落語「唐茶屋」の舞台を行く
   

 

 八代目桂文治の噺、「唐茶屋」(からじゃや) 別名「万国島めぐり」後半 より


 

 お調子者の総兵衛さんが隠居の家で「朝比奈島巡り」という絵草子を見せてもらった。

 小人島、大人島、手長島、足長島、一つ目島など、「一つ目の所に行って、一人連れてきて見世物にすれば儲かるのに」、「そこに行ったら、二つ目のお前が捕まって見世物になるよ」、「それでは行けませんな」。
 珍しい国が数ある中で、女島というのは、女ばかり産まれて男は一人もいないというので、総兵衛にわかに身を乗り出し、「でも、男と女がいなけりゃ、子ができないでしょう」、「それができる。女島の女は朝、浜辺に立って、『日本の男風(おとこいき)、日本の男風』と三べん招くと東風が吹いてきて、それが女の前に入って子ができる。子供は風の子といって・・・」。
 からかわれているようだが、総兵衛、それでも女島に行ってみたくてたまらない。

 つてを頼って外国船に乗せてもらい、何日か、昼か夜か分からず航海に。

 途中、船から抜け出し陸を歩くと、おもちゃの店のような小さな家、そこのお婆さんに聞くと、「ここは小人国で後ろにいるのは殿様」だと言う。小人国で殿さまをつまみ上げて、手の上でからかったりしたが、、ボウフラかメダカを食っているのであろう。早々に逃げ出した。

 歩いていると、向こうに大変大きな山のような人形。聞くと、「ここは、大人国」だという。「どこか泊まるところはないか」、親切なその男は、懐に入れてくれたが鹿がいた。それはノミで、背中に回るよシシがいた。それはシラミで、「シラミの牙に掛かるところだった」。体中を歩いて行くとそこは大きな穴で、ヘソだった。
 ヘソに捕まっているとその男の家に着いた。そこの子供が小さな者だといって、巾着の根付けにしたいと言いだした。「巾着の根付けにされたら目が回ってしまう」と逃げ出した。

 着いたところが、唐人の国。向こうから髭を生やした人が来るので、聞いてみると、日本人だという。
 十年前、嵐でここに漂流してきて、この国で女房子供が出来て、帰れなくなり、この国の人になり今では商人となっているとやら。 同国人は懐かしいと彼の家に泊めて貰った。大歓迎され、なんと吉原に連れていってくれた。

 大門から仲の町から全部あって、案内されたのが碧妙屋(へきみょうや)という引手茶屋。
 芸者を呼ぶが、中国語なので言葉が通じない。 男に通訳してもらいながら、いよいよ陽気に騒ごうと幇間も呼んだ、お座付きに端唄に三下がり、幇間が、「チューチューペイウンホンチョイベー」 と踊る。総兵衛は「下手でも良いなら、河東節を・・・」、「河東節は品が良くて珍しい。私も珍しいものを貴方に差し上げよう」、「古二朱(こにしゅ)を、ありがとうございます」。
 総兵衛が河東節をうなりだすと、女はみんな逃げてしまった。「どうして皆居なくなったのですか」、「逃げるはずさ、私が古二朱(小西)で、お前が河東(=加藤清正)だから」。 

「万国島めぐり」後半 完

「万国島めぐり」前編

 お調子者の総兵衛さん、隠居のところへ訪ねてきた。

 「わっちもなにかして名前を上げたい」と思ったが、名案が思いつかないので勧工場をぶらつくと、五厘で古新聞の「やまと新聞」を売っていたから買って読んでみた。
 歩いて世界一周をした外国人のことが出ていた。そこで自分も行きたくなって、横浜から船に乗った。船に乗ってみると、なんと、知っている連中がワンサカ。 髪結床のおやじに薬屋の隠居、清元のお師匠さんに落語家・講釈師、相撲・幇間・官吏、百鬼夜行、森羅万象、神社仏閣、オッペケペーの川上音二郎までいて、にぎやかな旅立ち。

