落語「亀佐」の舞台を行く
   

 

 桂米朝の噺、「亀佐」(かめさ)より


 

 お坊さんかてしゃべる商売でございます。学校の先生とかいろいろございますが、噺家なんかでもね、これちょっと一段高いとこへ座らしてもろて、大勢のお客さんを前にしゃべる。ちょうどお説教なんかこおいう雰囲気ですな。坊さんは一段高いとこへ座って、手にやっぱり扇子のようなものやら数珠やらを持ってですな、仏さんは後ろでございますが、その前でお説教をなさるという。あの説教も歴史が古いんですな、平安朝時分なんか説教というたらなかなか人気番組みたいなもんでね、半分娯楽やったんですな。
 節談説教なんかいうてね、これは明治の時期に浪花節を入れたんですな、で大変流行ったらしい。
 まだ生きたはると思いますが、名古屋に祖父江省念(そふえ しょうねん)さんという、もう九十近い方やと思いますが、一昨年まだ健在でやったはるのんポスターで見ました。「あぁ、まだやったはんねやな」と思て感心したんですが、このお方なんか説教の途中で浪花節になってきまんねん、節が付いて。やっぱり一つの物語、忠臣蔵やとか、いろいろな話をしながらどっかで仏教の道理を説いていくというよ~なね、あ~いうようなものがあった。
  捨丸さん、ちゅうのん覚えてはりますかな~。ご年配のお方やったら砂川捨丸・中村春代というコンビで漫才やったはりましたが、あの人がまた漫才のお説教、節談説教やったはりました。鼓をこ~持ってね・・・、
 ♪ 「色好まざる者は、玉(ぎょく)の盃底無きが如し。赤い小袖に迷わぬ者は、木仏(きぶつ)・金仏(かなぶつ)・石仏(いしぼとけ)。千里行くよなあの汽車でさえ、赤い旗出しゃチョト止まる。一宗開いた日蓮さんでも、女に迷うたためしがある。南無妙法蓮華経と書いた七字の撥ね題目、上から三つ目、妙という字をご覧なさい、女偏に少しと書くではないかいな。なんぼ日蓮上人でも、少しゃ女~に、惚れんげきょ~♪」。
 「よぉお参りやす」てなこと言うてたんですがな。まぁまぁ、いろんな説教がありますが、大体は説教ちゅうのは退屈なものが多いんでやすな。なんぼ面白い引き事をずっと言うても、さてその本体の話になってくるっちゅうとやっぱり固いところが出て来て居眠りが出るというよ~な。

 「亀佐」といぅのは亀屋佐京という、今でもございます、滋賀県に名代の艾(モグサ)屋さんですな~。関西では灸(やいと)、東京のほうではお灸と言いますが、あのすえる時のモグサ、あれだけ専門に売ったはるという、それで何百年も続いてるという、えらいおうちでございます。
 伊吹山は今は薬草の本場みたいなとこやそうですな~、漢方薬が近年見直されましてね、鍼(はり)はともかくヤイトはこの痕(かた)が付きますのでね、嫌がる人が多いのです。 ところがこの頃のヤイトはね、ホンマに小さいモグサでございまして、チョンとツボさえキシッと乗ってりゃ、あれで効くらしい。すぐ消えてしまいますし、昔ほど熱いことないよ~に思います。痕なんかもちろん残らしまへん。
 なかには懲らしめのためにすえるお灸なんてのがある。「また寝ションベン垂れしとるなッ」てなこと言うて、寝ションベンに効くヤイトすえてんねんやろけど、丁稚なんかもう線香とモグサ隠し回ったそうでございます。
 この「亀屋佐京」が東海道を上り下りする人に宣伝をしはった。面白い節でこの伊吹モグサを売って歩いたんですな~。
  ♪ ご~~しゅ~ いぶきやまのほとり  
 ♪ かしわばらほんけ~~ かめや~~さきょ~   
 ♪ く~すりもぐさよろ~~~し  
っちゅう、こぉいぅ節でずっと売って歩いた。わたしら、もちろん知りませんが南天さんなんて人はこの真似が得意で、よう真似したはりました。
  それが東海道で流行りましてね、子どもなんかに売り回らしたらこの節のほうが流行ってしもうて、大阪あたりまではもちろんのこと、名古屋から浜松、ズ~ッと江戸まで「亀屋佐京の薬モグサ」が売れたんやそうでございますが、ちょっと面白いもんですなぁ。
  ♪ ご~~しゅ~ いぶきやまのほとり
  ♪ かしわばらほんけ~~ かめや~~さきょ~
  ♪ く~すりもぐさよろ~~~し  
別に真似してもらわんでもよろしいねんけど。これはね、ちょっとやってみとなるような節があります。まあ、そんな昔の噺でございます。

