落語「白日の告白」の舞台を行く 柳家喬太郎の噺、「白日の告白」(はくじつのこくはく)より
■3月14日;「ホワイトデー」 は日本で生まれた文化で、 「バレンタインデー」 には女性がチョコレートを意中の男性に送るという日本特有の文化が生まれた後、女性に対してお礼の気持ちを思って贈り物をしようという風潮が広まり、バレンタインデーの1ヶ月後を 「ホワイトデー」 とするようになりました。 「ホワイトデー」 を誰が作ったのかという議論については諸説あり、1978年には 「不二家」 と 「エイワ」 が共同でマシュマロを販売するキャンペーンを行いました。
数学の日;
日本数学検定協会(数検)が制定。
円周率の近似値3.14に因んで。
パイの日; 日本パイ協会が2002(平成14)年に制定。 円周率の近似値が3.14であり、円周率をギリシャ文字のπ(パイ)で表すことから。 美白の日; 化粧品メーカーのポーラが制定。 この日がホワイトデーであることから。 国際結婚の日; 1873(明治6)年のこの日、政府が国際結婚を認めるとの布告を出した。 浅野長矩が松の廊下で刃傷;1701年 江戸城松の廊下で赤穂藩主・浅野長矩が高家・吉良義央に刃傷。長矩は即日切腹。赤穂事件(忠臣蔵)の発端。
「忠臣蔵四段目判官切腹の段」 落合芳幾画 江戸東京博物館蔵
■ホワイトデー;バレンタインデーでチョコレートの贈物を受けた男性が“お返し”の意を込め、 3月14日のホワイトデーはキャンデーを贈る日として飴菓子業界の全国組織である全国飴菓子工業協同組合の1978年(昭和53年)の名古屋に於ける総会で飴菓子業界の総意として決議採択されて全飴協ホワイトデー委員会が組織されたのです。そして2年間の準備期間を経て1980年(昭和55年)3月14日に第一回ホワイトデーが世に生まれ出たのです。
■バレンタインデー;3世紀のローマ皇帝クラウディウスが出した恋愛による結婚禁止令に違反した男女を救うため、2月14日に殉死した聖バレンタインを記念して設けられたものです。 それからひと月後の3月14日、その男女はあらためて二人の永遠の愛を誓い合ったということです。 この日を記念したのが<ホワイトデー>で、 ヨーロッパをはじめ世界中の多くの人々に語り継がれてきました。
■神楽坂(かぐらざか);新宿区神楽坂。JR飯田橋駅西口を出て右側の外堀を渡ると、外堀通りとの交差点が「神楽坂下」で、ここから上り坂道になっていて、江戸時代の面影を残しながら、洗練された雰囲気を持つ神楽坂になります。芸者たちが活躍する街として栄え、石畳の通りや坂道、階段のある街並みや、多くのフランス料理店、フランスの語学学校などがありす。一方で、静かな裏通りには、花街として栄えた時代の面影も見ることができ、高級料亭や呉服店、「ミシュランガイド」の星付きレストラン、ホテル、ギャラリーも軒を並べています。猫がひなたぼっこをするのどかな一面もあれば、新しいおしゃれなカフェや店を巡ることもできるのが、大人の街神楽坂の魅力です。坂を上った大久保通りとの交差点が「神楽坂上」です。買い物、散策が楽しめる坂の街です。
■カクテル;カクテルを具体的に表現したとき、しばしば「酒+何か」と表現される。
例えば、スタンダードなカクテルとして紹介される「スクリュー・ドライバー」というカクテルは、「ウォッカ+オレンジ・ジュース」で構成されており、この表現に当てはまる。しかし、「マティーニ」というカクテルは「ジン+ドライ・ベルモット」、つまり「酒+酒」ということになる。
ここから、カクテルをより正確に定義づけるには「酒+その他の酒 and/or その他の副材料」と考えることができる。
酒と水だけの場合は水割りと呼ばれる。
■ホッピー(Hoppy);ホッピービバレッジ(旧・コクカ飲料)が1948年(昭和23年)に発売した、麦酒様清涼飲料水(炭酸飲料でビールテイスト飲料の一種)である。また、焼酎をこれで割った飲み物も、ホッピーと呼ぶ。
■浅野内匠頭の命日;浅野内匠頭長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第三代藩主。官位は従五位下・内匠頭。官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にての刃傷とそれに続く赤穂事件で広く知られる。
上写真、泉岳寺、四十七士の墓所。何時行っても線香の煙が絶えません。
長矩が刃傷に及んだ理由ははっきりとしておらず、長矩自身も多門重共の取調べに、「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので様々な説がある。主に以下のような遺恨・対立の説がある。
