落語「白日の告白」の舞台を行く
   

 

 柳家喬太郎の噺、「白日の告白」(はくじつのこくはく)より


 

 「今日、私と約束をしたの覚えている?」、「え?何を約束したっけ」、「今日、定時に上がってよ。約束したでしょ。やっぱり忘れているわね。私も残業しないから、何時ものところで待ってるわ」。

 「山下、3月14日、今日は何の日だっけ?」、「オイ、話聞いてたぞ。チョコレート貰っただろ。バレンタインのお返しの日だろ。ホワイトデーだよ」、「人生始めてもらったんで忘れてた」、「お返し考えていないだろ」、「忘れてた」、「俺がお返し用に買ってあったやつ上げるから、渡してやれ」、「開けて見てもいい?」、「お前が開けてどうするんだ」、「分かった。神楽坂だな」。

 「こんな店にも来るんだ。カクテルは何を飲むの」、「ホッピー」、「今日の約束忘れてなかったね。で、これから本当に行きたいところに行こう」、「どこ?」、「やっぱり忘れてんだ。本番のそこに行こう」。

 「ここ?お寺だよ」、「ホワイトデーなんて、チャラチャラしたこと言ってんの。浅野内匠頭の命日でしょう、今日は」、「忠臣蔵」、「刃傷松の廊下よ」。
 「ごめんね。ホワイトデーも忠臣蔵も忘れていたんだ。そのプレゼントも、あの山下からなんだよ」、「なによ。開けるわよ。どいつもこいつも分かってないんだから。馬鹿にして、・・・塩せんべいじゃないの。こんなんで喜ぶと思ってんの、・・・赤穂の塩を使ってんじゃない。嬉しい。女の気持ち分かっているわ。乗り換えちゃおうかな」、「やめとけよ。あいつはOLキラーと言われているんだぜ」、
「キラー?吉良は敵だ」。

 



ことば

3月14日;「ホワイトデー」 は日本で生まれた文化で、 「バレンタインデー」 には女性がチョコレートを意中の男性に送るという日本特有の文化が生まれた後、女性に対してお礼の気持ちを思って贈り物をしようという風潮が広まり、バレンタインデーの1ヶ月後を 「ホワイトデー」 とするようになりました。 「ホワイトデー」 を誰が作ったのかという議論については諸説あり、1978年には 「不二家」 と 「エイワ」 が共同でマシュマロを販売するキャンペーンを行いました。
 個々に独自の日を定めて、マシュマロやクッキー、キャンデー等を「お返しの贈り物」として宣伝販売するようになった。 この動きをキャンデーの販売促進に結びつけ、全国飴菓子工業協同組合(全飴協)関東地区部会が、「ホワイトデー」として催事化した。そして1978(昭和53)年、全飴協の総会で、「キャンデーを贈る日」として制定され、2年の準備期間を経て1980(昭和55)年に第1回のホワイトデーが開催された。
 ホワイトデーを3月14日に定めたのは、269年2月14日、兵士の自由結婚禁止政策にそむいて結婚しようとした男女を救う為、バレンタイン司教が殉教し、その一箇月後の3月14日に、その2人は改めて二人の永遠の愛を誓い合ったと言われていることに由来する。

 数学の日; 日本数学検定協会(数検)が制定。 円周率の近似値3.14に因んで。

 円周率の日; 円周率の近似値3.14から。 このほか、アルキメデスが求めた近似値22/7(3.14285・・・)から7月22日、中国で求められた近似値355/113(3.14159・・・)から元日から355日目の12月21日の1時13分、元日から314日目の11月10日、地球が軌道上で新年から軌道の直径分進む日である4月26日なども「円周率の日」(または円周率近似値の日)と呼ばれる。
 円周率は、元々円周と直径の比(円周÷直径)で定義され、どの円でも一定の値を取るものだが、この計算(円周÷直径)は割り切れない。そのため、近似値(3.14や3)や特定の文字(パイ・π)に置き換えることで表現されている。

  パイの日; 日本パイ協会が2002(平成14)年に制定。 円周率の近似値が3.14であり、円周率をギリシャ文字のπ(パイ)で表すことから。

 美白の日; 化粧品メーカーのポーラが制定。 この日がホワイトデーであることから。

 国際結婚の日; 1873(明治6)年のこの日、政府が国際結婚を認めるとの布告を出した。

 浅野長矩が松の廊下で刃傷;1701年 江戸城松の廊下で赤穂藩主・浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷。長矩は即日切腹。赤穂事件(忠臣蔵)の発端。

  

 「忠臣蔵四段目判官切腹の段」 落合芳幾画 江戸東京博物館蔵
 左手前から家老・大星由良之助、その左、息子・大星力弥、奥、家老・斧九太夫、中央・塩谷判官、石堂右馬之丞、山名次郎左衛門。  第128話落語「四段目」より孫引き。

ホワイトデー;バレンタインデーでチョコレートの贈物を受けた男性が“お返し”の意を込め、 3月14日のホワイトデーはキャンデーを贈る日として飴菓子業界の全国組織である全国飴菓子工業協同組合の1978年(昭和53年)の名古屋に於ける総会で飴菓子業界の総意として決議採択されて全飴協ホワイトデー委員会が組織されたのです。そして2年間の準備期間を経て1980年(昭和55年)3月14日に第一回ホワイトデーが世に生まれ出たのです。
 日本でバレンタインデーの催事が定着するにつれて若い世代の間で“お返し”の風潮が生まれ、これを受けた菓子業界では昭和50年代に入ってから、個々に独自の日を定め、マシュマロやクッキー、キャンデーなどを“お返しの贈物”として宣伝販売する動きが出るようになりました。この動きをキャンデーの販売促進に結びつけ「ホワイトデー」として催事化したのが全飴協・関東地区部会でした。
 バレンタインデーのアンサーデーを、全飴協がホワイトデーとして定める以前は、欧米の習慣にならい「ポピーデー」「フラワーデー」「クッキーデー」など、いろいろなネーミングがありました。これを全飴協では「ホワイトは純潔のシンボル。ティーンのさわやかな愛にぴったり」との考え方のもとに、「ホワイトデー」と名づけたのでした。
 全国飴菓子工業協同組合の説明による。

バレンタインデー;3世紀のローマ皇帝クラウディウスが出した恋愛による結婚禁止令に違反した男女を救うため、2月14日に殉死した聖バレンタインを記念して設けられたものです。 それからひと月後の3月14日、その男女はあらためて二人の永遠の愛を誓い合ったということです。 この日を記念したのが<ホワイトデー>で、 ヨーロッパをはじめ世界中の多くの人々に語り継がれてきました。
  3月14日のホワイトデーにキャンデーを贈る日としたのは飴菓子業界の全国飴菓子工業協同組合です。

神楽坂(かぐらざか);新宿区神楽坂。JR飯田橋駅西口を出て右側の外堀を渡ると、外堀通りとの交差点が「神楽坂下」で、ここから上り坂道になっていて、江戸時代の面影を残しながら、洗練された雰囲気を持つ神楽坂になります。芸者たちが活躍する街として栄え、石畳の通りや坂道、階段のある街並みや、多くのフランス料理店、フランスの語学学校などがありす。一方で、静かな裏通りには、花街として栄えた時代の面影も見ることができ、高級料亭や呉服店、「ミシュランガイド」の星付きレストラン、ホテル、ギャラリーも軒を並べています。猫がひなたぼっこをするのどかな一面もあれば、新しいおしゃれなカフェや店を巡ることもできるのが、大人の街神楽坂の魅力です。坂を上った大久保通りとの交差点が「神楽坂上」です。買い物、散策が楽しめる坂の街です。

カクテル;カクテルを具体的に表現したとき、しばしば「酒+何か」と表現される。 例えば、スタンダードなカクテルとして紹介される「スクリュー・ドライバー」というカクテルは、「ウォッカ+オレンジ・ジュース」で構成されており、この表現に当てはまる。しかし、「マティーニ」というカクテルは「ジン+ドライ・ベルモット」、つまり「酒+酒」ということになる。 ここから、カクテルをより正確に定義づけるには「酒+その他の酒 and/or その他の副材料」と考えることができる。 酒と水だけの場合は水割りと呼ばれる。
 カクテルには、それぞれにカクテル言葉と誕生日がある。例えば、ジントニックは「強い意志、いつも希望を捨てない貴方へ」、ギムレットは「遠い人を想う」など、定番カクテルにもカクテル言葉があり、カクテルに想いをのせてオーダーするのも乙だ。ホッピーはどのような言葉か付いて来るのだろう。

ホッピー(Hoppy);ホッピービバレッジ(旧・コクカ飲料)が1948年(昭和23年)に発売した、麦酒様清涼飲料水(炭酸飲料でビールテイスト飲料の一種)である。また、焼酎をこれで割った飲み物も、ホッピーと呼ぶ。
 発売当時、ビールが高嶺の花だったことから、ビールの代用品の「焼酎割飲料」として爆発的に売れ、合計3度のブームが発生している。 消費の主要エリアは東京・神奈川・埼玉の一都二県で8割を占め、2000年代後半以降も急速な販路規模拡大の意向は無く、関東圏を主体に地盤強化を築く展開を行うとしている。業務用と家庭用の比率は6対4と業務用が多くなっており、現在でも東京、特に下町および神奈川県横須賀市の大衆居酒屋では、定番の飲み物である。ミニコミ誌『酒とつまみ』の編集者・大竹聡によれば、中央本線の東京~高尾間では全32駅すべての周辺にホッピーを扱う飲食店があるという。 その背景から「東京の味」「懐かしの味」「昭和の味」などといった情緒的な味覚表現が用いられることもあり、発泡系飲料のビール・発泡酒や焼酎割飲料のサワーにはない、ホッピー独特の味を作り出すための原材料と独自ノウハウを用いて製造されている。 黒ビールに相当する黒ホッピー・ホッピーブラックもあとから発売されている。 ビールに含まれるプリン体がないことや、ビタミン類・必須アミノ酸などの各種成分が含まれていることから、健康志向の焼酎の割り材とされている。他のリキュール類と相性が良く、様々な飲料スタイルに対応可能である。前述の飲料スタイルや健康志向も含め、業務用瓶のレトロなデザインがおしゃれ、苦味が少なく飲みやすい、好みのアルコール濃度に調整できるなどの理由により2000年代には女性の支持も広まりつつある。

浅野内匠頭の命日;浅野内匠頭長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第三代藩主。官位は従五位下・内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にての刃傷とそれに続く赤穂事件で広く知られる。
 元禄14年3月14日(1701年4月21日)。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)が行われる、幕府の1年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。この儀式直前の巳の下刻(午前11時40分頃)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が留守居番・梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところへ長矩が背後から近づき、吉良義央に切りつけた。梶川が書いた『梶川筆記』に拠れば、この際に浅野は、「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだとされる。しかし浅野は本来突くほうが効果的な武器であるはずの脇差で斬りかかったため、義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、しかも側にいた梶川が即座に浅野を取り押さえたために第3撃を加えることはできなかった。騒ぎを見て駆けつけてきた院使饗応役の伊達宗春(村豊)や高家衆、茶坊主たちたちも次々と浅野の取り押さえに加わり、高家の品川伊氏と畠山義寧の両名が吉良を蘇鉄の間に運んだ。長矩もまたその場から連行された。こうして浅野の吉良殺害は失敗に終わった。長矩が連れて行かれた部屋は諸書によって違いがあるが、おそらく中の口坊主部屋と考えられる(『江赤見聞記』『田村家お預かり一件』などが「坊主部屋」と明記している)。
 申の刻(午後4時30分頃)に田村邸についた長矩は、出会いの間という部屋の囲いの中に収容され、まず着用していた大紋を脱がされた。その後1汁5菜の料理が出されたが、長矩は湯漬けを2杯所望した。田村家でも即日切腹とは思いもよらず、当分の間の預かりと考えていたようで、長期の監禁処分を想定し、長矩の座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。
 申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付・庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹と改易を宣告した。これに対して浅野は、「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。 宣告が終わるとただちに障子が開けられ、長矩の後ろには幕府徒目付が左右に2人付き、庭先の切腹場へと移された。庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、長矩は磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹した。享年35。

 上写真、泉岳寺、四十七士の墓所。何時行っても線香の煙が絶えません。

 長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門重共の取調べに、「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので様々な説がある。主に以下のような遺恨・対立の説がある。

 1.院使御馳走人の伊予吉田藩主・伊達宗春より付届けが少なかった、あるいは浅野は渡さなかった(『徳川実紀』、尾張徳川家の家臣朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』)
 もっとも一般的で、赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』の映画やドラマ、小説などで採用されているのがこの賄賂説である。吉良は賄賂をむさぼるのが好きで、長矩が賄賂を拒否したために辱められたという記述などは『徳川実紀』や『鸚鵡籠中記』にみえる。

