落語「煙草好き」の舞台を行く
   
 

 

 柳家喜多八の噺、「煙草好き」(たばこずき)より


 

 たばこ好きな職人風の若い男が、六郷の渡しあたりの土手に腰かけて、自慢の特製の大きなキセルで”プカ~リ、プカ~リ”と一服している。
 そこに六十位の背負い小間物屋のような商人風の男が近づいて来て、「若い衆さん、すまないが隣に腰掛けさして貰っても好いかね」、「どうぞ・・・」、「お前さんは参詣の帰りかぃ。大きな立派なキセルですな。お見受けするところ、あなたはたいそう煙草がお好きな様でございますな」、「煙草にはずいぶん金をつぎ込みました」、「で、日にどれ位のむね」、「少なく見ても2斤はのみますね」、「へ~・・・、たったッ。そんな大きな雁首でのんだら味は分からない。葉によってキセルは変えるもんだ。また、点ける火も佐倉炭が一番だ」、「色々言われますが、煙草入れを下げていませんね」、「煙草入れか? この背負っている荷が煙草入れだ」、「その荷が・・・」、「この中には日本中の煙草が入っている。それに合わせてキセルも色々あって、下段には佐倉炭が埋けてあるんだ」、「火を背負って歩いてるんですか。お不動様みたいな人ですね」。
 「私の自慢の煙草があるんだ。のんでみるかぃ」、「ご馳走になります」、「これの産地が分かるかどうかやって見な」、「いただきます」、「(旨そうに、スパ~ッ)ん、これは甲州の”いくさか”ですな」、「そうだよ。見所があるな。今度はこれだ、分かるかな?」、「(スパ~~)これは、野州の”ノグチ”」、「ん、ん、好い若いもんを見つけた。これは?」、「(スパ~~)チョット堅めだな。”タテ”ですな」、「タテにも色々あるが・・・?」、「上州ですな」、「そうだ、そうだ。これはどうだ?」、「(スパ~~)これは長崎の”亀印”」、「これは?」、「(スパ~~)これは国分の”くるまだ”だ」、「そうだ、そうだ、これもやんな」、これもやんなと、立て続けに150服もやったので、目がクラクラしてきた。
 「チョ、チョット一休みさせてください」、「そうか、ま、一服やんな」、「そうじゃないんです」、「まだ、お前さんに飲んで貰いたい煙草が、半分以上あるんだ」、「命が無くなる。タスケテクレ~」、「逃げちゃダメだよ」、荷をまとめて、爺さん追いかけてきた。「渡し船がある。あれに乗って逃げよう。船を出してくれッ」、「ダメだよ。今着いたばかりで、一服してそれからだ。他に客が居ないから」。
 「その船待ちなッ」、「丁度良い。あの爺さん乗せたら出すよ」、「ダメだよ、乗せたら。だったら、1朱出すから出してくれ」、「1朱も出すなら出すよ。しっかりつかまっていな」、「その船戻せ。その若者に用があるんだ」、「客から1朱貰ったから向こうに着いたらすぐ戻すよ」、「1朱?2朱出すから」、「じゃ~、戻すか」、「ダメだよ。1分出すから・・・」、金額が上がって1両で向こう岸に着いた。

 「船頭さん、ダメだよ。迎えに行っちゃぁ~」、「しょうが無い。どこかに隠れなくっちゃ。あすこのお寺にかくまって貰おう」、「どうした?」、「お助け下さい。煙草を飲めと追ってきます」、「人助けも仏の道。かくまってやろう。静かにしておれ。あの爺さんだな」、「おたの申します。大きなキセルを持った若いのがここに転がり込んだのを・・・、出して欲しい」、「その様なことは覚えが無いが・・・」、「そんなことはありません。山門を入ったのを見ているんです」、「そうか、その若者だったら、駆け抜けて、裏の木戸から街道に出て行ったよ」、「待ちやがれッ」、「もう大丈夫だ。出て来てもいい」、「ありがとうございます。助かりました」、「天狗か何かが爺さんに化けて、煙草の害を訴えたのであろう。趣味のものだが、ほどほどに・・・、な」、「二度と煙草はやりません」。
 回りも薄暗くなってきて、人通りも少なくなってきた。「ハァ~、爺さんもどっかに行ったな。それにしてもホッとしたよ。ホッとしたところで、一服やるかな~」。

 