1.院使御馳走人の伊予吉田藩主・伊達宗春より付届けが少なかった、あるいは浅野は渡さなかった(『徳川実紀』、尾張徳川家の家臣朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』)
2.勅使御馳走の予算を浅野家が出し惜しみした(『沾徳随筆』)
2.塩田を原因とする争いがあった(尾崎士郎)
4.増上寺への勅使参詣のために畳替えが必要なのに、吉良は長矩にだけ教えなかった(『岡本元朝日記』、『寺坂私記』)
■忠臣蔵;赤穂事件を扱った創作物は、人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以降、本事件を忠臣蔵と呼ぶことが多い。講談では赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。
■刃傷松の廊下(にんじょう まつのろうか);将軍が家来達と接見する本丸・大広間に接する大廊下で通称・松の廊下と呼ばれている。西面は場外になり、東面は大きな中庭に面していた。その引き戸には松の絵が描かれていたのでこう呼ばれる。
写真、松の廊下。 江戸東京博物館蔵、中庭から見た縮尺模型。
■塩せんべい;赤穂は瀬戸内海に面し、塩田が盛んであって、塩の産地として名が通っています。そこの塩を使った塩せんべいですから、浅野内匠頭長矩ファンにしてみれば涙ものの煎餅だったのでしょう。
■赤穂の塩; 江戸時代、入浜塩田による塩づくりが確立された播州赤穂。瀬戸内の穏やかな海と気候に抱かれ、千種川が中国山地からもたらした良質の砂からできた広大な干潟は、入浜塩田の開発に適していた。その製塩技術は、瀬戸内海沿岸に広がり、市場を席捲するまでに成長した。中でも赤穂の塩は、国内きってのブランドとして名を馳せ、赤穂に多彩な恵みをもたらした。
しかし、昭和47年6月土地と労力を要する塩田を廃止し、合理化を追求した「国家百年の大計」は、塩に"不純物"は不要と、「イオン交換法」(海水の成分の一分子である塩化ナトリウムを化学的に取り出す製造法)により、自然のミネラルを取り去った"サラサラとした白い塩"をつくりあげてしまいました。「塩」は塩化ナトリウムだけをもって塩とする考えであったわけです。旧専売公社の「食塩」(並塩)がそれです。
落語「泣き塩」に江戸の入浜塩田による製塩法があります。
■OLキラー;遊びで近づき会社勤めの女性をもてあそぶ男。
■吉良(きら);吉良 義央(きら よしひさ/よしなか)は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件で浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通、鳥居正次、清水義久らと共に討たれた。同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。一般的には吉良上野介と呼ばれる。
吉良義央座像。両国吉良邸跡の公園にて
赤穂浪士らの切腹が行われた同日、元禄16年(1703年)2月4日、息子・吉良義周は荒川丹波守(御寄合)、猪子左太夫(御先手)が同伴し、評定所へ呼び出され、仙石伯耆守(大目付)より、「仕形不届」として、領地召上のうえ、信濃諏訪藩(高島藩)の藩主、諏訪忠虎へお預けの旨が申し渡された。 そして、その身柄は高島藩士の沢市左衛門、茅野忠右衛門、加藤平四郎に渡されたことなどが『上杉家御年譜』などに見える。
幕府が義周をこのように処分した理由としては、幕府の裁定により、父・吉良義央が松の廊下での事件の際に内匠に対し卑怯の至りな振る舞いをし、赤穂浪士討ち入りの時も未練のある振る舞いをしたため、「親の恥辱は子として遁れ難く」として、父である吉良義央に代わって吉良義周が責任を取ることとなったこと。そして、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った際の義周の対応、義周が自ら武器をとって赤穂浪士達に応戦したが、不破正種に面と背中を斬られ、そのまま気絶していたことなどに対して幕府評定所が、「不届き」としたためであった。そして、その後、宝永3年(1706年)に義周が死去したため、高家としての吉良家は断絶となった。
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