落語「木津の勘助」の舞台を行く
   

 

 笑福亭鶴光の噺、「木津の勘助」(きづのかんすけ)より


 

  江戸の初期の頃に淀屋十兵衛さんといぅ大金持ちの方がいらっしゃいまして、この方、何で有名かといぃますと、あの「淀屋橋」作ったんですよ。淀屋十兵衛さん、今申しました淀屋橋の近く今橋三丁目に立派な材木問屋をば構えております。
 『淀十』と染め抜いた暖簾を頭でグイッと押し上げて入ってまいりましたひとりの男、お百姓さん風のお方でね、年の頃なら二十七、八。膝までしかない木綿の着物を着まして・・・。

 「え~、ごめんなはれや」、「へ、お越しやす」、「十兵衛いてるか?」、「何でおます?」、「われとこの主(あるじ)の十兵衛はいてるかっちゅうねん」、「わたしは番頭の五兵衛でおます、失礼ながらあんたぐらいの用事ならばわたしで十分じゃ、どんな用事や? 言ってみなはれ」、「あのな~、五兵衛で分からんから十兵衛出せっちゅうてんねん」、「どんなご用件で?」、「分からんガッキャなッ、このガキは」。
 「番頭さん、大きな声出してどうしました?」、「こら旦さん、相すまんこって」、「はいはい分かりました、わたしが代わりまひょ・・・、当家の主、淀屋十兵衛でございますが・・・」、「お~、おのれが十兵衛か?」、「ホンに口の悪い人・・・、へ、さよぉで」、「お前な~、忘れたもんないかっちゅうねん?」、「先ほど出先から戻ってまいりましたところ、袱紗(ふくさ)包みがございませんので。お金はわずか二十両足らずでございましたが、商売に使います大切な印形が入れてあったので、心配しておりましたところで」、「俺はそんなことは知らん。俺はな、木津に住んでる勘助といぅもんや。今日、難波の鉄眼寺(てつげんじ)へ親の墓参りに行った。われとこの墓、立派な墓やの、なるほど金持ちの墓は違うわい、感心しながら横見ると、小さなみすぼらしい墓。その墓の上に袱紗包みが乗せた~る、俺はさっそくそれを坊主に届けた。坊主、中開いて見ると『淀十』と染め抜いてある、『ははぁ~ん、これは最前お参りなされた淀屋さんの忘れもんに違いない。勘助さん、あんた木津へ帰る途中やったら、届けてあげてくれへんか』と、こないぬかすねん。途中やないわい、難波から木津へ帰んのに、今橋大回りじゃ。せやけど坊主の頼みやさかいしゃ~ない、回り道して持って来たんや、坊主中開いていろいろ見てたけど、いっぺん中身あるか調べてみ」、「これは、ありがとうございます。はい、確かに入っております」、「あ~そうか、ほなえぇわッ」、「ちょ、ちょっとお待ちくださいまし」。

 十両の金を紙に包んで、 「あの~、これはほんのお礼のしるしでございます」、「これやから金持ちは嫌いやっちゅうねん、何でも金さえ出したら済むと思てけつかんねん。あのなぁ、俺かて『淀屋さん、十兵衛さん』といぅことぐらいは知ってるで、けどもな、表から飛び込んで来るなり『十兵衛、十兵衛』と呼び捨てにするからには、癪に触ることがあるさかい言うたんじゃ、おいッ! われ、それどこで失ぉたんや?」、「墓の上へ乗せまして、その時に数珠を取り出しまして、隣りの墓に乗せたまま忘れてしも~たものかと」、「さぁ、それが気に入らんっちゅうねん。われとこはなぁ、ご先祖参りしてご先祖さま大切にして、そら分かったるわい。けどなぁ、お隣りにある小さなみすぼらしい墓かて、やっぱりご先祖さまが大切やと思やこそ、お祀りなされた墓と違うんかい? われとこのもん置く台と違うでッ、自分さえ良かったら人はどぉなってもえぇといぅ、それが気に入らんさかい、『十兵衛、十兵衛』言うてんのじゃ。われもな、材木問屋やってんねんやったら、もうちょっと気い(木)を使え気ぃを・・・、分かったか? 何じゃこれ、引っ込めッ!」、「なるほど、あなたさまのおっしゃるとおり、まことに申し訳ご・・・」、「ほぉ~ッ、大阪の金持ちちゅうんは大したもんやな~、俺みたいにこんな貧しい身なりのもんに、ここまで言われたらプ~ッとふくれて奥の座敷へ逃げ込んでしまうかと思たら、頭を下げてのその折れよぉ、恐れ入りました。端(はな)から偉そうに言ったこっちが恥ずかしい、今度は俺のほうから頭下げんならん、淀屋はんえらいすまんこって。さ~、こうなったら五分と五分、気持ちよ~帰らしてもらう」、「ちょ、ちょっと。あなたさまのお住まいはどちらで?」、「俺とこはな、木津へ来たら米屋の六兵衛というものがおる、その裏の小さな家(うち)、六畳一間やけどな、傘ぐらいは置いたるさかい、雨でも降ったら寄ってんか」。
 十両の金に見向きもせずにポイッと帰ってしもた。「いやぁ、わたしゃあの男に惚れました」、「旦さん、そぉいぅご趣味が?」、「誰がそんなこと言うてんねん、気性が好きになったと言ってますのじゃ。あしたの朝、お礼にうかがお、お前さんも付いて来とおくれ」。

