落語「木津の勘助」の舞台を行く 笑福亭鶴光の噺、「木津の勘助」(きづのかんすけ)より
■木津勘助(きづの かんすけ);(1587-1660)、天正(てんしょう)15年生まれ。大阪の水利の発展に貢献し、徳川家光が来阪した際に地子銀の免除を直訴した。この直訴は聞き入れられ、大阪の町人たちは現在の中央区釣鐘町に大きな釣鐘を鋳造したと、講談『大阪堀河物語』に語られる。本名は中村勘助義久、1586(天正14)年、相模の国で生まれ。豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽くした。江戸時代前期の土木技師で開拓者で、木津川の治水や、また砂州である姫島に堤防を築いて勘助島を開発するなど、大坂の発展に大いに貢献する。1639(寛永16)年、近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき、大阪城の備蓄米の放出を願い出たが聞き入れられず、私財を投げうって村人に分け与えたがそれも限度があり、ついに「お蔵破り」を決行。その罪で葦島(現在の大正区)に流され1660(万治3)年没、享年75歳。墓は唯専寺(浪速区敷津西2丁目13番)にある。また、敷津松之宮・大国主神社内(浪速区敷津西1丁目2番)に銅像が建つ。 敷津松之宮(大阪市浪速区敷津西一丁目2=大黒主神社)の境内にある勘助の銅像はその事績を顕彰して建てられている。最初の像は先の戦争で燃えたため、1954年(昭和29年)に再建された。
境内には木津川と現在の浪速区や大正区にあたる地域の開発に尽力した木津勘助(中村勘助)の像がある。西成郡木津村の北部(関西本線以北)が大阪市へ編入された後、当社由来の「木津大国町」のほか、勘助由来の「木津勘助町」という町名も誕生している。1980年(昭和55年)に現行町名に変更されるまで存在した。
■淀屋十兵衛(よどや じゅうべい);物語の架空の名前。木津勘助(1586~1660)と年代が重なるのは初代・淀屋常安(?~1622)、二代目・淀屋个庵(こあん)(1577~1643)
・三代目・淀屋箇斎(かさい)(生没年不明)であり、四代目・淀屋辰五郎(1684?~1717)とは重ならない。ちなみに淀屋橋を架けたのは二代目・淀屋个庵のとき。
■淀屋橋(よどやばし);淀屋が私費で土佐堀川に淀屋橋を架橋。橋の南西に居を構えていた江戸時代の豪商・淀屋が米市の利便のために架橋したのが最初で、橋名もこれに由来する。米市は橋の南詰の路上で行われていたが、1697年(元禄10年)に堂島へ移った。堂島の大阪市役所西南土佐堀川に架かる橋。現在は、1935年(昭和10年)に完成した鉄筋コンクリート造りのアーチ橋である。淀屋橋と対になる、堂島川に架かる御堂筋の橋である大江橋も同年完成で、両橋のデザインは1924年(大正13年)の大阪市第一次都市計画事業で公募されたもの。
上写真、現在の淀屋橋。
■淀屋(よどや)の屋敷跡 ;中央区北浜四丁目 淀屋橋南詰西側
オオサカメトロ御堂筋線・京阪電車「淀屋橋」下車 西に約50m。
■木津勘助町(きづかんすけちょう);現・大阪市浪速区大国近辺。「木津大国町」が
昭和55年に「敷津西」に変更されるまで存在した。鉄眼寺から南に数百mの距離に有り、淀屋の屋敷は鉄眼寺から北にざっと3kmの距離ですから、勘助は逆方向にわざわざ淀屋の屋敷に足を運んだことになります。
■鉄眼寺(てつげんじ);淀屋が袱紗を忘れてきたところ。浪速区元町1丁目10番 瑞龍寺(ずいりゅうじ)。通称:鉄眼寺、黄檗宗萬福寺末寺で薬師三尊を本尊としています。鉄眼和尚は、わが国に一切経の版木がないのを嘆き、全国行脚募財の末、一切経の木版6956巻32万頁を完成しました。その間洪水と飢饉に苦しむ人々を救うため、一切経の募財を救済に投じ、三度目に目的を遂げ「鉄眼は一生に三度一切経を刊行せり」といわれ、その徳の高さから一般に鉄眼寺といわれています。境内には「鉄眼禅師茶毘処地」の碑があります。
■十両(10りょう);江戸時代の金貨の単位は「両(りょう)」「分(ぶ)」「朱(しゅ)」です。1両は4分、1分は4朱。4進法です。1両有れば、贅沢しなければ1年生活が出来た、と言う金額。
■袱紗(ふくさ);一枚物または表裏二枚合わせの方形の絹布。進物の上にかけたり物を包んだりする。「帛紗」と書くと、茶の湯で道具をぬぐったり盆・茶托の代用として器物の下に敷いたりする絹布。羽二重・塩瀬などを用い、縦横を九寸と九寸五分ほどに作る。
■煎餅(せんべい);干菓子の一種。小麦粉に砂糖・鶏卵などを加え、型や鉄板に流して焼いたもの。東京のいわゆる塩煎餅は大阪にはなく、これが売られるようになったのは、大正十年頃百貨店に食料品部というものが出来て以来のこと。
■別嬪(べっぴん);ここら唾だらけになってますが、町内の今小町、嬪は嫁。夫に連れ添う女。奥御殿で、天子のそば近くに仕える女官。別嬪、嬪の中でも選ばれた嬪。美人。
■許婚(いいなずけ);現在の概念では幼少時に本人たちの意志にかかわらず双方の親または親代わりの者が合意で結婚の約束をすること。また、その約束を結んだ婚約者をさす言葉。許嫁とも書かれる。
■結婚式(けっこんしき);婚姻を成立させるため、もしくは確認するための儀式。結婚式の習慣は古くから世界各地に見られる。地域や民族により様々な様式があり、宗教的なものやそうでないものもあるが、どの場合でも喜びの儀式である。
「儀式としての結婚式」が終了した後の宴会に関しては、「結婚披露宴」がある。
■乳母日傘(おんば‐ひがさ);乳母(ウバ)に抱かれ日傘をさしかけられなどして大事に育てられた娘。「おんばひからかさ」とも。
■天王寺屋五兵衛(てんのうじや ごへい);淀屋が娘のために金を預けていたところ。両替商の始祖とされる。1628(寛永5)年、預金の受け入れおよび手形の取り扱いを開始し、両替商の基礎を築いた。
■土左衛門(どざえもん);享保(1716~1736)の頃の力士、成瀬川土左衛門が太っていて肌が白かったのを溺死者のようだといったことから、溺死者。水死体のことをいう。
■徳川と豊臣の戦(とくがわと とよとみのいくさ);大坂の陣(1614(慶長19)年~1615(元和元)年)、大坂冬の陣(1614(慶長19)年11月19日)と大坂夏の陣(1615(元和元)年5月6日)をまとめた呼称。注:元和改元は7月13日であることから、大坂夏の陣は慶長20年が正しい。
■勘助島(かんすけじま);木津川の西にあった勘助が干拓した地。
大坂の江戸時代初期の地図。絵図左下に勘助島の表記が見える。その東側に木津川が南北に流れ、北側で安治川に合流する。
■勘助島に流罪;奉行所も、状況は分かっていたので、流罪と言えば遠隔地と決まっているのだが、勘助の自宅近くに流され(?)た。後に自宅に流罪地が変更された。
■侠客(きょうかく);強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする人。任侠の徒。江戸の町奴(マチヤツコ)に起源。多くは賭博・喧嘩渡世などを事とし、親分子分の関係で結ばれている。おとこだて。広辞苑
2021年3月記
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