落語「梅の春」の舞台を行く
   

 

    「梅の春」(うめのはる)より


 

 下関の長門長府藩の殿様の毛利元義は風流を好む文化人だった。画家である狩野芳崖をはじめ、多くの文化人たちを保護しただけではなく、元義自身も蜀山人(四方赤良)の弟子の四方真顔に師事した。研鑽のかいあって元義は四方真門という名をもらった。
  清元の「梅の春」は元義が作ったものだが、「四方にめぐる扇巴(おうぎどもえ)や文車(ふぐるま)の ゆるしの色もきのうけふ 心ばかりは春霞 引くも恥ずかし爪(つま)じるし 雪の梅の門(と)ほんのりと 匂ふ朝日は赤間なる硯の海の青畳 文字がせき書きかき初めに 筆草(ふでくさ)生ふる浪間より 若布刈るてふ春景色・・・」、まではすんなりと作ったが後が続かない。
  師匠の真顔のアドバイスを受けて、「浮いて鴎のひい、ふう、みい、よぉ いつか東へ筑波根の 彼面(かのも)此面(このも)を都鳥 いざ言問はん恵方さへ よろづ吉原山谷堀・・・」と、見事につながったという。これに曲をつけたのが蜀山人の「北州」に曲をつけた川口直だ。

  文政十年(1827)、白金の長府藩下屋敷に大勢の客を招いて、清元太兵衛(栄寿太夫(二世延寿太夫))の語り初めの会が華やかに開かれた。
  この日はほかに画の席の催しもあって、絵師の喜多武清(きた・ぶせい)も早くから来て控えの間で待っていた。すると廊下を通る侍女たちが座敷をのぞいては笑って行ってしまう。ずいぶんと待たされるわ、女どもは自分の顔を見ては笑って行くわで、先生気分のいいものではなく腕組みしてしかめ面をしている。

  武清の渋面を見兼ねたお供の弟子が、「今日は名人太兵衛の語り初めの日でございます。太兵衛ののどを聞くのを楽しみにしている女たちが、太兵衛はもう来ているのか、どんな顔をしているのかと何度もこの座敷をのぞくのでしょう。なかなか太兵衛の姿は見えずに、先生が苦り切った顔をしているので思わず笑ったのだと思いますが」、なるほど納得だが、太兵衛に比較されて馬鹿にされたようで怒りはおさまらない。
  さあ、「梅の春」の座敷では太兵衛が見事に一段語り終えると、お客から、「お天道様っ!」と声がかかった。
  これが耳に入った武清先生は弟子に、「太兵衛は名人とは聞いていたが、お天道様とは恐れ入った褒めようだ。わしなどはいくら苦心、切磋琢磨して画いてもお月様ともほど遠い。つくづく絵を画くのが嫌になった。もう帰ろうではないか・・・」
 「先生、それはいけません。昔から”太兵衛(多勢)に武清(無勢)はかなわない”と申します」。

 

「落語事典」 東大落語会編より

 



ことば

長府藩(ちょうふはん);現在の山口県下関市長府に江戸時代に存在した藩のひとつ。長州藩の支藩で、長門府中藩(ながと ふちゅうはん)ともいう。須原屋武鑑の居城・在所表記では当初は長門長府で、宝暦年中より長門府中に改称されている。藩庁は櫛崎城(長府城、長府陣屋)に置かれた。
 藩主は毛利家である。毛利元就の四男穂井田元清の子で、毛利輝元の養子となった毛利秀元を藩祖とする。
 秀元は天正20年4月11日(1592年5月22日)には朝鮮出兵に向かうために毛利家の本拠であった広島城に入った秀吉によって直接、輝元の養嗣子となることを承認された。ただし、後日の紛糾を避けるために、「輝元に男子が生まれた場合には分家すること」という条件の下であった。その後、輝元に嫡男秀就が誕生した。これを受けて慶長3年8月1日(1598年9月1日)、豊臣政権は秀就を毛利家の後継者として承認し、事実上廃嫡される秀元には輝元から所領を分知されて大名となることが決定された。