 明くる日になりますと、「番頭さん、また金目のもの持って行くとバ~ンと突き返されるでな、何ぞ手土産がわりに、お饅頭でもどうかなぁ」、「お饅頭ね~、えぇ案(餡)かとは思いますがね~、甘い考えかも」、「お煎餅は?」、「お煎餅、結構でやすなぁ、日持ちがいたします」。
 たくさん煎餅を買い込みまして、木津の勘助の所へやってまいります。「ごめんくださいまし。さぁさぁ上がって上がって、お、五兵衛も一緒か」、「すぐに熱い茶入れるさかい」、「ありがとうございます、あの~、これはホンの手土産がわりに・・・」、「ちょっと待った、中見てもえぇか?おッ、煎餅や、俺の大好物。ええもん持って来てくれた、大好物大好物。さぁさぁ、熱い茶が入った、ゆっくり話でもしていってんか」。

 これから淀屋十兵衛さん、この勘助に話をして驚いた、何でも知ってる。知らんといぅことが無い。政(まつりごと)から遊びにいたるまで、勘助何でも知っている。もう淀屋さん、ビックリして舌を巻いて戻って来た。
 これが一つの縁というんですか、キッカケというんですか、もう大金持ちと貧しいもんが対等の付き合いをするようになった。すごいもんですねぇ、十兵衛さん、分からんことがあったら勘助に教えてもらいに来る。また、勘助も今橋のお宅へちょいちょい顔を出す。自然と店のもんとも親しくなって、お嬢さんとも口を利くようになる。
 このお嬢さん、”お直さん”ちゅうて年の頃なら十七、八。何とも言えんえ~女、美人、大阪弁で言うたら別嬪(べっぴん)。ここら唾だらけになってますが、町内の今小町とあだ名されております。

  この綺麗なお嬢さんが、ここんとこなぜか病の床に伏しております。「お仲、娘の具合はどうやな?」、「あんまりよろしゅ~ございませんので」、「玄庵先生はどう言うておられるな?」、「それがお医者さんでも分かりませんので」、「お嬢さまもお年頃でございまし」、「いつまでも子どもや思てたらもうそんな年か、そうか、そぉか・・・、堪忍しとおくなされ。いや、こないだから縁談は降るようにある。娘が気に入った相手というのはどこの若旦那じゃ?」、「それが・・・、若旦那ではございませんので。旦さんのよくご存じの、あの勘助さん」、「勘助? あのすっからかんの勘助、あの文無しの、一文無しの勘助、あれに惚れた? ほぉ~、どこが気に入った?」、「お嬢さんがおっしゃいますには、『金持ちの家に生まれて、金持ちの家にとついで、金持ちで子ども産んで、金持ちの母親になって、金持ちのお婆さんで一生送るよりも、勘助さんのようなしっかりした人の女房になって、無いところから一つのものでもこしらえてみたい』、こうおっしゃいます」、「分かりました、この縁談必ずまとめてみせます。娘には安心するように言いなはれ」。

