落語「二度目の清書」の舞台を行く
   

 

 立川談志の噺、「二度目の清書」(にどめのきよがき)より


 

 忠臣蔵外伝で有名な「南部坂雪の別れ」が有ります。大石内蔵助親子が浅野内匠頭の未亡人の所に挨拶に行きます。(詳細あらすじは下記『ことば』に)
 大石から預かった巻物を見ると、赤穂浪士討ち入りの名前が書かれている血判状。大石内蔵助を筆頭に四十七士の名が出て来ます。未亡人を起こし、心が読めなくて申し訳ないと帰って行った大石に謝る。

 この後すぐに「二度目の清書き」に入って行きます。

  大石の妻子供、母親を離縁し実家に戻す。文は源五兵衛の元に届いた。妻と母親とを離縁したことが書かれ、さらに寺坂から「心中よしなにご賢察を」という口上を聞く。同じ武士である源五兵衛はこれで全てを悟った。「お石と母親はしっかりと預かるので安堵するように」と内蔵助に伝えてくれと源五兵衛は言う。

 内蔵助から文を預かり、討ち入りを果たした寺坂吉右衛門が石束源五兵衛の所に報告にやってくる。討ち入りの状況を講談調に語る談志。
 文はお石・母親との離縁を伝えて以来であるのでこれを二度目の清書(きよがき)という。ついに吉良の首を討ち取り仇討本懐を遂げたことを知る者たち。お石と母親は、内蔵助の本心を知らなかったことを恥じ、また悲しみ泣く。

 

* 珍しく談志の噺では中途半端で内容が良く伝わってこない。談志らしからぬ出来映えの噺であった。こんな出来なものを良く発売したと感心します。そこで、講談から概略を下記に書き記します。

 主君浅野内匠頭の無念を晴らすため仇である吉良上野介を討つとの大願を抱いた大石内蔵助。企てを成功させるためには吉良家にこの意図を知られてはならない。敵を欺くにはまず味方からと内蔵助は周囲の者たちに愚人を装う。日ごと廓に通い女人と酒色に溺れる。

  今日も酩酊し我が家に戻り、高いびきで寝ている。酔いが醒めぬまま朝を迎え、妻のお石に起こされた。お石は毎夜酒浸りになっていること、また茶屋町の太夫を身請けしたことを諫め、年老いた母親や幼い子供たちのためにも身持ちを改めて欲しいと請う。しかし内蔵助は身請けした太夫をこの家に住まわせ、太夫を姉に、お石を妹にすればうまくいくだろうなどと、とぼけた事を言う。この言葉に武士の娘であるお石は怒り、離縁を申し出る。内蔵助はスラスラと三行半を書く。お石はワッと泣き伏せる。内蔵助の母親もこのやり取りを聞いており、今度は母親が離縁したいと申し出た。お石は母親と一緒に実家である播磨国豊岡の石束源五兵衛(いしつか げんごべい)の家に参りましょうと言う。母親もこれに応ずる。幼い子供、吉千代と大三郎も母様、婆様に付いて行きたいと言う。妻、母親、二人に幼い子供は駕籠で豊岡へと旅立った。
  内蔵助は何やら文をしたためる。これをお石の父親である豊岡の石束源五兵衛の元へ、妻らの乗った駕籠より先に届けて欲しいと足軽の寺坂吉右衛門に託し、さらに「心中よしなにご賢察を」という口上を添えるよう申し付ける。

  文は源五兵衛の元に届いた。妻と母親とを離縁したことが書かれ、さらに寺坂から「心中よしなにご賢察を」という口上を聞く。同じ武士である源五兵衛はこれで全てを悟った。「お石と母親はしっかりと預かるので安堵するように」と内蔵助に伝えてくれと源五兵衛は言う。

  元禄十四年十二月十四日、大石内蔵助をはじめとする四十七士は吉良上野介の屋敷に討ち入り、吉良の首を討ち取って本懐を遂げた。亡き主君への報告のため泉岳寺へと向かう途中、内蔵助は寺坂に浪士の身内たちに仇討の次第を伝えるよう頼む。
  内蔵助から文を預かり、寺坂はまず豊岡の石束の家に向かう。文はお石・母親との離縁を伝えて以来であるのでこれを二度目の清書(きよがき)という。ついに吉良の首を討ち取り仇討本懐を遂げたことを知る者たち。お石と母親は、内蔵助の本心を知らなかったことを恥じ、また悲しみ泣く。寺坂は口上を述べ、討ち入りの模様を詳細に語る。妻や母親までを欺き、宿願が叶ったことを一同のものは知るのであった。  

 



ことば

赤穂事件(あこうじけん);18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央を弑し、当夜に在邸の 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らも討った事件を指すものである。(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件」としている場合もある)。
 この事件は「忠臣蔵」とも呼ばれる事があるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。(池田家でも輝興が狂乱し正室などを殺す「正保赤穂事件」、森家でも攘夷派が藩政を私物化した家老の森主税を暗殺するという「文久赤穂事件」が起きているため、「元禄赤穂事件」とも呼ばれる)。

「南部坂雪の別れ」 あらすじ 
  元禄15年12月14日、この日の夜半には主君浅野内匠頭(たくみのかみ)の仇を討つべく吉良邸への討ち入りが決まっている。その雪の降る日、大石内蔵助(くらのすけ)は倅の主税(ちから)と共に、赤坂・南部坂の浅野内匠頭の奥方であった瑤泉院(ようぜんいん)の元を訪ねる。黒髪をぷっつり切った瑤泉院は吉良上野介に対する内蔵助の仇討をいつかいつかと待ち兼ねている。出迎えたのは側近の戸田局。女ながらに武芸に通じた者である。瑤泉院の前で内蔵助は今宵の討ち入りを伝えるつもりで訪ねてきたのだが、居並んだ女中の中に一人見知らぬ不審な者がいる。これでは敵方に万万が一にも漏れてはならない今夜の大事を打ち明ける訳にいかない。内蔵助は仇討の意思など全く無く、これからも山科で遊び呆けて暮らすと、心にもない偽りを言う。内蔵助の本心を伺えないまま、彼を心底情けない男だと嘆く瑤泉院は部屋を出て行ってしまった。「それは真の心ではありますまい」と尋ねる戸田局だが、やはり内蔵助は本心を明かさない。折があったら瑤泉院に渡して欲しいと袱紗(ふくさ)の包みを託して、内蔵助と主税は雪を踏みしめながら去って行く。戸田局は紅梅という部屋住みの娘に袱紗包みを戸棚にしまっておくよう言い付ける。
 床に就くも、忠義の鑑と言われた内蔵助の情けなさを嘆き眠れない戸田局。そこへ部屋に忍び込んできたのが、先ほどの紅梅という娘。戸棚から袱紗包みを盗み出そうとするが、武芸に通じている戸田局はあっと言う間にこの紅梅をねじ伏せてしまう。「お許しください」。紅梅は上杉の間者であった。紅梅から奪い戻した袱紗包みから書付けが床へとポロっと落ちる。これを見てみれば、討ち入りの日は12月14日、そして四十余名の赤穂浪士の名前が書かれている血判状。戸田局は慌てて瑤泉院を起こし、この連判状を見せる。内蔵助と浪士たちの義心は本物であった。ワッと泣き伏せる瑤泉院。
 東の空が明るくなる頃、寺坂吉右衛門が瑤泉院の元を訪れて討ち入りの模様を告げ、見事、吉良の首を討ち取った事を伝える。忠義の義士の働きに瑤泉院は涙するのであった。

  

 南部坂(東京都港区赤坂谷町) 坂の名称は、江戸時代初期、近隣に南部家中屋敷があったことに因む。「忠臣蔵」の名場面、大石内蔵助が瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られる。

