落語「首屋」の舞台を行く
   

 

 川柳川柳の噺、「首屋」(くびや)より


 

 「何をやっても上手く行かないな~。銭のないのは首の無いのに劣るという。だったらこの首売っちまおうかッ」。
 麻の風呂敷を首っ玉に結わえ付けて、「くび~。首屋でござい~。首、首はいらんか~」、「クリ屋さん、1升幾らです」、「一つしか無いんです」、「大きいですか」、何か話がかみ合わない。首屋とクリ屋を間違っている。「じゃ~、要りません」。

 「本所割り下水で首を売ろうなんて間違っていたんだ。山の手の武家屋敷に行こう」、番町の窓下に掛かると声が掛かった。殿様は新刀が入ったので試し切りがしたいという。三太夫に確かめさせ、庭先で待たせることになった。

 首屋が庭にしゃがんでいると、殿様が縁側に現れ、どうして首屋などをやっているのかと聞いた。 「へぇ。これまで何をやってもうまくいかないもんで。首でも売ったほうがいいかと・・・」、「で、首代金は如何ほどじゃ」、「10両盗むと首が飛ぶと言いますから、10両で如何ですか」、「分かった。首代は身寄りの者に届けよう」、「身寄りも無いので、あっしが貰います」、「首が無くなるのに貰っても意味が無いであろう」、「あっしは10両という大金を持ったことがないので、一度で良いから懐に入れてみたいのです」、「金子は渡したぞ」、「懐にずしりときますね。これでよろしゅうございます」。
 殿様が白鞘の刀を手に庭に降り、ひしゃくの水を鍔(つば)ぎわから切っ先までかけさせます。しっかり水を払うと、「しからば良いか」、「チョッとお待ちくださいませ。ただもういっぺんだけ娑婆を見たいので潜り戸を開けてもらえないでしょうか」、「これ、開けてつかわせ。良いなッ」、「これで思い残すことはありません。今支度をします」。

 麻の風呂敷を首から下ろし、風呂敷の結び目を解き、手にツバを付けて、後れ毛を描き上げます。「へい、よろしゅうござんす」、「ん」。片手上段に振りかぶって、本当の度胸か、から度胸か試してやろうという意気込みで、「えィッ」、と気合いを掛けると、包んであった張り子の首をゴロゴロと放り出し、潜り戸から逃げ出した。「首屋ッ、これは張子ではないかッ。買ったのは貴様の首だ」、「へぇ。こっちの首は看板でございます」。 

 



ことば

川柳川柳(かわやなぎ せんりゅう); 1931年生まれ。埼玉県秩父市横瀬町出身。1955年、六代目三遊亭圓生に入門、前座名「さん生」で初高座をつとめる。58年、二ツ目昇進。74年に真打昇進。当時、落語界を二分した圓生一門の落語協会脱退騒動に伴い、78年、五代目柳家小さん門下へ移籍、「川柳川柳」に改名。自他ともに認める「落語界のシルバースター」。また落語界の酒豪番付の“悪い方の”横綱であり、武勇伝は数知れない。代表作とされる「ガーコン」は漫談と軍歌でつづる太平洋戦史。ギターを弾き語りながら小話を展開する「ラ・マラゲーニャ」など、歌を絡めた新作落語を得意とする。本名は加藤利男。出囃子は『三味線ブギ』。

首屋(くびや);『看板のピン』と同様の噺です。
 原話は明和9年(1772)刊の笑話本『楽牽頭』中の「首売」。 オチも含めて、大筋は現行とほとんど同じですが、原話は本所割下水のあたりが舞台で、首代は一両となっています。 現行の十両は、十両盗めば首が飛ぶと同じで、これを「首代」と呼んだため、噺の中の首代も、この値段にしたのでしょう。
 三遊派伝統の噺 三遊亭円朝から四代目橘家円喬、昭和の六代目円生へと継承された正当派の三遊伝統の噺です。 明治29年(1896)の四代目円喬の速記が残りますが、円朝が明治になって、時代を幕末維新期に設定したと思われ、それが噺に一種の緊迫感とすごみを与えました。 円朝は、オチに関して、「首という言葉を何度も繰り返すようなムダはするな」という芸談を残しています。 明治から昭和にかけて、大看板の多くが手掛けていますが、戦後では、六代目円生と並び、八代目正蔵(彦六)もやっています。
 オチの、こっちの首は看板でございますは、落語「看板のピン」に良く似たオチになっています。

