落語「狸娘」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円左の噺、「狸娘」(たぬきむすめ)より


 

 猿若町の芝居小屋で枡席を借り切って、男二人で芝居を楽しんでいる。

 そこへ若い衆が、「ご婦人のお二人連れですが、ちょいと相席を願えませんでしょうか」、女二人なら異存はない、「連れておいで」というと、入って来たのが二十一、二の極上なお嬢さんと、三十一、二のお付きの女中。
 男のほうはしめしめと鼻の下を伸ばして、芝居なんぞはそっちのけで、菓子や弁当を勧めたりの大忙し。芝居が終わると・・・。

 「今日はまことにありがとうございました。実はお名前は申し上げられませんが、狸穴(まみあな)のしかるべきお屋敷のお嬢様です。よろしければお礼にどこかでご飯でもご一緒に・・・」、男二人は願ったり叶ったりで花屋敷の常盤屋へ。

 酒も入って打ち解けてきた頃、 「今日はだいぶ遅くなってしまい、お嬢様も少し酔ってしまわれたご様子なので、わたしたちは亀沢町のお屋敷の寮に泊まります。どうかお二人もご一緒にいらっしゃいませ」、女二人は身づくろいのため部屋から出て行った。男どもは残っている酒と料理をもったいないとがっついて食っている。なかなか女たちが戻ってこないので、帳場へ下りて見る。

 女たちはどうしたのか聞くと、「さきほど車を呼んでお帰りになりました」、「勘定は払って行ったんだろうな」、「いいえ、まだでございます。二階の連れのお方からいただくようにと・・・」、「さては食い逃げされたかッ」、仕方なく勘定を払おうとしたが、財布もなくなっている。してやられたかと地団太踏んで悔しがった。しかし、早々に手が回って女たちは捕まったという。

 帳場で言うには、「なんでも、さっきの女は大変なワルで、狸穴の狸娘の”おきん”というお尋ね者だそうで・・・」、「狸娘か、道理で尻尾を出しやがった」。

 



ことば

四代目三遊亭円左(さんゆうてい えんざ);(1943年5月15日 - 1989年2月13日)45歳没。四代目三遊亭圓馬の弟子。本名:山下守。出囃子は『桑名の殿様』。 熊本県天草郡大矢野町の出身。落語家になるために17歳で家出したが京都で警察官に補導される。24歳で再び上京し落語家になる。
 1968年12月 - 4代目三遊亭圓馬に入門し富太馬を名乗る。
 1973年4月 - 二つ目昇進し笑馬に改名。
 1984年4月 - 真打昇進し4代目圓左襲名。
 『むこ養子』『かまぼこ屋』などの古典の要素を取り入れた新作があった。

狸穴坂(まみあなざか);(麻布台2-1と麻布狸穴町の間を北東に上る) ロシア大使館の西側に沿う坂。 坂下に狸(まみ・雌狸、ムササビ、アナグマ)の穴があった。 採鉱の穴という説もある。『観光マップみなと』

 

 狸穴坂を下から見上げる。写真から回りのマンションなどを取り除くと、江戸、明治のころの寂しい坂道ですから、狸(まみ)~が出ても可笑しく有りません。

マミ;アナグマの異名。また、毛色がアナグマに似ていることから、タヌキのことも混同して言う。
  タヌキと最も混同されやすい動物はアナグマであり、「タヌキ」「ムジナ(貉)」「マミ(猯)」といった異称のうちのいずれが、タヌキやアナグマ、あるいはアナグマと同じイタチ科のテンやジャコウネコ科のハクビシンのような動物のうちのいずれを指すのかは、地方によっても細かく異なり、注意を要する。 たとえば、関東周辺の農村部には、今もタヌキを「ムジナ」と呼ぶ地域が多い。山形県の一部には「ホンムジナ」とよぶ地域もあった。栃木県の一部では「ムジナ」といえばタヌキを指し、逆に「タヌキ」の名がアナグマを指す。タヌキとアナグマを区別せず、一括して「ムジナ」と呼ぶ地域もある。タヌキの背には不明瞭な十字模様があるため、タヌキを「十字ムジナ」ということもある。

