落語「新右衛門狸」の舞台を行く
   

 

 三代目 蝶花楼 馬楽の噺、「新右衛門狸」(しんえもんだぬき)。別名「七条の袈裟」より


 

 八丁堀に錺(かざり)職の新右衛門と言う人が居ました。世話好きの人で、頼まれたことは嫌とはいわなかった。あるとき、借金の保証人になったが、借りた人が居なくなり、江戸を追われて、上総の久留里の在に来ました。新右衛門さん職人だが書をよくし算術なども達者であったので、村の人に重宝がられた。
 隣村の庄屋さんに婿さんが来るというので、世間に明るい新右衛門さんに仲人と式一切の采配を頼まれ、無事に婚礼を済ませた。お開きになって、新右衛門さんも折り詰めをもらって帰って参りました。
 千鳥足で夜道を歩くなか、新田の暗闇坂、名代の化け銀杏の下に来ると、ゾクゾクッと寒気を感じた。子供の時言われていたのが、足元から寒気を感じる時は、化け物が出るから気をつけろ、と言われていた。「貧乏してても錺職だ、三ツ目小僧でも出て来やがれ・・・」。

 「こんばんわ、私は狸です」、「なんで、化けて出ないんだ」、「親方に頼みがあって来ました」、「人に頼み事されることはあったが、狸に頼まれるなんて・・・」、「実は、親狸が長の患いで、今の内に親孝行をしておけと言われました。人間でも狸でも親孝行は大事です。親父は、『魚が食べたいと』言います。見れば親方は、お土産を持っていらっしゃいます。その土産を親父に食べさせたいと思いますので、いただけませんでしょうか」、「分かった。親孝行は大切だ。この折り詰めを持って行け。また魚があれば、この木の股に掛けておいてやる」、持っていた折り詰めを狸にやって帰って来た。

 「おっかぁ、今帰ったよ」、「お帰りなさい」、「酒が有ったら、燗けてくれ。チョッと飲みたいんだ。人間が嫌になった。狸になるかも知れない」、「気味の悪いこと言うんじゃ無いよ」。
 「誰か表に来たよ。誰だい、表を叩くのは」、「先ほどの狸でございます」、「まぁ、上がれ」、「『先刻顔なじみになった』なんて、おふざけで無いよ」、「そんなこと言うな、心がけの良い狸だ。どうした狸公」、「先刻はありがとうございました。親に話をしたら大変喜んでくれて、恩返しして来い。恩返ししないと近頃の人間みたいだと申します」、「それで恩返しをしに来たのか?」、「当分働いてお礼をします」、「気持ちは分かるが、金がなくて食わしてやることが出来ない、早く帰って親父の世話をしてやれ」、「いえ、食べる物は外で探しますし、着る物は要りません、どうぞ、しばらく使ってください」、「女房が気味悪がるから、女房の妹に化けてくれめいか」、「造作も無いことです」、「早いな~、もう化けたか。名前はたぬきだから”おたの”としよう」。
 のんきな奴がいました、おたの、おたのと重宝に使っています。しかし、十六七になる可愛い娘が村では目に付くものでございます。

 村人の中には、「小豆を炊いたのでおたのさんに食べさせてください」、とか、「先祖供養したから、これ食べてください」と、近所の若者が新右衛門夫婦が居ない時、入り込みます。言い寄る若者がおたのさんの手を握ると、若者の顔をゴリゴリと引っ掻く。慌てて逃げ出すが、恥ずかしいから誰にも言わない。しかし、村の者がよると、自然とこの事が知れるもの。何人かの被害者が出て、化け物という噂が立ったが、尻尾を見つかったわけでも無い。

 新右衛門さんの所に江戸から急飛脚が来た。「”お勝”、江戸で金のことは片付いたと言ってきた。これだけ金を送ってきた。先に江戸に帰って、借家を見つけてくれ。俺は一船か二船遅れるか、二三日遅れて帰るつもりだ。村の若い者に一杯御馳走してから帰る」、「それでは私だけ先に帰るから・・・」、と帰ってしまった。
 その後、金の算段に取りかかったが、知らない土地でなかなか出来ない。「狸公、江戸に帰るのに10両の金が必要なんだ。10両ぐらいの品物に化けられるか」、「お安い御用です。なんに化けます」、「この先に法久寺(ほうきゅうじ)が有る。碁仲間なんだが和尚は吝嗇、金は持っているが、古金襴の七条の袈裟が欲しいと言っていた。親類の古着屋が居て手に入ると言っておいた。どうだろう、七条の袈裟に化けてくれないか」、「どういう風に・・・」、「金襴と言うから、ピカピカ光っていれば良いのだ」、「訳はございません」、「上手く化けたな」。

 風呂敷に入れて、お寺さんに。気に入ってくれたのですが、明日でないと金がないと、渋っている、「わざわざ、この地まで持って来てくれたのに、明日と言うことになれば、旅の入費も余計掛かります。どうか、早く代金を頂戴したいものです」、「そうか、別の金を出そう」、「ありがとうございます」。
 懐に金を押し込み寺を後にした。「今度は狸に世話になろうとは・・・」、「親方お帰りなさい」、「早いな、もう帰っていたか」。

 「狸公、子供の時から不思議に思っていたんだが、狸は八畳敷きと聞いているが見せてくれぬか」、「見せるのは構いませんが、仲間がウルサいので」、「内々で見せてくれぬか。一人で広げるのが大変なら、手伝ってやるぞ」、「では、内々で」、「では、良いかい・・・」。
 新右衛門が手伝って引っ張り出した。「なかなか大きな物だな早くもっと出せ。何か、も~、これっきりか。これじゃ~、一畳しか無いぜ」、「七畳(七条)は袈裟にいたしました」。

 

丸亀書店 落語五人全集 より



ことば

七条袈裟(しちじょうけさ);浄土宗などでは、左肩の上に乗せるような形に着ける大五条(おおごじよう)という袈裟があり、禅系諸宗では、首に掛ける絡子(らくす)または掛絡(から)と称する五条袈裟を用いる。七条袈裟は全体の丈が長く膝の下まであり、それを左肩から左腕まで覆うように着けて右の脇の下で前に回し、修多羅(しゆたら)という紐で右胸の部分と左肩の部分を結びとめる。九条以上の袈裟もこれと同様である。

 三衣とは大衣(重衣)上衣(上着衣)中衣(中着宿衣)の三種類の袈裟のことです。大衣は正装用で托鉢や王宮に招かれたときに着用します。上衣は修行用、中衣は日常生活に使用します。 袈裟は当初、糞のように捨てられたボロ布をつなぎ合わせて作ったところから糞掃衣(ふんぞうえ)とも言います。現在日本で使われている袈裟は、新品の布で作りますが、この名残りでわざわざ小片にした布を継ぎ合わせて作ります。写真の帯状の布で飾られた部分がつなぎ目です。写真では分かりやすくするために、色違いの布を使ったものを取り上げましたが、一種類の布だけで作られるものもあります。 また現在でも、供養として遺品の着物や帯で袈裟を作ることもあります。 大衣は9ないし25の布片で作るところから九条衣(九条袈裟)上衣は七条衣(七条袈裟)中衣は五条衣(五条袈裟)といわれます。


  写真は現在日本で使われている袈裟の中で、古代インドで使われていたものに一番近い形式のものです。寸法は縦110cm横190cm位です。右肩を出すようにして、体に巻き付けるようにかけます。右肩を出すのは相手に敬意をあらわすインドの習慣です。 写真の袈裟は地蔵袈裟と呼ばれるものです。同様の形式で、材質、仕立て方、付属品の違いで、七条(しちじょう)大乗衣(だいじょうえ)如法衣(にょほうえ)などと呼び方が変わります。 インドでは僧侶は袈裟一枚で生活していましたが、北の方へ行く程、寒い時期これだけでは寒さを防げないので、しだいに下衣をつけるようになりました。これが法衣の始まりです。法衣を着ることが通常の地域では、袈裟が象徴的なものとなり、形もいろいろなものが登場しました。


五条

折五条

輪袈裟

半袈裟

 五条 (ごじょう) 小布を数枚つないだ縦一列を一条と数えます。七条は七列、五条は五列です。肩ひも部分は威儀いぎといいます。
 折五条 (おりごじょう) 五条を細長く折り畳んだものです。畳袈裟たたみげさ折袈裟おりげさともいいます。実際には五条そのものを折り畳むことは出来ないので、畳んではありますが、表面だけしっかりした生地で、中は薄手の生地になっています。日蓮宗系統ではこの袈裟を左肩からたすきの様にかける独特な使い方をします。
 輪袈裟 (わげさ) 折五条を簡略化したものです。生地を畳まずに一つの輪に仕立ててあります。
 半袈裟 (はんげさ) 輪袈裟をさらに略したものです。輪を半分にして紐で連結したものです。
  以上が袈裟の基本的な形で、どこの宗派でもだいたい使われるものです。

袈裟のサイズ;袈裟には大小があって、大は9条~25条、7条、5条と有ります。条とは一枚布で作っていませんので、縦に別れている本数をあらわします。背中にまわす大きなマント状の袈裟は9条 、7条で、3枚の布を縦長に縫い合わせた布を、横に9枚または7枚縫い合わせたものです。7条で縦1.2mX横2m有り、畳1枚より大きいのです。または縦110cm横190cm位です。あまりにも大きいものは”大袈裟”と言い、「大袈裟な事を言う」の大袈裟はここから出ています。  薄地の夏用、裏地の付いた厚手の冬用、中間のあい物などがあり、最近は冷暖房が行き届いて冬でも薄手の物が使われるようになりました。キンキラキンの派手な物から、地味で落ち着いた物まで各種有ります。
 落語「錦の袈裟」より孫引き

三代目 蝶花楼 馬楽(ちょうかろう ばらく);元治元年(1864年)4月15日 - 大正3年(1914年)1月17日(49歳没)は、落語家。本名:本間弥太郎。俗に「弥太っぺ馬楽」「狂馬楽」「気違い馬楽」。
 最初の名が初代春風亭千枝。才能を認められわずか一年足らずで二つ目昇進。仲の好かった兄弟子春風亭傳枝(本名:金坂巳之助 後の五代目桂才賀)と組んで「モリョリョン踊り」という珍芸で売り出す。だが、飲む打つ買うの道楽が納まらず、賭博の現行犯で逮捕されることもたびたびあり、1か月の間懲役刑となる憂き目に合い、ついに師匠柳枝から破門される。 1897年ころ、一時桂市兵衛と名乗るが、翌1898年、三代目柳家小さん一門に移籍し、同年三代目蝶花楼馬楽襲名。
 馬楽襲名後も荒んだ生活態度が改まらず、道楽に走っていたが、才能を惜しむ小さんの後押しで1905年、雷門小助六(本名:鶴本勝太郎 後の四代目古今亭志ん生)、初代柳家小せん(本名:鈴木万次郎)と共に「落語研究会」前座に抜擢され、俄然注目される。同年真打昇進。江戸前の芸風に鋭い警句をはさむ詩情豊かな高座で人気を集めた。俳句も好くし『長屋の花見』のマクラに好く使われている『長屋中歯を食いしばる花見かな』、『古袷秋刀魚に合わす顔もなし』などの佳句を残している。
 人気絶頂期にあった馬楽だが、長年の遊び過ぎから健康は衰えていた。1910年3月ころに精神に異常を来すようになる。弟子も家族もない馬楽は、師匠小さんや友人たちの援助で養生するが、入退院を繰り返し、ついに弟の家で胃癌のために没した。死後、谷中浄名院に『馬楽地蔵』が師匠小さんによって建立された。戒名は『釈浄証信士』。 

久留里(くるり); 千葉県君津市の内陸部にある大字久留里。房総半島の中央部、小櫃川(おびつがわ)の中流に位置し、江戸時代の安房久留里藩の城下町として、また近年は名水の里としても知られ、2008年6月、環境省から平成の名水百選に選定された。
 久留里城の本丸及び二の丸が築かれた丘陵を中心に西麓の三の丸と北側の安住(あんじゅう)地区とからなる。安住地区は久留里市場の上町及び新町に隣接し、これらと一体の市街地を形成している。これに対して三の丸地区は、東へ大きく蛇行する小櫃川(旧流路)が丘陵を穿った急崖によって城下町とは切り離された南の段丘上に位置する。典型的な山城である本丸・二の丸に対して、江戸時代中期に入封した黒田直純は日常の機能を山麓の三の丸に集中させ藩の支配の中心とした。内堀に囲まれた三の丸の外側、北の腰曲輪と西の外曲輪には侍屋敷が置かれたが、ここは「久留里」地籍には属さず、「浦田」地籍(1889年までの浦田村)に属する。大手門は北の城下町(久留里市場)ではなく、外曲輪から西の浦田村の方に開いていた。商業地区を中心として市街地を形成している久留里市場及び安住地区に対して、三の丸及び腰曲輪、外曲輪の多くの部分が廃藩後は農地となっており、城下町としての景観はほとんど残されていない。

 左上、復元された久留里城。     右上、JR久留里駅、木更津に出られます。

 久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で改良が加えられた井戸掘りの工法である上総掘りによって掘られた掘り抜き井戸が多く分布し、この水を利用して酒造業が立地している。

 上図、久留里の地図。久留里の町域の外(左上)に、JR久留里駅が有ります。小櫃川(おびつがわ)は、千葉県を流れ東京湾に注ぐ二級河川。流路延長88kmは、千葉県内では利根川に次いで2番目に長い川です。

庄屋(しょうや);有力家による世襲が多く、庄屋の呼称は関西、北陸に多く、関東では名主というが、肝煎というところもあった。 城下町などの町にも町名主(まちなぬし)がおり、町奉行、また町年寄(まちどしより)のもとで町政を担当した。身分は町人。町名主の職名は地方・城下町によってさまざまである。
 村請制村落の下で年貢諸役や行政的な業務を村請する下請けなどを中心に、村民の法令遵守・上意下達・人別支配・土地の管理などの支配に関わる諸業務を下請けした。社会の支配機構の末端機関に奉仕する立場上、年貢の減免など、村民の請願を奉上する役目もあった。 

八丁堀(はっちょうぼり);東京都中央区の地名で、旧京橋区に当たる京橋地域内である。現行行政地名は八丁堀一丁目から八丁堀四丁目。
 江戸時代初期には、多くの寺が建立され、寺町となっていた。しかし、1635年、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられた。その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになった。時代劇で同心が自分達を“八丁堀”と称したのはこれに因む。 江戸時代、八丁堀にあった銭湯は非常に混雑することで知られ、混雑を避けて女湯に入る同心などの者達もいた。
 江戸時代、この地に開削された堀の長さが約8町(約873m)あったため「八町堀」と呼ばれ、その堀名に由来して町名がつけられた。後に「町」が略字の「丁」となる。『東海道中膝栗毛』における弥次郎兵衛・北八もまた同所に住む。八丁堀は現在埋め立てられて、公園や公共の建物が建っています。また、新しいビルが建つと地下に多くの人骨が出土します。それはここに多くの寺や墓が有った証拠です。

錺職(かざりしょく);錺師ともいう。錺(飾り)を主とする職人。錺とは金属加工技術の鎚起(ついき)(金属板をたたいて造形する)のこと。中世の銀(しろがね)細工の技法を受け継ぎ17世紀の近世になって独立した。居職(いじょく=自宅で作業する職人)であり、さらに彫金、細金(ほそがね)細工、鑞(ろう)付け、鍍金(めっき)などの金属表面処理の技法も取り入れ、金属加工技術の総合者となった。工具は鎚起の金床(かなとこ)、金槌(かなづち)、金鋏(かなばさみ)や彫金のたがね、やすりなどであった。
 製作品は、鎖、指輪、簪(かんざし)、煙管(きせる)などや、箪笥(たんす)、長持(ながもち)など家具の金物、または灯籠(とうろう)、駕籠(かご)、輿(こし)、車などの金具や建築物の家形飾(やかたかざり)などであったが、近代になって、装身具の流行につれて、金銀細工師ともいわれるようになり、首飾り、耳飾り、カフスボタン、宝石箱、たばこケース、コンパクトなどを製作するようになった。

  

 金具師。『職人尽絵詞』 第3軸(部分) 原図は、鍬形蕙斎(北尾政美)画、手柄岡持(朋誠堂喜三二)詞書  国立国会図書館所蔵。
  日本大百科全書(ニッポニカ)より文と画像。

借金の保証人(しゃっきんの ほしょうにん);保証人と連帯保証人は違います。
 保証人と連帯保証人は、主債務者(借主)が返済できなくなった場合、代わりに返済する義務を負うという点では共通しますが、違いがあります。
 1)貸金業者がいきなり(連帯)保証人に対して返金請求をしてきた場合には、保証人であれば、「まずは主債務者に請求してください」と主張することができますが(これを「催告の抗弁」といいます)、連帯保証人はそのような主張をすることができません。
 2)主債務者が返済できる資力があるにもかかわらず返済を拒否した場合、保証人であれば主債務者に資力があることを理由に、貸金業者に対して主債務者の財産に強制執行をするように主張することができますが(これを「検索の抗弁」といいます)、連帯保証人はこのような主張をすることができず、主債務者に資力があっても貸金業者に対して返済しなければなりません。
 3)(連帯)保証人が複数いる場合、保証人はその頭数で割った金額のみを返済すればよいのに対して、連帯保証人はすべての人が全額を返済しなければなりません(もちろん、本来返済すべき額を超えて返済する必要があるわけではありません)。 以上のように、保証人に比べて連帯保証人にはより重い責任が課せられています。そのため現在では、保証人ではなく連帯保証人にすることがほとんどです。特に金融機関ではそうです。

 連帯保証人とは、主債務者が借りたお金を返済しない場合に、主債務者に代わって返済することを約束した人のことです。その意味では主債務者と連帯保証人は同じ立場にいます。

(ざい);いなか。 "在郷" · "在所" · "近在"。

仲人(なこうど);《「なかびと」の音変化》中に立って橋渡しをする人。特に、結婚の仲立ちをする人。媒酌人。月下氷人(げっかひょうじん)。ちゅうにん。 

 すべての人の結婚に際して、仲人が必要な存在となったのは、さほど古いことではない。婚姻が、当事者である男女の間で決定された古い村落生活のなかでは、仲人親とよばれる者の役割は、男女を結び付けることではなく、彼らの将来の村における生活を庇護(ひご)し援助することがおもなものであった。ところが、婚姻に際し、当事者たちの意思よりも、家どうしの結び付きが問題とされるようになり、遠方婚姻が多くなると、男女とも自ら相手を選ぶ機会が少なくなり、困難にもなって、いきおい仲人という役目が重要となり、複雑にもなってきた。しかし、最近ではしだいに昔のように当事者の意思が重視されるようになって、「頼まれ仲人」と称して、男女の了解が済み、お膳(ぜん)立てのそろったところで、社会的地位などを考慮して仲人を頼むというようなことも多くなった。昔の仲人には、仲人親といって、実の親と同様な礼を尽くし、仲人の葬儀の際はかならず棺を担ぐという習俗は広く、ほとんど一生の間の関係となっていたが、いまではこういう関係は希薄になる傾向にある。

折り詰め(おりづめ);食品を折りに詰めること。また、詰めた折り。「折り詰めの鮨(すし)」、折り詰め弁当。

 

 最近は鯛の姿焼きが入った結婚式のお重は無くなったのでしょうか。海鮮物と言えば、海老やホタテ、アワビ、寿司などが有ります。またメインでは、ステーキなどが有って若者の嗜好に合わせた料理配分になっています。噺の舞台背景の時代には、引き出物と言えば、お赤飯の上の重には煮物があって、その上に鯛の塩焼きが乗っていたものです。それらは絶滅危惧種の引き出物になってしまいました。

急飛脚(きゅうひきゃく); いそぎの飛脚。急飛(きゅうひ)。
 飛脚(ひきゃく)は、信書や金銭、為替、貨物などを搬送する職業またはその職に従事する人のことです。
 江戸時代に入ると、五街道や宿場など交通基盤が整備され、飛脚による輸送・通信制度が整えられた。江戸時代の飛脚は馬と駆け足を交通手段とした。公儀の継飛脚の他、諸藩の大名飛脚、また大名・武家も町人も利用した飛脚屋・飛脚問屋などの制度が発達、当時の日本国内における主要な通信手段の一翼を担ってきた。
 飛脚は明治以降の郵便制度に比較すると費用的に高価で天候にも左右された。また江戸 ― 大坂間は一業者で届けられたのに対し、江戸以東の蝦夷(えぞ)、大阪以西へは別業者に委ねられたが、連携は必ずしも円滑ではなかった。このような理由で、期日に届かないことも多かった。毎日配達しないため、近世の書簡は案件をまとめて記されることが多く、費用的に安価であることや儀礼的な理由で飛脚を用いずに私的な使用人を介して伝達されることも多かった。

一船か二船遅れる;江戸と千葉間は成田方面に行く便と、江戸・小網町 ー 木更津間を船で行き来する便がありました。小網町は江戸湾の入り江にあったところで日本橋にも近く、江戸の人々が乗船するには最適な場所でした。日本橋川に架かる現・鎧橋(よろいばし)のところに、鎧の渡しが有りました。ここは当時東京(江戸)湾に面しており 、木更津まで船で約2時間も有れば到着する距離です。

  

 上写真、鎧橋(よろいばし)、上部に首都高が走っています。ここから木更津に船で出発。落語「派手彦」より

古金襴(こきんらん);近世初期に中国から渡来したといわれる金襴。古渡り金襴。印金、金襴、金紗などは仕覆(しふく=抹茶具を入れる袋)としてよりも表装裂(ひょうそうぎれ)などに広く活用されてきた。特に古金襴として名高い〈興福寺金襴〉〈大灯金襴〉〈二人静金襴〉などは、それぞれに興福寺の帳に用いられた裂、大灯国師の袈裟であった裂、足利義政が《二人静》を舞った装束の裂といった由緒をもつものである。その他著名な金襴に花麒麟、竜爪、角倉、高台寺金襴をはじめとする唐草文の金襴などがある。渡来物の金襴ですから価格も高価です。
 右図:白地二重蔓古金襴 (しろじふたえづる こきんらん)

吝嗇(りんしょく);過度にものおしみすること。けち。

古着屋(ふるぎや);江戸時代では、新しい着物は反物を買い求め、それを仕立てて着ました。また、古着屋は一度手を通した着物や既に新しい着物として仕立てたものを扱っていた。今の既製品に当たります。
 噺の古金襴七条袈裟は既に仕立てられた物で、古着屋が商品として扱っていても不思議ではありません。

旅の入費(たびの にゅうひ);旅にかかる費用。おおよそ、旅の1日にかかる費用は400文掛かった。庶民の旅に比べて裕福な旅人だと、1日の費用は約714文掛かっています。1日でも足止めを食うと、それだけで入費が掛かり、だんだんと商品の値が上がってきてしまいます。

狸は八畳敷き;狸の陰嚢 (いんのう) の非常に大きいことをいう言葉。大きく広がった物のたとえ。
 「狸の金玉 八畳敷き」。この言葉がどのようにできたかと言うと、江戸時代の金細工の職人が金箔を作る際に、4gにも満たない金を狸の皮で包んで叩くと、その金が八畳敷きの大きさにまで広がるということから、大きく広がったものの例えに使われるようになったと言われています。でも実際の狸の物は小指程も無いと言われ、狸の尻尾が前に出ると、それを見誤ったのではないかとも言います。

 上方の小話があります。
 狸が仲間内で団体旅行をしていました。宿場に入ってきて、宿に泊まるので客引きに尋ねました。「今晩よろしいでしょうか」、「そんな大きな布団も無ければ、数も揃いません」、「大丈夫です。私たちは女(メン)ですから」。



                                                            2021年6月記

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