 天津まで行くと、船がバラバラ。「テンシンバラバラ」というくらい。 そこで、船を借り換えて、ホンコンからシンガポールへ。 そこで主人と家来がけんかしていて、家来が勝った。 「どういうわけで?」、 「それもそのはず。臣が放る(シンガポール)」。
 そこからインド洋を渡り、アラビア海からスエズ運河を経てフランスのマルセイユ、パリ見物して英国に渡り、ロンドンは煙突の煙でなにも見えないので、ロンドン(=どんどん)急いでアメリカへ。 大陸を横断して、サンフランシスコから帰りの船。 一時間四十マイルも出る快速船で、じきに帰れると喜んでいると、途中で大嵐。 風雨はだんだん激しくなり、なにやらメリメリいいだしたと思ったら、あっという間に暗礁に乗り上げ、船には大穴。 船長もはやこれまでと甲板に現れ、申し訳にピストルでいさぎよく自害。
 アーメンというのが、この世の別れ。人間をヤーメンて冥土へ出帆。
 それを見て、われも冥土のお供と、機関士も客もみな刺し違え、鮮血淋漓(せんけつりんり)、血潮紅葉と取り乱し、無残なりけるありさま。 「はあ、大変だな。お前は助かったのかい」、「折れた帆柱に体をゆわい付け、一生懸命捕まっているうちに、船は千尋の海底に。

 漂っていると横浜が見えてきたので、やれうれしやと思ううちに、帆柱がズブズブ。ワッチは逆さまに沈んでいく」、「それは困った」、「一世一代の声で『助けてくれえ!』とどなると、隣でかみさんが起こしてくれた」 全部夢の話。
 万国絵図の上で寝ていたというお粗末。冷たいと思ったら、自分のヨダレ。

「万国島めぐり」前編 完

 



ことば

落語の中で世界旅行は、上方ではこの「万国島めぐり」、東京ではホラ話の「南極探検」が有ります。

「万国島めぐり」後半の唐人国部分が、本来の「唐茶屋」で、上方落語の長編スペクタクル「万国島めぐり」の後半です。大人(巨人)国までは「島めぐり」そのものです。 「島めぐり」をひっくるめての原話は、小人国と大人国の部分が延宝8年(1680)刊『噺物語』中の「大風に逢し舟の咄し」で安永2年(1773)刊『仕形噺口拍子』中の「島」も類話です。 それ以前にも、室町時代の『お伽草子』に「御曹司島わたり」のような島めぐりものが広く存在しました。 このテーマで、平賀源内(=風来山人)が辻講釈師が女護が島へ渡る「風流志道軒伝」(宝暦13年=1763)を執筆。 これも原話の一つと見られます。

■「女護が島」;「朝比奈島めぐり」の絵本を見せてもらううち、女護が島へ行ってみたくなり、さっそく異国通いの船で密航。小人国や、そのまま進むと、やがて巨人国。ところが、巨人の竜巻のような屁に吹き上げられ、天空に舞い上がる。落下したところは、待望の女護が島。この国始まって以来の男の客というので、たちまちVIP待遇。
 ここからご想像の通り、露の五郎兵衛好みのポルノ落語に。風呂場で股間のエテモノを、山なす女野次馬に観察され、質問責め。「これは、何に使う棒ですねん?」、「こりゃ、あんたらのヘソ下を掃除する掃除棒やがな」 そこで、掃除希望が殺到。掃除料を取ったあげく、連日連夜の奮戦で棒はすり減る一方。 オチは 「こない仰山掃除してたらオレの命がもたん」。 とうとう逃げ出した。

 

 上、「朝比奈島めぐり絵本」二題。女人国にての朝比奈。

東西の演者:東京の「唐茶屋」は昭和初期に八代目桂文治と三代目三遊亭金馬が演じ、それぞれSPレコードに吹き込んでいます。上方の方は、「島巡り」と題した桂文紅が唯一CD化されました。艶笑落語のオムニバスの一編として、小咄的に女護島のくだりを演じた程度です。

小西と加藤;加藤清正の虎退治伝説をオチにしたものです。清正は神(清正公=セイショウコウ)に祀られ、江戸時代には最も親しまれた英雄でした。「井戸の茶碗」、「お藤松五郎」で紹介。 清正は豊臣恩顧の武将で、徳川幕府にとっては目の上のタンコブだったはず。事実、熊本城主になって死後、嫡男忠広の代、寛永9年(1632)に加藤家は肥後五十二万石からなんと出羽庄内一万石に飛ばされ、事実上のお取りつぶしです。清正自身は最後まで表面上は家康に忠実で、関が原役にも東軍として参戦の事実がありますから、幕府もその神格化を黙認するほかなかったのでしょう。

 小西;小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。

 文禄・慶長の役 ;文禄元年(1592年)からの文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした。戦端が開かれると釜山の攻略を皮切りに、次々と朝鮮軍を破り(釜山鎮の戦い、東莱城の戦い、尚州の戦い、忠州の戦い)、清正に先んじて漢城を占領し、さらに北進を続け平壌の攻略を果たす(大同江の戦い)。この間、行長は度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けているが、何れも朝鮮側が拒絶または黙殺している。その後、平壌奪還を図った祖承訓率いる明軍の攻撃を撃退した。この平壌の戦いでは弟・小西与七郎と従兄弟・小西アントニオ、一門の日比谷アゴストのほかに著名な者の戦死者はなかった。その後、この明軍に対して講和を呼び掛け、50日間の休戦と講和交渉の同意を取り付けた。次に朝鮮軍が平壌を攻撃したがこれも撃退する。 

朝比奈島めぐり(あさいなじゅんとうき)。読本。6編29巻。曲亭馬琴著。歌川豊広画。文化12年~文政10年(1815~27)刊。中国の小説「快心編」に学び、安房 (あわ) で育った木曽義仲の子、朝夷三郎の一代記を描いたもの。
 「島巡り伝説」そのものは古くからあるものなので、江戸ではいろいろ趣向を変えたバージョンで語られました。江戸中期(1763)には、平賀源内が島巡りものの傑作滑稽本『風流志道軒伝(ふうりゅう しどうけんでん)』でヒットを飛ばしています。

朝比奈(あさひな);朝比奈義秀(あさひなよしひで=安元2(1176)? -建保1(1213)? )。鎌倉時代初期の武士。和田義盛の三男、三郎と称した。鎌倉幕府御家人中で抜群の武勇をもって知られた。正治2 (1200) 年将軍源頼家が海辺遊覧の際、水練の技を披露せよと命じられ、水中深くもぐってさめを手取りにして人々を感嘆させたという。建保1 (13) 年5月父義盛が鎌倉で北条義時と戦ったとき (→和田合戦 ) 、和田方の勇士として奮戦し、将軍の居所の正面から攻め込み、多数の武士を倒した。敵兵は義秀の進路をつとめて避けたと伝えられる。和田方が敗北するに及び、義秀軍は海路安房国へ向って逃走したが、その直後に戦死したらしい。なお『源平盛衰記』は、和田義盛が先に木曾義仲の妾であった巴御前をめとって義秀が生れたと伝えているが、『吾妻鏡』に義秀は建保1年に38歳とあることから、この説は成立しない。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

右、「朝比奈義秀小人遊」 歌川国芳画

 歴史からは姿を消しますが、やがて日本各地に伝説を残しました。 江戸歌舞伎では、猿隈(さるぐま)という独特の隈取りをした人気キャラとして、曽我兄弟の仇討ちを題材にした「曽我物」などで活躍します。江戸での朝比奈は、剛力無双でありながら、ちゃめっ気があり、人の良い三枚目的な役どころが多いです。


 歌川貞秀画 「朝比奈島遊び」(1860) 鎌倉前期の勇猛無双の武将朝比奈義秀は、和田合戦に敗れて海路逃亡、島渡り伝説が生まれた。世界七不思議で知られるロードス島の巨像がモチーフに描かれた浮世絵。
 たばこと塩の博物館蔵。

巾着の根付(きんちゃくの ねつけ);巾着(きんちゃく、英: drawstring bag)とは、開口部を緒(お)で絞める袋のこと。 素材としては革、布、編物などがあり、それを袋状にして、その口(開口部)を緒(「お」。つまり紐類)で絞めくくる。小物を入れるための袋物の一種。巾着袋とも言う。 古今東西、つまり世界中で昔からこの種の袋はあり、それらをまとめて「巾着」と呼んでいる。日本でもやはり、小物や手回り品を入れて持ち歩くために使われた。 ものを出し入れする「口」(くち)の部分に紐が通してあり、その紐で「口」を絞るようにして閉じることができる袋を「巾着」と呼んでいる。素材としては、主に革・布・編物など。20世紀後半から人工素材のものが増えた。
 この紐の終端部分に根付けを付けると洒落た巾着となり、帯に挟んで落下防止になります。
 写真、ウサギの根付けが着いた巾着。北斎画。

唐人の国(とうじんのくに):唐の人。転じて中国大陸から来た人、さらに異国人一般をさす語となる。9世紀には官人の中に唐人と明記された人があり、遣唐使とともに来住した人を唐人といっている。しかし唐の滅亡前後、とくに10世紀以降、中国大陸からの商人、宋商が九州、山陰、北陸に頻々と来着するが、これらの人は唐人とも併称された。九州の大宰府、越前の敦賀などに住みつく人も多く、平安末期には博多に大唐街があったといわれる。神人(じにん)・寄人(よりうど)となり、交易、海上交通に従事する宋人が北九州に現れるが、この人々も唐人と通称され、鎌倉後期の蔵人所牒(くろうどどころちよう)には、櫛、薬などを遍歴・交易したとみられる唐人が見いだされる。
 日本人以外の外国人は全て唐人と呼んでいましたので、唐人が住む国は唐人の国と言われ、外国に行ったら唐人の国でした。