猿若町の芝居小屋(さるわかまちの しばいごや);猿若勘三郎が、中橋南地(なかばしなんち、現在の京橋のあたり)に櫓をあげたのにはじまる。これが猿若座(さるわかざ)である。ところがこの地が御城に近く、櫓で打つ人寄せ太鼓が旗本の登城を知らせる太鼓と紛らわしいということで、寛永9年(1632)には北東に八町ほど離れた禰宜町(ねぎまち、現在の日本橋堀留町2丁目)へ移転、さらに慶安4年(1651)にはそこからほど近い堺町(さかいちょう、現在の日本橋人形町3丁目)へ移転した。その際、座の名称を座元の名字である中村に合せて中村座(なかむらざ)と改称している。 一方、寛永11年(1634)には泉州堺の人で、京で座本をしていた村山又兵衛という者の弟・村山又三郎が江戸に出て、葺屋町(ふきやちょう、現在の日本橋人形町3丁目)に櫓をあげてこれを村山座(むらやまざ)といった。しかし村山座の経営ははかばかしくなく、承応元年(1652)には上州の人で又三郎の弟子だった市村宇左衛門がその興行権を買い取り、これを市村座(いちむらざ)とした。

 歌舞伎芝居小屋「中村座」 江戸東京博物館蔵。

 天保12年(1841)10月7日、中村座が失火で全焼、市村座も類焼して全焼した。幕府では、水野忠邦の天保の改革が推進されていた。堺町・葺屋町一帯が焼けたことは、こうした綱紀粛正をさらに進めるうえでの願ってもいない好機だった。幕府は浅草聖天町(しょうでんちょう、現在の台東区浅草6丁目)にあった丹波園部藩の下屋敷を収公。翌天保13年(1842)2月にはその跡地一万坪余りを代替地として中村・市村・薩摩・結城の各座に下し、そこに引き移ることを命じた。水野はそこに芝居関係者を押し込めることで、城下から悪所を一掃しようとした。
 天保末年から安政初年(1843–1855年)頃。 同年4月、聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町(さるわかまち)と改名された。夏頃までには各芝居小屋の新築が完了、9月には中村座と市村座がこの地で杮落しを行なっている。さらに同年冬には木挽町の河原崎座にも猿若町への移転が命じられ、翌天保14年(1843)秋にはこれが完了した。芝居茶屋や芝居関係者の住居もこぞってこの地に移り、ここに一大芝居町が形成された。
 河原崎座の移転が完了した直後に、幕府では水野が失脚、天保の改革は頓挫する。そして水野の目論見とは裏腹に、猿若町では三座が軒を連ねたことで役者や作者の貸し借りが容易になり、芝居の演目が充実した。また火災類焼による被害も稀で、相次ぐ修理や建て直しによる莫大な損失も激減した。そして浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日この地に足を運ぶようになった結果、歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになった。浅草界隈はこうして江戸随一の娯楽の場へと発展していく。
 この猿若町に軒を連ねた中村座・市村座・森田座(または河原崎座)の三座を、猿若町三座(さるわかまちさんざ)という。

 右図、広重画 「東都三十六景」 国立国会図書館蔵。 芝居茶屋の二階から覗く猿若町の櫓と左には浅草寺本堂の屋根と五重塔が見えます。

 明治になって、新政府は慶応4年(1868)9月末になって突然猿若町三座に対し、他所へ早々に移転することを勧告した。しかし三座は困惑する。天保の所替えからすでに25年、世代も交替し、猿若町は多くの芝居関係者にとって住み慣れた土地となっていた。ただでさえ御一新で先行き不透明な時勢、三座の座元はいずれも移転には慎重にならざるを得なかった。 業を煮やした東京府は、明治6年(1873)府令によって東京市内の劇場を一方的に十座と定めてしまった。これをうけて市内には、中橋(現在の中央区京橋)に澤村座が、久松町(現在の中央区日本橋久松町)に喜昇座が、蛎殻町(現在の日本橋蛎殻町)に中島座が、四谷(現在の新宿区四谷)に桐座が、春木町(現在の文京区本郷3丁目)に奥田座が、新堀町(現在の港区芝2丁目)に河原崎座]が、次々に開場していった。
 三座のなかで最初に猿若町を離れたのは守田座で、明治5年(1872)に新富町(しんとみちょう、現在の新富2丁目)に移転、明治8年(1875)にこれを新富座(しんとみざ)と改称した。次が中村座で、明治15年(1882)に失火により全焼すると、明治17年(1884)に新劇場を浅草西鳥越町(にしとりごえちょう、現在の鳥越)に新築、これを猿若座(さるわかざ)と改称した。最後が市村座で、明治25年(1892年)に下谷二長町(にちょうまち、現在の台東一丁目)に 三階建煉瓦造の新劇場を建てて移転した。以後この新富座で専属役者の九代目團十郎・五代目菊五郎・初代左團次の三名優が芸を競いあい、ここに「團菊左時代」(だんぎくさ じだい)と呼ばれる歌舞伎の黄金時代が幕を開けた。