 お坊さんが前に大勢の人を集めてお説教をやってなはる。             

 「ご同行(どうぎょ~)、南無阿弥陀仏を唱えるということはな、これはもうどなたでもおっしゃることじゃ。しかし、ただ唱えりゃえぇというもんではないぞ。ある老婆がおりましてな、このお婆さんが朝起きると「南無阿弥陀仏」、ご飯を食べるあと先に「南無阿弥陀仏」、道を歩いてても「南無阿弥陀仏」、腰を下ろして「南無阿弥陀仏」、腰を上げても「南無阿弥陀仏」、日が暮れると「南無阿弥陀仏」と、毎日朝から晩までお念仏を唱えておった。
 ついに定業(じょ~ごぉ)が尽きて冥土へ赴いて、閻魔大王の前でお裁きを受けることになったな~。閻魔さんが、『これ老婆、そちの罪はど~じゃ?』と言うと、『わたくしは生涯にどれほどのお念仏を唱えたか分かりません。その念仏の功徳(くどく)によって、どうぞ極楽へ送ってくだされ』と言う。そこで閻魔大王が、『それッ』と合図をすると、鬼が、この老婆が生涯に唱えた山のようなお念仏を車に乗せて運んで来ましたな。『こりゃ、老婆。お前が生涯に唱えたお念仏は斯く山の如しじゃが・・・』と、篩(トォシ)を持ち出して、これを振るいに掛けたな~。と、山のようなお念仏はことごとく網の目から下へ落ちて、あとに残ったは今わの際に唱えた、『南・無・阿・弥・陀・仏』ただ一つであったという」。
 「グァォ~ッ」、「数さえ多ければよいというものではないぞ」、「グァォ~ッ」、「心のこもらぬお念仏が山ほどあろうとも」、「グァォ~ッ」、「かなんな~これ、説教のあいだあいだへ鼾(いびき)が入るじゃないかいな。講中(こぉじゅ~)の皆さん何をしてござる。鼾があっては邪魔になる、説法の邪魔になるでな、気い付けてもらわんと困るで講中の皆さん」、「おっすぁんそれがねぇ。鼾かいてるの、講中の一人でんねや」、「えぇ。だ、誰じゃいな?」、「亀屋佐兵衛さんが鼾かいてまんねやがな」、「亀屋佐兵衛さんちゅうたら頭はげらかして、もうえぇ歳やないかいな。そんな人が念仏の邪魔をしてはいかん。お説教の邪魔になりますで、早よ止めなされ」。
 「ちょっと、佐兵衛さん。亀屋佐兵衛さん。念仏の邪魔なる言うたはりますがな」、「グァォ~~ッ」、「あんた、講中やろ。頭はげらかして、鼾が邪魔んなる言うてはりまっせ」、「グァォ~ッ」、「難儀やなぁ。
 ♪ こぉ~~じゅ~~ いびきじゃまのあたり、
 ♪ かしらはげ、あんた本家じゃ、ほんけかめや~~さへぇさん、これッ!
 ♪ ゆ~すりおこすえ~~~ぇ 。
おっすぁん、まだ起きまへんがなぁ」、
「今ので一つ、(お灸)すえたげなはれ」。

 



ことば

お説教(おせっきょう);宗教の教義・趣旨を説き聞かせること。教理を説いて人を導くこと。

節談説教(ふしだん せっきょう);仏教の教典や教義を七五調の平易な文句で、節回しをつけて説く話芸性豊かな説教。中世の安居院(アグイ)流などが源流となり、特に浄土真宗で昭和初期まで盛んだった。

祖父江省念(そふえ しょうねん)さん;1905-1996 昭和-平成時代の僧。 明治38年9月18日生まれ。幼時から浄土真宗の節談(ふしだん)説教僧としての修業をつむ。独特の節回しで親鸞(しんらん)の一代記などをかたり、自坊の名古屋市有隣寺のほか全国各地で、最盛期には年間400回におよぶ説教の会をひらいた。平成8年1月2日死去。90歳。岐阜県出身。本名は省一。自伝に「節談説教七十年」。お孫さんが後を継いで節談説教をしています。

     節談説教をする祖父江省念師

砂川捨丸・中村春代(すながわすてまる なかむらはるよ);明治後期の「萬歳(まんざい)」の型を残しつつ、新たな要素も取り入れ演じ続けた、パイオニア的な存在。ボケとツッコミの2人が演じる、いわゆる「漫才」の形が一般的になってきた頃にも、ハリセンで春代が捨丸を叩くと言う、太夫・才蔵で成り立つ『萬歳』の形を伝えていた。その他にも串本節も取り入れ、全国に広めた功績がある。 「え~、漫才の骨董品でございましてぇ」のやり取りで始まる。捨丸は大正時代から紋付袴姿で鼓を持った愛嬌ととぼけたいでたちで高座を勤め、最後まで通し続けた。 また捨丸が一人で舞台立つこともあった、その時は録音した三味線と詩吟のテープで改良剣舞の「忠臣蔵」を踊ったこともあった。
  戦後、2人を座長としてミスワカサ・島ひろし等と共にアメリカ巡業に3ヶ月公演に渡る。この時のエピソードとしてアメリカの空港の税関で調べられ、鼓や帯、袴など係員に質問されると捨丸は「ジャパン・チャップリン」と答え、係員を納得させ税関をパスしたという。これが元で捨丸は「和製チャップリン」の異名を持った。



 砂川捨丸(すながわ すてまる、1890年12月27日 - 1971年10月12日)本名、池上捨吉。 大阪府三島郡味舌(ました)村(現在の摂津市)の生まれ。 祖父は糸桜、父は駒嵐という名の大阪相撲の力士で、兄は江州音頭の音頭取りの砂川千丸で兄の元で修行を積み千丸の一座に入る。 1899年(1900年とも)、千日前井筒席で初舞台。その後全国巡業を巡った。
 中村春代(なかむら はるよ、1897年 - 1975年2月4日)本名、中山しも。 神戸の生まれ。新開地の第二朝日会館でもぎりやお茶子をしていた頃に神戸新聞社主催、大正時代の第1回ミス神戸に当選したという美人。中村種春に入門、捨丸の没後は引退廃業。なおよく捨丸とは夫婦関係にあったともいわれるが戸籍上入籍はしておらず、自宅も別々であった。

南無妙法蓮華経(なむ みょうほうれんげきょう);日蓮宗三大秘法の一。妙法蓮華経に帰依する意。これを唱えれば、真理に帰入して成仏するという。題目。本門の題目。七字の題目。御題目。髭文字で書かれる。
 日蓮は正行として据えたが、日蓮以前の天台大師(智顗)を祖とする天台宗・天台寺門宗などでも教義の中心ではないものの、この五字七字の題目は修行僧が唱えていたとされる。即ち「朝題目に、夕念仏」と言われたものである。末法の時代に生誕した日蓮は、念仏は無間地獄の業と断じ、立宗と共に題目のみを正行とする。

