落語「夢の富」の舞台を行く
   

 

 二代目三遊亭円歌の噺、「夢の富」(ゆめのとみ)より


 

 正月の三が日は浮き足だって楽しいもので、7日とも成れば七草がゆを食べます。15日になれば藪入りです。でも、暮れが押し迫ってくると気ぜわしさと年越しの準備があります。今で言う宝くじ、当時は大富と言って千両が当たると言い、半纏を質に置いても買ったものです。運のいい人は大富に当たると千両、中富で五百両が入るのですから、その人気は大変なものです。

 「ただいまッ。貴方、暗い中でどうしたの。風邪引いちゃうよ。喧嘩でもしたのかぃ。どうしたんだぃ」、「悔しいな。話してもしょうが無い」、「夫婦だろ。どうしたの?」。
 「鉄に会ったんだ」、「あんたの友達の中で鉄公程嫌いな人は居ないよ。会えば、『富くじ買え』とウルサいんだ、そのくせ当たったと聞いたことが無いんだ」、「ま、聞け。鉄に会ったら『兄貴には世話になっているから、ご恩返しに、富札半分買わないか』と言うんだ。『今回は占いの先生が、大金が転がり込むと言ったんだ。で、世話になっている兄貴に恩返しが出来る』。だから半分買えと言うが、女房に聞いてからだと言ったら『お前が働いた金だろう。嫌なら良いんだ、他の奴にこのいい話を持って行く。千両で半分の五百両、五百両当たれば半分の250両に分ければ誰だって買う。お前は一生涯、板削っていろッ』。そこまで言われると俺だって、じゃぁ~、半分乗るよと言ったら『じゃぁ、とは何だッ、乗る人はいっぱい居るんだ。兄貴にと思って最初に持って来たんだ』、チョット待てお前の気持ちは分かったからこの金持って行け。鉄に金を握らせると、俺は良かったと思った」、「馬鹿だね~」、「八卦見が当たると言ったんだ」、「八卦見が当たるなら、八卦見が買うよ」。

 「で、今日、親方に暇貰って湯島に行ったら人でいっぱいなんだ、中富になったが当たらない。大富の当たりは”1688番”で札を見ると1688、当たったよ」、「へ~ぇ」、「千両富に当たったんだ」、「運のいい人があるんだね」、「二人で買った富が当たったんだ。持って行くと今なら、二割引いて八百両だというので、半分ずつにして400両貰ったんだッ」、「えッ、そしたら千両当たったんだね」、「やっと分かってきたな」、「400両見せて」、「俺も酒屋に入って気を落ち着かせたんだ。池之端に行ったんだ。そこにピカッと光ったものが有った」、「小判かぃ」、「匕首を持って頬被りをした奴が『湯島から着けてきた、400両を出すか、匕首を腹にずぶりと刺して池に投げ込む。そこでナマズに食われるか、どっちにする』。と言われてナマズは嫌いだから400両出した」、「金を出したのかぃ」、「ナマズは嫌いだけど、金は働けば出来る」、「盗人の声を聞いたら、聞き覚えのある声なんだ」、「石川五右衛門かい」、「鉄の野郎だ」、「鉄の野郎か。待ち伏せして400両取ったんだね」。

 「そこで駆け出そうと思ったら、お前が『何してるんだぃ、風邪引いちゃうよ』と言うので、目が覚めたんだ」、「お前さん、それは夢かぃ。あきれたねッ。二日間の夢を見たのかぃ。私、鉄さんのとこ行ってくる。あれ~、鉄さんあっちからやってくるよ。図々しい奴だね。鉄さん、良くこの家にやって来れたね、お入りッ」、「何でぇ~」、「とぼけるんじゃ無いよ、池之端のこと忘れたんじゃ無いだろうね」、「池之端がどうしたんだぃ」、「とぼけちゃいけないよ。大富で400両ずつ分けて、それを池之端で匕首を出して取り返したんだろッ」、「さっぱり分からない。出直してくるよ」、「とぼけんなよ。金持ってくるのかぃ」、「家に行ってぐっすり寝て、夢を見てそれからお前の所に挨拶に来る」。

 



ことば

二代目三遊亭円歌(さんゆうてい えんか);(1890年4月28日 - 1964年8月25日)本名は田中 利助(たなか りすけ)。出囃子は『踊り地』。新潟県新潟市出身。新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学校卒業の高学歴で、家は洋館三階建ての裕福な両替屋であったが、祖母が米相場で失敗して破産し、神奈川県横浜市で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで北海道札幌市に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。 北海道に移り住んだ後は旅回りの一座に入り、勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽市で巡業中の二代目三遊亭小圓朝に見つかり、それがきっかけとなり落語家の道に入る。
 非常な努力の末、新潟訛りと吃音を克服、普段の会話では吃り癖が残っていたが、高座に上がると弁舌さわやかに切り替わる名人ぶりを見せた。ただし高座の最中、不意に吃りが出ると扇子が痛むほど床で調子を取っていた。 モダンで明るく艶っぽい芸風で、女性描写は絶品であった。艶笑小噺もよく演じた。残された音源では放送禁止用語が連発されているものの、嫌らしくは聞こえないなど、かなりの力量を持った噺家であった。また高座では手拭いではなくハンカチを使い、腕時計を女性のように内側に向けて着けたまま演じていた。余芸で手品の披露をしたこともある。
 70歳を過ぎても自ら進んで刑務所や老人ホームや町内会の慰問に出かけた。
 1963年、落語協会副会長に就任。その後、健康上の理由から落語協会会長を退いた志ん生の後任として円歌を推す動きがあり、本人も意欲を示していたが、志ん生が芸の力量を優先して六代目三遊亭圓生を会長に推薦したため、対立を避けるために志ん生の前任の会長であった八代目桂文楽が会長に復帰し、円歌は副会長に収まったという経緯がある。
 腎臓病を患っており、1964年7月末にフジテレビの演芸番組に出演中に倒れ、結局は会長就任がかなわぬまま、8月25日に尿毒症で死去。享年74。没後、副会長職は圓生が引き継いだ。

七草がゆ(ななくさがゆ);春の七草や餅などを具材とする塩味の粥で、その一年の無病息災を願って1月7日に食べられる。正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休める為とも言われる。
 

 写真、向島百花園にて。地方によっては入れる具が違っていたりするが、関東地方の例では、
 1月6日の夜、あらかじめ用意したセリ、ナズナ、ゴ(オ)ギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの「春の七草」をまな板の上に載せ、以下の歌を歌いながらしゃもじやお玉杓子、包丁の背などで叩いて細かくする。
 『七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に ストトントン』
  明けて7日の朝に粥を炊き、叩いた七草と塩を入れて七草粥にする。そして朝食として食べる。 七草粥は新年の季語とされる。 現在では、七草をセットした商品が、多くの八百屋など小売店にて販売される。 七種の節句とはこの七草がゆを食べる行事を言う。
 落語『七草』に詳しい。

藪入り(やぶいり);かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が実家へと帰ることのできた休日。旧暦1月16日と旧暦7月16日がその日に当たっていた。7月のものは「後(のち)の藪入り」とも言う。
 藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代である。本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされるが、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じた。関西地方や鹿児島地方ではオヤゲンゾ(親見参)などと呼ぶところもある。六のつく日に行われることから、関西では六入りとの呼び名もある。
 藪入りの日がこの二日となったのは、旧暦1月15日(小正月)と旧暦7月15日(盆)がそれぞれ重要な祭日であり、嫁入り先・奉公先での行事を済ませた上で実家でも行事に参加できるようにという意図だったとされる。そのうちに、地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる賽日であるとされるようになり、各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになった。
 落語『藪入り』に詳しい。

富興行(とみこうぎょう);江戸の三富と称されたのが谷中感応寺(のちの・天王寺)、湯島天神、目黒不動でしたが、寛政二年で江戸では他に22社寺でも催されました。幕府では財政ひっ迫の折り援助もまま成らず、寺社の修復が目的で始まったものが、江戸市中を熱狂させました。三富では平均、富くじ1枚が金一分(1/4両)、発行枚数5千~1万枚、最高当たり富(突き留め)が100両で人気が出ました。噺では千両になっていますがこの高額賞金は例外中の例外です。1分でも、職人や一人商人は高額すぎて買えず、10枚、20枚と分割して売り出す者も居ました。
  抽選の当日は、重々しい太鼓の音から始まり僧侶の読経に続いて、寺社奉行の役人が入場、箱を点検すると共に中を良くかき混ぜます。進み出た僧侶が錐(きり)で突くと、相方の僧侶が札をかかげ「○○番。○○番」とさけびます。次々と当たりくじが読み上げられ、最後の札が「突き留め」と言い100両が当たります。当たった木札に対応した紙札「富札」と交換、賞金を受け取りました。
  通常翌日交換に行くのが規定ですが、最大次の興行(年3~4回行われる)までに交換しないと無効になります。1両以上の受取金額は、例えば100両が当たったら、一割の10両は奉納金として没収、さらに次の富を5両分買わされ、祝儀として神社寺院関係者や札売りに5両引かれ、結局2割の天引きで、80両が受け取り賞金でした。この富くじによって、家族が分裂したり生活が破綻したり、負の面も大きかったのです。
  「首くくり 富の札など もってゐる」  江戸川柳
  「富札の引きさいてある首くくり」 など、
富に溺れ全財産どころか命まで失う者も居た。

     

 左から;売られている紙の「富札」 守貞漫稿。 売られている紙の「富札」 椙森神社蔵。 木札の「富札」 千代田区歴史民族資料館蔵。  右;「谷中感応寺富くじ興行」 江戸名所百人一首。

 

 「江戸見世屋図聚」 三谷一馬画『富くじ屋』 中央公論社より
 今で言う第一勧銀いえ、みずほ銀行や駅前で売られている宝くじのように店舗を張って、富を売っていました。

大富(おおどみ);千両富興行はめったになく、通常は100両富または150両富であった。百両富で当たりは100回突かれ一番富が10両、10本ごとに5両(組によっては50番目が20両)ずつ上がっていき、最後の100本目が100両であった。発行枚数は、鶴亀、松竹梅、雪月花、七福神などの組が使われ、一組当たり5~9千枚発行された。一枚1分(ぶ。1/4両)で高額なため庶民は苦労して買った。

占いの先生(うらないの せんせい);人の持っている幸運・不運の巡り合わせを占う先生。占い師。
 占い方でも、12星座占い、名前占い、生年月日占い、九星気学占い、四柱推命占い、手相占い、西洋占星術占い、色々ありますが、落語ではソロバン占いというのがあります。『御神酒徳利

板削って(いた けずって);夢を見ていた彼は、大工さんだったのでしょう。富札も買えないなら、生涯カンナで板を削っていろと言われてしまいました。一攫千金を狙うか、地道に生涯を送るかはその人の考え方です。

八卦見が当たるなら、八卦見が買う;その通りの理屈。競馬場や競艇場の券売り場には予想屋というのが居て、お金を払って予想を聞くのですが、これも予想屋が本当に知っているとすれば、他人に教えないで自分で買います。宝くじも同じ、1億円のジャンボくじも、交通事故で亡くなる人の確率の1000倍の少ない確率です。交通事故には当たらないが、宝くじには当たると言って買い求めるのですから・・・。
 落語『御慶』で易者に夢判断を聞いてその通り買うと大富に目出度く当たった。落語の世界でも易者の言うことが当たったのはこの噺ぐらいでしょう。

湯島(ゆしま);湯島天神。(文京区湯島3-30-1、正式には湯島天満宮) ご存じ、菅原道真を祀る神社で、東京には他に亀戸天神がある。谷中感応寺(のちの・天王寺)、湯島天神、目黒不動が富の興行で江戸三大興行神社として有名。境内には富に関する祈念碑などは皆無である。 落語「初天神」の舞台にもなっている。

 御祭神 天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと。天照大神が天岩戸に隠れた時、大岩戸を開いて大神を出した神様)および菅原道真公(歌人で政治家、晩年太宰府に左遷され、903年2月当地で59歳の命を閉じる)
  湯島天神は雄略天皇の勅命により、御宇2年(458)創建と伝えられ、大之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、下って正平10年(1355)1月道真公の御偉徳を慕い、文道の太祖と崇め湯島に勧請し、あわせて奉祀し、文明10年(1478)太田道灌これを再建する。天正18年(1590)徳川家康公が江戸城に入るにおよび、翌19年湯島郷の内5石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、道真公の遺風を仰ぎ奉ったのである。
  その後、学者・文人の参拝も多く、林道春・松永尺五・堀杏庵・新井白石などの名がみえる。将軍徳川綱吉公が 湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心とした。
  明治18年に改築された社殿も老朽化が進み、平成7年12月、後世に残る総檜木造りで造営された。
 湯島天神縁起より

 

 正月準備に忙しい湯島天神。

池之端(いけのはた);東京都台東区の町名。現行行政地名は池之端一丁目から池之端四丁目。
 台東区上野に有る上野公園、その西側にある池が蓮で有名な不忍池で、池の南端に接する町が池之端。

 写真、『不忍池』。中央に弁天島に建つ弁天堂、池の先に見えるのが池之端のビル群。

匕首(あいくち);合口とも。鍔(つば)の無い短刀のこと。本来の日本語では「合口」であったが、中国の「匕首」(ひしゅ)と混同され、現在はどちらの表記でも「あいくち」で意味が通る。また、本来の「匕首」は、その形状・定義も合口とは厳密には異なる。
 銃砲刀剣類所持等取締法(じゅうほうとうけんるいしょじとうとりしまりほう)では、銃砲・刀剣類の所持を原則として禁止し、これらを使った凶悪犯罪を未然に防止することを目的とする。この法律により、日本国内においては、許可を受けた者以外は銃砲・刀剣類を所持することができない。また、許可を得た者であっても、銃砲・刀剣類の取り扱いについては規制があり、違反した場合は処罰の対象となる可能性がある。
 合口は刃渡り5.5cm以上の剣、と規定されています。

石川五右衛門(いしかわ ごえもん);(生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。釜風呂で有名な五右衛門風呂もこれに由来する。 従来その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。 江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。

 三条河原で煎り殺されたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいる。母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。
 有名な釜茹でについてもいくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになっていたが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説(絵師による処刑記録から考慮するとこちらが最有力)がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている。
 鴨川の七条辺に釜が淵と呼ばれる場所があるが、五右衛門の処刑に使われた釜が流れ着いた場所だという。なお、五右衛門処刑の釜といわれるものは江戸時代以降長らく法務関係局に保管されていたが、最後は名古屋刑務所にあり戦後の混乱の中で行方不明になった。

 右図、五右衛門の処刑 一陽斎豊国 画『石川五右衛門と一子五郎市』。



                                                            2021年1月記

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