方もあるが、いずれも動物としての呼称と共通したものである。文章表現としては漢語を用いた妖狸(ようり)や怪狸(かいり)、狐狸(こり)などの熟語も存在する。
 化ける動物の代表格として並び称されているものに狐がある。「狐七化け狸八化け」ということわざでは狐よりも狸のほうが人間を化かす腕が一段上であると俗にいわれている。何をもって基準としているのかは定かではなく、定説ははっきりしていない(狸と狐が入れ替わったりもする)。狐は人を誘惑するために化けるのに対し、狸は人をバカにするために化けるのであり、化けること自体が好きだからという説もある。
 佐渡の団三郎狸、徳島県の金長狸・六右衛門狸、香川県の太三郎狸、愛媛県松山市のお袖狸などのように、大きな能力や神通力を特にもつと考えられた狸は寺社や祠などが造営され、民間からの祭祀や信仰の対象にもなっている

 落語の中にも色々取り上げられています。「まめだ」、「七度狐」、「狐芝居」、「狸の賽」、「狸の札」、「たぬき」、「狸の化け寺」、「田能久」、「天神山」、「吉野狐」、「乙女饅頭」、「霜夜狸」、「猫忠」、「紀州飛脚」、「王子の狐」、「化け物使い」等。結構有りますね。

心丈夫(こころじょうぶ);頼りになる物や人があって安心できるさま。心強いさま。

陰膳(かげぜん);長期の旅行や異境にある家族の者が飢えないようにと祈って供える食膳。家族の無事を願う習俗の一つで、全国各地にみられる。家族と同じ物、本人の好物、珍しい物を供える。その飯や汁の器のふたに露がついていれば、本人が無事だと喜んだり、ないと不吉の相として悲しむ俗信がある。地方によって膳を供える期間や回数はまちまちである。鹿児島県奄美群島では、陰膳の台に写真を飾りその前に茶を供え、さらに小刀を無事を祈る印として置く。

葬礼(そぉれん);死体の処理に伴う儀礼で、葬式、葬儀などともいう。霊魂信仰を基調としてきた日本人の伝統的な考え方では、死体に含まれる霊魂の処理を完了するまでの全期間、つまり死の前後から死者の供養をしなくなる弔い上げまでを葬礼と呼ぶべきであったが、仏教が死の儀礼を専管するようになってから、埋葬または火葬以後の諸儀式を仏教式に供養と呼ぶことになったため、一般には息を引取ってから埋葬または火葬までの諸式を、葬礼と呼ぶことが多くなり、さらには遺体を葬家から墓地へ運ぶまでの諸式に限って、葬礼と呼ぶようにもなった。この狭い意味での葬礼は、家葬礼、庭葬礼、墓葬礼に分けることができる。家葬礼は出棺までの家屋内での諸式で、近親者が死者に別れを告げ、座敷から縁側を通って出棺するが、そのとき仮門といって、割竹などでつくった門形をくぐって出す (→死霊 ) 。庭では葬列を整え、左回りに3回まわったりする。墓では僧に引導を渡してもらい、近親者が少しずつ土を掛けてから埋葬し、土饅頭を築いて上に霊屋 (たまや) を載せ、供物や灯明や線香を上げたりする。

願掛け(がんがけ);神仏などに願い事をする呪的行為をいう。個人祈願と共同祈願がある。一般に前者が多く、病気の治癒、商売繁盛、厄払い、縁結び、合格祈願などがその内容としてあげられる。後者は、村全体の生活がうまくいくようにと祈願するもので、雨乞い、虫送り、風祭などがある。願掛けは、神仏の霊験にすがるものであり、願いがかなった場合には、神仏詣でをし、旗や幟などを奉納して願果しを行うのが普通である。

代参(だいさん);本人の代わりに神社・仏閣へ参詣すること。また、その人。
 遠隔地の社寺参詣(さんけい)のために講中より代表をたてる制度。代参をたてる代参講は、個人の信仰心に基づく信仰集団の総称である。しかし、伊勢(いせ)講のような中世以来の伝統をもつものは、村全体を講中としている場合がある。代表人は講中からくじ引きや輪番制によって選ばれ、講中で積み立てた金を社寺への納金や参詣の旅費として持参する。そしてもらってきた御札(おふだ)を講中に分配する。山岳登拝をする講などは、事前に厳しい精進(しょうじん)が課せられている。留守の間、お仮屋(かりや)や幣束(へいそく)を立てたり、陰膳(かげぜん)で無事を願う所もある。日照りなどの急を要する事態には、講の有無にかかわらず代参をたてることもあった。
 浪花節で語られる、清水次郎長の子分石松の金比羅代参が有名。

   

 お伊勢参りで、代参の犬(シロ)は無事人間に換わって代参を勤めた。

手水(ちょうず);1.神社や寺院で、参拝前に手を清める水。通常は手水舎(ちょうずや、てみずや)で用いる。手水舎、神道#簡易な参拝を参照。
 2. 神道には水を用いない手水がある。これは野外や冬季などの神事で水がない場合などに行うもので、草木の葉や花や雪等で手をこすって清めをするものである。「花手水」「芝手水」「草手水」「雪手水」などと称する。また、力士は「塵手水」を行う。なお、神道には、「手水用具」がある。すなわち、桶、桶台、水受、柄杓、拭紙などである。
 3.便所の異称。便所(べんじょ、英: toilet トイレット、lavatory)とは、排泄をする場所。トイレットを短縮して「トイレ」、英語のlavatory同様の「お手洗い」、「water closet ウォーター・クローゼット」を略して「WC」など様々な呼び方がある。 以下、(現代日本の文書では「トイレ」と表記されていることも多い)諸文献でも「○○式トイレ」と表記していることのほうが多い。

 江戸時代においては、農村部で大小便(し尿)を農作物を栽培する際の肥料としても使うようになり、高価で取引されるようになった。そこで江戸、京都、大坂など人口集積地の共同住宅である長屋などでは、共同便所が作られ収集し商売するものがあらわれた。農村部や都市の長屋では、居住空間である母屋とは別に、独立して便所が建てられる(母屋には便所はないので、一度外へ出ないと便所に行けない)形態が戦後まで行われていた。そのため、子供達は恐くて夜便所(厠)に行くことが出来なかった。



                                                            2020年9月記

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