落語「二度目の清書」の舞台を行く 立川談志の噺、「二度目の清書」(にどめのきよがき)より
■赤穂事件(あこうじけん);18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央を弑し、当夜に在邸の 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らも討った事件を指すものである。(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件」としている場合もある)。
■「南部坂雪の別れ」 あらすじ
南部坂(東京都港区赤坂谷町)
坂の名称は、江戸時代初期、近隣に南部家中屋敷があったことに因む。「忠臣蔵」の名場面、大石内蔵助が瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られる。
■長矩の正室・阿久里(あぐり);長矩を亡くしてからは瑤泉院(ようぜんいん)。浅野内匠頭長矩の正室・阿久里で、「忠臣蔵」の雪の南部坂の名場面でよく知られています。
延宝2年(1674)に備後三次(みよし)藩主・浅野長春の三女に阿久里は生まれたといわれますが、誕生は寛文9年(1669)であるとする説もあり、最近は後者の方が有力です。ここでは、寛文9年生まれとします。
延宝5年(1677)、播州赤穂藩主・浅野長矩との婚約が成立、6年後の天和3年(1683)に婚儀が行なわれ、15歳で長矩の正室となりました。阿久里は美しく、夫婦仲は睦まじかったといいますが、子宝に恵まれず、元禄8年(1696)に長矩の弟・長広を養子にします。これは同年、長矩が疱瘡を患って一時危篤となったための、緊急の措置でもありました。
元禄14年(1701)、阿久里33才の時、夫・長矩が江戸城松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだため、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は領地没収、城明け渡しとなりました。
■主な赤穂浪士
討ち入り参加者
大石内蔵助(おおいし くらのすけ);大石 良雄(おおいし よしお/よしたか 万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))、播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』では、大星由良之助義金(おおぼしゆらのすけ よしかね)として有名となる。
大石主税良金(おおいしちから よしかね);大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少であり、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた。
芝居では大星力弥(おおぼし りきや)として登場。討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた。身長五尺七寸(約171cm)で、歳以上にふけて見えた。享年16。
吉田忠左衛門兼亮(よしだちゅうざえもん);大石内蔵助に次いで事実上の副頭領。足軽頭兼群(こおり)奉行で裏門隊の副将を務めた兵学家。享年63。
寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもん);四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である。
おそらくもともとは百姓で、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した。
討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった。
姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である。 芝居の中で浅野家の阿久里や国元の内蔵助家族に事実を伝えた。
堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえ);江戸詰めの浪士の一人で、内匠頭の切腹の報を聞くと最初から吉良への仇討ちを主張したいわゆる江戸急進派の中心人物の一人である。