番町(ばんちょう);千代田区の皇居の西側御門・半蔵門から四谷駅までの広範囲に広がっていた旗本屋敷群。一番町から六番町まで有ります。静かな地で現在は大使館や私立女子校や大学が幾つもあります。地形的にも急斜面があり、起伏にも富んでいます。大名屋敷のほかは、旗本、学芸者の屋敷だった。 「番町の番町知らず」というほど、屋敷には表札が掛かって居ず、入り組んでいて江戸で最も家探しの難しい所だった。その為、「江戸切り絵図」(江戸地図)が作られたと言います。番町御厩谷に盲目の塙保己一(はなわ ほきいち)の和学講談所があり、川柳に「番町で目あき盲に道を聞き」で、有名です。
 番町と言えば落語『お菊の皿』、『石返し』や、「火事息子」、「大工調べ」で歩いた地です。

本所割下水(ほんじょわりげすい);墨田区の東西に走る北斎通りには、過去に下水道が走っていた。現在は暗渠になって、その面影はありません。
 落語「化け物使い」に、写真と解説があります。

新刀(しんとう);新しく鍛えて作った刀剣。あらみ。
 安土桃山時代の慶長以後の刀工の作刀をいう。豊臣秀吉が天下を統一して諸国に新興の城下町が発達し,そこに古刀時代の諸国の刀工群が分散して集った結果,各流派の伝統がくずれて新しく自由な鍛練法が生れ,桃山時代の華麗な時風を反映した新様式の刀剣が出現した。すなわち室町時代に栄えた備前,美濃などの刀工は京都,大坂,江戸をはじめとして仙台,福井,佐賀,薩摩などの城下町に移り,その作風は鎌倉時代の京都,大和,備前の風を復古しているものもあるが,相州の正宗,美濃の志津,越中の郷らに範をとっているものが多く,それが単なる模倣でなく,個性を発揮しているところに新刀の特色がある。なお新刀は身のそりが浅く,地鉄が精緻で,刃文は大模様で華美なものが多い。著名な刀工に京都の埋忠明寿,信濃守国広,大坂の和泉守国貞,井上真改,津田助広,江戸の野田繁慶,越前康継,長曾禰虎徹,佐賀の肥前国忠吉らがおり,いずれも一派の祖と仰がれた名工。文化文政頃江戸に水心子正秀が出て復古刀を提唱し,門下に参じるもの多く,以後の刀工の作刀を「新新刀」と称している。なかでも四谷に住した源清麿は四谷正宗と称せられた名工である。
  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

試し切り(ためしぎり);刀剣を用いて巻藁、畳表、青竹等の物体を切り抜くこと。試斬(しざん)、据物斬り(すえものぎり)とも呼ばれる。江戸時代には様斬(ためしぎり)とも書かれた。
 この噺では、実在の人間を切り殺すことを主眼としています。殿様から見たら町人の命より新刀の切れ味の方が大切なのでしょう。
 落語「試し切り」には、橋の上に寝ている乞食をムシロの上から切り、この話を仲間内にすると、二番手、三番手と同様な試し切りが現れます。ある夜、ムシロを跳ね上げ乞食が言った「毎晩寝ていると、叩きに来るのはお前だな」。切るのと、叩くのでは大違い。

10両盗むと首が飛ぶ;江戸時代10両盗めば首が飛ぶと言われた時代です。 でも、10両盗んでも、盗みの種類により罪は異なってました。

死刑 (同じ死刑でも6種類あった。重いものから軽いものへ、とは言っても死刑です)

鋸挽き(のこぎりびき) 市中引き廻しの上、2日間土中に頭のみ出し埋め晒したのち磔刑と同じ
磔刑(たっけい) 市中引き廻しの上、磔柱に縛り付け槍で左右から脇腹を突き、とどめに喉を刺し殺す。処刑後3日間晒し
獄門(ごくもん) 市中引き廻しの上、牢屋敷で斬首。試し斬り後、首は晒し
火罪(かざい) 市中引き廻しの上、磔柱に縛り付け火焙り
死罪(しざい) 斬首の上、試し斬り。家財没収
下手人(げしゅにん) 斬首。遺体は引取人がいれば引き取って埋葬可能

死刑以外のもの(江戸での処罰)
遠島 伊豆七島の八丈島・三宅島・新島に送られる。佐渡は最悪の島流し
重追放 関八州、五畿内、肥前、甲斐、駿河、東海道筋、木曽路筋立入禁止
中追放 武蔵、肥前、下野、甲斐、駿河、東海道、木曽路、日光街道立入禁止
軽追放 江戸十里四方、東海道筋、日光街道立入禁止
江戸五里四方追放 日本橋より五里四方内立入禁止
江戸払い 品川、板橋、千住、四谷大木戸内、及び本所、深川立入禁止
所払い 現在住む所からの追放。 以上追放刑は基本的には無期。
門前払い 奉行所門前から追い払われる
敲き(たたき) 軽敲(50回)・重敲(100回)、女性は代わりに50日・100日の牢舎(過怠牢)、入墨の付加刑も
手鎖(てぐさり) 30日、50日、100日 両手を手錠で縛し与力がこれを封印し、家の中で謹慎させた。
過料 金銭罰 軽過料、重過料、応分過料
叱責(しかり) 叱り、急度(きっと。=きびしい)叱り
 遠島、江戸所払い等は原則無期刑

  軽い犯罪でも3回再犯すると(スリでも)死刑。10両盗んでも死刑。不義密通は死刑だが示談で七両二分。
 武士は死刑に当たるのは切腹。他に斬首、改易、役儀取上げ、蟄居、閉門(武士・僧侶などに科した監禁刑で、門扉を固く鎖し、窓を閉じ、昼夜とも出入りを許さなかった)、逼塞(ひっそく=江戸時代に士分および僧侶に科した刑。門をとざして白昼の出入を許さないもの。閉門より軽く、50日・30日の2種)、遠慮、隠居、差控(さしひかえ=出仕を禁じ、自邸に謹慎させたこと)
 僧侶は、追院、退院、一宗構い、一派構い、蟄居、閉門、逼塞、遠慮、隠居、差控

 昼の空き巣は10両以上でも死罪にはならなかった。理由は、盗まれるのが悪いというのが一端にありました。大体、敲き刑で牢屋敷の門前で鞭打ち。50とか100敲きをされ釈放されました。 例外は、昼の空き巣でも、帰宅した家人を脅迫したら死罪になります。 しかし、夜の盗みは重罪で死罪です。
  盗難や強盗にあった人は、盗賊が逮捕されて被害金額を出す場合、10両を超えてるときは、死罪になると後味が悪いので10両を超えないように9両2分などとして届けを出しました。 「どうしてくれりょう9両2分」との川柳も残ってます。 商家の場合も、横領などの場合も外聞を憚ったり、又、情状を考え10両以内にして届け出ることが多かった。 

白鞘の刀(しろざやのかたな);白木(無加工の木材)で作られた鞘のこと。まさそれに収められた刀のこと。
 登場は江戸時代後期とされ、刀身を長期保存する際に用いられるようになったもの。 白木は一切の加工を施していないため、湿度に敏感であり、それを吸収する性質を持つ。 それを利用し、鞘の中の湿気を吸収して刀身が錆びにくくなるとされている。 いわば「刀身のための“寝間着”」といえる。 勿論、白木に収めているといえど、適度な手入れは必要であるが、その手入れに関しても、鞘や鍔といった芸術性の高い部品を、不注意で痛めずに手入れできるという利点も備わっている。 白鞘が爆発的に普及したのは、廃刀礼以降とされる。もともと刀を白鞘に入れて保管する風習は上位の武士の間にしかあらず、一振りしか持たない一般の侍はわざわざ丁寧に保管などしないためである。明治以降に帯刀を禁止された後、保管を余儀なくされ白鞘に移したものが現代に残っていると考えるのが自然だろう。

   

後れ毛(おくれげ);《後れて生えた毛の意》女性が髪を結い上げたとき、襟元に残って垂れた短い毛。
 この噺では、後れ毛があると首を落とすときに刀の切っ先が鈍るのを防ぐために唾を付けて掻き上げました。



                                                            2021年3月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system