 こんな健気なお嬢さん、きょう日(び)いてまっか? 喜び勇んで木津へやってまいりまして、「あの~、勘助さ~ん」、「気持ち悪いな、頭打ったんか、どこぞで? 入って来い入って来い、どないしたんや?」、「あんた、決まったお人でもおいでですかいな?」、「おらこの通り六畳一間に住んでんねん、そんなもんおるわけないやないか」、「すると、許婚(いいなずけ)てなもんは?」、「そんなもんあれへん」、「あんたやなかったなら、あかんといぅ女がおるんですが?」、「はぁ~、誰や、その変わった娘は」、「家の娘、お直」、「こんな貧しぃもんのとこへ、金持ちのお嬢さん、何で嫁に来たがんねん?」、「娘が申しますには『金持ちの家に生まれて一生送るよりも、勘助さん、あなたのよぉなしっかりした人の女房になって、無いところから一つのもんでもこしらえてみたい』と、娘がこう申します」、「偉い、そのひと言気に入った、もらいまひょ」、「あげまひょ」。

 さっそくこの話を米屋の六兵衛さんに持ちかけた、この六兵衛さん、また面倒見がえぇねん。ちゃ~んと支度してくれて、この縁談がまとまったときに勘助が、『相手は大金持ちであるが、風呂敷包みで来てくれ』、なかなか言えまへんな~。
 さて、当日になりまして米屋の六兵衛さん、表出てアッと驚いた、風呂敷包みの行列や。何百人という淀屋出入りのもんが、一人ずつ風呂敷包みを背負てズラ~ッ。さぁ、これからいよいよ三三九度の盃。無事祝言も終わり、ガラッと夜が明けますと、ただ今のように「新婚旅行よ」ちゅなことはしまへんな~、勘助働きもんですから朝早よから野良へ仕事にやってまいります。
 乳母日傘で育ったお嬢さんのお直さん、もう習い事以外は何にも知らんのですねぇ、もう何も知らん。これを勘助、一から十まで教えんならん。飯の炊き方から炊事洗濯、鍬の手入れまで。
 もともと頭のえー方ですから、スッと覚え込んでしまいます。日が経つにつれましてお直さん、段々とお百姓さんの女房らしくなってまいります。

 そうこうする内に、ある日のこと勘助、ボ~ンヤリしながら表から帰ってまいります。「おい、今戻ったで」、「まぁ、どぉなさいました? 大変お顔の色がお悪うございますが」、「体さえ達者やったら金なんぞは要らんもんやと思とったが、金といぅもんは要るもんやな~。米屋の六兵衛さん、お前と一緒になる時に離れの座敷までこしらえてくれた六兵衛さんがな、何でも米相場というもんに手を出して、今ここに二百両の金がなかったら、店をたたんで夜逃げをせんならん。『勘助よ、どんなことがあっても米相場だけは手え出すなよ』っちゅうてなぁ、目から涙ポロポロこぼして気の毒な、可哀想な。助けてやりたい、助けてやりたいけど、金がないねや。金あったら助けたれんねん、金がないというのは辛いもんやな」、「あのぉ、たったの二百両でございますか?」、「何をぬかすねん、アホか、二百両言ったらお前、奉公人の百年もの給金やぞ」、「あの~、わたくしがこちらへお嫁にまいりました時に、お父っつぁんが、『当座の小遣にせよ』と、これだけくださいました(と、三本指を出す)」、「偉いもんやな、金持ちは。当座の小遣に三百両?」、「いいえ、三千両。天王寺屋五兵衛さんに預けてあります。書付を持って行きますとすぐにくださいます。どうぞ三千両、ご自由にお使いください」。

 こんな嫁はん欲しいでんな~。さっそく三千両取り寄せまして、二百両は家主さんとこへ持って行って喜んでもろた。あとの二千八百両、自分の家にド~ンと積んで、「よし、この金を俺が綺麗に使こうてみせよ」。

木津の勘助像 当時問題になっとりましたんが、淀川を流れて来る土左衛門。徳川と豊臣の戦が終わったばっかりですから、大水が出るとこいつが木津川へ流れ込んで来る、これを拾い上げてやるものがない。そこで、幕府に掛け合いまして小船を一艘もらい受け、ドンドン・ドンドン引き上げる。今度は葬ってやる場所がない、土地を借りましてお寺を建立し、墓を立てる。
 一生懸命あちらこちらの土地をば開墾いたします。上勘助、中勘助、下勘助というものが、立派に出来上がります。これがあの、十何年か前に今宮戎の近くに”勘助町”ちゅう名前ね、残ってましたねぇ。今ねぇ、町名変更なりました。ただ今の町名は『浪速区敷津西二丁目』という風に変わっております。大阪の人が大飢饉で苦しみました寛永十六年、この勘助が幕府の米蔵をド~ンと破ってね、ほで、大勢えの人の命を助けた。偉いね、まあそのためにこの勘助は罪に問われまして、勘助島にこう流罪になる。ところが、のちにお奉行の計らいでもって、おのれが家(うち)に流罪となり、一生大阪のために尽くしました真の侠客、木津勘助(きづのかんすけ)。
 今なら大阪府知事に立候補すればトップ当選間違いなし、まあ今の政治家もねぇ、自分のことば~っかり考えんと、米蔵を破って人の命を助けるというぐらいの気構えが欲しいですねぇ。そうすると「一票の重さが分かるであろ」という、木津の勘助と題しました一席、どうもありがとうございます。 