 2.勅使御馳走の予算を浅野家が出し惜しみした(『沾徳随筆』)
  水間沾徳(赤穂藩士大高忠雄・神崎則休・富森正因・萱野重実らの俳諧の師匠)の『沾徳随筆』の中にある「浅野氏滅亡之濫觴」によると、「老中に費用の削減をせよと言われた浅野が勅使饗応役の費用を700両にしようと提案し、浅野は吉良が不在だった2月に、畠山義寧に相談して了承を得ていたが、3月になってから吉良がこれに異議を唱え、費用を1200両とせよと命じたことで両者が不和になり、刃傷の原因となった」とある。このうち、吉良が1200両と提案したのは1度目の御馳走人の時に対して元禄時代は大幅に物価が上がっていたためとされる。ただし、浅野が1度目を御馳走人を務めた時の費用は400両とされ、当時、2倍ほどあがっていた物価に対する費用としては800両あたりが妥当で、1200両は1度目に比べると3倍の予算にあたり、当時の物価の上昇を考慮しても高額であるといえる。

 2.塩田を原因とする争いがあった(尾崎士郎)
 近年、主張されるようになった説に、三河国吉良庄の一部で製造されている饗庭塩の出来が悪いため、出来が良いことで評判の赤穂塩の製造方法を聞き出そうとしたが断られた、もしくは江戸の塩市場の争いとなったのではないかとする説を、吉良出身の作家の尾崎士郎が唱えた。しかし、実際には吉良義央の領地にあったとされる塩田の遺跡は、旗本大河内家の領地であった。塩による遺恨説は、飛び地の領地に気付かずに吉良の領地に塩田があったとしてしまったものであり、今日では「塩田説」は否定されている。

 4.増上寺への勅使参詣のために畳替えが必要なのに、吉良は長矩にだけ教えなかった(『岡本元朝日記』、『寺坂私記』)
 増上寺の畳替えについては、当時の秋田藩の家老岡本元朝の日記『岡本元朝日記』、『寺坂私記』などに畳替えの件で揉めたことが書かれている。
 『岡本元朝日記』の元禄14年(1701年)5月27日には、 「風説によると、事前に浅野が吉良に畳替えに必要か尋ねたところ、不要と言われ、先例を調べてもそのような先例がないので、浅野も納得してそのままにしておいた。だが、前日の14日になって、老中の阿部正武に尋ねたら、新しくせよと申されたと吉良が言い出し、浅野はそれを聞いて狼狽して、老中に照会すべきことであれば自分から聞き合わせたのに、あなたがそれを不要といった。だからこそ、事前に聞き合わせ、必要があればそうしたというのに。それを先日は無用といったのに、今日になってそのようなことを言うとはどういうことか。すでに今日はこうして登城しており、明日朝のことをどうしたら良いというのか。と問いただしたところ、義央はあらゆることに、吝嗇(りんしょく=ケチ)では御馳走は勤まらないと返答した。これが長矩の意趣であると取り沙汰している」。

忠臣蔵;赤穂事件を扱った創作物は、人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以降、本事件を忠臣蔵と呼ぶことが多い。講談では赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。
 忠臣蔵は浄瑠璃のひとつ。並木宗輔ほか合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期にとり、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。赤穂事件を題材に取っていますが、事実とは合致しない創作劇です。
 赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件を指すものである(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件」としている場合もある)。

刃傷松の廊下(にんじょう まつのろうか);将軍が家来達と接見する本丸・大広間に接する大廊下で通称・松の廊下と呼ばれている。西面は場外になり、東面は大きな中庭に面していた。その引き戸には松の絵が描かれていたのでこう呼ばれる。
 江戸城中では刀を抜いてはいけないことになっていたが、元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件の現場。

 写真、松の廊下。 江戸東京博物館蔵、中庭から見た縮尺模型。

塩せんべい;赤穂は瀬戸内海に面し、塩田が盛んであって、塩の産地として名が通っています。そこの塩を使った塩せんべいですから、浅野内匠頭長矩ファンにしてみれば涙ものの煎餅だったのでしょう。

