落語「三十石」の舞台を行く 三遊亭円生の噺、「三十石」(さんじっこく)
★この「三十石」は56分の長講で、普通の落語の約2倍有ります。これだけ長いと後半だれてくるものですが、最後まで充実した噺運びです。疲れたのは書いている私の方です。通常は最後まで演じず、「う~・・・色が白いな~」、見とれている内に船頭川にはまった。あたりで切り上げるのですが、今回は「円生百席」より、フルバージョンを取り上げました。
■三十石(さんじっこく);『三十石夢乃通路』(さんじっこくゆめのかよいじ)とも、京と大坂を結ぶ三十石舟の船上をおもな舞台とする上方落語の演目の一つ。本来は旅噺「東の旅」の一部であり、伊勢参りの最終部、京から大坂の帰路の部分を描く。現在は独立して演じられることが多い。
■三十石船;伏見の寺田屋の看板からひろうと、江戸時代淀川を上下した客船で、乗客は、まず、船宿に入り食事をしてから乗船した。寺田屋も有名な船宿の一つで、この付近には多くの船宿が並んでいた。淀川は平安時代から船運が盛んで豊臣秀吉、徳川家康が過書船制度を定め、運賃や税金を設定し取り締まりもおこなった。船の大きさは二十石積から三百石積まで数百隻が、貨物や旅客を運んでいた。その内三十石船は、長さ約17m、巾2.5m、船頭4人、定員28名の旅客専用船で上りは1日または1夜、下りは半日または半夜で京・大坂を結んでいた。船賃は江戸中期で約50文、その後、上り148文、下り72文、ただし、これは座るだけの料金で、ゆったり座るには1.5人分、あるいは2~3人分を払うと仕切りと言って竿を横にして席を分けた。途中牧方に立ち寄った。そこでは船客に「くらわんか」と声を掛けながら餅を売りに来た。なお、三十石船は明治4年(1871)に廃止になった。
・過書船(かしょぶね);過所船とも書く。江戸時代に淀川を運航して京都―大坂間の貨物・乗客を運んだ川船。元来、広く過書(関所手形)を所持する船の称であった。慶長3年(1598)徳川家康により過書座の制が設けられ、それまで水運に従事していた淀船と、新設の三十石船とを包括し、河原与三右衛門(かわはらよざえもん)(のち角倉与一(すみのくらよいち))と木村宗右衛門(そうえもん)の両人が過書船奉行(ぶぎょう)に任命された。船の数は江戸経済の発展につれて多くなり、18世紀前期には淀上荷(うわに)船の二十石船507艘(そう)、三十石積み以上の船が671艘であった。この過書座支配下の船のうち、三十石積み以上の船を過書船とよんだ。このうち三十石船は客船である。普通、1艘の乗客約30人前後で、水夫(かこ)4人で運航し、貨物には米穀、塩、魚類、材木などがあった。所要時間は、流れをさかのぼる上り船で1日または一晩、下り船は半日または半夜で京都―大坂間を往復した。[柚木 学]『須藤利一編著『船』(1968・法政大学出版局)』
左;広重画「三十石船」、手前の小舟がくらわんか舟。 右;同じく「八軒家」の船付き場。
■伏見街道(ふしみかいどう);京都の五条通(京都市東山区)を北の始点とし、鴨川東岸を南下して、伏見(京都市伏見区)の京町通につながる街道である。豊臣秀吉によって開かれたといわれる。江戸時代から、京と港湾都市伏見とをつなぐ通運の道として、そして周辺名所を巡る観光の道として賑わった。また伏見から深草藤森神社までは西国大名の参勤交代の道ともなった。
■下り;京都を中心として、そこから遠方に出ることを「下る」と言い、京都に向かうことを「上る」と言った。淀川の川下りとは意味が違う。
■相部屋(あいべや);複数の旅人が同じ部屋を使うこと。旅人宿ではこれが普通であった。
■清水焼(きよみずやき);京都府で焼かれる陶磁器。清水寺への参道である五条坂界隈(大和大路以東の五条通沿い)に清水六兵衛・高橋道八を初めとする多くの窯元があったのが由来とされる。京都を代表する焼物。
■京都伏見(きょうとふしみ);(現・京都市伏見区南浜町263)寺田屋から出船。(淀川を下り航程約40km)。
■八軒家(はっけんや);(現・大阪市中央区天満橋京町1−1)天満橋南詰の西側。天満橋から天神橋までの大川の左岸は、大阪と京伏見を結ぶ水運の発着所であった。周辺に八軒の旅宿があったことから八軒家と言われるようになったという。
■伏見人形(ふしみにんぎょう);稲荷山の土を使って造られる土人形。起源については諸説存在するが歴史的な資料が残っていないので詳細は不明。ただ、全国各地の土人形の原形となっている。
■伏見稲荷(ふしみいなり);伏見稲荷大社、京都市伏見区深草薮之内町68番地。京都市伏見区にある神社。旧称は稲荷神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体を神域とする。
全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社である。初詣では近畿地方の社寺で最多の参拝者を集める(日本国内第4位〔2010年〕)。
■書写山(しょさざん);圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)は、兵庫県姫路市の書写山にある寺院で、天台宗の別格本山である。山号は書寫山(書写山、しょしゃざん)。西国三十三所第27番。武蔵坊弁慶は一時期書写山で修行したとされており、机など、ゆかりの品も伝えられ公開されている。ただし史実である確証はない。 一遍、一向俊聖、国阿ら時衆聖らが参詣したことでも知られる。一遍は入寂直前に書写山の僧に、聖教を預けた。
■武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい);生年不詳 - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日)は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。
五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。『義経記』では熊野別当の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。
■花川戸(はなかわど);台東区の東部に位置し、隅田川に接する。地域南部は雷門通りに接し、これを境に台東区雷門に接する。地域西部は馬道通りに接し、台東区浅草一丁目・浅草二丁目に接する。地域北部は、言問通りに接しこれを境に台東区浅草六・七丁目にそれぞれ接する。当地域中央を花川戸一丁目と花川戸二丁目を分ける形で東西に二天門通りが通っている。また地域内を南北に江戸通りが通っている。またかつて花川戸一帯は履物問屋街としても知られていた。現在でも履物・靴関連の商店が地域内に散見できる。他に商店とオフィスビルが多く見られるほか、駅から離れると住居も見られる地域となっている。
■幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ);幡随院長兵衛(1614~1650)は、大河野(現佐賀県伊万里市大川野)の日在城主・鶴田因幡守勝の家臣・塚本伊識の子として慶長19年、相知町久保で生まれ、幼名は伊太郎といい、父に伴って江戸へ向かったが、下関にて父は病没、一人で上京(12、3才頃)、つてを頼って神田山幡随院に身を寄せ、後に幡随院長兵衛と名乗る。江戸の侠客の総元締めと言われ、庶民の英雄であった幡随院長兵衛の生き様は江戸の華と呼ばれ、「人は一代、名は末代の幡随院長兵衛・・・」の有名なセリフで歌舞伎や講談等で今でも演じられている。落語「鈴ヶ森」に詳しい。
■助六(すけろく);歌舞伎の演目の一つの通称。本外題は主役の助六を務める役者によって変わる。
江戸の古典歌舞伎を代表する演目のひとつ。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた。歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つで、その中でも特に上演回数が多く、また上演すれば必ず大入りになるという人気演目である。落語「助六伝」に詳しい。
■鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん);江戸時代の代表的豪商の一つである大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)で代々受け継がれる名前である。家伝によれば祖は山中幸盛(鹿介)であるという。その山中鹿之助の子の、摂津伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門正成が大坂で一家を立てたのを初代とする。はじめ酒造業であったが、1656年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。歴代当主からは、茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる。明治維新後は男爵に叙せられて華族に列した。
■小野小町(おののこまち);小野小町の詳しい系譜は不明である。彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。故に、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。
■船玉(ふなだま);船霊。船の守護霊。賽子・女の髪の毛・人形・五穀・銭などを神体として船中にまつる。ふなだまさま。また、船中でまつる守護神。摂津の住吉の神・水天宮・金毘羅権現など。船神。船霊神。
