落語「夢の富」の舞台を行く 二代目三遊亭円歌の噺、「夢の富」(ゆめのとみ)より
■二代目三遊亭円歌(さんゆうてい えんか);(1890年4月28日 - 1964年8月25日)本名は田中 利助(たなか りすけ)。出囃子は『踊り地』。新潟県新潟市出身。新潟県立新潟中学校卒業。当時の落語家には珍しく旧制中学校卒業の高学歴で、家は洋館三階建ての裕福な両替屋であったが、祖母が米相場で失敗して破産し、神奈川県横浜市で貿易商館員として働くも、女性問題を起こしたことがきっかけで北海道札幌市に移り、京染屋を始める。花柳界相手の商売を通じて、元噺家の松廼家右喬と出会ったことで、落語に興味を抱き、素人演芸の集団に加わる。
北海道に移り住んだ後は旅回りの一座に入り、勝手に「東京落語の重鎮・三遊亭柳喬」と名乗っていたが、小樽市で巡業中の二代目三遊亭小圓朝に見つかり、それがきっかけとなり落語家の道に入る。
■七草がゆ(ななくさがゆ);春の七草や餅などを具材とする塩味の粥で、その一年の無病息災を願って1月7日に食べられる。正月の祝膳や祝酒で弱った胃を休める為とも言われる。
写真、向島百花園にて。地方によっては入れる具が違っていたりするが、関東地方の例では、
■藪入り(やぶいり);かつて商家などに住み込み奉公していた丁稚や女中など奉公人が実家へと帰ることのできた休日。旧暦1月16日と旧暦7月16日がその日に当たっていた。7月のものは「後(のち)の藪入り」とも言う。
■富興行(とみこうぎょう);江戸の三富と称されたのが谷中感応寺(のちの・天王寺)、湯島天神、目黒不動でしたが、寛政二年で江戸では他に22社寺でも催されました。幕府では財政ひっ迫の折り援助もまま成らず、寺社の修復が目的で始まったものが、江戸市中を熱狂させました。三富では平均、富くじ1枚が金一分(1/4両)、発行枚数5千~1万枚、最高当たり富(突き留め)が100両で人気が出ました。噺では千両になっていますがこの高額賞金は例外中の例外です。1分でも、職人や一人商人は高額すぎて買えず、10枚、20枚と分割して売り出す者も居ました。
左から;売られている紙の「富札」 守貞漫稿。 売られている紙の「富札」 椙森神社蔵。 木札の「富札」 千代田区歴史民族資料館蔵。 右;「谷中感応寺富くじ興行」 江戸名所百人一首。
「江戸見世屋図聚」 三谷一馬画『富くじ屋』 中央公論社より
■大富(おおどみ);千両富興行はめったになく、通常は100両富または150両富であった。百両富で当たりは100回突かれ一番富が10両、10本ごとに5両(組によっては50番目が20両)ずつ上がっていき、最後の100本目が100両であった。発行枚数は、鶴亀、松竹梅、雪月花、七福神などの組が使われ、一組当たり5~9千枚発行された。一枚1分(ぶ。1/4両)で高額なため庶民は苦労して買った。
■占いの先生(うらないの せんせい);人の持っている幸運・不運の巡り合わせを占う先生。占い師。
■板削って(いた けずって);夢を見ていた彼は、大工さんだったのでしょう。富札も買えないなら、生涯カンナで板を削っていろと言われてしまいました。一攫千金を狙うか、地道に生涯を送るかはその人の考え方です。
■八卦見が当たるなら、八卦見が買う;その通りの理屈。競馬場や競艇場の券売り場には予想屋というのが居て、お金を払って予想を聞くのですが、これも予想屋が本当に知っているとすれば、他人に教えないで自分で買います。宝くじも同じ、1億円のジャンボくじも、交通事故で亡くなる人の確率の1000倍の少ない確率です。交通事故には当たらないが、宝くじには当たると言って買い求めるのですから・・・。
■湯島(ゆしま);湯島天神。(文京区湯島3-30-1、正式には湯島天満宮)
ご存じ、菅原道真を祀る神社で、東京には他に亀戸天神がある。谷中感応寺(のちの・天王寺)、湯島天神、目黒不動が富の興行で江戸三大興行神社として有名。境内には富に関する祈念碑などは皆無である。
落語「初天神」の舞台にもなっている。
御祭神 天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと。天照大神が天岩戸に隠れた時、大岩戸を開いて大神を出した神様)および菅原道真公(歌人で政治家、晩年太宰府に左遷され、903年2月当地で59歳の命を閉じる)
正月準備に忙しい湯島天神。
■池之端(いけのはた);東京都台東区の町名。現行行政地名は池之端一丁目から池之端四丁目。
写真、『不忍池』。中央に弁天島に建つ弁天堂、池の先に見えるのが池之端のビル群。
■匕首(あいくち);合口とも。鍔(つば)の無い短刀のこと。本来の日本語では「合口」であったが、中国の「匕首」(ひしゅ)と混同され、現在はどちらの表記でも「あいくち」で意味が通る。また、本来の「匕首」は、その形状・定義も合口とは厳密には異なる。
■石川五右衛門(いしかわ ごえもん);(生年不詳 - 文禄3年8月24日(1594年10月8日))は、安土桃山時代の盗賊の首長。文禄3年に捕えられ、京都三条河原で煎り殺された。見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されている。釜風呂で有名な五右衛門風呂もこれに由来する。
従来その実在が疑問視されてきたが、イエズス会の宣教師の日記の中に、その人物の実在を思わせる記述が見つかっている。
江戸時代に創作材料として盛んに利用されたことで、高い知名度を得た。
三条河原で煎り殺されたが、この「煎る」を「油で揚げる」と主張する学者もいる。母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている。
右図、五右衛門の処刑
一陽斎豊国 画『石川五右衛門と一子五郎市』。
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