赤穂の塩; 江戸時代、入浜塩田による塩づくりが確立された播州赤穂。瀬戸内の穏やかな海と気候に抱かれ、千種川が中国山地からもたらした良質の砂からできた広大な干潟は、入浜塩田の開発に適していた。その製塩技術は、瀬戸内海沿岸に広がり、市場を席捲するまでに成長した。中でも赤穂の塩は、国内きってのブランドとして名を馳せ、赤穂に多彩な恵みをもたらした。
 潮の干満の差が大きく穏やかな海と、年間を通じて晴れの日が多い瀬戸内海式気候と相まって、この広大な干潟は、生産性の高い新式製塩法である入浜塩田(いりはまえんでん)には、またとない絶好の地であった。
  浅野赤穂藩の初代藩主、浅野長直が正保2(1645)年に赤穂の地に入封すると、ここで大規模な入浜塩田の開拓に着手し、浅野家三代で約100ヘクタールの塩田を開いた。赤穂の入浜塩田は、浅野家断絶のあとも永井家・森家へと引き継がれ、江戸時代を通じて開拓が進められた結果、千種川の東に約150ヘクタール(東浜塩田)、西に約250ヘクタール(西浜塩田)にまで拡大した。この入浜塩田による塩づくりの技術は、瀬戸内海沿岸を中心に各地へ伝えられ、やがて近世日本の製塩を席巻することとなる。
  赤穂は、専業経営と持続可能な製塩法としての入浜塩田が完成された最初の地なのです。それは、近世・近代の文献にも、「諸国海辺より多く塩出るといへ共、播州赤穂の塩を名物とす」、「塩ハ当国赤穂にて製するを国内第一等の品とす」などと謳われたように、赤穂はまさに塩焚(た)く煙たなびく「塩の国」であった。
 入浜塩田の塩づくりは、水尾(みお)と防潮提によって海水をコントロールし、干満の時間に関係なく効率的に作業が行える画期的なシステムであった。江戸時代に確立されたこの入浜塩田は、以後、昭和30年代に枝条架(しじょうか)と呼ぶ装置から海水を滴下させて塩分濃度を高める流下式塩田(りゅうかしきえんでん)へと転換するまでの300年間にわたって、日本の主要な製塩法となった。
 赤穂市教育委員会より

 しかし、昭和47年6月土地と労力を要する塩田を廃止し、合理化を追求した「国家百年の大計」は、塩に"不純物"は不要と、「イオン交換法」(海水の成分の一分子である塩化ナトリウムを化学的に取り出す製造法)により、自然のミネラルを取り去った"サラサラとした白い塩"をつくりあげてしまいました。「塩」は塩化ナトリウムだけをもって塩とする考えであったわけです。旧専売公社の「食塩」(並塩)がそれです。
 そこで、塩は単に塩化ナトリウムだけでなく、海水に含まれているマグネシウムやカルシウム、カリウムなど、様々なミネラルを含んだものをもって塩とする考えをもつ自然塩運動グループが立ち上がり、忠臣蔵で名高い赤穂の由緒ある塩業会社に「ミネラルバランスのよい自然の塩」の製造試作を委託しました。そして昭和48年6月、専売公社は「自然塩」を製造認可し、自主流通を認めました。
 赤穂の天塩より

 落語「泣き塩」に江戸の入浜塩田による製塩法があります。

OLキラー;遊びで近づき会社勤めの女性をもてあそぶ男。

吉良(きら);吉良 義央(きら よしひさ/よしなか)は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件で浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通、鳥居正次、清水義久らと共に討たれた。同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。一般的には吉良上野介と呼ばれる。

 吉良義央座像。両国吉良邸跡の公園にて

 赤穂浪士らの切腹が行われた同日、元禄16年(1703年)2月4日、息子・吉良義周は荒川丹波守(御寄合)、猪子左太夫(御先手)が同伴し、評定所へ呼び出され、仙石伯耆守(大目付)より、「仕形不届」として、領地召上のうえ、信濃諏訪藩(高島藩)の藩主、諏訪忠虎へお預けの旨が申し渡された。 そして、その身柄は高島藩士の沢市左衛門、茅野忠右衛門、加藤平四郎に渡されたことなどが『上杉家御年譜』などに見える。 幕府が義周をこのように処分した理由としては、幕府の裁定により、父・吉良義央が松の廊下での事件の際に内匠に対し卑怯の至りな振る舞いをし、赤穂浪士討ち入りの時も未練のある振る舞いをしたため、「親の恥辱は子として遁れ難く」として、父である吉良義央に代わって吉良義周が責任を取ることとなったこと。そして、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った際の義周の対応、義周が自ら武器をとって赤穂浪士達に応戦したが、不破正種に面と背中を斬られ、そのまま気絶していたことなどに対して幕府評定所が、「不届き」としたためであった。そして、その後、宝永3年(1706年)に義周が死去したため、高家としての吉良家は断絶となった。



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