 



ことば

木津勘助(きづの かんすけ);(1587-1660)、天正(てんしょう)15年生まれ。大阪の水利の発展に貢献し、徳川家光が来阪した際に地子銀の免除を直訴した。この直訴は聞き入れられ、大阪の町人たちは現在の中央区釣鐘町に大きな釣鐘を鋳造したと、講談『大阪堀河物語』に語られる。本名は中村勘助義久、1586(天正14)年、相模の国で生まれ。豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽くした。江戸時代前期の土木技師で開拓者で、木津川の治水や、また砂州である姫島に堤防を築いて勘助島を開発するなど、大坂の発展に大いに貢献する。1639(寛永16)年、近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき、大阪城の備蓄米の放出を願い出たが聞き入れられず、私財を投げうって村人に分け与えたがそれも限度があり、ついに「お蔵破り」を決行。その罪で葦島(現在の大正区)に流され1660(万治3)年没、享年75歳。墓は唯専寺(浪速区敷津西2丁目13番)にある。また、敷津松之宮・大国主神社内(浪速区敷津西1丁目2番)に銅像が建つ。
 * 地子銀=国衙(コクガ)や荘園領主の取る本年貢に対して、その下で私領主と呼ばれた地主的中間層が取る追加の地代。

 敷津松之宮(大阪市浪速区敷津西一丁目2=大黒主神社)の境内にある勘助の銅像はその事績を顕彰して建てられている。最初の像は先の戦争で燃えたため、1954年(昭和29年)に再建された。

 境内には木津川と現在の浪速区や大正区にあたる地域の開発に尽力した木津勘助(中村勘助)の像がある。西成郡木津村の北部(関西本線以北)が大阪市へ編入された後、当社由来の「木津大国町」のほか、勘助由来の「木津勘助町」という町名も誕生している。1980年(昭和55年)に現行町名に変更されるまで存在した。 


神田陽子の講談より
 大坂から3里ほど南、木津という場所に勘助という若者がいた。侍の息子で文武両道に秀でていたが、父親、母親を相次いで亡くし侍の生活に嫌気がさしたのか、町人になり日傭取りとして日々を暮らす。ある日のこと、母親の命日で大坂まで墓参りに行く。帰ろうとすると大きな墓の傍らに袱紗(ふくさ)包みがあり、中をみると30両という大金と書付が入っている。持ち主は淀屋十兵衛という長者番付にまで載ろうという大町人であり、早速届けると大喜びである。十兵衛は礼として5両を勘助に渡そうとするが、自分がごとき日傭取りがこんな大金は受け取れない、どうぞ大掃除の折などに呼んで下さいと勘助はいう。感心する十兵衛。十兵衛には18歳のお直という絶世の美人の娘がある。お直は一目見た勘助にすっかり惚れてしまった。
 十兵衛は木津まで出向き、土地の人たちに勘助のことを尋ねると大層評判が良い。勘助の元を訪ねた十兵衛は、娘を嫁に貰って欲しいという。丁重に断る勘助だが、十兵衛はどうしてもと重ねて言う。もとより豪奢なことの嫌いな勘助は、淀屋十兵衛の娘としてでは無く、身ひとつで持参金も嫁入り道具も無しで自分の元に来るなら受けいれると答えた。こうしてお直は勘助の元に嫁いだ。井戸端に集まっていたおかみさん連中が水汲みや部屋の片づけを手伝ってくれ、そのお礼として酒盛りをする。そんなこんなで暮れには勘助は3両という借金を抱える。お直はいつでも勘助に千両を受け取れるという書状を見せる。お直の父親が所帯なれない娘のために渡しておいた物だという。勘助は借金を返したが、まだ大金が残っている。なにかこれで商売を始めよう。公のためになることをしよう。淀川に島、今でいう堤防を造って洪水を防ぎ、多くの人々から感謝される。現在では堤防は埋め立てられたが、「勘助町」という町名でその名を留めているという。 講談るうむより