■中書島(ちゅうしょじま);円生の発音は『ちゅうじょうじま』と発音していますが、地名として間違いと言うより、脇坂中書からきたと理解しています。文禄年間、中務少輔の職にあった脇坂安治が宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建て住んだことから「中書島」の名前が生まれたとされる。中務少輔の唐名が「中書」であったことから、脇坂は「中書(ちゅうじょう)さま」と呼ばれていた。その「中書さま」の住む屋敷の島という理由で「中書島」と呼ばれるようになった。現在、京都府京都市伏見区葭島矢倉町。川を渡った隣町が船付き場だった寺田屋があります。
■撞木町(しゅもくちょう);撞木町遊廓があった京都市伏見区撞木町。町名は道路の形が撞木(しゅもく、T字形)に由来する。江戸時代、伏見街道付近に遊里(遊廓)が設置され、当時は「恵美酒町」(えびすちょう)と称された。元禄期、山科に隠居していた大石内蔵助が出入りし、「笹屋」という揚屋で遊興したと伝えられる。しかし、遊廓が小規模であり伏見港付近の柳町(のちの中書島)が栄えるようになり衰退するが忠臣蔵ゆかりの場所として知られていたため存続し、昭和33年(1958)3月、売春防止法施行によってお茶屋9軒、娼妓40名で遊廓は廃止された。撞木町は京都の花街(遊廓)で最も小さな規模だった。現在、遊廓時代の面影は無く、入り口には大門の石柱と石碑が残されるのみである。
■奈良の大仏(ならのだいぶつ);東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)。一般に奈良の大仏として知られる。
聖武天皇の発願で天平17年(745)に制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
■淀の水車(よどのみずぐるま);旧淀城の脇に有ったこの水車、はじめて京見物にやってきた人にとっては名にのみ聞いていた見逃せない名所として、京都に帰る人にとっては降船準備のタイミングをはかる目印として、それぞれ機能していた。『都名所図会』が出版されたほぼ同時代に、諸国を漫遊した百井塘雨(ももいとうう)という人がいます。塘雨は見聞記『笈埃(きゅうあい)随筆』のなかで、淀の水車について触れています。すなわち、城内に水を汲(く)み入れるために作られた水車は二つ。いずれも庭の泉水に用いるのみで実益はなく、補修費ばかりが積もって山となる。ただ、古くからある名物なので、いまでも維持しているのだ、と。水上を往来する人びとのしるべは、名物であるがゆえに守られていたのです。
北斎画 「雪月花の内淀川」 淀川を上り下りする三十石船。右側に淀城と水車が描かれている。
■淀城(よどじょう);淀(よど)は、与杼、与渡、澱などとも書かれた。宇治川、桂川、木津川の三川合流地点であり、かつて東には巨椋池も広がっていた。標高11mの低湿地帯のため、水が淀んでいたことから淀と名付けられたという。交通・軍事上の要衝地であり、室町時代には納所に淀古城が築城された。江戸時代、現在地に新淀城が新城されている。京都防衛の意味が持たされていた。新淀城の旧跡地は、現在、淀城跡公園(1.7ha。京都市伏見区淀本町)になっており、本丸、天守台、二の丸、石垣、内堀などの遺構がある。
■先斗町(ぽんとちょう);京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街。「町」と付くが地名としての先斗町はない。先斗町通については「先斗町通四条上る柏屋町」等、公文書(四条通地区地区計画:京都市都市計画局)にも使用されている。
■枚方(ひらかた);江戸時代には京街道と共に淀川を利用した水運も盛んに利用されており、淀川を往来する舟運の要衝としても栄えた。京都の伏見港と大阪の八軒家を結ぶ客船である三十石船を初め大小様々な船が行き交い、枚方浜、樟葉浜、樋之上浜、渚浜、磯島浜などの船着場が設けられていた。枚方浜は鶴屋という船宿があった事から鶴屋浜とも呼ばれ、公用にも使われる重要な船着場だったという。 行き交う船に近づき餅や酒を売りつけるくらわんか舟が名物になったのもこの頃である。その様子は、シーボルト「江戸参府紀行」、十返舎一九「東海道中膝栗毛」、歌川広重(安藤広重)「京都名所之内 淀川」「六十余州名所図会 河内 牧方男山」を初め、多くの紀行文などに記されている。
■森の石松;清水の次郎長の子分。代参の大任を果たした石松が、帰途大阪の八軒家から淀川を遡上して京都の伏見へ渡す三十石船に乗り込み、すしを肴に酒を飲んでいると、乗合衆の噂話が聞こえてくる。海道一の親分は誰かという話題に神田生まれの江戸っ子が次郎長の名を挙げたのがうれしくて石松は彼に酒と寿司を勧める。また、「東海道中膝栗毛」の弥次さんと喜多さんも、この三十石船に乗ったことで知られています。
2015年5月記 前の落語の舞台へ 落語のホームページへ戻る 次の落語の舞台へ |