枡席(ますせき);枡席は江戸時代の初め頃から歌舞伎や人形浄瑠璃の芝居小屋で普及しはじめた。
 芝居小屋の枡席は一般に「土間」(どま)と呼ばれ、料金は最も安く設定されていた。これは初期の芝居小屋には屋根を掛けることが許されておらず、雨が降り始めると土間は水浸しになって芝居見物どころではなくなってしまったからである。したがってこの頃の土間にはまだ仕切りがなかった。
 瓦葺の屋根を備えた芝居小屋が初めて建てられたのは享保9年 (1724) のことで、雨天下の上演が可能になった結果、この頃から土間は板敷きとなる。すると座席を恒常的に仕切ることができるようになり、明和のはじめ頃(1760年代後半)から次第に枡席が現れるようになった。当時の芝居小屋の枡席は一般に「七人詰」で、料金は一桝あたり25匁だった。これを家族や友人などと買い上げて芝居を見物したが、一人が飛び込みで見物する場合には「割土間」といって、一桝の料金のおよそ七等分にあたる1朱を払って「他所様(よそさま)と御相席(ごあいせき)」ということになった。
 土間の両脇には一段高く中二階造りにした畳敷きの桟敷があり、さらにその上に場内をコの字に囲むようにして三階造りにした畳敷きの「上桟敷」(かみさじき)があった。料金は現在とは逆で、上へいくほど高くなった。ただし舞台に正面した三階最奥の上桟敷は、舞台から最も遠く科白も聞きづらかったので、ここだけは料金が特に安く設定されて「向う桟敷」と呼ばれていた。これが「大向う」の語源である。芝居小屋に屋根が付いた後にも桟敷の上には屋根やその名残が残され、芝居小屋の伝統様式となっている。 こうして場内が総板張りになったことで、客席の構成にも柔軟性がでてきた。享和2年 (1802) 中村座が改築された際に、桟敷の前方に土間よりも一段高い板敷きの土間が設けられたのを皮切りに、以後の芝居小屋では土間にもさまざまな段差をつけるようになった。こうして格差がついた後方の土間のことを「高土間」(たかどま)といい、舞台近くの「平土間」(ひらどま)と区別した。
 やがてそれぞれの枡席には座布団が敷かれ、煙草盆(中に水のはいった木箱の灰皿)が置かれるようになった。枡席にお茶屋から出方が弁当や飲物を運んでくるようになったのもこの頃からである。当時の芝居見物は早朝から日没までの一日がかりの娯楽だったので、枡席にもいくらかの「居住性の改善」が求められたのである。
 明治になると東京をはじめ各都市に新しい劇場が建てられたが、そのほぼすべてが枡席を採用していた。文明開化を謳ったこの時代にあっても、日本人は座布団の上に「坐る」方が居心地が良かったのである。全席を椅子席にして観客が「腰掛ける」ようにしたのは、演劇改良運動の一環として明治22年 (1889) に落成した歌舞伎座が最初だった。これを境に以後の劇場では専ら椅子席が採用されるようになり、昭和の戦前頃までには、地方の伝統的小劇場を除いて、枡席は日本の劇場からほとんどその姿を消してしまった。
   
 
 芝居小屋中央に設置された枡形の座席空間。安政5年 (1858) の江戸市村座。

若い衆(わかいし);小屋側の男子係員。辞書では”わかいし”では見つけることが出来ず、”わかいしゅう”で掲載されています。これは江戸っ子の訛りです。

相席(あいせき);一つのマス席に観客が入る余裕が有るときでは見つけることが出来ませんが、若い衆が来て、「他所様(よそさま)と御相席(ごあいせき)」と声を掛け、ご一緒させてもらうこと。

花屋敷(はなやしき);東京都台東区浅草の浅草寺西側にある遊園地。 1853年(嘉永6年)開園で、日本最初の遊園地とされる。ただし第二次世界大戦の影響で一度取り壊された後、1947年(昭和22年)に再開園したという経緯があるため、「現存する日本最古の遊園地」の地位は1910年(明治43年)開業のひらかたパークに譲る。 敷地面積5,800m2。国産初、日本で現存最古のローラーコースター(ジェットコースター)がある。現在はバンダイナムコアミューズメントの子会社である株式会社花やしきが運営している。

 1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。
 当時の敷地面積は約8万m2だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用され、ブランコが唯一の遊具だった。
  明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。 この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるよう、トラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。
 大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られたが、まず1935年(昭和10年)に仙台市立動物園に動物を売却し、事実上閉園。1939年(昭和14年)、須田町食堂(「聚楽」)が買収し、名称も「食堂遊園地浅草楽天地」に変更。松竹によって合資会社浅草花屋敷が設立され、天野鉄男が支配人に就任。劇場や映画館と共に再度遊戯施設「劇場楽天地」が設けられたが、1942年(昭和17年)には強制疎開によりついに取り壊された。
 1947年(昭和22年)春に遊園地「浅草花屋敷」として再開園。

   

 明治初年で有れば、浅草寺北側の猿若町に芝居小屋が有ったので、数分のところに有った花屋敷の料理屋には好都合な場所になります。

亀沢町(かめざわちょう);現墨田区亀沢。1694(元禄7)年に本所地割並馬場守の拝領地となり、1707(宝永4)年には本所中下水埋樋請負人等の拝領地となって町屋が許された。このときの町域は現在の両国三丁目35・36番、四丁目30番の3ヶ所という狭い町だった(切絵図では2ヶ所)。 豊後府内藩下屋敷は両国四丁目のもと本所警察署の辺りにあった。その辺りがもともと「本所亀沢町」といわれていた。現在の「亀沢」という町名は、江戸東京博物館前にある北斎通りの両側一~四丁目で、大横川親水公園まで広がっているが、これは明治期に定められたものであって、江戸期は榛馬場(はんのきばば)の南側にあった小さな地区だった。
  町名の由来は、町と対向する荒川助九郎匡富(まさとみ)の預かり地内(今の墨田区立両国小学校から京葉道路辺り)に大きな池があり、そこに大きな亀がいたため、その池が「亀沢の池」と呼ばれていたことによる。池は徐々に埋め立てられてしまい、寛政期(1789~1800年)には600坪程あったが、嘉永期(1848~1853年)には全て埋め立てられてしまった。その西隣には、忠臣蔵で有名な吉良邸が有りました。1823(文政6)年1月30日、勝海舟は、当町で生まれた(現在の墨田区立両国公園付近)。1828(文政11)年の家数107軒(町方書上)。

 

  この割り下水に面して、明治の初め頃には落語の中興の祖と言われる三遊亭圓朝が趣味豊かな屋敷に住んでいた。(次の信号機の左側)。葛飾北斎生誕地は本所亀沢町二丁目にあった。両国”東あられ本鋪”両国本店のあるところ(現・墨田区亀沢二丁目15番10号)と言われるが・・・。北斎は引っ越し魔であり、生涯の内に93回も移転を繰り返した。宅前には本所南割下水が流れていた。その堀割も昭和初期に暗渠にされ、今は北斎通りと名付けられた道路になっている。
 上記写真。左側に東あられ本舗、その前の道路が南割り下水が有った道路で北斎道路と言われます。写真奥まで現・亀沢町です。

 

 亀沢町が「本所七不思議」の1つ『津軽屋敷の太鼓』の舞台です。その津軽屋敷跡は公園になっていて、その中にすみだ北斎美術館が建っています。 写真、公園内のすみだ北斎美術館。

お屋敷の寮(おやしきの りょう);別荘。別邸。上記の亀沢町に有ったと、二人組悪女が言っていた所。
 花屋敷の料理屋からここまでは、隅田川を吾妻橋で渡り、だるま横町(?)を越えて来なければないません。ま、口から出任せでしょうから、歩かされたのは私ぐらいでしょうか。

帳場(ちょうば);旅館や料理屋、商店などで、帳付けや勘定などをする所。勘定場。会計場。
 通常、客と最も対面しやすい玄関付近にあり、古くは三方を結界と呼ばれる二つ折り、または三つ折りの細かい帳場格子(竪格子、衝立格子)で囲い、その内側で店主や番頭が帳付けなどの事務を執り行っていた。ホテルのフロント、カウンターに相当する。

(くるま);人力車。1869年(明治2)和泉要助・高山幸助・鈴木徳次郎らが発明し、翌年東京府下で開業したのに始まる。大正後期より自動車が出て衰退。
 この事からも、時代設定は明治の噺になります。

 

 浅草大観光祭(2008年11月3日)にて、樋口一葉をモデルに一人乗り人力車が走ります。



                                                            2020年10月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

 
inserted by FC2 system