ことば

佐倉炭(さくらずみ);炭は古くから日本人の貴重な燃料として親しまれてきました。炭は燃焼ガスが少なくて火持ちが良く、しかも遠赤外線を発生させて素材の旨味を逃さず焼くため、炭は現代に於いても一級の味を求める料理店では欠かせない燃料として愛用されています。
 千葉県佐倉地方で産出する木炭。クヌギ材を蒸焼きにして製した良質の黒炭。寛政年間、小金ヶ原周辺で生産しはじめ、佐倉藩領内で多く産した。茶の湯などに用いられる。「桜炭」とも書くが当て字。

黒門町の煙草コレクション;マクラで語られた八代目文楽のコレクション
 八代目 桂 文楽(かつら ぶんらく、1892年(明治25年)11月3日 - 1971年(昭和46年)12月12日)は、東京の落語家。本名、並河 益義(なみかわ ますよし)。自宅住所の住居表示実施以前の旧町名から、「黒門町(くろもんちょう)」「黒門町の師匠」と呼ばれた。 落語における戦後の名人のひとりといわれ、2歳年上の五代目古今亭志ん生と併び称された。五代目志ん生の八方破れな芸風とは対照的に、細部まで緻密に作り込み、寸分もゆるがせにしない完璧主義により、当時の贔屓を二分する人気を博した。 演じた演目の種類は多くはなかったが徹底的に練りこまれているとの定評がある。 

八代目・桂文楽のたばこ入れとキセル

八代目・桂文楽

『蔵出し! コレクションあれこれ』(たばこと塩の博物館)より

  八代目・桂文楽(1892〜1971年)は、落語界で初の紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受賞するなど、数々の栄誉を受けた昭和を代表する噺家でした。『悋気(りんき)の火の玉』は彼の十八番でしたが、その華やかで艶のある芸風は没後も根強い人気を誇っています。
  少年時代にたばこ入れ屋で奉公していたこともある文楽は、たばこ入れやキセルの収集が楽しみの一つでした。噺家がたばこ入れを提げて楽屋入りしていた時代には、皆が品を見せ合って、気に入ったものを交換したりしたそうですが、彼の楽しみは、ただ収集するだけでなく、筒や袋にはじまり、留め金にさげ緒の玉、キセルの雁首、吸口と、それぞれ好みのものを職人に頼んで一つのものに仕立ててもらうことでした。


籐編菖蒲革(とうあみしょうぶがわ)縁取り腰差したばこ入れ

文楽が師匠である五代目・柳亭左楽(りゅうてい・さらく)に譲って
もらったというもの。オタマジャクシの形をした前金具の裏側は、
金の延べ板で留められている。見えないところに金を使うところは、
まさに“江戸の粋”。


金唐革(きんからかわ)腰差したばこ入れ

金唐革とは、ヨーロッパで壁紙などに使われていた革のことで、

革に金属箔が貼られていたことから、この名がある。江戸時代に

オランダから輸入され、珍しかった洋風の柄が人気を博した。

このたばこ入れの筒と前金具には、ともに蛙があしらわれている。



菖蒲革(しょうぶがわ)腰差したばこ入れ

菖蒲革とは、藍色や茶色に染めた生地の上に、菖蒲や馬などのモチーフ

を、白い模様として染めた鹿のなめし革のこと。菖蒲と“尚武”“勝負”の

音が通じることから、武士が好んで武具に用いた。筒と前金具には、

ともに牡丹があしらわれている。


古渡縞木綿(こわたりしまもめん)腰差したばこ入れ

グロテスクな前金具は海鼠(なまこ)をかたどったもの。海鼠は、

その形が米俵に似ていることから豊作を意味する吉祥(きっしょう)

の意匠だったが、これは見た目の意外性を狙ったのかもしれない。


印伝革(いんでんがわ)腰差したばこ入れ

印伝革とは、原産国のインドが変じて“印伝”と呼ばれるようになった

羊や鹿のなめし革のこと。筒と前金具にある鶉(うずら)は、その鳴

き声が“御吉兆(ごきっちょう)”と聞こえることから縁起のいい鳥と

されていた。

古渡白地鶏頭更紗(しろじけいとうさらさ)腰差したばこ入れ

更紗とは、インドや東南アジアから伝来した、型紙などを用いて染めた

綿布のこと。この更紗にある柄は夏から秋にかけて咲く鶏頭(けいとう)

の花。その季節に合わせるように流水模様の団扇(うちわ)の形をした

前金具が付く。こうした取り合わせも文楽によるものかもしれない。

 

