落語「め組の喧嘩」の舞台を行く
   

 

 立川談笑の噺、「め組の喧嘩」(めぐみのけんか)より


 

 品川宿で関取”四車(よつぐるま)”が酒を酌み交わしていた。弟子の一人が勢い余って別の座敷に飛び込んでしまった。カンカンに怒って部屋に怒鳴り込んだ、め組の纏持ちの藤松で、頭を下げれば許してやるとすごんだ。四車は「帯刀を許された武士の身分だ。火消し人足のような町人が何をほざいている。早く立ち去れ」と逆に脅された。そこに騒ぎが大きくなるのを止めたのが、め組の頭”辰五郎”で、悔しながら帯刀する関取に頭を下げるのであった。「一言言っておくが、春、芝神明で行われる相撲は、俺たちが仕切る相撲の場だぞ。忘れるなよッ」。

 「今帰ったぞ」、「顔色悪いね。どこかで喧嘩でもしてきたのかぃ」、「喧嘩が出来なかったんだ。息子の達吉の顔が浮かぶ、お前の顔が浮かぶ。焼きが回ったのかも知れねぇ。昔は頭ん中が真っ白になって喧嘩したもんだ。人生を背負うというのは辛いなッ」、「あたしゃね~、痩せても枯れてもめ組の頭、辰五郎の女房だよ。家に帰って来て愚痴をこぼしている姿見たくも無いよ。火事場に行くときも、品川宿に遊びに行くときも、今生の別れかも知れないと、腹をくくっているんだよ。おかしな所で男にキズを付けちゃ~いけないよ。死んじゃったって良いよ」、「ありがとうなッ」。

 春になって、芝神明の相撲興行です。西側には芝居の小屋張り、め組の連中が作るのです。芝居小屋から元結いを捕まれた、め組の若い衆が二人、どこかの屋敷の中間に押さえられています。つまらないことで喧嘩になり、そこに相撲取りの四車が現れ「お前らが、顔で出入りするから、客が入れなくなる。江戸っ子だとちゃらちゃらするな」、「なんだと、田舎っぺに言われたくない」、「(パチッ)叩いたなッ、それでは見せてやろう」、この時代の日本人の平均身長が150cm位、体重が40数kg位、相撲取りは食べちゃ稽古しているから身体は大きい。二人ともお手玉のように転がされ、血だらけになって投げ出された。
 そこに子供を連れた政五郎が初詣にやって来た。それを見つけた辰五郎、喧嘩の中に・・・、「相撲式の焼きを入れてやった。悔しかったら掛かってこんかぃ」。正月の境内、大勢の野次馬が取り巻いた。そこに、江戸屋喜多郎という座頭(ざがしら)。「ここでもめ事があると勧進元としても、お宮さんに対しても申し開きが立ちません。ご勘弁願えませんでしょうかッ」、「それもそうだ」、と二人とも境内から出た。
 四車は境内を出れば良いだろうと仁王立ちになって待ってます。辰五郎軽くトットットッと早足で向かいます。四車に体当たりするのかと思うと、その横をすり抜けます。四車「あれッ 何だろう」と思う間もなく、辰五郎が履いている足駄で弁慶の向こう脛を思いっきり蹴飛ばした。弁慶ですら泣くという急所、四車たまらずしゃがみ込んだ、そのスキに足駄をぬいて横っ面を殴った。その時相撲小屋から援軍の相撲取りが駆けつけて辰五郎をいたぶり始めた。その時半鐘が擦り半でジャジャジャジャ~と鳴った。辰五郎の息子が「火消しに、皆んな、早く来て助けてッ」の心で叩いた。飛んで来たのがめ組の連中ですが、多勢に無勢、血だらけの山が出来てしまった。よく見ると野次馬を押さえているのが江戸火消し連中いろは48組、火事場を抑えるのはお手のもの。刺股などを持った火消しが2~300人揃いました。驚いたのが相撲取り連中。逃げる相撲取りを捕まえて、血だらけにしてしまった。

 それまでは強い者は我々だけで、刃向かってくる者は誰も居ない。天からそう思っていたのが、命知らずの鳶の連中を見たのは初めて。それでも逃げる相撲取り連中を裏長屋に追い詰めると、住人に「壊しても良いか」と聞くと、「家は借り物だから、構わない」との返事で、逃げ隠れているいる長屋を綱で引くと長屋は崩れてしまった。その屋根の隙間から出てくる相撲取りを一人ずつ、モグラ叩きみたいに叩いて引きずり出し、血だらけにします。