淀屋十兵衛(よどや じゅうべい);物語の架空の名前。木津勘助(1586~1660)と年代が重なるのは初代・淀屋常安(?~1622)、二代目・淀屋个庵(こあん)(1577~1643) ・三代目・淀屋箇斎(かさい)(生没年不明)であり、四代目・淀屋辰五郎(1684?~1717)とは重ならない。ちなみに淀屋橋を架けたのは二代目・淀屋个庵のとき。
 淀屋については、落語「雁風呂」に詳」に詳しく記述が有ります。

■淀屋橋(よどやばし);淀屋が私費で土佐堀川に淀屋橋を架橋。橋の南西に居を構えていた江戸時代の豪商・淀屋が米市の利便のために架橋したのが最初で、橋名もこれに由来する。米市は橋の南詰の路上で行われていたが、1697年(元禄10年)に堂島へ移った。堂島の大阪市役所西南土佐堀川に架かる橋。現在は、1935年(昭和10年)に完成した鉄筋コンクリート造りのアーチ橋である。淀屋橋と対になる、堂島川に架かる御堂筋の橋である大江橋も同年完成で、両橋のデザインは1924年(大正13年)の大阪市第一次都市計画事業で公募されたもの。

 

 上写真、現在の淀屋橋。

淀屋(よどや)の屋敷跡 ;中央区北浜四丁目 淀屋橋南詰西側 オオサカメトロ御堂筋線・京阪電車「淀屋橋」下車 西に約50m。

  

  淀屋初代の常安(じょうあん)は、秀吉が伏見在城のとき淀川の築堤工事を請負い財をなした。その後大坂の陣では徳川方にくみし、大坂三郷の惣年寄にも任ぜられ、中之島の開拓にも力を尽くした。二代个庵(こあん)のとき、靭(うつぼ)に海産物市場を開き、また西国諸藩の蔵米を取り扱い、淀屋の米市を開き、金融業や廻漕業を営むなど経営の多角化をはかり、二代で巨万の富をきづいた。その屋敷はこの付近から北浜にかけ百間四方(約33,000平方メートル)の広さをもち、内装も当時珍重したガラスを多用し豪奢をきわめた。五代目辰五郎のとき(宝永2年、1705)驕奢(きょうしゃ)な生活は町人身分を越えるものとされ、その上、訴訟のもつれでとがめられ、全財産を没収、所払(ところばら)いにあい、さすがの淀屋も没落した。

木津勘助町(きづかんすけちょう);現・大阪市浪速区大国近辺。「木津大国町」が 昭和55年に「敷津西」に変更されるまで存在した。鉄眼寺から南に数百mの距離に有り、淀屋の屋敷は鉄眼寺から北にざっと3kmの距離ですから、勘助は逆方向にわざわざ淀屋の屋敷に足を運んだことになります。

鉄眼寺(てつげんじ);淀屋が袱紗を忘れてきたところ。浪速区元町1丁目10番 瑞龍寺(ずいりゅうじ)。通称:鉄眼寺、黄檗宗萬福寺末寺で薬師三尊を本尊としています。鉄眼和尚は、わが国に一切経の版木がないのを嘆き、全国行脚募財の末、一切経の木版6956巻32万頁を完成しました。その間洪水と飢饉に苦しむ人々を救うため、一切経の募財を救済に投じ、三度目に目的を遂げ「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわれ、その徳の高さから一般に鉄眼寺といわれています。境内には「鉄眼禅師茶毘処地」の碑があります。
 右図:鉄眼寺夕景 (芳雪画 浪花百景) 部分。

十両(10りょう);江戸時代の金貨の単位は「両(りょう)」「分(ぶ)」「朱(しゅ)」です。1両は4分、1分は4朱。4進法です。1両有れば、贅沢しなければ1年生活が出来た、と言う金額。
 江戸時代は、10両盗むと死罪です。狂歌に、「万年も 生きよと思う 亀五郎 たった10両で 首がスッポン」。鶴光が噺の中で10両がいかに大きな金額かと言うことを話すのにこの言葉を使っています。

