落語「姫初め」の舞台を行く
   

 

 二代目三遊亭円歌「姫初め」(ひめはじめ)より  別名「わしがかか


 

 結婚をした時は、男の方は女性の扱いぐらい知っていますし、女性だって知っている人もいるでしょう。田舎の方に行きますと、婿さんの方は童貞、嫁さんも処女。そこに”母危篤”の電報が来た。「嫁に来たばかりだから・・・」、「俺の嬶(かか)様にもなる人だ。直ぐに行け」。実家から嫁さんの帰りが遅い。心配通り越して、我慢の限界になった。そこに電報が来て、”今夜帰る”「良かった、寒いから部屋を暖めておこう」、と馬小屋に薪を取りに行った。馬の逸物が長くなって、腹にバン、バンと打ち付けている。「バッカ野郎、電報貰ったのはテメエじゃね~ェ」。

 娘を嫁に出すのは、両親にとって心配です。「お前大丈夫かぃ」、「大丈夫よ、お母様」、「向こうに行ったら、旦那さんの言うとおりにするんだよ」、「知ってるわよ。お父様とお母様の夜のあれでしょ」、「分かってるんだねこの子は・・・」、「だけど私、夕べの事は出来ないわ」。

 夏の海で、二人がしっくりいったんですな。「こうやっていれば乾くよ。お前はどうだ?」、「私は・・・、未だ乾かないわ」、「僕は乾いたよ」、「そうかも知れないわ。丸干しは乾くのが早いわ」。

 姫初めというのは、正月になって夫婦初めての事ですな。昔では、東海道の袋井辺りでは正月2日は、紙屋が忙しかったと言います。
 袋井の宿屋”野沢屋”で、夫婦が二人で、「風邪でも引いたか。今日は姫初めの日だ」、「あんたに風邪移すと嫌だから」、「夫婦だから構わない。帳合いが溜まっているんだ。これが終わったら行くから、先に行ってろ」、「卵酒を飲んでるからね」、夫婦という者は何となく分かるものです。暖簾を分けて奥に行きます。
 行灯を片付けようとしていると、「すいません。今晩一晩泊めていただけないでしょうか」、「女の一人旅はダメなんだ。お達しが有るんだッ」、「そんな事言わないで。天竜川を越えて行くんですが、暗くなって、恐いんです」、ひょっと見ると、垢抜けした小太りな好い女。「寒いから中に入らせて貰うわ。お金だったら・・・」、「金の問題じゃ無いんで。寒いから1本付けて手酌でやってるんだ」、「だったら私がお酌するわ」、「こんなに色っぽかったら誰もほっておかないよ」、「上手い事言ってッ」、「叩かれると痛いな。今晩は面白くなってきたな。よろしい。お泊めしましょう」、「ほんと?」、「ま、ここにお上がり」、「今夜は、姫初めの日なんだ・・・。じゃぁ~、エヘヘヘ、私がそっと行ったら、あんた怒りませんか」、「上手い事言って、私も顔が赤くなったわ。婆ァで良かったら・・・受けますわ」、「受けますかッ。充分お酒やって下さい。女房は風邪を引いてるし、こちらは受けると言うし・・・」、「酔ってしまいましたわ。先に休ませていただくわ」、「暖簾の先の四ッつ目の部屋です」。帳合いをかたづけていると、2階から客が降りてきた。

 「隣の部屋で若い二人がイチャイチャして眠れないよ。ここらで、女を買うところは無いかぃ」、「ここの宿場には時間も遅いからありません」、「他の部屋は無いのか? 襖一枚で丸聞こえなんだ」、「満員で他の部屋は無いんです」、「飯盛女は普段だったら2~3分(ぶ)なんだが、正月だから1両出す」、「1両出すんですか。・・・それだったら丸ぽちゃの色っぽい女がいます。暖簾をくぐって四ッつ目の部屋です」、「それじゃ~、行ってくるよ」、「これだから、この商売止められない。おれには嬶が待って居るんだ」。

 帳合いも済んで立ち上がると、さっきの客が戻ってきた。「旦那さん、良かったよ。『待ってたわ』と言ってキュウッと引っ張り込むんだ。羽二重のような肌で、身体が火照った、こんな女は初めてだ。最後に俺の耳を噛むんだ」、「耳をかじった? この暖簾をくぐって、四ッつ目の部屋ですよ」、「そうだッ」、「右ですか、左ですか?」、「こう行ったんだから・・・左だな」、「シマッタ、俺の嬶だ」。

 



ことば

露の五郎兵衛が、同じ噺を「わしがかか」と言う題でやっています。上方の噺家と江戸の噺家さんの違いは無く、艶笑噺は高齢でいやらしさが抜けてくると、聞いていても楽しいものです。ただ、これの概略をどう書くかが難しいところです。

東海道の袋井(とうかいどう ふくろい);東海道は、江戸の日本橋から小田原宿、駿府宿、浜松宿、宮宿(熱田宿)を経て、七里の渡しで伊勢湾を渡り、桑名宿、草津宿を経て京都の三条大橋まで五十三次ある。距離は約490kmあり、山間部の経路をとる中山道よりも約40kmほど短いが、東海道には行く手を阻む大きな河川が何本もあり、六郷川(多摩川)、馬入川、富士川、天竜川は船渡しによる渡河が行われたが、大井川をはじめ、安倍川、酒匂川では江戸幕府により渡し船が許されず、川越人足(歩行渡し)による渡河をする必要があった。
 川の上流で雨が降ると川は増水したので、水位が増すごとに川札代も高くなり、七里の渡しの船賃よりも高かったといわれる。さらに、雨で増水した川は川止めとなることもあり、川の流れが一定水位まで下がるまで、何日でも宿代がかさむこととなった。箱根八里や七里の渡しも交通難所で、七里の渡しでは宮から桑名までの七里(約28km)を海を船で揺られながら渡るのに、6時間余りを要した。このため、これをバイパスする佐屋路が尾張初代藩主の徳川義直によって開かれ、宮から桑名まで9里(約36km)で結ばれた。また幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが行われ、とりわけ新居の関は厳しかった。
 尾張の宮(熱田)からは脇街道(脇往還)である美濃路と接続し、美濃の垂井で中山道と連絡した。また、東海道の脇街道である本坂道(姫街道)は、浜名湖を渡る今切の渡しや、新居関を避けて浜名湖を北に迂回するもので、浜松宿から御油宿までの東海道をバイパスした。

 東海道五十三次には、旅籠が全部で3000軒近くあったといわれ、宿場ごとによってその数は著しい差があった。人口の多い江戸や京都周辺や、箱根峠や七里の渡しなど、交通難所を控えた宿場も多かった。特に旅籠の数が多かった宿場は、七里の渡しの港があった宮宿(熱田宿)が247軒とその数は群を抜き、その対岸の桑名宿も120軒あった。宮宿は旅籠の数では、東海道はもとより日本一大きな宿場町であった。他に100軒を超えたのは、岡崎宿の112軒である。箱根八里の東麓に位置する小田原宿は95軒、西麓の三島宿にも74軒の旅籠があり、その手前の大磯宿(66軒)、平塚宿(54軒)、藤沢宿(45軒)と比べると多かった。このほか旅籠の多い宿場は、品川宿(93軒)、川崎宿(72軒)、戸塚宿(75軒)、浜松宿(94軒)、四日市宿(98軒)、草津宿(72軒)、大津宿(71軒)があった。

 袋井宿(ふくろいしゅく、ふくろいじゅく) は旧東海道の宿場で、東海道五十三次の宿場の数では江戸から数えても京から数えても27番目で中間点にあたる。他の宿場より少し遅れて元和2年(1616)までに整備された。 現在の静岡県袋井市中心部にあたる。周辺に遠州三山をはじめ歴史ある寺や神社が点在し、それらのいわば門前町の形で栄えた。

 

 東海道五十三次「袋井」広重画。 右側に見えるのが袋井宿、その手前の茶屋で一息。

 遠州三山:以下の三寺。
 法多山尊永寺(はったさん そんえいじ)は、静岡県袋井市にある高野山真言宗別格本山の寺院。寺号の「尊永寺」よりも山号の「法多山」の名で広く知られている。本尊は聖観音(正観世音菩薩、厄除観世音)。 厄除け観音として知られ、厄除だんごが名物となっている。
 医王山油山寺(ゆさんじ)は、静岡県袋井市村松にある真言宗智山派の寺院。遠州三山の1つ。山号は医王山。詳しくは医王山薬王院油山寺と称する。本尊は薬師如来。紅葉の名所として知られる。 孝謙(こうけん)天皇が眼病平癒を願い、当寺の「るりの滝」の水で眼を洗浄したところ、全快したので勅願寺に定めた。以来、特に目の守護、眼病平癒の寺として信仰を集める。
 萬松山可睡斎(かすいさい)は、静岡県袋井市久能にある曹洞宗の寺院で寺紋は丸に三つ葵である。山号は萬松山(ばんしょうざん)。本尊は聖観音(しょうかんのん)。江戸時代には「東海大僧録」として三河国・遠江国・駿河国・伊豆国の曹洞宗寺院を支配下に収め、関三刹と同等の権威を持った。遠州三山の1つ。
 徳川家康が、幼い頃武田信玄の軍から逃れ父と共に匿われた礼に訪れた際、席上で居眠りをする仙麟等膳和尚(第11代)を見た家康は「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」と言い、以来和尚が「可睡和尚」と呼ばれたことから、いつしか本来東陽軒であった寺の名も可睡斎となった。家康が父と共に隠れたとされる洞窟は六の字穴として今も残っている。
 秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)は、静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する、標高866mの秋葉山の山頂付近にある神社。日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約400社)、秋葉大権現および秋葉寺のほとんどについて、その事実上の信仰の起源となった神社。