日蓮さん(にちれんさん);(1222~1282) 日蓮上人。鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。初め蓮長。安房国小湊の人。初め天台宗を学び高野山・南都等で修行、仏法の真髄を法華経に見出し、1253年(建長5)清澄山で日蓮宗を開いた。辻説法を行なって他宗を攻撃し、「立正安国論」の筆禍により伊豆に流された。赦免後も言動を改めず、佐渡に流される。74年(文永11)赦されて鎌倉に帰り、身延山を開く。武蔵国池上に寂。著「観心本尊抄」「開目抄」など。

著作:『立正安国論』=旅客来(キタ)つて嘆いて曰く、「近年より近日に至るまで、天変・地夭(チヨウ)・飢饉・疫癘、遍く天下(テンガ)に満ち、広く地上に迸(ハビコ)る。牛馬巷(チマタ)に斃(タオ)れ、骸骨路(ミチ)に充てり。死を招くの輩(トモガラ)、既に大半を超え、之を悲しまざるの族(ヤカラ)、敢て一人(イチニン)もなし。然る間、或は「利剣即是」の文(モン)を専らにして、西土教主(サイドキヨウシユ)の名を唱へ、或は「衆病悉除」の願(ガン)を恃(タノ)んで、東方如来の経を誦(ジユ)し、或は「病即消滅、不老不死」の詞(コトバ)を仰いで、法華真実の妙文(ミヨウモン)を崇め、或は「七難即滅、七福即生」の句を信じて、百座百講の儀を調へ、有(アルイ)は秘密真言の教(キヨウ)に因つて、五瓶(ゴビヨウ)の水を灑(ソソ)ぎ、有(アルイ)は坐禅入定の儀を全うして、空観(クウガン)の月を澄まし、若しくは七鬼神の号を書して、千門に押し、若しくは五大力の形を図して、万戸に懸け、若しくは天神地祇を拝して、四角四堺の祭祀を企て、若しくは万民百姓を哀れみて、国主国宰の徳政を行ふ。然りと雖も、唯肝胆を摧(クダ)くのみにして、弥(イヨイヨ)飢疫(ケヤク)逼(セマ)る。乞客(コツカク)目に溢れ、死人眼(マナコ)に満てり。 

著作:『開目抄』=夫(ソレ)、一切衆生(シユジヨウ)の尊敬(ソンキヨウ)すべき者三(ミツ)あり。所謂(イワユル)、主(シユ)・師
(シ)・親(シン)これなり。又、習学すべき物三あり。所謂、儒(ジユ)・外(ゲ)・内(ナイ)これなり。
 儒家(ジユケ)には三皇・五帝・三王、此等を天尊と号(ゴウス)。諸臣の頭身(ズシン)、万民の橋梁なり。三皇已前は父をしらず。人皆禽獣に同(オナジ)。五帝已後は父母を弁(ワキマエ)て孝をいたす。所謂、重花(チヨウカ)はかたくなわしき父をうやまひ、沛公(ハイコウ)は帝(ミカド)となつて太公(タイコウ)を拝す。武王は西伯(セイハク)を木像に造(ツクリ)、丁蘭(テイラン)は母の形(カタチ)をきざめり。此等は孝の手本也。比干(ヒカン)は殷の世のほろぶべきを見て、しゐて帝をいさめ、頭(コウベ)をはねらる。公胤(コウイン)といゐし者は懿公(イコウ)の肝をとて、我が腹をさき肝を入(イレ)て死(シシ)ぬ。此等は忠の手本也。尹寿(インジユ)は尭王の師、務成(ムセイ)は舜王の師、太公望は文王の師、老子は孔子の師なり。此等を四聖(シセイ)とかうす。天尊頭(コウベ)をかたぶけ、万民掌(タナゴコロ)をあわす。此等の聖人に三墳・五典・三史等の三千余巻の書あり。其(ソノ)所詮は三玄をいでず。三玄と者(ハ)、一者(ニハ)有(ウ)の玄、周公等此を立(タツ)。二者(ニハ)無の玄、老子等。三者(ニハ)亦有亦無(ヤクウヤクム)等、荘子が玄これなり。玄者(トハ)黒(コク)也。父母未生(ミシヨウ)已前をたづぬれば、或(アルイハ)元気而生(ヨリナリ)、或(アルイハ)貴賤・苦楽・是非・得失等、皆自然等云云。