25歳の時に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した高田馬場の決闘で名を馳せ、吉良邸への討ち入りは生涯2度目の戦いとなる。享年34。
堀部弥兵衛金丸(ほりべやへえ、やひょうえ);四十七士最高齢で享年77。
高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした。
不破数右衛門正種(ふわかずえもん まさたね);元禄六年の分限帳によれば百石取りの普請奉行で、馬廻りであった。元禄10年浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していた。『翁草』によれば、数右衛門は墓地から死体を掘り返して試し切りをしていたのだが、これが噂となった為、不慮の事故が起こる前に路銀を取らせて暇をだしたのが浪人の原因だという。
浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加。吉良邸討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す。斬り合いのしすぎで刀がささらのようになり刃が無くなるほどだったという。享年34。
矢頭右衛門七教兼(やとうよもしち のりかね);大石主税に次ぐ若年である。
刃傷後、父・矢頭長助とともに盟約に加わったが、大阪に移り住んだ頃から父が病に倒れ、帰らぬ人となったため、右衛門七のみが討ち入りに参加する。享年18。
討ち入りへの参加は、病に倒れていたころからの父の遺言であったという。
武林唯七隆重(たけばやしただしち たかしげ);豊臣秀吉の朝鮮出兵の際捕虜になった中国人・孟二寛の孫で、祖父が中国浙江省の武林の出身だったことから姓を武林と名乗った。内匠頭の乳兄弟であり、後に内匠頭の中小姓として使えたが、十五両三人扶持の軽輩だった。唯七は上方では最も急進的な同志の一人であった。炭部屋で吉良発見の殊勲者。享年32。
赤穂四十七士;表門隊(二十三士)= 大石良雄 大高忠雄 岡嶋常樹
岡野包秀 奥田重盛 小野寺秀富 貝賀友信 片岡高房 勝田武堯 神崎則休 武林隆重 近松行重 富森正因 間光興 早水満堯 原元辰 堀部金丸 間瀬正明 村松秀直 矢田助武 矢頭教兼 横川宗利 吉田兼定
『義士出立の図』 伝恵光和尚(元禄時代の花岳寺住職)筆 赤穂・花岳寺蔵。 右、表門隊 左、裏門隊
■忠臣蔵に出てくる人達
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり)、芝居では、塩谷判官高定で、伯州の城主。実際は播州赤穂五万三千五百石の城主。元禄八年に疱瘡の大病をしたので、多少アバタが残る。山鹿素行(やまが そこう)に軍学の弟子入りした程の尚武の大名。吉良上野介に城中で刃傷した為、芝・田村右京太夫邸で即日切腹。行年35。妻理玖。
吉良上野介義央(きらこうずけのすけ よしひさ);劇中では高武蔵守師直(もろなお)。高家筆頭。領地は三州吉良と上州一部で四千二百石。長男は上杉十五万石当主・綱憲。養子の義周は綱憲の次男。従って吉良の孫。将軍名代で宮中、日光代参等常に高家の模範。浅野内匠頭との間に遺恨を生じて殿中で被傷。翌年12月本所邸にて浅野家臣の襲撃を受けて絶命。62歳だった。
吉良上野介の座像。吉良邸跡蔵。 愛知県吉良町にある菩提寺・華蔵寺の像を写したもの。
萱野三平重実(かやのさんぺい しげさと);早野勘平のモデル。忠孝に挟まれ自殺。摂州萱野の人。行年28。
梶川与惣兵衛賴照(かじかわよそべい よりてる);芝居の加古川本蔵。幕府奥留守居役。桃井若狭助の家老でも無く、小浪の父親でも無い。松の廊下で浅野内匠頭を抱き留めた人。お陰で加増があったが、周囲からよく言われなかった気の毒な旗本。享保8年没。77歳。
戸名瀬・同娘小浪(となせ こなみ);芝居では加古川本蔵の妻と娘。架空の人。主税には、許嫁は居ない。筋を面白くするための創作人物。
清水一学(しみず いちがく);芝居では鷺坂坂内。三州吉良では一学の事を坂内さんと呼ぶ。勿論芝居のような憎まれ者とは違う。幼年より吉良家に仕えた家臣。討ち入り当時25歳で戦死。
二文字屋阿軽(にもんじや おかる);芝居では”おかる”。実在した女性だが、平右衛門の妹では無い。内蔵助の放蕩を止めんものと、一族の小山・進藤が側室に勧めた。内蔵助討ち入り切腹後、ひっそりと京都で死んだ。
大野九郞兵衛知房(おおのくろうべい ともふさ);芝居では斧九太夫。赤穂藩家老。650石。赤穂城開城以前に分配金の問題で原惣右衛門と意見が衝突し、弟の岡島八十右衛門の面会強要に逃亡した。