長矩の正室・阿久里(あぐり);長矩を亡くしてからは瑤泉院(ようぜんいん)。浅野内匠頭長矩の正室・阿久里で、「忠臣蔵」の雪の南部坂の名場面でよく知られています。 延宝2年(1674)に備後三次(みよし)藩主・浅野長春の三女に阿久里は生まれたといわれますが、誕生は寛文9年(1669)であるとする説もあり、最近は後者の方が有力です。ここでは、寛文9年生まれとします。 延宝5年(1677)、播州赤穂藩主・浅野長矩との婚約が成立、6年後の天和3年(1683)に婚儀が行なわれ、15歳で長矩の正室となりました。阿久里は美しく、夫婦仲は睦まじかったといいますが、子宝に恵まれず、元禄8年(1696)に長矩の弟・長広を養子にします。これは同年、長矩が疱瘡を患って一時危篤となったための、緊急の措置でもありました。 元禄14年(1701)、阿久里33才の時、夫・長矩が江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだため、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は領地没収、城明け渡しとなりました。
 阿久里は16日には赤坂今井町にある実家の三次浅野家に引き取られ、落飾して瑤泉院と称します。実はこの刃傷の時まで阿久里が暮らしていたのが、南部坂の赤穂浅野家下屋敷でした。 阿久里が実家に引き取られた直後、南部坂の屋敷は幕府が接収してしまいますので、あの大石内蔵助が訪れる、「南部坂雪の別れ」の名シーンはあり得ない、ということになります。残念ながら実録と創作の名シーンとは違います。
 その後、瑤泉院は赤穂浪士の討入りの後、遠島に処された浪士たちの遺児の赦免運動に奔走し、4年後に実現させています。そして正徳4年6月3日(1714年7月14日)、瑤泉院(ようぜんいん)が、三次浅野家下屋敷(現・赤坂氷川神社地)で亡くなりました。享年46。芝居上では顔世御前と呼ばれる。

主な赤穂浪士 討ち入り参加者

 大石内蔵助(おおいし くらのすけ);大石 良雄(おおいし よしお/よしたか 万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))、播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』では、大星由良之助義金(おおぼしゆらのすけ よしかね)として有名となる。
 延宝7年(1679)、21歳のときに正式な筆頭家老となる。しかし平時における良雄は凡庸な人物だったようで、「昼行燈」と渾名されており、藩政は老練で財務に長けた家老大野知房が担っていた。貞享4年(1686年)には但馬豊岡藩筆頭家老・石束源五兵衛の18歳の娘・りく(理玖。芝居ではお石)と結婚。元禄元年(1688)、彼女との間に長男・松之丞(後の主税良金)を儲けた。さらに元禄3年(1690)には長女・くう、元禄4年(1691)には次男・吉之進(吉千代とも)が生まれている。劇中のイメージとは違い痩せた小男で、理玖は大柄な女性だったので、俗に言うノミの夫婦であった。
 次々に江戸赤穂藩邸から国許赤穂へ情報が送られ、3月28日までには刃傷事件・浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。3月27日、家臣に総登城の号令がかけられ、3日間にわたって評定が行われた。
 赤穂浪士は本所吉良屋敷に討ち入った。表門は良雄が大将となり、裏門は嫡男大石良金が大将となる。2時間近くの激闘の末に、浪士たちは遂に吉良義央を探し出し、これを討ち果たして、首級を取った。本懐を果たした良雄たち赤穂浪士一行は、浅野長矩の墓がある泉岳寺へ引き揚げると、吉良義央の首級を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。

 大石主税良金(おおいしちから よしかね);大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少であり、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた。 芝居では大星力弥(おおぼし りきや)として登場。討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた。身長五尺七寸(約171cm)で、歳以上にふけて見えた。享年16。

 吉田忠左衛門兼亮(よしだちゅうざえもん);大石内蔵助に次いで事実上の副頭領。足軽頭兼群(こおり)奉行で裏門隊の副将を務めた兵学家。享年63。

 寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもん);四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である。 おそらくもともとは百姓で、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した。 討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった。 姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である。 芝居の中で浅野家の阿久里や国元の内蔵助家族に事実を伝えた。

 堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえ);江戸詰めの浪士の一人で、内匠頭の切腹の報を聞くと最初から吉良への仇討ちを主張したいわゆる江戸急進派の中心人物の一人である。 25歳の時に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した高田馬場の決闘で名を馳せ、吉良邸への討ち入りは生涯2度目の戦いとなる。享年34。

 堀部弥兵衛金丸(ほりべやへえ、やひょうえ);四十七士最高齢で享年77。 高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした。

 不破数右衛門正種(ふわかずえもん まさたね);元禄六年の分限帳によれば百石取りの普請奉行で、馬廻りであった。元禄10年浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していた。『翁草』によれば、数右衛門は墓地から死体を掘り返して試し切りをしていたのだが、これが噂となった為、不慮の事故が起こる前に路銀を取らせて暇をだしたのが浪人の原因だという。 浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加。吉良邸討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す。斬り合いのしすぎで刀がささらのようになり刃が無くなるほどだったという。享年34。

 矢頭右衛門七教兼(やとうよもしち のりかね);大石主税に次ぐ若年である。 刃傷後、父・矢頭長助とともに盟約に加わったが、大阪に移り住んだ頃から父が病に倒れ、帰らぬ人となったため、右衛門七のみが討ち入りに参加する。享年18。 討ち入りへの参加は、病に倒れていたころからの父の遺言であったという。

 武林唯七隆重(たけばやしただしち たかしげ);豊臣秀吉の朝鮮出兵の際捕虜になった中国人・孟二寛の孫で、祖父が中国浙江省の武林の出身だったことから姓を武林と名乗った。内匠頭の乳兄弟であり、後に内匠頭の中小姓として使えたが、十五両三人扶持の軽輩だった。唯七は上方では最も急進的な同志の一人であった。炭部屋で吉良発見の殊勲者。享年32。

 赤穂四十七士;表門隊(二十三士)= 大石良雄  大高忠雄  岡嶋常樹  岡野包秀  奥田重盛  小野寺秀富  貝賀友信  片岡高房  勝田武堯  神崎則休  武林隆重  近松行重  富森正因  間光興  早水満堯  原元辰  堀部金丸  間瀬正明  村松秀直  矢田助武  矢頭教兼  横川宗利  吉田兼定
 裏門隊(二十四士)= 大石良金 赤埴重賢  礒貝正久  潮田高教  大石信清  奥田行高  小野寺秀和  茅野常成  木村貞行  倉橋武幸  菅谷政利  杉野次房  千馬光忠  寺坂信行  中村正辰  間光延  間光風  不破正種  堀部武庸  前原宗房  間瀬正辰  三村包常  村松高直  吉田兼亮  (不参加)萱野重實

 『義士出立の図』 伝恵光和尚(元禄時代の花岳寺住職)筆 赤穂・花岳寺蔵。 右、表門隊 左、裏門隊

忠臣蔵に出てくる人達

 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり)、芝居では、塩谷判官高定で、伯州の城主。実際は播州赤穂五万三千五百石の城主。元禄八年に疱瘡の大病をしたので、多少アバタが残る。山鹿素行(やまが そこう)に軍学の弟子入りした程の尚武の大名。吉良上野介に城中で刃傷した為、芝・田村右京太夫邸で即日切腹。行年35。妻理玖。
 右図、長矩。

 吉良上野介義央(きらこうずけのすけ よしひさ);劇中では高武蔵守師直(もろなお)。高家筆頭。領地は三州吉良と上州一部で四千二百石。長男は上杉十五万石当主・綱憲。養子の義周は綱憲の次男。従って吉良の孫。将軍名代で宮中、日光代参等常に高家の模範。浅野内匠頭との間に遺恨を生じて殿中で被傷。翌年12月本所邸にて浅野家臣の襲撃を受けて絶命。62歳だった。