袱紗(ふくさ);一枚物または表裏二枚合わせの方形の絹布。進物の上にかけたり物を包んだりする。「帛紗」と書くと、茶の湯で道具をぬぐったり盆・茶托の代用として器物の下に敷いたりする絹布。羽二重・塩瀬などを用い、縦横を九寸と九寸五分ほどに作る。
 ふくさは「袱紗」「帛紗」と書きますが、厳密には「袱紗」は掛けふくさのことを、「帛紗」は「小風呂敷」「金封ふくさ」等、掛けふくさ以外のものを指します。祝儀袋や不祝儀袋を包むふくさや、茶道で使用するふくさは「帛紗」と書きますが、最近では用途にこだわらず漢字で「袱紗」を用いるケースが増えてきました。

煎餅(せんべい);干菓子の一種。小麦粉に砂糖・鶏卵などを加え、型や鉄板に流して焼いたもの。東京のいわゆる塩煎餅は大阪にはなく、これが売られるようになったのは、大正十年頃百貨店に食料品部というものが出来て以来のこと。
 小麦粉、卵などを原料にするもの、馬鈴薯などのデンプンを用いるもの等の、類似の外観や食感を持つものも煎餅と呼ぶ場合がある。小麦粉を原料とするものは、主に関西で古くから作られている。材料は主に小麦粉、砂糖、卵などで、カステラやビスケットに近く、味は甘めのものが多い。そのため甘味煎餅(あまみせんべい)とも言う。瓦せんべいなどが代表的なものであり、八ツ橋のように米を材料とするものもある。これは唐菓子の伝統を受け継いでおり、北海道根室市や長崎県平戸市のオランダせんべいのように洋菓子であるワッフルの原料・製造法から創作された物もある。青森県南部地方発祥の南部せんべいは、基本は小麦粉と塩だけの素朴な煎餅である。馬鈴薯などのデンプンを用いるものとしては、愛知県の知多半島の名物となっている海老煎餅などがある。これは、デンプンに魚や海老の乾燥品を混ぜて焼いたもの。塩辛い味が基本だが、現在ではわさび味、カレー味、キムチ味など、さまざまな味の物が作られている。

別嬪(べっぴん);ここら唾だらけになってますが、町内の今小町、嬪は嫁。夫に連れ添う女。奥御殿で、天子のそば近くに仕える女官。別嬪、嬪の中でも選ばれた嬪。美人。

許婚(いいなずけ);現在の概念では幼少時に本人たちの意志にかかわらず双方の親または親代わりの者が合意で結婚の約束をすること。また、その約束を結んだ婚約者をさす言葉。許嫁とも書かれる。

結婚式(けっこんしき);婚姻を成立させるため、もしくは確認するための儀式。結婚式の習慣は古くから世界各地に見られる。地域や民族により様々な様式があり、宗教的なものやそうでないものもあるが、どの場合でも喜びの儀式である。 「儀式としての結婚式」が終了した後の宴会に関しては、「結婚披露宴」がある。
 江戸当時は婿殿の家に集まり、夕刻から初めて夜の結婚式となった。三三九度が式で、その後に披露宴となって酒宴が開かれた。

乳母日傘(おんば‐ひがさ);乳母(ウバ)に抱かれ日傘をさしかけられなどして大事に育てられた娘。「おんばひからかさ」とも。

天王寺屋五兵衛(てんのうじや ごへい);淀屋が娘のために金を預けていたところ。両替商の始祖とされる。1628(寛永5)年、預金の受け入れおよび手形の取り扱いを開始し、両替商の基礎を築いた。

土左衛門(どざえもん);享保(1716~1736)の頃の力士、成瀬川土左衛門が太っていて肌が白かったのを溺死者のようだといったことから、溺死者。水死体のことをいう。

徳川と豊臣の戦(とくがわと とよとみのいくさ);大坂の陣(1614(慶長19)年~1615(元和元)年)、大坂冬の陣(1614(慶長19)年11月19日)と大坂夏の陣(1615(元和元)年5月6日)をまとめた呼称。注:元和改元は7月13日であることから、大坂夏の陣は慶長20年が正しい。

勘助島(かんすけじま);木津川の西にあった勘助が干拓した地。

   

  大坂の江戸時代初期の地図。絵図左下に勘助島の表記が見える。その東側に木津川が南北に流れ、北側で安治川に合流する。

勘助島に流罪;奉行所も、状況は分かっていたので、流罪と言えば遠隔地と決まっているのだが、勘助の自宅近くに流され(?)た。後に自宅に流罪地が変更された。

侠客(きょうかく);強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする人。任侠の徒。江戸の町奴(マチヤツコ)に起源。多くは賭博・喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。おとこだて。広辞苑

  


                                                            2021年3月記

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