日蓮宗=日本仏教十三宗の一。日蓮を祖とする。法華経を所依とし、教義は教・機・時・国・序の五綱教判と本尊・題目・戒壇の三大秘法とを立て、即身成仏・立正安国を期す。日蓮宗・法華宗(本門流・陣門流・真門流)・日蓮正宗・顕本法華宗・不受不施派などに分れる。特に、山梨の身延山久遠(クオン)寺を本山とする日蓮宗をいう。

東海道(とうかいどう);米朝さん、珍しく間違っています。下記亀佐が有るのは、琵琶湖の北から離れた最初の宿、東海道では無く、木曽海街道(中山道)六拾九次の柏原宿に有りました。ただし、現在の東海道本線の柏原です。米朝さんは鉄道の地名として語っているのでしょう。

亀屋佐京(かめやさきょう);伊吹もぐさ亀屋佐京商店は、伊吹山の麓でお灸やもぐさを製造・販売する会社です。 創業は寛文元年(1661年)。中山道六拾九次・六拾番目の宿場町に今も江戸期の風情を残す店構えでお客様をお待ちしています。また木曽海街道六拾九次之内柏原の版画絵の中で歌川広重が亀屋の店頭風景を描いており、その絵の中には裃を付けて扇子を手に持ち大きな頭に大きな耳たぶという福々しい姿で街道を往来する旅人を見守る福助人形の様子も描き込まれています。福助人形の起源には諸説あるものの福助人形発祥の店としても多くの方に親しまれています。
 作家の荒俣宏氏曰く、“亀屋の福助を見て、ただひたすら、その大きさに感動する。…中略…これを拝まずして福助は語れない。三大福助の第一と折り紙をつけたい。”と評されています。

 駕籠舁きが二組、前後にひかえていて、もぐさを買いに行ったであろう客を待っている。番頭には大きな福助の人形と伊吹山の模型がすえられていて、客はいずれも旅人である。番頭が一人、小僧が一人、対応している。店舗は二つにわかれていて、むかって左が販売用の店構えでなく、七兵衛独創したところの休憩所になっている。茶庭の待合に似た風雅な構造で、ふつううの待合よりも広い。長い床几が三台おかれていて、むかって右の店頭の客より身分のよさそうな客が二人、たばこをのんでいる。

(モグサ);ヨモギの葉を乾かして製した綿のようなもの。これに火を点じて灸治(キユウジ)に用いる。焼草(ヤキクサ)。ヨモギの葉の裏にある繊毛を精製したもの。主に灸に使用される。西洋語にもmoxaとして取り入れられている。 もぐさは、夏(5 - 8月)に、よく生育したヨモギの葉を採集し、臼で搗(つ)き、篩にかけ、陰干しする工程を繰り返して作られる。点灸用に使用される不純物(夾雑物)のない繊毛だけの艾を作るには、多くの手間暇がかかるため、大変高価である。高級品ほど、点火しやすく、火力が穏やかで、半米粒大のもぐさでは、皮膚の上で直接点火しても、心地よい熱さを感じるほどである。

(やいと、きゅう);経穴(つぼ)と呼ばれる特定の部位に対し温熱刺激を与えることによって生理状態を変化させ、疾病を治癒すると考えられている。同じツボを使用する鍼が急性の疼痛病変に施術されてきたのに対し灸は慢性的な疾患に対して選択されてきた。 セルフケアとして自己施灸もなされ、かつては艾を撚り皮膚上に直に据えるのが主流であったが、今は既に成形された各種の灸製品(例として「せんねん灸」や棒灸など)を用いることが多くなりつつある。これら既製品は、艾の部位と皮膚との間に間隙が作成されており、輻射熱による刺激を行なうため、火傷のあとが付きにくい。現在では美容上の観点から多用されるが、効力としては、古来の直接灸に及ばないとされる。 日本では医師以外の者が灸を業として行う場合は灸師免許が必要である。治療としては、毎日または数日おきに反復して皮膚に微細な火傷を更新していく形となる。きゆう師が施灸ポイントを指示(点灸という)し、患者自身が自分で施灸を行う形が歴史的にも一般的な方法である。

伊吹山(いぶきやま);能郷白山(1617m)を主峰とする美濃越前山地の稜線は、はぼ東西方向に走って岐阜県と福井県とを分け、その西端部で強く屈曲して南に張り出し伊吹山地を形成する。ふつう伊吹山地と称されるものは、滋賀・福井・岐阜の3県に跨がる三国岳(1100m)から南下して土倉岳(1002m)・金糞岳(1314m)・新穂山(1067m)・胡桃山(1183m)と続き、最南端の伊吹山(1377m、日本百名山)に達する一連の山地帯を包括するもので、その稜線は南北方向に走って滋賀・岐阜両県の県境を形成している。伊吹山地はその南縁部で関ヶ原峡部によっていったん途絶えるが、それより南下するとふたたび高度を増して、霊仙山(1084m)を起点として1000m級の山地となって鈴鹿山脈を形成する。伊吹山は伊吹山地の最高峰であり、同時に滋賀県内の最高峰でもある。その頂上三角点は県境から少し西に偏より、行政的には伊吹町(現:米原市)に包括される。

 

 米原市「伊吹山ライブカメラ」より左奥に伊吹山。 山東庁舎 地域振興部 山東伊吹地域協働課発表

(はり);身体の特定の点を刺激するために専用の鍼を生体に刺入または接触する治療法である。中国医学等の古典的な理論に基づいており、中国・日本・韓国でそれぞれ発達した。このうち韓国が特に鍼を重視し、「一鍼二灸三薬」と言われている。中国医学では、経穴を刺激することで経絡として知られる道を通る「気」の流れの異常を正すとされる。科学的調査では「気」、「経絡」、「経穴」、といった中国医学の概念に組織学的あるいは生理学的相互関係は見出されておらず、一部の現代の施術者は中国医学的手法に基づかない鍼療法を使用している。
 UNESCOは「伝統中国医学としての鍼灸」(Acupuncture and moxibustion of traditional Chinese medicine)を、2010年11月16日に無形文化遺産に指定した。 現在、日本において鍼を業として行えるのは、医師および国家資格であるはり師の免許を持つ人である。

南天さん(なんてんさん);初代桂南天。本名、竹中重春(明治22~昭和47/09/12)大阪出身、桂仁左衛門の弟子、米朝一門に伝わる「錦影絵」は南天師から引き継いだもの。
 持ちネタは膨大で、小咄はほとんど無数に近いほど記憶していた。非常に芸達者な人でもあり、「諸芸十八般」(「武芸十八般」の洒落)と称し、紙切り、錦影絵、指影絵、滑稽手品、記憶術、軽口、寄席踊り(乞食のずぼら踊り)、一人喜劇などを物にし、本業の落語よりも色物として活躍することが多かった。 個人で演芸大会を開いたり、巡業中は二つの名を使い分けたりなどもしたという。戦後は噺家不足となったため、「口合按摩」「さかさまの葬礼」などの落語もよく高座に掛けた。録音は1965年頃に収録した「口合按摩」(3代目桂米朝所蔵)、映像では読売テレビの「ずぼら」の一部の映像が現存する。 後輩の米朝は、南天に私淑して多くの稽古や聞き取りをしており、上方芸能の貴重な遺産を次代へ引き渡す役回りを担ったとも言える。ちなみに、南天が演じていた錦影絵は、口伝により現在でも米朝一門で継承されている。また遺品、写真なども米朝宅に多く保存されている。 芸人としては、いわゆる器用貧乏に終わり、生活には恵まれなかったが、それを苦にすることもなく、飄々として生涯を終えた。