大野群右衛門(おおのぐんえもん);芝居では斧定九郞。父の九郞兵衛と一緒に逃亡したが、その時末娘を置き忘れたという。末路は父親と同じく哀れであった。
天河屋義平(あまかわやぎへい);架空の人。大阪商人天野屋利兵衛がモデルと言うが、天野屋は実在したが赤穂義士とは何の関係も無い。
■忠臣蔵(ちゅうしんぐら);歌舞伎で言う忠臣蔵は『仮名手本忠臣蔵』です。数々のストーリーがあり、歌舞伎の話ですから。いろいろな切り口が有ってストーリーが膨らんでいます。大部分の忠臣蔵ストーリーは創作であったり俗説であったりで実録ではありません。落語にも、歌舞伎をベースにした噺が数多く有りますね~。
「淀五郎」、四段目切腹の場、淀五郎を抜擢したが不味い芝居、「由良之助、待ちかねた、近う近う」と言うが、
■戸田局(とだのつぼね);「南部坂雪の別れ」での瑤泉院の側近。
阿久里が内匠頭の死後、瑤泉院となって赤坂南部坂の浅野式部少輔(あさのしきぶしょうゆう)の屋敷に住まうことになって仕えることになる。
ドラマによっては瑤泉院の幼少の時に世話をして、後家さんになって「再会」するというシチュエーションもある(「あゝ忠臣蔵」)。
おばさんで、キレもの風だが「南部坂雪の別れ」では大石の本心を見抜けなかった。
薙刀(なぎなた)の使い手。
小野寺十内の妹。 創作上の人。
■間者(かんじゃ);スパイ。「南部坂雪の別れ」での紅梅という娘。
■茶屋町(ちゃやまち);大石内蔵助は祇園の一力茶屋で遊んだ事になっているが、祇園が色街として脚光を浴びるのは享保17年ころからで、内蔵助がせっせと通ったのは伏見の橦木町(しゅもくちょう)だったと言われる。
伏見の橦木町(しゅもくちょう);町名は道路の形が撞木(しゅもく、T字形)に由来する。江戸時代、伏見街道の墨染南部に遊里(遊廓)が設置され、当時は「恵美酒町」(えびすちょう)と称された。元禄期、山科に隠居していた大石内蔵助が出入りし、「笹屋」という揚屋で遊興したと伝えられる。
撞木町は京都の花街(遊廓)で最も小さな規模だった。天保の改革による取締りを受け、茶点女(ちゃたておんな、茶店で接待する女性)や飯盛女(めしもりおんな、旅籠で接待し売春をする娼婦のこと)を抱えることを禁じられたが、すぐに再開された。伏見港付近の柳町(のちの中書島)が栄えるようになり衰退するが、忠臣蔵ゆかりの場所として知られていたため存続していた。
祇園の一力茶屋;京都市東山区祇園町南側569にある祇園一級のお茶屋さん。京都にある歴史的お茶屋で、四条通りと花見レーンの南東隅に位置し、玄関は祇園甲部地区の中心にある。
独占的でハイエンドな施設と認識されている。アクセスは招待のみ(一見さんお断り)である。その名声は 忠臣蔵で頻繁に知れわたるようになる。忠臣蔵用に創作された茶屋。下写真、一力茶屋入り口。
■太夫を身請け(たゆうをみうけ);これから江戸で討ち入りをしなければならない身では、太夫のような花魁を身請け出来るような立場では無かった。実際には、二条寺町の二文字屋の娘”かる”を囲ったりしている。この話が祇園に身を売った勘平の女房”お軽”との交渉に虚構化されています。
■三行半(みくだりはん);江戸時代において、離婚に際して、夫から妻へ交付される離縁状。三行半に書く慣習が江戸中期以降一般的となったために、この呼称が生じた。なお、離縁状の交付を必要とするのは、庶民のみであり、武士階級は届け出をもって足りるから、これは庶民法上の慣行である。「三行半」の法的効果は、その交付によって、男女双方とも再婚が可能となることである。したがって、「三行半」のなかには、離別宣言とともに、再婚許可文言が記されているのが通例である。
■但馬国豊岡(たじまのくに とよおか);大石内蔵助妻理玖の実家。但馬国城崎郡周辺を領有した藩。藩庁は当初、豊岡城(現在の兵庫県豊岡市)のち豊岡陣屋。
■石束源五兵衛(いしつか げんごべい);源五兵衛の娘・理玖の親で大石内蔵助に嫁に出した義理の父親。豊岡藩の筆頭家老。通称は宇右衛門。息子・石束毎明(いしつか つねあき。次期筆頭家老。大石内蔵助の義兄で、良雄の妻・りくの兄)。
■賢察(けんさつ);相手の推察の尊敬語。お察し。首相の心を忖度するのとは違います。
■討ち入り;敵対する相手の家屋敷に無断で侵入し、襲撃をかけること。忠臣蔵の吉良邸に襲撃し、吉良上野介を殺害した事件が有名。
2020年11月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |