落語「地見屋」の舞台を行く
   

 

 四代目三遊亭金馬の噺、「地見屋」(じみや)より


 

 どん底生活で失業同然の熊五郎。

 きれいな着物を着て、うまいものを食って、女に惚れられて、働かなくても飯がくえるような、いい商売はないものかと思いを巡らすうち、ふと気になったのが、長屋の隣に住んでいる独り者。 ついぞ商売を聞いたことがない。 見るからに羽振りがよさそうなので、ワリのいい仕事をしているに違いないから、ひとつ談判して、腕づくでも仲間にしてもらおうと物騒なことを考え、隣へ出かけた。

 前々からうさん臭いとにらんでいたので、「てめえは昼間はグーグー寝ていて、夜出かけて朝帰ってくるからには、”ド”のつく商売だろう。さあ白状しねえ」 とカマをかけて脅すが、「自分の商売は素人には説明しにくい商売だ」、「人殺しと言い立てるぞ」 と脅迫して、ようやく聞き出したところによると、男は地見屋。
 つまり、文字通り地面を見て歩き、金目のものを拾って自分のものにする「拾い屋」。
 お上の目がヤバイが、腕によっては元手いらずの上、相当もうかると聞き、熊は喜んで、「俺もやってみるから一口乗せろ」 と頼むが、「組合」の加入金兼技術の指導料五十銭が前金でいるとのこと。 熊公は一文なしなので、強引に後払いということにさせ、秘訣を無理矢理聞き出す。男の教えたところでは、現ナマは夜中から夜明けにかけてが一番拾いやすいという。
 「仲間うちでは、五銭でも現金を拾うと酒を呑んで祝うんだよ。悪い月でも三、四十円、運がよければ百円以上拾うね。そうすると、仲間に赤飯を配るんだ」。

 熊は、家のガラクタを残らず売り飛ばした一円をふところに、日が暮れきらないうちから両国、日本橋横山町あたりを地面ばかり見ながら捜索するが、夜中まで足を棒にしても、まるでダメ。 しかたなく、一円を、「前祝い」に回して、一杯景気をつけようと屋台のおでん屋に飛び込む。呑むうちに気が大きくなり、親父相手に大ボラを吹きまくった末、勘定を払おうとすると、なけなしの一円がない。 ばかな話で、あまり下ばかり向いていたから、金を拾わずに落としてしまったらしい。
 親父に代金代わりに半纏を召し上げられ、しょんぼりと帰ってみると、例の地見屋が祝杯中。

 親父橋の近くで、一円入った汚いがま口を拾ったという。 見ると、まさしく熊が落としたがま口。
 「泥棒め、さあ返せ」、 「拾うのが商売だから返せねえ」、 「返さねえと警察ィ引っ張ってくぞ」 と強引に取り返したが、「オイオイ、五十銭しかねえぞ」、 「へえ、そいつは講習料にさっ引いといた」。

 



ことば

■「落語事典」東大落語会編によると、別の内容になっています。
 長く途絶えていたのを、四代目三遊亭金馬が復活しましたが、めったにやる人もいないようです。 ほとんど改作に近い別演出もあり、それによると。
 長屋の吉兵衛が地見屋という怪しげな商売をやっているというので、大家が、泥棒にちがいないと後をつけますが、くたくたになって、あきらめて帰るハメに。吉兵衛が汚い財布を井戸端で拾ったと喜んで帰ったので、大家がよくよく見ると「あっ、オレの財布だ」と。 まともな大家なら、そんな怪しげな者には長屋を貸しませんし、それを承知で貸すような大家なら逆にヤボな詮索はするはずもないので、こちらは理屈的には、少し無理があるようです。

いい商売は、きれいな着物を着て、うまいものを食って、女に惚れられて、働かなくても飯がくえるような、、
 落語の世界では良くあることで、「動物園」や「代書屋」に出てくる川の中に入って屑鉄を拾う”ガタロ”等がいます。世界の中には、国のゴミ処理場から、換金できるものを拾い集める子供達がいます。この子達は怠け者ではなく、生活に困窮して家族の為、やむを得ずこんなことをしているのです。落語の中の遊び人とは違います。
 現代でも、銀行のATM(現金自動預け払い機)で、引き出した現金を取り忘れて帰って来て、初めて気が付いて、銀行に問い合わせをすると、次の人がこれに気が付いて、窓口に返しておいてくれた、と言うのは良くあることです。もしこれをネコババすると、窃盗と言うことで防犯カメラの映像からすぐに捕まるそうです。
 また、自販機では釣り銭の小銭を取り忘れることがありますが、これもネコババすると警察のご厄介となります。でも、被害者(忘れた人)も小銭のことで、気にせずその場を離れてしまいます。そこに、後から来た人が、釣り銭の出口に指を突っ込み確認していく人が居ます。煙草代ぐらいは稼げるようです。ま、釣り銭を忘れることがないように気をつけなければいけません。

両国(りょうごく);江戸でも両国は賑やかな繁華街だったので、落語の舞台として多くの落語に取り上げられています。『備前徳利』、『十徳』、『擬宝珠』、『権助魚』、『たがや』、『幸助餅』、『淀五郎』、『幾代餅』、『お藤松五郎』、『蝦蟇の膏』、『紫檀楼古木』、『四つ目屋』、『両国八景』等々があります。

両国広小路は、
 明暦の大火(1657・振り袖火事)は江戸の市街の大半を焼失し10万余の死者を出した。その際この辺りで逃げ場を失って焼死する者が多数出ました。このため対岸への避難の便を図り大橋が架けられた。隅田川は武蔵と下総両国の境界をなしていたので、橋名をのち両国橋になった。また、延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。これがやがて広小路になり、小屋などが並んで盛り場になっていった。 火事や将軍通過時は仮設小屋は即座に取り払われた。
 江戸で日に1千両が落ちる所として、魚河岸、歌舞伎、吉原と夏の両国広小路に金が落ちた。それ程の歓楽街であった。道が広いだけなら何ヶ所もあったが、賑わいのある江戸三大広小路のひとつで、上野山下の「下谷広小路」、浅草雷門前の「浅草広小路」と、ここです。

 右図、名所江戸百景「両国橋大川ばた」 広重画。

両国橋は、
 中央区東日本橋と墨田区両国の区境、隅田川に架かり、京葉道路が走る。
 両国橋は幕府の戦略的な観点から、架橋しなかったが、明暦の大火(1657)後の江東地区の開発にともなって、寛文元年(1661)に竣工した。一説によると万治2年(1659)12月に竣工したとも言われる。
 戸田茂睡(もすい)『紫の一本(ひともと)』によると橋名の由来を次のように書いている。 「下総国本所に江戸浅草(浅草橋)より百余間の橋を架けさせらるる。武州下総両国へ掛かりたる橋なるが故に両国橋と名付けるなり。」と記述されている。幕府の最初の命名は「大橋」であったが、のちに新大橋が架けられたために、俗名の両国橋が正式名となった。
 本所・深川の開発がこの橋を必要としたもので、明暦の大火の惨事を教訓に橋際に広大な火除け地、広小路を作り、橋番の小屋を建て、沿岸町民へ出火出水のさいの橋の防御を義務づけた。両国橋は橋上の眺望の美しさと、広小路の床見世(とこみせ)の賑わいによって市民に親しまれて、遊山舟や花火で名高くなった。
 隅田川には日光街道・千住大橋・文禄3年(1594)架橋に続いて両国橋が架けられ、その後、江戸時代に新大橋・元禄6年(1693)、永代橋・元禄11年(1698)と架橋された。
 両国橋、新大橋、永代橋3橋を大川三大橋と言われた。今は隅田川と言われますが当時は荒川と言われ、そこに架かっていた千住大橋は数に入らなかった。安永3年(1774)吾妻橋が架けられ、大川四大橋と言われ、明治までこの状態が続いた。


 

 「両国花火之図」 歌川豊国画 横3枚続き、縦2段の6枚一組図。 文化年間(1804-17)前記の作。
  江戸東京博物館蔵 

日本橋横山町(にほんばし よこやまちょう);中央区日本橋横山町。万屋清三郎が道具屋を開いていたところ(お藤松五郎)。この地は問屋街で落語の世界でもいろいろな問屋さんがここで営業しています。  生薬屋さんの栄屋さん(円生「お若伊之助」)、花火屋さんの鍵屋弥兵衛(たがや)、粋な番頭の山崎屋(山崎屋)、久蔵が駆けつける火事があった旦那の店(富久)、文七の奉公先ベッコウ問屋近江屋卯兵衛(文七元結)、袋物屋の近源(ちかげん、「探偵うどん」)、二丁目の大店の息子(松葉屋瀬川)、などここにいます。  現在は衣料関係の問屋さんが集まっています。

親父橋(おやじばし);日本橋の東堀留川に架かっていた橋。元吉原の創設者庄司甚右衛門に因んで付けられたと言います。
 別説には日本橋を渡って東に曲がり魚河岸を抜けて、元吉原に向かう途中に有りますが、遊びに出る息子は、ここでフト親父のことが思い起こされるという。今は東堀留川は埋め立てられてありませんし、親父橋も当然ありません。

  

 上、明治の「親父橋」 山本松谷画 明治東京名所図会より



                                                            2021年7月記

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