毛利 元義(もうり もとよし);(天明5年11月9日(1785年12月10日)ー 天保14年4月5日(1843年5月4日)江戸時代後期の大名。長門国長府藩十一代藩主。
 第十代藩主・毛利匡芳の長男として江戸で生まれる。母は宝珠院(右大臣西園寺賞季の娘)。寛政4年(1792年)、父の死去により跡を継ぐ。武芸や儒学を奨励して、藩校敬業館の充実や有能な人材登用に努めた。しかし次第に藩政から逃避し始め、もともと優れた才能のあった絵画に溺れて藩政を省みなくなり、藩財政を極度に悪化させた。
 天保12年9月21日(1841年10月24日)、三男の元運に家督を譲って隠居し、天保14年4月5日(1843年5月4日)に江戸において死去した。享年59。
 鹿津部真顔(しかつべの まがお)に師事した狂歌師であり、清元節「梅の春」を作詞するなど文化人としては高く評価されており、元義の代の長府では狩野芳崖(かのう ほうがい)や諸葛函渓、度会東明といった多くの文化人が生まれている。また、享和元年(1801年)には長府藩の御用絵師を狩野・笹山・度会・諸葛の4家とした。

蜀山人(しょくさんじん);大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日))は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。右図は大田南畝像 鳥文斎栄之筆 文化11年 東京国立博物館蔵。
 勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であった一方で、文筆方面でも高い名声を持った。膨大な量の随筆を残す傍ら、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などをよくした。特に狂歌で知られ、唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループは、山手連(四方側)と称された。
 名は覃(ふかし)。字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、蜀山人(しょくさんじん)、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手馬鹿人(やまのてのばかひと)も南畝の別名とする説がある。狂名、四方赤良(よものあから)。また狂詩には寝惚(ねぼけ)先生と称した。法名は杏花園心逸日休。
 落語に「蜀山人」と言う噺が有ります。ほかにも「狂歌家主」にも蜀山人のことが有ります。

鹿津部 真顔(しかつべの まがお);1753年(宝暦3年) - 1829年7月6日(文政12年6月6日))は、江戸時代後期の狂歌師・戯作者。鹿都部真顔とも書く。通称は北川嘉兵衛、号に紀真顔・狂歌堂・鹿杖山人・俳諧歌場・万葉亭・四方歌垣・四方真顔・好屋翁・恋川好町など。
 1781年(天明元年)洒落本『袖かがみ』に初めて名前が見え、黄表紙や洒落本などを天明年間に刊行する。
1782年(天明2年)に狂歌界へ入り、師は元木網で、1784年(天明4年)頃に大田南畝門下となり、算木有政や銭屋金埒らと「スキヤ連」を結成した。やがて、宿屋飯盛・頭光・金埒らと狂歌四天王と称された。1794年(寛政6年)南畝から「四方姓」を譲られ、飯盛と化成期の狂歌界を二分した。

川口 直(おなお); ?-1845 江戸時代後期の女性。 もと江戸吉原の芸者で,芝居囃子方(はやしかた)忠七の妻。真崎(まさき)稲荷境内の田楽茶屋・川口屋の女将(おかみ)。清元節,河東(かとう)節の名手で,清元節の「北州」「梅の春」を作曲した。弘化(こうか)2年死去。

長府藩毛利家江戸下屋敷; 『諸向地面取調書』より(江戸時代)
 上屋敷 麻布日ヶ窪            11410坪 (現在・六本木ヒルズ・テレビ朝日・毛利庭園) 
 下屋敷 白金今里村(白金早道場)     3561坪 (東京府白金三光町)(現在・白金4丁目13.14.15辺)
 抱屋敷 麻布日ヶ窪、上屋敷地続き     2677坪
 抱屋敷 白金村・今里村入合、下屋敷地続き 517坪
長府藩江戸屋敷は上記の2カ所であり、藩主・家族とも日ヶ窪屋敷に居住しており白金村の下屋敷はあまり使われていないようで、安政6年(1859)の日ヶ窪邸火災時に避難したのは、愛宕下の円福院であった。その他、はっきりした記録もない。 別の記録では下屋敷の場所名が違う。 拝領上屋敷 麻布日ヶ窪 拝領下屋敷 白金早道場(上記では今里村となっている) 江戸時代初期頃は、5
万万石以下の小大名は、上屋敷と下屋敷の二つの屋敷が普通であった、約半分の大名が、そのようであったと考えられている。

