落語「狸娘」の舞台を行く 三遊亭円左の噺、「狸娘」(たぬきむすめ)より
■四代目三遊亭円左(さんゆうてい えんざ);(1943年5月15日 - 1989年2月13日)45歳没。四代目三遊亭圓馬の弟子。本名:山下守。出囃子は『桑名の殿様』。
熊本県天草郡大矢野町の出身。落語家になるために17歳で家出したが京都で警察官に補導される。24歳で再び上京し落語家になる。
■狸穴坂(まみあなざか);(麻布台2-1と麻布狸穴町の間を北東に上る)
ロシア大使館の西側に沿う坂。
坂下に狸(まみ・雌狸、ムササビ、アナグマ)の穴があった。
採鉱の穴という説もある。『観光マップみなと』
狸穴坂を下から見上げる。写真から回りのマンションなどを取り除くと、江戸、明治のころの寂しい坂道ですから、狸(まみ)~が出ても可笑しく有りません。
■マミ;アナグマの異名。また、毛色がアナグマに似ていることから、タヌキのことも混同して言う。
■猿若町の芝居小屋(さるわかまちの しばいごや);猿若勘三郎が、中橋南地(なかばしなんち、現在の京橋のあたり)に櫓をあげたのにはじまる。これが猿若座(さるわかざ)である。ところがこの地が御城に近く、櫓で打つ人寄せ太鼓が旗本の登城を知らせる太鼓と紛らわしいということで、寛永9年(1632)には北東に八町ほど離れた禰宜町(ねぎまち、現在の日本橋堀留町2丁目)へ移転、さらに慶安4年(1651)にはそこからほど近い堺町(さかいちょう、現在の日本橋人形町3丁目)へ移転した。その際、座の名称を座元の名字である中村に合せて中村座(なかむらざ)と改称している。
一方、寛永11年(1634)には泉州堺の人で、京で座本をしていた村山又兵衛という者の弟・村山又三郎が江戸に出て、葺屋町(ふきやちょう、現在の日本橋人形町3丁目)に櫓をあげてこれを村山座(むらやまざ)といった。しかし村山座の経営ははかばかしくなく、承応元年(1652)には上州の人で又三郎の弟子だった市村宇左衛門がその興行権を買い取り、これを市村座(いちむらざ)とした。
歌舞伎芝居小屋「中村座」 江戸東京博物館蔵。
天保12年(1841)10月7日、中村座が失火で全焼、市村座も類焼して全焼した。幕府では、水野忠邦の天保の改革が推進されていた。堺町・葺屋町一帯が焼けたことは、こうした綱紀粛正をさらに進めるうえでの願ってもいない好機だった。幕府は浅草聖天町(しょうでんちょう、現在の台東区浅草6丁目)にあった丹波園部藩の下屋敷を収公。翌天保13年(1842)2月にはその跡地一万坪余りを代替地として中村・市村・薩摩・結城の各座に下し、そこに引き移ることを命じた。水野はそこに芝居関係者を押し込めることで、城下から悪所を一掃しようとした。
右図、広重画 「東都三十六景」 国立国会図書館蔵。 芝居茶屋の二階から覗く猿若町の櫓と左には浅草寺本堂の屋根と五重塔が見えます。
明治になって、新政府は慶応4年(1868)9月末になって突然猿若町三座に対し、他所へ早々に移転することを勧告した。しかし三座は困惑する。天保の所替えからすでに25年、世代も交替し、猿若町は多くの芝居関係者にとって住み慣れた土地となっていた。ただでさえ御一新で先行き不透明な時勢、三座の座元はいずれも移転には慎重にならざるを得なかった。
業を煮やした東京府は、明治6年(1873)府令によって東京市内の劇場を一方的に十座と定めてしまった。これをうけて市内には、中橋(現在の中央区京橋)に澤村座が、久松町(現在の中央区日本橋久松町)に喜昇座が、蛎殻町(現在の日本橋蛎殻町)に中島座が、四谷(現在の新宿区四谷)に桐座が、春木町(現在の文京区本郷3丁目)に奥田座が、新堀町(現在の港区芝2丁目)に河原崎座]が、次々に開場していった。
■枡席(ますせき);枡席は江戸時代の初め頃から歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋で普及しはじめた。
■若い衆(わかいし);小屋側の男子係員。辞書では”わかいし”では見つけることが出来ず、”わかいしゅう”で掲載されています。これは江戸っ子の訛りです。
■相席(あいせき);一つのマス席に観客が入る余裕が有るときでは見つけることが出来ませんが、若い衆が来て、「他所様(よそさま)と御相席(ごあいせき)」と声を掛け、ご一緒させてもらうこと。
■花屋敷(はなやしき);東京都台東区浅草の浅草寺西側にある遊園地。
1853年(嘉永6年)開園で、日本最初の遊園地とされる。ただし第二次世界大戦の影響で一度取り壊された後、1947年(昭和22年)に再開園したという経緯があるため、「現存する日本最古の遊園地」の地位は1910年(明治43年)開業のひらかたパークに譲る。
敷地面積5,800m2。国産初、日本で現存最古のローラーコースター(ジェットコースター)がある。現在はバンダイナムコアミューズメントの子会社である株式会社花やしきが運営している。
1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。
明治初年で有れば、浅草寺北側の猿若町に芝居小屋が有ったので、数分のところに有った花屋敷の料理屋には好都合な場所になります。
■亀沢町(かめざわちょう);現墨田区亀沢。1694(元禄7)年に本所地割並馬場守の拝領地となり、1707(宝永4)年には本所中下水埋樋請負人等の拝領地となって町屋が許された。このときの町域は現在の両国三丁目35・36番、四丁目30番の3ヶ所という狭い町だった(切絵図では2ヶ所)。 豊後府内藩下屋敷は両国四丁目のもと本所警察署の辺りにあった。その辺りがもともと「本所亀沢町」といわれていた。現在の「亀沢」という町名は、江戸東京博物館前にある北斎通りの両側一~四丁目で、大横川親水公園まで広がっているが、これは明治期に定められたものであって、江戸期は榛馬場(はんのきばば)の南側にあった小さな地区だった。
この割り下水に面して、明治の初め頃には落語の中興の祖と言われる三遊亭圓朝が趣味豊かな屋敷に住んでいた。(次の信号機の左側)。葛飾北斎生誕地は本所亀沢町二丁目にあった。両国”東あられ本鋪”両国本店のあるところ(現・墨田区亀沢二丁目15番10号)と言われるが・・・。北斎は引っ越し魔であり、生涯の内に93回も移転を繰り返した。宅前には本所南割下水が流れていた。その堀割も昭和初期に暗渠にされ、今は北斎通りと名付けられた道路になっている。
亀沢町が「本所七不思議」の1つ『津軽屋敷の太鼓』の舞台です。その津軽屋敷跡は公園になっていて、その中にすみだ北斎美術館が建っています。 写真、公園内のすみだ北斎美術館。
■お屋敷の寮(おやしきの りょう);別荘。別邸。上記の亀沢町に有ったと、二人組悪女が言っていた所。
■帳場(ちょうば);旅館や料理屋、商店などで、帳付けや勘定などをする所。勘定場。会計場。
■車(くるま);人力車。1869年(明治2)和泉要助・高山幸助・鈴木徳次郎らが発明し、翌年東京府下で開業したのに始まる。大正後期より自動車が出て衰退。
浅草大観光祭(2008年11月3日)にて、樋口一葉をモデルに一人乗り人力車が走ります。
2020年10月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |