落語「白井左近」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円生の噺、「白井左近」(しらいさこん)より


 

 増水のため神田川の船宿で新造の船が一艘(そう)流されて行方不明になってしまった。辻易者に見て貰いに行ったら、「方角は辰巳の方角だが、少し高いところに有ると出た。台所の隅の棚の上だ」と易判断をした。
 呆れかえって今度は白井左近に占って貰った。「失せ物は船だろう。洲崎の方の陸の上を探しなさい」。はたして船は陸の上に打ち上げられていた。

 辻易者も白井左近も易は同じように出ていた。しかし、その判断が違っていて、棚に乗るような大きさでは無かった。この事から、白井左近は名声を上げ、門人も増えた。

 門人達に易断の稽古をしている時、雨が降ってきた。向こう側の軒下に重箱を持った女が雨宿りをしているのが見えた。
 左近が言った、「あの重箱の中身を当てなさい」、門人達は分からないので、「先生お願いします」と敗北を認めた。「私の考えでは、桃が入っていて、数は二十四」。
 念のためその女に聞いてみるとその通りだった。「どうして分かりました?」、「あの女が駆け込んだ時に、チラリと股が見えた。それで桃と判じた。その色が白かったから、シロク二十四」。

 

 「ちきり伊勢屋」のマクラで使われ、一席物とした噺。

 



ことば

神田川(かんだがわ);東京都を流れる一級河川。東京都三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km2、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀です。

  

 神田山を掘削して神田川を通した、御茶ノ水駅あたり。前方に聖橋が見えます。

 江戸市中への上水が引かれてからは上流を神田上水、下流を江戸川と呼び、さらに開削された神田山(水道橋-昌平橋)から下流は神田川と呼ばれるようになった。明治になり神田上水が廃止されてからは上流も神田川と呼ばれるようになり、昭和の河川法改正によって全て神田川の呼称で統一された。
 かつては平川と呼ばれ、台地ハケからの湧水や雨水を多く集め、豊嶋郡と荏原郡との境界をなす大きな川だったが、江戸城を普請する上で深刻だったのは、江戸城内へ飲料水の確保と、武蔵野台地上の洪水だった。
 潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また沿岸の井戸も鹹水が混じった。平川の普請は、まずは江戸市中の飲料水確保のために行われた。
 1590年(天正18年)、徳川家康が江戸に入府する前後に大久保忠行が小石川上水を整備して主に江戸城内への用水としていたが、城下を含めより多くの上水を確保する必要から、豊富な真水の水源を有した井の頭池に加え、善福寺池からの善福寺川、妙正寺池からの妙正寺川も平川に集めて神田上水を整備した。目白下(現在の文京区関口大滝橋付近)に、石堰を作って海水の遡上を防ぎ、分水を平川の北側崕に沿って通していた。これは下流への高低差を確保することと、洪水によって水道施設が破壊されてしまうのを防ぐ目的もあった。川の本流から水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)を通った後に懸樋(空中を通した水道で、これが水道橋の由来)や伏樋(地中の水道)により現在の本郷、神田から南は京橋付近まで水を供給した。石堰から下流は江戸川(現在の江戸川と区別するため以下この節では「旧・平川」とする)と呼ばれた。
 次に、江戸城拡張のため、江戸前島の日比谷入江に面していた老月村、桜田村、日比谷村といった漁師町を移転させて入江を埋め立て、江戸前島の尾根道だった小田原道を東海道とし、その西側に旧・平川の河道を導いて隅田川に通じる道三堀とつなぎ、江戸前島を貫通する流路を新たに開削して江戸城の(外濠、外濠川とも)とした。 これらは家康が将軍を任官する以前の普請であり徳川家のみで行われていた。旧・平川に架けられた橋や河岸、蔵地、埋め立てた日比谷入江に建てられた大名屋敷(大名小路)はたびたび大規模に氾濫して流されていたが、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いてからは大名を集めての天下普請として大規模に行われるようになった。
 ウイキペディア

船宿(ふなやど);上記神田川の最下流、柳橋が架かる川面に船宿が両岸に並んでいます。落語「船徳」等にもよく出てくる船宿です。

  

 上写真、昭和36年当時の柳橋周辺。船宿小松屋蔵。  左側が柳橋(町)、手前が神田川で柳橋下流で隅田川と合流する。現在と同じ所に船宿が有り、船は和船の手こぎ船です。ここから吉原や深川に遊びに出た船宿の基点です。柳橋の左向こうには料亭『亀清楼』が日本家屋のたたずまいを見せています。左上の隅田川に架かる鉄橋はJR総武線の鉄道橋です。

新造の船(しんぞうのふね);新しく作られた船。車で言えば、新車。

辻易者(つじうらない);自宅や専用占い所を持たず、街に出て通行人を相手に占う易者。
 占い(うらない)とは様々な方法で、人の心の内や運勢や未来など、直接観察することのできないものについて判断することや、その方法をいう。
 占いを鑑定する人を、占い師、占い鑑定師、卜者(ぼくしゃ)、易者(えきしゃ)などと呼ぶ。また、場合によって、「手相家」、「気学家」、「人相家」などとも呼ばれる。客からは先生と呼ばれることが多い。また日本では、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と昔から言われているように、占いは他の業界と違い、必ずしも当たらなくても通用する面もあることから、占いを裏(外れ)が無いという意味で「裏無い」と軽蔑の意味を込めて書く場合もある。
 占いの関係者の中には占いは「統計」によるものと説明する者もいるが、占いは独自の理論や個人の経験で構成されている面が強く、必ずしも統計や統計学、科学としての研究との関連があるとは言いがたい。
 例えば占星術は古代においては天文学と関連したものであったが、天文学が自然科学として発展したため現在では学問的な裏付けが無い。またこれは風水においても同様で風水に地理の別名があるように、かつて地理は社会科学の地理学に相当する知識と地理による吉凶を占う地相術が渾然となったものであった。
 実際、これまで占いには、統計学などの科学的要素が入っていると言う説が提示されたことはあるが、科学的な根拠があると認められたことはない。
 ウイキペディア

白井左近(しらい さこん);人情噺「ちきり伊勢屋」に出てくる易者で、実在の人物ではありません。縁談の相談に来た若旦那・伝次郎の死相を見とがめ、死ぬ日を予言する。人生を見切った伝次郎は翌日から江戸の町に出て困窮する者に手当たり次第に金を与えて回った。 全財産を消尽した伝次郎だったが、期日が来ても死なない。左近に文句を言うと、善行により吉相に変わって長生きをするという。左近の予言に従って品川へ行くと、助けた母娘と再会してその店に婿入りした。店は大繁盛して「積善の家に余慶あり」という。

辰巳(たつみ);江東区深川地区。都心から見て辰巳(東南)の方向にあるから。門前仲町を中心に岡場所が盛んになり、芸者、飲み屋、遊廓が栄えた。隅田川の船運が便利で、羽織芸者と言われる芸者の気っぷが良くて、海の幸が楽しめた、歓楽街であった。

 

 辰巳の中心地、富岡八幡宮の夏祭りの時。 2008年8月撮影。落語「名月八幡祭」より写真引用。 

羽織芸者」の心意気
  深川は明暦ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。商人同士の会合や接待の場に欠かせないのは芸者(男女を問わず)の存在であったために自然発生的にほかの土地から出奔した芸者が深川に居を構えた。その始祖は日本橋の人気芸者の「菊弥」という女性で日本橋で揉め事があって深川に居を移したという。しかし土地柄辰巳芸者のお得意客の多くは人情に厚い粋な職人達でその好みが辰巳芸者の身なりや考え方に反映されていった。
 薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方。気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は粋の権化として江戸で非常に人気があったという。また芸名も「浮船」「葵」といった女性らしい名前ではなく、「音吉」「蔦吉」「豆奴」など男名前を名乗った。これは男芸者を偽装して深川遊里への幕府の捜査の目をごまかす狙いもある。現代でも東京の芸者衆には前述のような「奴名」を名乗る人が多い。 

 歌麿の雪月花のうち、「深川の雪」。18世紀末

洲崎(すさき);明治20年、東西500m、南北400mの埋め立てが完了した時点では、ここは出島で四方を海に囲まれた城郭、いえ遊廓だったのです。現在は手前(北)の運河は洲崎川と呼ばれ、昭和50年埋め立てられて公園となり中央はサイクリングロードになっています。西側と南側は運河が残り、橋によって街が隣と繋がっています。東側は一段高い、洲崎から見れば丘のようになっていて、堀跡はありません。  明治21年から遊廓として栄え、島全体が遊廓でしたが戦後洲崎パラダイスと名を変えて、入口から見て左(東)側が遊廓として残りました。反対側の西側は戦後一般住宅地になりました。
  永代通りの東陽三丁目交差点で交差する道が「大門通り」と言います。ここを南に曲がると、埋め立てられた洲崎川に渡された「洲崎橋」が公園になった上をまたいでいます。橋の右手前に小さな不動産屋が有りますが、遊廓を守っていた「交番跡」です。橋の所に大門が建っていました。橋手前の左に「江東洲崎橋郵便局」が当時の名称通りに営業しています。
 落語「辰巳の辻占」より、孫引き。 現存する見世跡の建物も見られます。

  

 洲崎の奥から北側の洲崎の町並を見る。2010年3月22日撮影。



                                                            2021年7月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system