  

 上江戸切り絵図。長府藩毛利家江戸下屋敷(左中、赤枠内)。日吉坂と有るのが現・目黒通り、覚林寺と有るのが、清正公です。現在は白銀と言えば高級住宅街ですが、当時は江戸の片田舎。

清元 延寿太夫(きよもと えんじゅだゆう)は、江戸浄瑠璃清元節宗家で高輪派の家元である。正式表記は旧字の延壽太夫。現在まで七代です。
 二代目 (享和2年(1802年) - 安政2年9月26日(1855年11月5日))、通称は岡村屋藤兵衛。号は紫雲斎。 初代の実子。幼名を巳三治郎。1816年に松江藩主の松平不昧より初代清元栄寿太夫の名を拝名し1819年に襲名披露する。 1827年に二代目延寿太夫を襲名。「落人」「神田祭」「お染」等を初演。1845年には初代清元太兵衛と改名。

喜多 武清(きた ぶせい);安永5年(1776年) - 安政3年12月20日(1857年1月15日)は江戸時代後期の南画家。
 谷文晁の画塾写山楼に入門。寛政8年(1796年)、『集古十種』編纂のために文晁とともに関西に遊歴し古社寺の宝物を調査・模写した。狩野派や琳派を研究しその構図を冊子にした『武清縮図』を遺す。享和から没年まで作画をしており読本の挿絵を多く手がけて美人画や摺物、画譜も描いた。浮世絵師でない画家が読本挿絵を描くことは希であった。
 狩野派とりわけ狩野探幽を敬慕し、花鳥図・山水図を得意とした。中年以降は画名が高まり入門者が後を絶たなかったという。八丁堀竹島に居住。渡辺崋山や曲亭馬琴、大田南畝、鍬形蕙斎らと交友した。武清の居宅には夥しい数の粉本縮図が所蔵されていたが、天保年間に火災に遭い焼失した。渡辺崋山はこの貴重な資料を失ったことを惜しんだという。

「清元 梅の春」歌詞
  四方(よも)にめぐる、扇巴(おうぎどもえ)や文車(ふぐるま)の ゆるしの色もきのうけふ 心ばかりは春霞  引くも恥ずかし 爪(つま)じるし 雪の梅の門(と)ほんのりと 匂ふ朝日は赤間なる 硯の海の青畳 文字がせき書きかき初めに 筆草(ふでくさ)生ふる浪間より 若布刈るてふ
  春景色 浮いて鴎(かもめ)のひィふうみいよォ  いつか東へ筑波根の 彼面(かのも)此面(このも)を都鳥 いざ言問はん 恵方さへ
 よろづ吉原山谷堀 寳船(たからぶね)漕ぐ 初買いに よい初夢を三つ蒲團 辨天(べんてん)さんと添ひ臥(そいぶし)の 花の錦の飾夜具 廿(はたち)ばかりも積重ね  蓬莱山(ほうらいさん)と祝ふなる 富士を背中に家(や)がための 盬尻(しほじり)長く居据われば ほんに田舎も眞柴たく 橋場今戸の朝烟(あさけむり) つづく竈(かまど)も賑はうて
 太々神樂 門禮者(かどれいしゃ) 梅が笠木も 三囲(みめぐり)の 土手に囀る鳥追は 三筋霞の連弾きや
 君に逢ふ夜はなァ 誰白髭の森越えて 待乳の山と庵崎(いほざき)の 其の鐘が淵かねごとも 楽しい中ぢゃないかいな 面白や
 千秋楽は民を撫で 萬歳楽には命を延(の)ぶ  首尾の松が枝(まつがえ)竹町(たけちゃう)の  渡船(わたし)守(も)る身も時を得て 目出度くここに隅田川 つきせぬ流れ清元と 榮え壽く梅が風 幾代の春やにほふらん。

オチの”太兵衛(多勢)に武清(無勢)はかなわない”は、落語「永代橋」と同じです。

 


                                                            2021年6月記

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