 吉良上野介の座像。吉良邸跡蔵。 愛知県吉良町にある菩提寺・華蔵寺の像を写したもの。

 萱野三平重実(かやのさんぺい しげさと);早野勘平のモデル。忠孝に挟まれ自殺。摂州萱野の人。行年28。

 梶川与惣兵衛賴照(かじかわよそべい よりてる);芝居の加古川本蔵。幕府奥留守居役。桃井若狭助の家老でも無く、小浪の父親でも無い。松の廊下で浅野内匠頭を抱き留めた人。お陰で加増があったが、周囲からよく言われなかった気の毒な旗本。享保8年没。77歳。

 戸名瀬・同娘小浪(となせ こなみ);芝居では加古川本蔵の妻と娘。架空の人。主税には、許嫁は居ない。筋を面白くするための創作人物。

 清水一学(しみず いちがく);芝居では鷺坂坂内。三州吉良では一学の事を坂内さんと呼ぶ。勿論芝居のような憎まれ者とは違う。幼年より吉良家に仕えた家臣。討ち入り当時25歳で戦死。

 二文字屋阿軽(にもんじや おかる);芝居では”おかる”。実在した女性だが、平右衛門の妹では無い。内蔵助の放蕩を止めんものと、一族の小山・進藤が側室に勧めた。内蔵助討ち入り切腹後、ひっそりと京都で死んだ。

 大野九郞兵衛知房(おおのくろうべい ともふさ);芝居では斧九太夫。赤穂藩家老。650石。赤穂城開城以前に分配金の問題で原惣右衛門と意見が衝突し、弟の岡島八十右衛門の面会強要に逃亡した。

 大野群右衛門(おおのぐんえもん);芝居では斧定九郞。父の九郞兵衛と一緒に逃亡したが、その時末娘を置き忘れたという。末路は父親と同じく哀れであった。

 天河屋義平(あまかわやぎへい);架空の人。大阪商人天野屋利兵衛がモデルと言うが、天野屋は実在したが赤穂義士とは何の関係も無い。

忠臣蔵(ちゅうしんぐら);歌舞伎で言う忠臣蔵は『仮名手本忠臣蔵』です。数々のストーリーがあり、歌舞伎の話ですから。いろいろな切り口が有ってストーリーが膨らんでいます。大部分の忠臣蔵ストーリーは創作であったり俗説であったりで実録ではありません。落語にも、歌舞伎をベースにした噺が数多く有りますね~。

 「淀五郎」、四段目切腹の場、淀五郎を抜擢したが不味い芝居、「由良之助、待ちかねた、近う近う」と言うが、
 「赤垣源蔵」、「義士銘々伝より 赤垣源蔵・徳利の別れ」は講談でお馴のもの。円生が落語にした。
 「中村仲蔵」、五段目の斧定九郎一役を、工夫して後世に残す。
 「元禄女太陽伝」、大石内蔵助の息子主税を男にしたのは、伏見一丁目栄澄楼の小春です。
 「九段目」、忠臣蔵九段目、桃井若狭之助の家老・加古川本蔵(かこがわほんぞう)の死。
 「七段目」、若旦那は芝居狂い。二階に上がると忠臣蔵七段目を演じ、小僧をおかるに見立て切りつけると、
 「四段目」(蔵丁稚)、忠臣蔵を観た小僧は蔵に、見てきた四段目切腹の場を熱演。それを見た女中が大慌て、
 「徂徠豆腐」、義士達の切腹を決めたという政策助言者、荻生徂徠の話。
 「忠臣ぐらっ」、義理で参加した武士もいた。屋敷の絵図が無ければ成功しない。町人も協力して・・・。
 「忠臣蔵」、浅野内匠頭が高家筆頭吉良上野介に殿中で刃傷に及んだ。柳昇式忠臣蔵

戸田局(とだのつぼね);「南部坂雪の別れ」での瑤泉院の側近。 阿久里が内匠頭の死後、瑤泉院となって赤坂南部坂の浅野式部少輔(あさのしきぶしょうゆう)の屋敷に住まうことになって仕えることになる。 ドラマによっては瑤泉院の幼少の時に世話をして、後家さんになって「再会」するというシチュエーションもある(「あゝ忠臣蔵」)。 おばさんで、キレもの風だが「南部坂雪の別れ」では大石の本心を見抜けなかった。 薙刀(なぎなた)の使い手。 小野寺十内の妹。 創作上の人。