帳合い(ちょうあい);現金または商品の勘定と帳簿面とを照合して、計算の正否を取り調べること。
  帳面に記入すること。  損益などを計算すること。

卵酒(たまござけ);熱くした日本酒を砂糖・生卵を撹拌した中に入れ、一体化した状態で飲む。体を温め滋養が付く。戦後まで卵は貴重品で高価であり、それで作る卵酒は贅沢品だったので、風邪などで体調を壊した時でないと飲めなかった。私の子供時代、風邪の時のバナナと同じか。 

行灯(あんどん);木などの框(ワク)に紙を貼り、中に油皿を入れて灯火をともす具。室内に置くもの、柱に掛けるもの、さげ歩くものなどがある。あんどう。紙灯。
 この噺では、看板行灯のことで、掛行灯(かけあんどん)といい、 店の軒先などに掛け、屋号や商品名を書いて看板としたもの。夜間も店を開けている飲食店などに多かった。

 

 広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)関 旅籠屋見世の図』。 入り口の板の間に大きな看板を置いています。箱看板の文字に「えさき屋 諸国商人衆定宿」と入っています。

女の一人旅(おんなのひとりたび);女の一人旅は危険なのでしないものとされていた。宿も敬遠した。やむなく一人で旅をするときは、道々信頼できそうな人を見つけて同行を頼んだという。
 道中には、胡麻の灰や、雲助、物もらい、泥棒、強盗等がいて金銭を強要したり強奪した。それ以上に、山中に連れ込み暴行を働いたり、身柄を遊廓等に売り飛ばしたりした。また、幕府では「入り鉄砲に出女と言われ」大名の家族は江戸に人質として住まわせたため、女性の一人旅や女性だけのグループは厳重に関所などで取り締まられた。

天竜川(てんりゅうがわ);長野県・諏訪から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ天竜川水系の本流で、一級河川のひとつ。流路延長は213km(日本全国9位)、流域面積は5090km2(日本全国12位)。「天竜」はもともと、天から降った雨が諏訪湖へ流れ出て天竜川の流れとなることから、「あめのながれ(天流)」と読まれたが、のちに音読みとなったという説がある。
 諏訪湖の唯一の出口である長野県岡谷市の釜口水門を源流とする。長野県上伊那郡辰野町から始まる伊那谷を形成し、一部愛知県をかすめ、静岡県へ抜ける。浜松市天竜区二俣町鹿島で平野部に出、浜松市と磐田市との境を成しつつ遠州灘に注ぐ。

 

 東海道五十三次「見附」広重画。 小さな袋井宿を抜けると、西に1里半で見附宿に入ります。その宿場を抜けると天竜川の渡しが待ち受けています。中州がある巨大な河口です。

飯盛女(めしもりおんな);飯売女(めしうりおんな)。近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場に存在した私娼である。宿場女郎(しゅくばじょろう)ともいう。 江戸時代、娼婦は江戸の吉原遊廓ほか、為政者が定めた遊廓の中のみで営業が許されていたが、飯盛り女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認されていた。飯盛女はその名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。 また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女(めしうりおんな)」と表記されている。
 17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。やがて宿場は無償の公役や商売競争の激化により、財政難に陥った。そこで客集めの目玉として、飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いだ。1772年には千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかけている。 旅籠屋1軒に2人と言う数字ですが、実際はもっと多かった。「めしもり 700文」の記録が残る。

 

 飯盛女達の客引き風景。木曾街道「深谷宿」 渓斎 英泉(けいさい えいせん)画。

1両(1りょう);1両=4分 1分=4朱 4進法です。1両=4貫文(江戸前期)、中後期で5貫文。1貫文は1000文です。現在の換算で1両=8万円(~10万円)=5000文、80000円÷5000=16円、1文=16円です。1両10万円とすると1文=20円です。

 「飯盛女は普段だったら2~3分(ぶ)なんだが・・・」と2階の男は言っていますが・・・、吉原価格でしょう。

 岩波新書の「江戸の旅(今野信雄著)」によると、夜伽の値段は客と飯盛女の間で決め、その代金も直接飯盛女に渡されていたそうだ。 そして安政期の東海道の大きな宿場の揚代(飯盛女代)は500文~700文(9,500~13,300円)、中規模の宿場では300文(5.700円)くらいで、他に酒1本と肴1品程度の酒肴代が400文(7,600円)、番頭や仲居へのご祝儀が200文(3,800円)くらいだったと記されている。 ちなみに東海道中膝栗毛では、飯盛女は200文(3,800円)とあるそうだ。
  揚代より酒肴代が高いのがおもしろい。中規模の旅籠の宿泊費が200文(3,800円)前後のようなので、1泊2食 お酒1本と飯盛女付で20,900円。 お米の換算レート(1両=9.75円=10円)を使用すると、11,000円となります。



                                                            2020年10月記

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