 そこに若い者に肩を借りてやって来た辰五郎、「四車はどこだッ」、「頭ッ ここに生け捕ってありますよ」、見ると長屋の外後架。「出してやれ」結わえてあった綱を外し、手鉤で引くと壁が外れ、その拍子に大男の四車、床を踏み外しドボ~ン。ウンコまみれで上がってくるところを、辰五郎頭を踏んづけて「西に飛んでいけッ」。
 その時、半鐘が鳴り出した。本物の火事です。「相撲取りに関わっちゃ居られない。行くぜ~」、火消し連中は居なくなったが、残された怪我だらけの相撲取り連中の中に、寺社奉行がやって来ました。

 後に相撲の寺社奉行と火消し連中の町奉行が裁定して、結果相撲連中が軽くて、火消しが重かったと言います。3年の所払いだとか、百叩きがあったといいます。これだけの大事件、首謀者を明らかにしないといけません。元を正すと、半鐘が悪いと八丈島に半鐘が島流しになったと言います。

 



ことば

六代目立川 談笑(たてかわ だんしょう);(1965年9月23日 - )は落語立川流所属の落語家。東京都江東区出身。本名は小田桐 英裕(おだぎり ひでひろ)。海城高等学校、早稲田大学法学部卒業。出囃子は『野球拳』『佃』。身長182cmと落語家の中では高い方。基本は古典落語だがアレンジ色が強い。 極度の怖がりで『ザ☆ネットスター!』ではちょっとしたことでビックリしてしまい、イスから転げ落ちたりしている。 2008年時点におけるネット歴は「パソ通も入れていいならネット歴20年との事。
 1993年2月 - 7代目立川談志に入門、立川談生(だんしょう)を名乗る。
 1996年7月 - 二つ目に昇進。 2003年 - 二つ目のまま6代目立川談笑を襲名。
 2005年 - 真打昇進。
 2006年 - 国立演芸場の6月上席(1~10日)に出演。
 1983年の落語協会脱会以後、立川流としては初定席。
 2015年 - 平成26年度彩の国落語大賞受賞。

め組の喧嘩(めぐみの けんか);文化二年二月(1805年3月)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件。講談や芝居の題材にされた。実録ではどうで有ったか。

 芝神明宮境内で開催中だった相撲の春場所を、め組の鳶職・辰五郎と長次郎、その知人の富士松が無銭見物しようとしたのが発端。芝神明宮界隈はめ組の管轄であり、辰五郎らは木戸御免を認められていたが、富士松はそうではなかったため、木戸で口論となった。そこへ力士の九竜山が通りかかって、木戸番に味方したので、辰五郎らは一旦引き下がった。 相撲場を去った辰五郎たちは芝居見物に向かったが、同じその芝居小屋へ何も知らずに九竜山がやって来て、先刻の恨みが再燃。他の見物客らもあおってその巨体を野次り満座の中で恥をかかせる。九竜山はこらえきれずに辰五郎を投げ、芝居を台無しにしてしまう。 火消しの頭や相撲の年寄も仲裁に入って一旦は収まりかけたが、同部屋の力士四ツ車が九竜山をあおって復讐をたき付け、部屋から力士仲間を応援に呼び集めた。これに対して火消し衆も火事場支度で応戦、さらには火の見やぐらの早鐘まで鳴らして仲間に動員をかける。 火消し衆は江戸町奉行、相撲側は寺社奉行と、それぞれを管轄する役所へ訴え出て事態の収拾をはかったが、もはやいかなる仲裁も用をなさないまでに騒動は拡大していた。与力、同心が出動して乱闘に割って入り、火消しと力士合計36人が捕縛された。
 江戸時代のこの時期の同様の騒動には、鳶職人700人が7時間に渡ってせめぎ合ったものなどもあり、けが人は出たが直接の死者はなく(当事者のひとり富士松が乱闘中にうけた刀傷が原因となって取調べ中に牢死している)「め組の喧嘩」は規模としては小さい。庶民の注目を集めたのは、事後処理が相撲興行を取り仕切る寺社奉行と、町方の事件を裁く町奉行、後には農民の訴訟を取り扱う勘定奉行も乗り出して、評定所の基本的な構成員である三奉行の協議によって進められるという、当時としても珍しい形をとったためだった。 裁きは9月になって下ったが、全体に相撲側に甘く、火消し側に厳しいものとなった。そもそもの発端が火消し側にあったことと、また、特に非常時以外での使用を禁じられていた火の見櫓の早鐘を私闘のために使用、事態を拡大させた責任が重く見られたためである。早鐘に使用された半鐘は遠島扱いになり、辰五郎は百叩きの上江戸追放、長次郎と早鐘を鳴らした長松が江戸追放。その他の鳶は説諭と罰金と比較的軽く済んだ。力士側では九竜山のみ江戸払いを命ぜられ、他にお咎めはなし。騒動の後2ヶ月に渡って中断していた春場所は4月になってようやく千秋楽を打ち上げた。遠島になった半鐘は、明治時代になってから芝大神宮に戻されている。