上下銀胴鍍金刀豆形有職文(じょうげぎんどうときんなたまめがたゆうそくもん)きせる

刀豆(なたまめ)形キセルとは、懐中に入れて持ち運びしやすいように扁平な形にしたキセル。刀豆に似ていることからこの名がある。

四分一四所銀石州形(しぶいちししょぎんせきしゅうがた)月に河童図きせる

雁首に月、吸口に河童の絵柄が施されている。

四所銀胴魚々子地銀(ししょぎんどうななこじぎん)・赤銅削継石州形牡丹文(しゃくどうそぎつぎせきしゅうがたぼたんもん)

     

 

     カラクリ箪笥

文楽が特別注文で作らせた箪笥。この中にコレクションのたばこ入れ

を収納した。一番上と下の引き出しを抜いて、内側の閂(かんぬき)

を上げないと、残りの引き出しが引き出せない仕掛けになっている。

黒漆の上に朱漆を重ねて磨きだした木目の化粧面が美しい。

 

   この項、煙草と塩の博物館より。

 全て八代目桂文楽が所有していたものです。現在はその一部がこの博物館に所蔵されています。

煙草の葉の耕作は、”薩摩たばこは天候で作り、秦野たばこは技術で作る。水府たばこは肥料で作り、野州たばこは丹精で作る”、といわれる。

甲州の”生坂(いくさか)”;甲斐国=山梨県の生坂地方産の煙草。

野州の”野口(ノグチ)”;野州=栃木県野口で生産された煙草。

上州の”館(タテ)”;上州=群馬産の館煙草。

長崎の”亀印”;長崎産の亀印煙草。

国分の”車田(くるまだ)”;薩摩の国分(こくぶ=国府)産の煙草は江戸時代、最も高級な煙草として有名。  

煙草(たばこ);タバコの直接の語源は、スペイン語やポルトガル語の「tabaco」である。 タバコ自体は紀元前5000 - 3000年ごろ南米のアンデス山脈で栽培されたのが起源で、15世紀にアメリカ大陸からヨーロッパに伝えられたものであるが、それ以前からスペインでは薬草類を"tabaco"と呼んでいた。しばしばアメリカ・インディアンの言葉が語源であると言われるが、それは誤りである。 スペイン語の"tabaco"は、古いアラビア語で薬草の一種を示す"tabaq"という言葉が語源であるとみられている。
 タバコはナス科タバコ属(Nicotiana)の南アメリカの熱帯原産の植物で、栽培種としては一年草として扱われているが、原産地ではもともと多年草である。
 葉は約30cmの大きさの楕円形。葉は30枚から40枚が着生し、このうち、葉たばことして採取するのは約6割である。これは位置によってニコチンの含有量が異なるためである。日本国内では葉を5種類に区別し、上葉は6%程度、下葉は1%程度のニコチンを含む。葉の表面には液を分泌する細胞があり、特有の臭気を帯びる。また、葉には腺毛が多数あり、空気中のポロニウム210を吸着することが知られている。
 全草にニコチンを含んでおり、誤食すると嘔吐や下痢などの症状を起こす。また、誤食により筋肉のけいれんや麻痺といった症状が現れることがある。
 両切りたばこや刻みたばこの時代に主流を占めていた在来種は現在、熊本県を中心とする九州山地一帯、福島県、栃木県、茨城県、徳島県で、5品種が僅かに栽培される程度である。

 日本の煙草は、幕府や藩の専売とすることで次第に許可されていく。江戸中期には煙草の値下がりと共に庶民への喫煙習慣も広まって行くことになる。宝暦年間には、庶民用の煙草10匁(約38g)が8文程度であった記録が残されている。また、この時期に煙管、煙草盆、煙草入れなどの工芸品が発達した。

  

 「国府煙草七種の評并(ならび)に讃」 春木南溟画 聞き煙草の図。

六郷の渡し(ろくごうの わたし);東京と神奈川県の県境・多摩川を渡る旧東海道に有った渡し。   
  第一京浜国道に架かる六郷橋の所にあった渡しで”六郷の渡し”。江戸側は今の国道に沿って旧東海道があり、土手に突き当たって降りた所が船着き場でした。川崎側は今の六郷橋の下あたりです。
 六郷橋は家康が慶長5年(1600)架橋。六郷橋は千住大橋についで古く。最初の長さは108間(196.6m)であったが、貞享元年(1684)に改修された橋は4m長くなり、両側に高欄(擬宝珠)の付いた立派なものであった。当時の規模も大きく橋幅も4mほどであった。橋の工事は、多摩川の流路を変える堀をほるなど大工事であった。六郷橋は両国・千住の大橋と共に「江戸三大大橋」と呼ばれた。その後破損修復を繰り返しながら貞亨(1688)の洪水で流失以降架橋は絶え、交通は六郷の渡しに依る事になります。当初渡し船の運営は幕府の直営で行われましたが、その後江戸町人の請負となり、宝永6年(1709)川崎宿が幕府からその運営を任せられます。
  明治7年(1874)八幡塚村の元名主であった鈴木左内が有料の橋を建設。別名左内橋と呼ばれ、この時から渡船が無くなります。私財を投じて建設した左内橋も、たびたびの災害による補修で金食い橋と呼ばれたが、完成から約5年後大洪水によって橋は流され、短い寿命を終えてしまった。その後は、また渡しに逆行してしまった。数度の流失に耐えて現在の橋が建設されています。
 左図、東海道五十三次 川崎   六郷のわたし 広重 1849頃。

 落語「蜘蛛駕籠」より

キセル;刻み煙草を飲むための喫煙具。刻み煙草を詰める火皿(椀形の部分)に首のついた「雁首」(火皿の付け根から羅宇と接合する部分まで)、口にくわえる部分の「吸い口」、それらをつなぐ管の「羅宇」(らう/らお)にわけられる。また、羅宇の語源は、羅宇国(現在のラオス)の竹(黒斑竹)を使用していたことによるというのが定説です。なお、上記の様な区分けがなく全て繋ぎ目なく繋がっているものは「延べ(延べ煙管)」という。

左、茶人石州候が好んだ形で、最も一般的な形のひとつ

 参詣の帰り(さんぱいのかえり);参拝に行ったのは川崎大師です。
 川崎大師:(神奈川県川崎市川崎区大師町4番48号)。  正式には「真言宗智山派 大本山金剛山金乗院平間寺 川崎大師」と言い、 厄よけ大師 として有名です。 本尊;厄除弘法大師。 宗祖;弘法大師空海。 中興の祖;興教(こうぎょう)大師覚鑁(かくばん)上人。嘉保 2年(1095)6月17日~康治2年(1143)7月没、49歳。
 お土産に「くず餅」、 「厄除け達磨」が人気です。毎年正月初詣の参賀の人出は全国 ベスト3で、255万人が初詣に来るビックな神社ではなくお寺さんです。

2斤(2きん);日本では、通常は1斤=16両=160匁とされる。= 600g。 2斤では、1.2kgで、凄まじい目方になります。
 食パンでは、1斤の重さって『340g以上』なら良いというざっくりした日本独自ルールです。

雁首(がんくび);上図、キセルの中の図で、火皿の付いた金属部分を言います。

煙草入れ(たばこいれ);刻みたばこを入れるための袋物。江戸時代初期のころは、刻んだたばこは白い奉書の紙に包むのが上品とされたが、屋外で働く人は手製の巾着(きんちゃく)に入れてきせるに結び、腰に提げた。また鉄砲の弾丸を入れた胴乱(どうらん)を改造して用いる人もあり、しだいに庶民の間に広がって上流階級にも及んだが、武士は印籠(いんろう)を提げるため懐中用を使っていた。たばこ入れの形には、
 (1)一つ提げ 巾着または胴乱を根付(ねつけ)で提げるもの、
 (2)腰差 巾着または胴乱にきせる筒をつけ、きせる筒で腰に差すもの、
 (3)提げ 胴乱にきせる筒もあるが根付で別に提げるもの、
 (4)懐中用 革製もあるが、おもに布製の二つ折りで、共裂(ともぎれ)のきせるを入れる袋がつき、婦人用が多い、
 (5)とんこつ 雨にぬれても中身のたばこが湿らないように木製と金属製があり、一つ提げと腰差形がある、
 (6)袂落(たもとおと)し 布または竹、籐(とう)で編んだ小さな袋2個を、鎖または紐(ひも)でつないで両方の袂へ肩から提げるが、一方の袋には懐中用の小形たばこ入れを、もう一方の袋には手拭(てぬぐい)などを入れる。
 たばこ入れはとかく置き忘れることが多いので、このようにさまざまな形があった。
 胴乱には金唐革(きんからかわ)、印伝革(いんでんがわ)が使われたが、これらは当時輸入品で高価なため、裕福な人たちのたばこ入れになった。庶民の多くは、一見革製にみえるが和紙に桐油(とうゆ)を塗ったり、渋(しぶ)を拭(ふ)いて柿(かき)色に染め、革まがいにしわをつけたものを使っていた。江戸時代後期になると、国産の革製もできて、たばこ入れは身につける唯一のアクセサリーとなり、胴乱の蓋(ふた)に著名な彫金師のつくった留め金具を用いたり、きせる筒の材質にも凝るようになった。明治時代には胴乱、金具、緒締(おじめ)、筒の組合せに粋を凝らした工芸品もつくられたが、いまでは好事家(こうずか)の収集品になっているにすぎない。両切りたばこの出現とともに、金属製のシガレット・ケースにとってかわられている。

 
 『蔵出し! コレクションあれこれ』(たばこと塩の博物館)より

 きざみ煙草は以下のようにして吸います。
  1.細く刻まれた繊維状の刻みたばこを適当な大きさに丸める。
  2.雁首の火皿に丸めたたばこを詰める。袋物のたばこ入れの中に雁首を突っ込んで詰める人もいる。
  3.煙草盆の炭火に雁首を近づけて火を点ける。 たばこをそっとゆっくり喫う。
  4.たばこが燃え尽きて煙が出なくなったら、煙草盆の灰吹きのふちを軽く叩くなどして灰を落とす。
    江戸っ子は未練たらしく何時までも吸っていないで、二口吸ったら灰吹きに落とす。
  5.火皿に灰が残っていたら空吹きをして灰を飛ばす。
  6.火皿一杯で満足できない場合は、前項を繰り返す。
 燃え尽きる前の火のついた灰の塊を掌に載せ、それが消える前に新しいたばこを火皿に詰め、掌の燃えさしで着火し、連続して喫煙する人もいる。

お不動様(おふどうさま);不動明王(ふどうみょうおう)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。大日如来、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、金剛愛染明王らと共に祀られる。
 ひたすら精進努力いたします。 お不動さまは、一瞬たりとも弱まることのない燃えさかる火焔の中に住しています。この御姿を通して、日頃の努力を怠らず、積み重ねていくことで道が開かれることを示しています。
 右、不動尊。背中に火炎を背負っています。

刻みたばこ; 刻みと呼ばれているが、紙巻きたばこの中身のように細かく刻まれたものではなく、干した葉を重ねて包丁もしくはカンナで糸のように細く切ったもの。世界のたばこ製品の中で最も加工度が低いものの一つで、タバコ葉本来の味が楽しめるとして熱心なファンが多い。 江戸時代には、手間賃を取って葉タバコを刻む賃粉切りという職人がいた。専売制が実施される前は個人経営のたばこ店がそれぞれの刻みたばこを製造販売し、何千種類もあったが、専売制の下でマスプロ化が進んだことと、紙巻きたばこの消費増大で需要が減ったことで数銘柄からさらには1銘柄に減り、ついには国内での製造が打ち切られた。しかし日本の伝統文化として復活と存続を望む声が多かったため、たばこ農家に在来種の栽培再開を依頼し、『こいき(小粋)』という1銘柄ではあるが昔ながらの良質の刻みたばこが復活した。

渡し船(わたしぶね);江戸時代、東海道の馬入川(現在の相模川)の例でいうと、人を20人まで乗せる小船、馬を乗せる馬船、大型で荷物を運べる平田船が常備されていた。 東海道が多摩川を渡る六郷大橋は度々洪水で流され、1688年(貞享5年)以後は再建を断念し、六郷の渡しが定着した。

 上写真、矢切の渡し、(千葉県松戸市~東京都葛飾区) 江戸川左岸の松戸市矢切(やきり、やぎり)地区と右岸の東京都葛飾区柴又を結ぶ。民営(個人運営)。有料(大人200円、子供100円 平成24年10月より料金改正)。 かつて江戸幕府が江戸川の渡しとして指定し、農民の管理により運営されていた航路のうち最後の一つ。
 この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちの一つであり、観光用途に設けられたものではない。かつては官営だったが、その後は民営となり、明治初期から杉浦家が船頭を務めて運営している。 この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によるところが大きい。現在、矢切にはこの小説の文学碑が建立されている。また、歌謡曲「矢切の渡し」の大ヒットや、矢切の対岸の柴又を舞台とする映画『男はつらいよ』でも脚光を浴びた。『男はつらいよ』シリーズでは、1969年公開の第一作で渥美清演じる主人公車寅次郎が帰郷のため乗船する場面以降しばしば登場する。

1朱~1両(1しゅ 1りょう);江戸時代の金貨の呼称単位は、小判一枚が金1両。その下は、分(ぶ)と言って、1両の1/4が1分と言われた。その下の単位は、朱(しゅ)と言って1分の1/4で、金貨ではこの単位が最小です。全て4進法で、逆から見たら、4朱で1分、4分で1両です。



                                                            2020年12月記

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