落語「唐茶屋」の舞台を行く 八代目桂文治の噺、「唐茶屋」(からじゃや) 別名「万国島めぐり」後半 より
■落語の中で世界旅行は、上方ではこの「万国島めぐり」、東京ではホラ話の「南極探検」が有ります。
■「万国島めぐり」後半の唐人国部分が、本来の「唐茶屋」で、上方落語の長編スペクタクル「万国島めぐり」の後半です。大人(巨人)国までは「島めぐり」そのものです。
「島めぐり」をひっくるめての原話は、小人国と大人国の部分が延宝8年(1680)刊『噺物語』中の「大風に逢し舟の咄し」で安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「島」も類話です。
それ以前にも、室町時代の『お伽草子』に「御曹司島わたり」のような島めぐりものが広く存在しました。
このテーマで、平賀源内(=風来山人)が辻講釈師が女護が島へ渡る「風流志道軒伝」(宝暦13年=1763)を執筆。
これも原話の一つと見られます。
■「女護が島」;「朝比奈島めぐり」の絵本を見せてもらううち、女護が島へ行ってみたくなり、さっそく異国通いの船で密航。小人国や、そのまま進むと、やがて巨人国。ところが、巨人の竜巻のような屁に吹き上げられ、天空に舞い上がる。落下したところは、待望の女護が島。この国始まって以来の男の客というので、たちまちVIP待遇。
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上、「朝比奈島めぐり絵本」二題。女人国にての朝比奈。
■東西の演者:東京の「唐茶屋」は昭和初期に八代目桂文治と三代目三遊亭金馬が演じ、それぞれSPレコードに吹き込んでいます。上方の方は、「島巡り」と題した桂文紅が唯一CD化されました。艶笑落語のオムニバスの一編として、小咄的に女護島のくだりを演じた程度です。
■小西と加藤;加藤清正の虎退治伝説をオチにしたものです。清正は神(清正公=セイショウコウ)に祀られ、江戸時代には最も親しまれた英雄でした。「井戸の茶碗」、「お藤松五郎」で紹介。
清正は豊臣恩顧の武将で、徳川幕府にとっては目の上のタンコブだったはず。事実、熊本城主になって死後、嫡男忠広の代、寛永9年(1632)に加藤家は肥後五十二万石からなんと出羽庄内一万石に飛ばされ、事実上のお取りつぶしです。清正自身は最後まで表面上は家康に忠実で、関が原役にも東軍として参戦の事実がありますから、幕府もその神格化を黙認するほかなかったのでしょう。
小西;小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。
当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。
文禄・慶長の役 ;文禄元年(1592年)からの文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした。戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い、東莱城の戦い、尚州の戦い、忠州の戦い)、清正に先んじて漢城を占領し、さらに北進を続け平壌の攻略を果たす(大同江の戦い)。この間、行長は度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けているが、何れも朝鮮側が拒絶または黙殺している。その後、平壌奪還を図った祖承訓率いる明軍の攻撃を撃退した。この平壌の戦いでは弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷アゴストのほかに著名な者の戦死者はなかった。その後、この明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意を取り付けた。次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。
■朝比奈島めぐり;(あさいなじゅんとうき)。読本。6編29巻。曲亭馬琴著。歌川豊広画。文化12年~文政10年(1815~27)刊。中国の小説「快心編」に学び、安房 (あわ) で育った木曽義仲の子、朝夷三郎の一代記を描いたもの。
■朝比奈(あさひな);朝比奈義秀(あさひなよしひで=安元2(1176)?
-建保1(1213)?
)。鎌倉時代初期の武士。和田義盛の三男、三郎と称した。鎌倉幕府御家人中で抜群の武勇をもって知られた。正治2 (1200) 年将軍源頼家が海辺遊覧の際、水練の技を披露せよと命じられ、水中深くもぐってさめを手取りにして人々を感嘆させたという。建保1 (13) 年5月父義盛が鎌倉で北条義時と戦ったとき (→和田合戦 )
、和田方の勇士として奮戦し、将軍の居所の正面から攻め込み、多数の武士を倒した。敵兵は義秀の進路をつとめて避けたと伝えられる。和田方が敗北するに及び、義秀軍は海路安房国へ向って逃走したが、その直後に戦死したらしい。なお『源平盛衰記』は、和田義盛が先に木曾義仲の妾であった巴御前をめとって義秀が生れたと伝えているが、『吾妻鏡』に義秀は建保1年に38歳とあることから、この説は成立しない。
右、「朝比奈義秀小人遊」 歌川国芳画
歴史からは姿を消しますが、やがて日本各地に伝説を残しました。
江戸歌舞伎では、猿隈(さるぐま)という独特の隈取りをした人気キャラとして、曽我兄弟の仇討ちを題材にした「曽我物」などで活躍します。江戸での朝比奈は、剛力無双でありながら、ちゃめっ気があり、人の良い三枚目的な役どころが多いです。
■巾着の根付(きんちゃくの ねつけ);巾着(きんちゃく、英: drawstring bag)とは、開口部を緒(お)で絞める袋のこと。 素材としては革、布、編物などがあり、それを袋状にして、その口(開口部)を緒(「お」。つまり紐類)で絞めくくる。小物を入れるための袋物の一種。巾着袋とも言う。
古今東西、つまり世界中で昔からこの種の袋はあり、それらをまとめて「巾着」と呼んでいる。日本でもやはり、小物や手回り品を入れて持ち歩くために使われた。
ものを出し入れする「口」(くち)の部分に紐が通してあり、その紐で「口」を絞るようにして閉じることができる袋を「巾着」と呼んでいる。素材としては、主に革・布・編物など。20世紀後半から人工素材のものが増えた。
■唐人の国(とうじんのくに):唐の人。転じて中国大陸から来た人、さらに異国人一般をさす語となる。9世紀には官人の中に唐人と明記された人があり、遣唐使とともに来住した人を唐人といっている。しかし唐の滅亡前後、とくに10世紀以降、中国大陸からの商人、宋商が九州、山陰、北陸に頻々と来着するが、これらの人は唐人とも併称された。九州の大宰府、越前の敦賀などに住みつく人も多く、平安末期には博多に大唐街があったといわれる。神人(じにん)・寄人(よりうど)となり、交易、海上交通に従事する宋人が北九州に現れるが、この人々も唐人と通称され、鎌倉後期の蔵人所牒(くろうどどころちよう)には、櫛、薬などを遍歴・交易したとみられる唐人が見いだされる。
■吉原(よしわら):江戸の吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊廓で、始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
■お座付き(おざしきつき):下級女郎は1階の奥の部屋に雑魚寝でしたが、部屋持ち、座敷持ち、呼び出しなどの上級女郎は2階に自分の部屋を持っていました。
部屋持ちは1部屋もらって自分の居住にも使いましたし、また客を招く座敷としても使いました。
■碧妙屋(へきみょうや);引手茶屋の屋号は碧蹄館のもじり。碧蹄館の戦い(へきていかん の たたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。 文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(ピョクチェグァン、現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現ソウル)めざして南下する提督李如松率いる約2万の明軍を、小早川隆景らが率いる約2万の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。
■端唄(はうた);江戸端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称である。1920年代までは小唄も端唄の名で呼ばれていたが、その後端唄・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになった。以上の経過から、従前の端唄は上記のどれかに吸収されており、独自の端唄とするに足りる曲は非常に少ない。
■三下がり(さんさがり):三味線の調弦法の一。本調子の第3弦(高音部で一番下の弦)を1全音(長2度)下げたもの。粋 (いき) や艶 (つや) を表し、長唄・小唄に多く用いる。
■河東節(かわとうぶし):浄瑠璃の一種。また古曲の一つ。重要無形文化財(1993年4月15日指定)。
江戸半太夫(半太夫節の創始者)の門下である江戸太夫河東(1684年~1725年)が、享保二年(1717年)に十寸見 河東(ますみ かとう)を名乗って創始した。初期には半太夫節に式部節などを加味した語り口を持味にし、庶民からひろく支持された浄瑠璃であったが、後には豊後節や常磐津節によって人気を奪われ、このため豊後節禁止を幕府に働きかけるなどの策を弄したことでも知られる。
■古二朱(こにしゅ);小二朱とも。小形の二朱の意で、江戸時代文政七年(1824)から発行の「文政南鐐二朱銀」の俗称。明和九年(1772)から発行の「明和南鐐二朱銀」より小形になったために付けられた。なお別に同年新たに発行された「文政一朱金」にも「古二朱」という俗称があり、また文政十二年から流通した「文政南鐐一朱銀」を「古二朱」と呼んだ例がある。
右写真、左から文政一分金 天保二朱金(古二朱)
万延二朱金
■勧工場(かんこうば);百貨店、マーケットの前身。第1回内国勧業博覧会の残品処分のため、1878年(明治11)1月、東京府が、丸の内に竜ノ口(たつのくち)勧工場を開場したときに始まる。日用雑貨、衣類などの良質商品が1か所で定価販売されたので人気を得た。82年ごろから主要都市に大小の勧工場(関西では勧商場)が乱立した。多くは民営で、複数商人への貸し店舗形式の連合商店街であった。1907年(明治40)以後には、品質低下や百貨店の進出により、経営不振に陥って衰退したが、正札の定価販売に実績を残した。
神田の東明館勧工場 新撰東京名所図会 明治32年7月 山本松谷画
■「南極探検」(なんきょくたんけん)より、(春風亭柳昇の『弥次郎』改作噺)
■ガリバー旅行記;アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトにより、仮名で執筆された風刺小説である。原版の内容が大衆の怒りを買うことを恐れた出版社により、大きな改変を加えられた初版が1726年に出版され、1735年に完全な版が出版された。「万国島めぐり」の舞台に良く似ています。
第一篇 リリパット国渡航記、小人国に漂着し、リリパットの海岸にうちあげられ気絶しているところを軍隊によって縛り上げられたガリヴァー。(下図)
第二篇 ブロブディンナグ国渡航記 、ガリヴァーは、あらゆる物が巨大な、巨人の王国ブロブディンナグ国に上陸するなど、リリパット国でのガリヴァーの冒険とは正反対です。他の全国民が大きい一方で、今やガリヴァーは小人です。
第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記 、漂流中のガリヴァーを助けた巨大な「空飛ぶ島」ラピュータは、日本のはるか東にある島国バルニバービの首都で国王の宮廷であり、底部のアダマントに連結された巨大な天然磁石の磁力によって、磁鉄鉱の豊富なバルニバービ国の領空を自在に移動することができる。
第四篇 フウイヌム国渡航記 、平和で非常に合理的な社会を持つ、高貴かつ知的な馬の種族に関して述べた物語である。馬の姿をした種族フウイヌムは戦争や疫病や大きな悲嘆を持たず、エリート主義的かつ官僚的で創造性に欠けた、厳密な種族的カースト制度を保持している。
■八十日間世界一周(80にちかん せかいいっしゅう);
■漫才の猿岩石(有吉弘行、森脇和成)の二人は、1996年4月、テレビ番組『進め!電波少年』の企画で、「だまされて」香港(当時イギリス領)に連れてこられた。香港で、「イギリスまでヒッチハイクで行け」と告げられ、旅が始まった。猿岩石は、「最初は、『いつでもリタイアできる、所詮はTV企画』という甘えがあった」と語っている。しかし過酷な旅の模様は徐々に人気を博していくこととなり、1996年10月に無事ロンドンにゴールした頃には2人は全国的な知名度を獲得していた。サンプラザ中野が歌った応援歌、「旅人よ
〜The Longest
Journey」も評判になり、またヒッチハイクの内実を記した書籍『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになるなど、「猿岩石フィーバー」と称される社会現象となる。この企画の大ヒットで『電波少年』の人気は持ち直し、2003年まで続く。
■川上音二郎(かわかみ おとじろう); (1864年2月8日(文久4年1月1日) - 1911年11月11日)、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。「新派劇の父」と称される。
幼名は川上 音吉(かわかみ おときち)。上方噺家としての名跡は浮世亭 ◯◯(うきよてい まるまる)。号は歎水。
■やまと新聞;
明治17年(1884)、「警察新報」として創刊。幕末の戯作者山々亭有人(さんさんていありんど=条野 採菊、鏑木清方の父)から、維新後にはジャーナリストに転じた条野採菊(1832-1902)によって、2年後、編集方針を一変して「やまと新聞」と改名。三遊亭円朝の速記掲載によって人気を得ました。円朝人気で発行部数を維持するため、円朝晩年のいくつかの作品は条野自らがこさえた作品だといわれています。
やまと新聞は、芸界や花柳界のゴシップ、スキャンダルを暴く大衆紙として長く大衆的人気を保ってきました。ライバルの「万朝報」が主に政界の醜聞を暴いたのに対し、こちらはもっぱら軟派に徹したため、読者層も分かれました。円朝の没年である明治33年(1900)あたりを境に、条野自身が経営や編集から退き、紙面は大きく変わりました。
■天津(てんしん);中華蕎麦屋で食べる天津麺は美味ですよね。あッ天津麺でなく、中国天津ですよね。
■ホンコン(香港);中華人民共和国の南部にある特別行政区である。同じ特別行政区でポルトガルの植民地であった澳門(マカオ)は南西に70km離れている。東アジア域内から多くの観光客をひきつけ、150年以上にわたってイギリス植民地であったことで世界に知られている。天然の深い港湾を抱える自由貿易地域であり、700万人を超す人口を有する世界有数の人口密集地域である。
■シンガポール;東南アジアに位置し、シンガポール島及び60以上の小規模な島々からなる島国、都市国家で、政体は共和制。
同国は、北はジョホール海峡により半島マレーシアから、南はシンガポール海峡によりインドネシアのリアウ諸島州から各々切り離されている。同国は高度に都市化され、原初の現存植生はほとんどない。シンガポールの領土は、一貫して埋立てにより拡大してきた。
■インド洋;インドの南に有る大海で、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つ。三大洋中最も小さい。面積は約 7355 万平方キロ (km2) 。地球表面の水の約20%が含まれる。インド洋の推定水量は 292 131 000 km3。
■アラビア海;インド洋の北西部、アラビア半島とインドとの間の海域。
面積約3,862,000 km2、最大幅約2,400 km、最大水深4,652mである。インダス川が最大の流入河川。北側にオマーン湾があり、ホルムズ海峡を通じてペルシャ湾に繋がっている。アラビア半島の西側にはアデン湾があり、紅海からスエズ運河に通じる。
■スエズ運河;地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断するエジプトの人工海面水路である。1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。スエズ運河は、地中海と紅海を経由して北大西洋と北インド洋を結ぶ水路で、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。
■フランスのマルセイユ;フランス最大の港湾都市で、地中海リオン湾を臨む。マルセイユ市の人口は約87万人。マルセイユ都市共同体の中心。都市圏人口はパリとリヨンに次ぎ第三位の規模となる。近郊には古都エクス=アン=プロヴァンスがある。周辺のプロヴァンス地域と共に、2013年の欧州文化首都となった。
■パリ(巴里);フランスの首都。イル=ド=フランス地域圏の首府。フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。
ルーヴル美術館を含む1区を中心として時計回りに20の行政区が並び、エスカルゴと形容される。
■ロンドン;イギリスの首都。ロンドンは最高水準の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力があり、「世界一革新的な都市」と呼ばれることもある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2014年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界でもっとも来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界でもっとも航空旅客数が多い。欧州ではもっとも高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。
■サンフランシスコ;アメリカ合衆国西海岸にあるカリフォルニア州の北部に位置する都市。ロサンゼルスと共にカリフォルニア州の経済、工業の中心地として知られており、金融センターとしてアメリカ西海岸では随一の重要性を持っている。2017年の調査によると、世界6位の金融センターであり、アメリカの都市ではニューヨークに次ぐ2位である。サンフランシスコ自体の人口は776,733人。
■一時間四十マイルも出る快速船;40マイル/h=64.37km/h=35ノット。
■鮮血淋漓(せんけつりんり);真紅の血がしたたり落ちるさま。
■血潮紅葉(ちしおもみじ);モミジ(紅葉)/カエデ:血汐紅葉(チシオモミジ)は、「千染紅葉」とも書き、
4月の新芽が鮮やかな赤色でたいへん美しく『春もみじ』と呼ばれる種類です。
徐々に緑色に変化し夏には緑一色になり、秋には紅葉します。
■横浜(よこはま);神奈川県東部に位置する市。神奈川県の県庁所在地で、政令指定都市である。
旧六大都市の1つであり、東京大都市圏に属する。市の人口は約376万人で、日本の市区町村のなかで最も多い。
■万国絵図(ばんこくえず);皇室に伝わる図は、紙本著色、八曲一双屏風。縦178.6cm、横486.3cmと通常の屏風絵に比べてやや大きい。17世紀初期、イエズス会宣教師の布教活動や南蛮貿易で渡来したP・カエリウスの世界地図(1609年版)を元に日本で制作されたと推定される。近年の修復で、通常の屏風絵では用いられないが、初期洋風画ではしばしば使われる竹紙が用いられていること、更に絵の具は日本画でも用いられる顔料であるが、膠着剤として膠と油を混ぜてエマルションとして使用していることが判明した。
本作品は明治維新の時、駿府の徳川家から皇室に献上されたと伝えられる。また、明治天皇が好み、傍に置いたとも言われる。
紙本著色坤輿万国全図屏風 (しほんちゃくしょく こんよばんこくぜんずびょうぶ) 岡山市林原美術館蔵。
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