 歌舞伎で演じられる相撲取りと火消しの大喧嘩。「歌舞伎はるあき」野口達二著より写真、梅村豊。

*注:鳶頭の新門辰五郎(「を組」)と、この事件のめ組の辰五郎は別人。新門辰五郎の正確な生年は諸説あるが、この事件当時は未だ幼少であった。

寺社奉行;歴史的経緯はあるのですが、最盛期を越した力士たちが大名の抱え力士を解雇されて、自力で食っていくため、寺社奉行に勧進相撲を開きたいと願い出て、これが認められ寺社の境内で相撲興行を行うことができるようになりました。こうした経緯から相撲は寺社奉行の差配を受けることになったのです。 やがて勧進相撲へ将来の上位力士やお抱え力士を夢見て若手力士が入門したり、浪人や力自慢の者が加わり力士の数も増えて、中には土俵での活躍が大名の目にとまり、抱え力士になったのです。大名の抱えになれば身分は下級武士であり大名の家来ですから、その力士は相撲会所の管轄から離れて大名の持ち物となったのです。

火消し;町人によって組織された町火消(まちびけし)と、幕府直轄で旗本が担当した定火消(じょうびけし)と、大名に課役として命じられた大名火消(だいみょうびけし)に3組織に分けて制度化された。
 消防組織の構成員としての火消は、火消人足(ひけしにんそく)ともいう。定火消の配下であった臥煙(がえん)、町火消の中核をなした鳶人足(とびにんそく、鳶職)などがあげられる。組織ごとの対抗心や気性の荒さから、「加賀鳶と定火消の喧嘩」や「め組の喧嘩」などの騒動を起こすこともあった。火消人足による消火の方法は、火事場周辺の建物を破壊し延焼を防ぐ破壊消防(除去消火法)が用いられ、明和年間ごろからは竜吐水(りゅうどすい、木製手押ポンプ。下に写真)なども補助的に使用された。
             

 上写真、現代の火消し装束 東京消防庁出初め式の時の纏のそろい踏み。江戸消防記念会の勇姿。 大岡越前守が施策として打ち出したのが「江戸の町は江戸の庶民の手で護らせる」という、いわゆる自衛・自治の考え方に根ざした町火消を創設。その後、町火消しの意気を汲んだ組織として現在の江戸消防記念会となった。 

 竜吐水。左右に張り出した棒を上下に押し下げて、下の水槽の水を屋根に向かって出した。江戸東京博物館蔵

町火消(まちびけし);享保3年(1718)10月に、町奉行大岡忠相は、火災のときは火元から風上二町、風脇左右二町ずつ、計六町が一町に30人ずつ出して消火するようにと命じています。12月には、火消組合を編成し、絵図に朱引をして各組合ごとの分担区域を定めています。しかし、これは地域割りがうまくいかなかったので、享保5年8月に、組合の再編成がおこなわれました。隅田川から西は約20町を一組とし、47組を編成しました。これらの組合は、いろは四十七文字を組の名としましたが、へ・ら・ひの三字は除き、そのかわりに百・千・万を加えました。隅田川から東、本所・深川地域は別に、一組から十六組までの16組合に編成しました。享保15年1月になると、47組をさらに一番から十番までの十組の大組に編成しました。これにより従来の編成では不足がちであった人夫を、はるかに多く火事場に集めることが可能となりました。この結果、従来一町から30人ずつ出していたのを15人に半減して、町々の負担を軽くしています。その後、いろは四十七組のほかに本組が編成されて三番組に加えられたため48組となりました。元文3年(1738)になると、四番組と七番組は交字の縁起が悪いということで、四番組は五番組に、七番組は六番組に編入しましたので、大組は8組となりました。このほか、元文3年ごろまでに、本所・深川の16組も南・中・北組の大組に再編成されました。
  町火消には、はじめ町の住民があたり、これを「店(たな)人足」といいました。当時は破壊消防が中心でしたから、これに慣れない素人があたるのでは効果もあがらず、怪我人も少なくありませんでした。また、町民はそれぞれ生業を持っていましたし、自己の財産を守らなければなりませんでしたので、店人足に出るのを避けるようになりました。このため町では、破壊消防に慣れた鳶職人を雇って店人足に混ぜて使うようになりました。のちにはこの鳶職人が町火消の主体となっていき、町では鳶職人を町抱え、または組抱えにして常備するようになりました。 町火消の装備や鳶職人の賃銭は、地主が所持家屋敷の規模に応じて負担する町入用から支出されました。町火消が江戸の消防組織の中心となっていくにしたがい、その費用も増大していきました。
 農山漁村文化協会発行「大江戸万華鏡」より防火対策と消防システムから引用。
 落語「火事息子」より孫引き 

 三田村鳶魚は、町火消の出場風景を「名主は、野袴に火事羽織、兜頭巾というなりで先頭に立ち、それに続いて家主がその組の印のある半纏、紺股引というなりで、これも頭巾を被ってゐる。鳶の者は刺子半纏に猫頭巾、道具持は道具を持ち、その他の者は皆鳶口を持ってゐる。その出かけていくとき、うち揃って木遣を唄ふがその声を聞いてゐると、キャアー、キャアーといって如何にも殺伐な声である。・・・」と記しています。  

 「め組」とは、そのうちの一つで、二番組に属していて、火消受持区域は、桜田久保町、兼房町、二葉町、源助町、露月町、神明町、増上寺中門前辺、浜松町、芝口辺  合計人足239人

  

 左写真、め組の纏。 右、纏、飾り上から”ケシ”その下が”マス”、合わせて消します、の洒落。

(まとい)と梯子;梯子は延焼しそうな家屋に立てかけ、屋根に上るためのもの。屋根に上がったら、自らの所属する火消し組の威信をかけて、 纏を振り、先陣を誇示するもの、だけではありませんが。
 刺し子(さしこ);綿布を重ね合せて、一面に1針抜きに細かく縫ったもの。丈夫であるから、消防服や柔道着などに用いる。江戸っ子は訛って「さしっこ」と発音した。
 右図:「刺し子半纏の裏側」江戸東京博物館蔵 表側は仲間内で共通のデザインであったが、裏側は歌舞伎等の粋な場面から図柄を選んで個々で楽しんでいた。また引き上げるときに裏表逆に着て粋さを誇示した。

 東京消防庁の出初め式 纏の集合。

半鐘(はんしょ);火災警鐘用の合図に打ち鳴らす小形の釣鐘。
  叩き方によって火元の遠近が分かった。ひとつ番(ばん)といって、極遠方の時打ったものから、二つ番、三番と近くになった。三番になると2~3丁(町。おおざっぱに2~300m)の近さになった。自分のところに影響が及ぶような至近距離の時は「擦り番」といって、半鐘の内側を摺るようにジャラジャラジャラと鳴らした。こうなると恐いですね、恐ろしいですね。
 右写真、半鐘。

擦り半(すりばん);擦り半鐘の略。 江戸の昔、遠くに火の手が上がれば、半鐘を一つ、間を置きながらたたいた。火が近づけば「ジャン、ジャン、ジャン」と三つずつ、最後は「擦り半」といって、槌(つち)を半鐘の中でかき回して鳴らした。

破壊消防;当時の消防は火消しと言っても、現代消防のように直接火炎を鎮圧するのではなく、火元の家を破壊して火勢を鎮圧したり、風下の家屋を破壊し延焼防止に、重点がおかれた。火が入った建物は屋根を抜いて火勢を上に抜き壁を内側に倒し、延焼しないように消火した。落語「二番煎じ」に破壊消防のジオラマがあります。

   

 火消しによって破壊されつつある商店。消防博物館蔵

彫り物;江戸時代の浮世絵など文化的成熟を通して、装飾としての彫り物の技術も発展した。背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな彫り物が、江戸時代に完成した。十九世紀に入るとその流行は極限に達し、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業では、彫り物をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及していった。旗本や御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、彫り物を施す者が現れるようになった。「遠山の金さん」で有名な遠山景元が彫り物を入れていたのは、恐らく事実であろう。

相撲(すもう);相撲の始まりは神話時代の、「古事記」には出雲の国をかけた力比べがあります。「日本書紀」には、天皇の御前での野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の日本一の力くらべが記されています。この野見宿禰と当麻蹶速の二人の日本一争いが、日本の相撲史の始めといわれています。  現在の大相撲に近いかたちが出来たのは江戸時代に入ってからです。初代横綱・明石志賀之助、二代・綾川五郎次から三代・丸山権太左衛門までは資料が残っていないので居なかったであろうと言われています。実質は四代横綱が最初の横綱だと言われます。 二大横綱立ち会い その横綱は、同時昇進の四代・谷風梶之助、五代小野川喜三郎の二大名横綱が活躍した寛政(1789-)時代に黄金時代を迎えます。

 左絵図;「谷風・小野川立ち会いの図」勝川春章画

 相撲の近代化が進んだ明治時代、そして大きな傷跡を残した太平洋戦争を経て現・両国国技館の完成を迎えます。 『栃若時代』『柏鵬時代』『輪湖時代』『千代の富士時代』、そして相撲ブームを巻き起こした『若貴時代』。数々の名勝負を残した横綱の時代がいくつもありました。

看板大関と突き出し;宝暦前後から、体格の優れた力士や、地方で名のある力士を、いきなり大関に据えたことが多くあった。これらの力士は見かけ倒しで、ほとんど1~2場所で消えてしまったため、これを看板大関と称した。文化年間になると興行も安定し、実力者が大関に座り、鉄石城五郎を最後に消滅した。  付け出しでも、雷電為右衛門は関脇に付け出されたが、幕内最優秀成績を残した強豪力士もいた。明治に入って、大阪相撲からの例があるが、現在でも大学相撲から幕下付け出しでデビューする者もいる。
 「大相撲人物大事典」相撲編集部編集 ベースボールマガジン社  

 「支度部屋風景」 一陽斎(歌川)豊国画 国立国会図書館蔵 第九代横綱秀ノ山 雷五郎(左側、1808年(文化5年) - 1862年6月16日(文久2年5月19日))宮城・気仙沼出身の天保の三傑。 

大関(おおぜき);番付上最高位は大関であった。「横綱」はその大関のうち綱を付けて土俵入りを許された免許のことを言った。明治23年(1890)5月場所で前例のない四大関が出現し、横綱免許された西ノ海が成績二位で張り出される(本来張り出しは三位以下)ことに物言いをつけた西ノ海をなだめるため、番付に横綱(免許)を明記して納得させた。これが横綱を地位化する前提となり、明治42年、階級地位として成文化した。

 ■地方巡業(ちほうじゅんぎょう);巡業部は公益財団法人日本相撲協会の役割として、地方巡業を通じ全国のファンを大切に、相撲道普及に努めると共に、全国の子供たちに夢を与え、青少年育成に役立てばと一層努力していく所存であります。(相撲協会)  硬いことはこの位にして、力士が本場所以外でこちらから地方に乗り出していって、相撲に親しんで貰う。看板力士が寝込んでしまったら、それは大変です。 そんな地方巡業なんてイヤだと、看板力士が故国に帰ってサッカーをやっていて辞めさせられた横綱がいたっけ。 

 写真;上、「天明八戌申歳江戸大相撲生写之図屏風」凌雲斎豊鷹画 天明8年(1788) 相撲博物館蔵   天明8年頃は谷風・小野川が全盛な時です。永代橋上を行く関取衆はこの二人を中心に描かれています。左から2曲目大柄な関取が谷風です。小野川はもう一方の屏風(落語「幸助餅」)に描かれています。 

 谷風の名は「とめ名」といわれ、この名を継ぐことはご法度とされている。当時の谷風評は、「色が白くて目が細く、いつもにこやかで少しもおごったところが無い」、「力量すぐれ、相撲は達人、腰ひくく寄り足は早い。だから彼に勝つ力士はいない。万一、不覚を取ったとしても、次の時には片手で押し出してしまう。寛永このかた、こんな完璧な力士はいない」である。弟(異母)は幕内の達ヶ関。仙台の俚謡に「わしが国さで見せたいものはむかし谷風いま伊達模様」と謡われ今の世に伝わっている。

 「大童山土俵入り」写楽画。 左側は西方で、後列左が谷風、右が雷電、中央が花頂山、前列左が達ヶ関、右が宮城野です。大童山文五郎は天明8年2月出羽の国百姓武左衛門の倅に生まれ、色黒の生まれながらに大児であった。一度は幕尻に上がったが、実際は相撲をとらず、怪童の見世物としての土俵入りだった。 

芝神明(しば しんめい);芝大神宮(しばだいじんぐう)。東京都港区芝大門一丁目12番に鎮座する神社。芝増上寺の参道の入り口にある大門(だいもん)の脇に有ります。
 芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った。また別に、伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称された。明治維新にあたり、政府の教部省、太政官正院並びに東京府の許可のもと、明治5年8月30日(1872年10月2日)より、現今の神社名である「芝大神宮」を称す。
 9月16日の例祭を中心に、9月11日から21日まで、神輿渡御などの各種神事が行われるが、それらが長期間「だらだら」と続くために、古来より「だらだら祭り」とも言われている。また期間中に生姜を授与しているところから、別名「生姜祭り」とも称した。
 落語「浜野矩随」に、芝神明のことが詳しく記述してます。

 

 写真、芝神明の参道より本殿を見上げる。この参道に芝居小屋と土俵が築かれたのでしょう。

品川宿(しながわしゅく);品川新宿(しんしゅく)。東海道五十三次の最初の宿場、品川新宿は第一京浜から八ツ山橋を渡り、旧東海道を下ると、歩行新宿(かちしんしゅく、北品川1丁目)、北品川宿(北品川2丁目)、目黒川を渡って南品川宿(南品川1丁目)の三区画に分かれていて、約1.5キロメートルの長さがあった。板橋、千住、内藤新宿(しんじゅく)の四宿のひとつで、官許の吉原の”北里”または”北国”と対抗し”南郭”または”南国”、単に”南”と称して、幹線街道の東海道の最初の宿駅として栄えた。
 遊女屋は旅籠屋、遊女は飯盛り女として届けられていた。江戸時代末の最盛期には約90軒の貸座敷があり、千人以上の飯盛り女が居た。関東大震災の時も被害が出ず盛況したし、昭和の初めには貸座敷は43軒あった。戦後も八ツ山橋よりが一部被災したが復興し面影を残したが、しかし、残念ながら(?)昭和33年3月に売春禁止法が施行されてから、この遊里も消滅した。
 落語「品川心中」、「居残り差平次」より転載。

 上記芝神明から品川宿まで、約3.5km、1時間掛からず行ける距離です。吉原までは約17~8kmも有り、簡単に行ける距離ではありません。

 「品川青楼遊興」(三枚続き)豊国画 寛政年間 東京国立博物館蔵。

元結い(もとゆい);江戸っ子は”もっとい”と発音します。髷(まげ)の根本を結い束ねる紙紐のことで、「文七元結」は江戸時代中期に考案された、落語にも出てきますが、実在する元結です。長くしつらえた紙縒(こより)に布海苔と胡粉を練り合わせた接着剤を数回にわたって塗布し、乾燥させたうえで米の糊を塗って仕上げた元結が「文七元結」であり、「しごき元結」「水引元結」とも称した。「文七元結」の名称は、桜井文七という人物の考案とも、下野国(栃木県)産の文七紙を材料として用いるからともいわれている。
 元結いを捕まれるとは、丁髷の根元を捕まれると言うこと。痛いですね、髪の毛が抜けるほど痛い。

 落語「文七元結」でも語られる、元結いです。

屋敷の中間(やしきの ちゅうげん);武家奉公人は若党、中間、小者などの呼称があるが、地域、藩、各武家によっても意味合いに差があり、厳密な区別はできるものではない。武家の家来の位置づけとしては中間の上に武士の中で最下級の足軽が、下には飯炊き、水汲み、薪割など単純作業に従事する下男がいる。下男と足軽の間という位置づけから中間と呼ばれた。
 中間(ちゅうげん)、 脇差1つを挿し、時には戦いにも参加し、平時は雑用を行った。大名行列等では奴(やっこ)の役を務めた。
  渡り中間に代表されるように、一時限りの奉公の場合が多い。
 一時限りの中間、 広く一般的に知られる中間はこれを指す。 江戸期になると、年季契約や、必要な時のみ口入れ屋から雇い入れるということがしばしば行われた。多くは百姓の次男以下などが奉公したが、武家屋敷の多い江戸など大都市では屋敷を渡り歩く渡り中間のような専門の奉公人を雇うことも多かった。

日本人の平均身長が150cm位、体重が40数kg位;おおむね“男性155~158cm”、“女性143~146cm”の範囲内におさまるようです。ただ、身長については測る習慣を持つ人もいましたが、体重についてはあまり資料がありません。
 『骨は語る 将軍・大名家の人々』(鈴木尚著 東京大学出版会 1985年 4694/1/89)には、江戸時代庶民の平均は“男性157.11cm”、“女性145.62cm”とあります。
 『日本人のからだ』(鈴木隆雄著 朝倉書店 1996年 4911/3/96)では“男性155.09cm~156.49cm、,女性143.03cm~144.77cm(江戸時代前期~後期)”。
 じつは、日本の歴史において江戸時代が最も身長が低かったといわれています。
 大きな人も居て、身長2mを越す大男もいました。文政期の看板力士“大空武左衛門”や天保期の看板力士“生月鯨太左衛門”は身の丈7尺5寸(約227cm)もあったと言われています。

座頭(ざがしら);歌舞伎や人形浄瑠璃の一座の首席俳優または人形遣い。江戸時代の歌舞伎では主演俳優がつとめ、一座の俳優、楽屋、舞台一切を統率し、演出者を兼ね、さらに座元や立作者などと興行の運営にも参与した。主として立役に限られ、役割・辻番付(配り番付)では連名の最後の「留め筆」の位置、紋番付(役割番付)では座元の右肩、すなわち上から2段目、右から2列目の位置に書かれた。明治以後は興行方法の変化により、その責任、権限も縮小された。

勧進元(かんじんもと);芸能などにおける勧進興行の元締め、すなわち主催者のこと。南北朝時代頃から勧進田楽、勧進猿楽などの記録が残っている。本来は公儀の許可を必要としたが、江戸時代には次第にその本意を失って営利化し、勧進元の語も、明治以後は単なる興行届出人としての名目のみとなった。今日では、相撲の地方興行の際にこの名が使われています

足駄(あしだ); 屐とも書き、また屐子 (けいし) ともいう。主として雨天用の高下駄。木製の台部の表に鼻緒をつけ、台部の下には2枚の差歯がある。足下または足板の転訛した呼称といわれる。 右写真。
 こんなので殴られたら薪だっぽうで殴られるより痛そうです。痛そうでは無く、痛いです。

弁慶の向こう脛(べんけいの なきどころ。-のむこうずね);向こうずねの場所、脛(すね)と向こう脛(ずね)は、同じ部分のようですが本来厳密にいえば、違う場所を指すそうです。脛は、ひざの下から足首までの部分で、前面(ひざ側)も、ふくらはぎも含めた部分を言いますが、向こうずねというと、膝から足首までの部分で、前面(ひざ側)のみを言います。この場合の「向こう」というのは、相対する人に向かって前側、という意味で使用します。“相手に向かう側”のスネ、ということです。
 豪傑と知られる歴史上の人物である武蔵坊弁慶でさえも、ここを強打されたり、せめられたりしてしまうと泣いてしまうほど痛いであろうということから、向こうずねは、「弁慶の泣き所」と言われるようになりました。
 なぜ痛いのかというと、向こうずねの部分は、皮膚の下に筋肉がないからです。向こうずねの部分は、皮膚の下はすぐ骨になります。そのため、皮膚と骨の間を通る「神経」に衝撃が直接届くからです。

火事場を抑える(かじばをおさえる);火事場で、野次馬が大勢近くで見物されると消火作業に支障をきたします。現在ではロープを張ったり、テープで立ち入り禁止地区を設けたりします。よほどのことが無いと、立ち入り禁止区域に侵入するような野次馬は居ませんが、江戸時代は多かったのでしょう。その為、火消しの一部が身体を張って野次馬を作業区内に侵入させないようにしたのでしょう。

刺股など(さすまた);刺股は、相手の動きを封じ込める武具及び捕具。 U字形の金具に2~3mの柄がついており、金具の部分で相手の首や腕などを壁や地面に押しつけて捕らえる。また先端金具の両端には折り返し部分が付いており、これを対象者の衣服の袖等に絡めて引き倒す際にも利用される。 元々は江戸時代に作られた物で、暴れる犯罪者の動きを封じ込めるために捕物用として使われた。柄が長いため、ナイフのような小型の刃物や刀などを持った相手と距離をおいて、安全に対応することができる。
 右写真の右側の武具。
 江戸時代には犯罪者を捕獲する捕り物のための三道具の内の一つとされ、突棒・袖搦と共に、日本では古くより捕縛に使う道具として発展してきたため、三道具術なる刺又・突棒・袖絡を使う武芸の一種として発展した。『和漢三才図会』には、関人(せきもり)・門番が用いるものとしての記述がみられる。 町火消が家屋の破壊器具として使用していたこともあった。これは当時、延焼中の家屋を手早く引き倒して防火帯とし、延焼を防止して消火していたためである。現在の消防署の地図記号はこの刺又を図案化したものである。
 突棒(つくぼう)は、江戸時代に使用された捕り物道具のひとつである。刺股、袖搦ととも三道具の一種。頭部は鉄製で、形はT字型であり、撞木に酷似している。多くの歯がついていて長い柄をつけている。写真の左の物。
 袖搦(そでがらみ)は、”もじり”ともいい、先端にかえしのついた釣り針のような突起を持つ先端部分と刺のついた鞘からなり、鞘に木製の柄に取り付けて使用する。容疑者の衣服に先端部分を引っ掛けて絡め取る事で相手の行動を封じる。鞘の刺は相手に掴まれて奪われない様にするための工夫である。棍棒や槍としても使用可能である。写真の中央の物。

裏長屋(うらながや);江戸時代に江戸・大坂などの大都市の町人居住地で、表通りに面していない路地裏に建てられた小商人・職人・日雇いなど下層庶民の借家住居のこと。多くは長屋建てであったので裏長屋とも呼ばれる。江戸町人地の場合、基本的な町割りは、京間で60間四方の街区のまん中に、会所地という20間四方の空地をとり、街路に面した奥行き20間の部分を間口5~6間の短冊形に割って屋敷地とするもの。
 裏長屋の広さは、間口が9尺(2.7m)で奥行きが2間(3.6m)というのが一般的な大きさでした。 部屋全体の大きさとしては6畳相当になりますが、土間や台所なども含めてその大きさですから、居住空間は4畳半ほどしかありませんでした。 しかも、押し入れなどの収納スペースなどもまったくありません。 昼間は4畳半のスペースを居間として使い、そこで内職や食事などをしていました。 夜になると、こんどはそこに布団を敷いて寝室に早変わりするわけです。 押し入れなどの収納スペースはありませんから、布団を部屋の隅に重ねて畳んでおくことになりますので、実質的な生活スペースは4畳ほどしかなかったことになります。流水の水道はありませんから瓶に水を汲んでおかなければ成りません。また、便所も共同便所(外後架)として外部に有りました。

外後架(そとこうか);禅寺で、僧堂の後ろにかけ渡して設けた洗面所。その側に便所があり、転じて便所の意になった。長屋では長屋の外に共同の便所を作り、それを外後架と呼んだ。また、共同で使っていたので「惣後架」とも呼ばれました。下半分しか扉がなく、人がいるかどうかわかるようになっていました。

  

 江戸の長屋外後架。深川江戸資料館。 右側の二つの扉が有るところ。下半分しか扉が有りません。

手鉤(てかぎ); 鳶口 (とびぐち) の一種。長さ約60cm、筋金入りのカシの棒の先端に鉤をつけたもの。鳶頭 (とびがしら) が使った。
 鳶口(とびぐち)、 破壊消防、木材運搬などで、物をひっかけたり、引き寄せたりするのに用いる道具。鳶職の意にも用いられる。カシの棒の先に物をひっかけるために鉄製の鉤(かぎ)を取り付けたもの。その鉤の形がトビの嘴(くちばし)に似ているので、トビグチとよばれた。鳶口には、江戸時代の火消人足が用いた、柄(え)の長さ6尺(約1.8m)ほどの装飾入りの手鉤棒。
 右側写真。手鉤。

西に飛んでいけッ;西の方、すなわち死の世界で、「死んでしまえ」という師匠立川談志のキザな言い回し。

3年の所払い(ところばらい);江戸時代の追放刑の一つ。年数を決めて罪人に対し、居住していた地域(居村・居町)へ立ち入りすることを禁止した刑。追放刑のなかではもっとも軽かった。この刑に該当する罪は、関八州(かんはっしゅう)外で発砲した場合、人別(にんべつ)帳に記載せず寄留したりさせたりした場合、妻に離縁状を与えずに再婚した場合、などであった。
 落語「ちきり伊勢屋」に、江戸の刑罰が載っています。

百叩き(ひゃくたたき);江戸時代に入り、非公式な組織内刑罰だった鞭打ちが、徳川吉宗によって公式の刑罰として復活した。総称して敲きと呼び、回数によって、50回のものを軽敲、100回の、いわゆる百叩きを重敲と呼ぶ。盗みや喧嘩などの軽犯罪を対象としており、一揆における便乗犯にも、この刑罰が加えられた。箒尻とよばれる竹製の鞭が使われ、背から、尻・太ももなどを左右に分けて叩く。武士には執行されなかったが、浪人には執行された。執行人に対しても、「気絶はさせないように打つこと」という 注意がされていました。それでも、半分の50回も叩けば、 気絶寸前にはなることが多かった。

 佐久間長敬著『刑罪詳説』より、小伝馬町牢屋敷門前での敲刑の執行風景。そばには医師も控えていた(図中の“十”)。(写真:国立国会図書館) 

八丈島に島流し(はちじょうじまに しまながし);江戸では、遠島(えんとう)と言って、 伊豆七島の八丈島・三宅島・新島に送られる。佐渡島は最悪の島流し。
 本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇のように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。
 江戸時代には、追放よりも重く、死罪よりも軽い刑罰として「遠島(えんとう)」が規定され、誤って人を殺めた者、博打うち、女犯の僧などがこれを科された。江戸幕府では東日本の天領の流刑者を主に八丈島等の伊豆七島と佐渡島に流した。西国では天草諸島や五島列島などが流刑地となった。流罪にされる場合、暴力犯より政治犯が往々にして遠くに飛ばされる。政治犯は多くの場合文化人であり、特に古い時代は貴族等位の高い者が多かった。したがって、その様な人物が多数流される地には豊かな文化が伝えられ、栄える例が多い。



                                                            2020年10月記

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