 錦影絵、現在は連続する絵を順番に見せて、それに説明をつける小演芸あるいは視聴覚教育材をいう。江戸時代後期にオランダから幻灯が渡来するが、その映写機とスライドを使って映像が動いて見えるようにくふうした写絵、大阪では錦影絵が紙芝居の原型である。やがて寄席芸になったが、明治中期に写絵を寄席や隅田川の納涼船でやっていた。
 右写真、錦影絵の道具類。

同行(どうぎょう);心を同じくして仏道を行じる伴侶の意。禅宗では「どうあん」という。浄土真宗ではその信徒をいう。

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ);名号のひとつで「六字名号」のこと。阿弥陀仏への帰依を表明する定型句。
 「南無」はナモー(namo)の音写語で「礼拝、おじぎ、あいさつ」を意味するナマス(namas)の連声による変化形。「礼拝」から転じて帰依(śaraṇagamana)を表明する意味に用いられ、「わたくしは帰依します」と解釈される。
  「阿弥陀」は、その二つの仏名である「アミターバ(無量の光明, amitābha)」と「アミターユス(無量の寿命、amitāyus)」に共通するアミタ(無量[はかることのできない]、amita-)のみを音写したもの。
 すなわち、「南無阿弥陀仏」とは「わたくしは(はかりしれない光明、はかりしれない寿命の)阿弥陀仏に帰依いたします」という意味。
 『一遍聖絵』には「なもあみたふ」と表記されているので、鎌倉時代には「なもあみだぶ」と発音していたようである。また、現在の天台宗では、古儀に則り「なもあびたふ」と称えることが多い(「なむあみだぶつ」と唱える場合もある)。

定業(じょうごう);〔仏〕苦楽の果報を受けることが決定している業。また、果報を受ける時期が決定している業。決定業(ケツジヨウゴウ)。この業によってもたらされた果報についてもいう。「定業が尽きる」寿命を全うする。

冥土(めいど);〔仏〕死者の霊魂が迷い行く道。また、行きついた暗黒の世界。冥界(ミヨウカイ)。黄泉。黄泉路(ヨミジ)。六道のうち、地獄・餓鬼・畜生の三悪道。冥土。冥道。特に、地獄をいう。

閻魔大王(えんまだいおう);〔仏〕(梵語Yama) 地獄に堕ちる人間の生前の善悪を審判・懲罰するという地獄の主神、冥界の総司。閻魔王が亡者の生前の罪悪を取り調べる所。地蔵菩薩の化身ともいう。像容は、冠・道服を着けて忿怒の相をなす。もとインドのヴェーダ神話に見える神で、最初の死者として天上の楽土に住して祖霊を支配し、後に下界を支配する死の神、地獄の王となった。地蔵信仰などと共に中国に伝わって道教と習合し、十王の一となる。焔摩。閻羅。閻魔王。閻魔大王。閻魔法王。閻魔羅闍(エンマラジヤ)。

  

 閻魔大王(法乗院、江東区深川二丁目16) 

(トォシ);ふるい。粉または粒状のものをその大きさによって選り分ける道具。普通、曲物(マゲモノ)の枠の底に、馬尾・銅線・絹・竹などを細かく格子状に編んで作った網を張ったもの。とおし。

今わの際(いまわのきわ);死にぎわ。最期。臨終。

■講中(こぉじゅ~);講を結んで神仏に詣でる連中。頼母子講(タノモシコウ)の連中。

おっすぁん;和尚さん。

功徳(くどく);よい果報を得られるような善行。普通、供養・布施の類をいう。以前によいことをしたために、実現したよい報い。神仏が与えるよい報い。



                                                            2020年10月記

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