間者(かんじゃ);スパイ。「南部坂雪の別れ」での紅梅という娘。

茶屋町(ちゃやまち);大石内蔵助は祇園の一力茶屋で遊んだ事になっているが、祇園が色街として脚光を浴びるのは享保17年ころからで、内蔵助がせっせと通ったのは伏見の橦木町(しゅもくちょう)だったと言われる。

 伏見の橦木町(しゅもくちょう);町名は道路の形が撞木(しゅもく、T字形)に由来する。江戸時代、伏見街道の墨染南部に遊里(遊廓)が設置され、当時は「恵美酒町」(えびすちょう)と称された。元禄期、山科に隠居していた大石内蔵助が出入りし、「笹屋」という揚屋で遊興したと伝えられる。 撞木町は京都の花街(遊廓)で最も小さな規模だった。天保の改革による取締りを受け、茶点女(ちゃたておんな、茶店で接待する女性)や飯盛女(めしもりおんな、旅籠で接待し売春をする娼婦のこと)を抱えることを禁じられたが、すぐに再開された。伏見港付近の柳町(のちの中書島)が栄えるようになり衰退するが、忠臣蔵ゆかりの場所として知られていたため存続していた。

 祇園の一力茶屋;京都市東山区祇園町南側569にある祇園一級のお茶屋さん。京都にある歴史的お茶屋で、四条通りと花見レーンの南東隅に位置し、玄関は祇園甲部地区の中心にある。 独占的でハイエンドな施設と認識されている。アクセスは招待のみ(一見さんお断り)である。その名声は 忠臣蔵で頻繁に知れわたるようになる。忠臣蔵用に創作された茶屋。下写真、一力茶屋入り口。

太夫を身請け(たゆうをみうけ);これから江戸で討ち入りをしなければならない身では、太夫のような花魁を身請け出来るような立場では無かった。実際には、二条寺町の二文字屋の娘”かる”を囲ったりしている。この話が祇園に身を売った勘平の女房”お軽”との交渉に虚構化されています。

三行半(みくだりはん);江戸時代において、離婚に際して、夫から妻へ交付される離縁状。三行半に書く慣習が江戸中期以降一般的となったために、この呼称が生じた。なお、離縁状の交付を必要とするのは、庶民のみであり、武士階級は届け出をもって足りるから、これは庶民法上の慣行である。「三行半」の法的効果は、その交付によって、男女双方とも再婚が可能となることである。したがって、「三行半」のなかには、離別宣言とともに、再婚許可文言が記されているのが通例である。
 右図、三行半の一例。

但馬国豊岡(たじまのくに とよおか);大石内蔵助妻理玖の実家。但馬国城崎郡周辺を領有した藩。藩庁は当初、豊岡城(現在の兵庫県豊岡市)のち豊岡陣屋。
 享保12年(1727)には江戸藩邸が全焼する不幸にも見舞われた。高永は藩政を立て直すべく、勝手方に倉持左膳を起用し藩政改革に当たらせた。彼の政策に反対した筆頭家老石束源五右衛門が藩を去るという事件が起きた。次の六代藩主高品の代になっても藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次いだ。

石束源五兵衛(いしつか げんごべい);源五兵衛の娘・理玖の親で大石内蔵助に嫁に出した義理の父親。豊岡藩の筆頭家老。通称は宇右衛門。息子・石束毎明(いしつか つねあき。次期筆頭家老。大石内蔵助の義兄で、良雄の妻・りくの兄)。

賢察(けんさつ);相手の推察の尊敬語。お察し。首相の心を忖度するのとは違います。

討ち入り;敵対する相手の家屋敷に無断で侵入し、襲撃をかけること。忠臣蔵の吉良邸に襲撃し、吉良上野介を殺害した事件が有名。



                                                            2020年11月記

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