吉原(よしわら):江戸の吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊廓で、始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだ。元々は大御所・徳川家康の終焉の地、駿府(現在の静岡市葵区)城下にあった二丁町遊郭から一部が移されたのが始まり。
 その江戸の吉原遊廓をまねた、遊廓がこの唐人の町にも有ったのでしょう。

お座付き(おざしきつき):下級女郎は1階の奥の部屋に雑魚寝でしたが、部屋持ち、座敷持ち、呼び出しなどの上級女郎は2階に自分の部屋を持っていました。 部屋持ちは1部屋もらって自分の居住にも使いましたし、また客を招く座敷としても使いました。
 座敷持ち以上の高級女郎になると、自分の生活する部屋と客を通す座敷の2部屋を与えられました。この女郎のことをお座敷持ちと言いました。言うことでは有りませんが、揚げ代は高かったでしょうね。

碧妙屋(へきみょうや);引手茶屋の屋号は碧蹄館のもじり。碧蹄館の戦い(へきていかん の たたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。 文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(ピョクチェグァン、現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現ソウル)めざして南下する提督李如松率いる約2万の明軍を、小早川隆景らが率いる約2万の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。

端唄(はうた);江戸端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称である。1920年代までは小唄も端唄の名で呼ばれていたが、その後端唄・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになった。以上の経過から、従前の端唄は上記のどれかに吸収されており、独自の端唄とするに足りる曲は非常に少ない。
 端唄が流行したのは特に天保の改革以後であるとされる。これは改革時に三味線が贅沢なものと見なされ、庶民が三味線を弾く事を幕府から禁止されてしまった。歌舞伎伴奏などのプロの長唄奏者は営業が続けられたが、街角の稽古場で三味線を教えるようないわゆる「街のお師匠さん」(今で言う個人宅の音楽教室)は禁止されてしまった。何年か(10年と言われる)この状態が続いた後ようやく解禁された。そこで庶民らは再び三味線を手にすることが出来るようになったが、長く楽器を触っていなかった者にとっては長唄のような長いレパートリーをすぐにさらい直す事は素人には難しい。そこで覚えたての小曲をすぐに弾くことが出来るという理由で、端唄がもてはやされるようになった。
 小唄は爪弾きであるのに対して端唄はバチを使う。端唄は鼓や笛といった鳴り物付きで唄われることが多い。

三下がり(さんさがり):三味線の調弦法の一。本調子の第3弦(高音部で一番下の弦)を1全音(長2度)下げたもの。粋 (いき) や艶 (つや) を表し、長唄・小唄に多く用いる。
 三味線の調弦は絶対音を表わす訳ではなく、相対的な音程関係を表現します。低い音域の調弦は古曲では多く用いますが、現代曲では高い音域の調弦を用いるのが一般的です。 特に現代曲の合奏の場合は高い方が良く響き、他の楽器とのバランスも良くなります。普通合奏曲の場合は他の楽器との関連で、独奏曲の場合は曲想によって高低を決めます。低過ぎると全体的に響きにハリがなく、高過ぎると三の弦が切れやすくなります。 このように調弦の幅があることは洋楽器では考えられないことです。これは絹糸弦を用いていることの現れです。

河東節(かわとうぶし):浄瑠璃の一種。また古曲の一つ。重要無形文化財(1993年4月15日指定)。 江戸半太夫(半太夫節の創始者)の門下である江戸太夫河東(1684年~1725年)が、享保二年(1717年)に十寸見 河東(ますみ かとう)を名乗って創始した。初期には半太夫節に式部節などを加味した語り口を持味にし、庶民からひろく支持された浄瑠璃であったが、後には豊後節や常磐津節によって人気を奪われ、このため豊後節禁止を幕府に働きかけるなどの策を弄したことでも知られる。
 江戸中期以降は人気、歌舞伎の伴奏音楽の地位をともに奪われ、主にお座敷での素浄瑠璃として富裕層に愛好された。特に吉原との関係は深く、二代目(?~1734)、三代目(?~1745)の河東は吉原に暮らし、初代、二代、三代の蘭洲は妓楼の主であったといわれる。 三味線は細棹を用い、語り口は豪気でさっぱりしていて、「いなせ」である。後に山田流箏曲に影響を与えた。
 歌舞伎にはさまざまな流派の浄瑠璃が用いられるが、今日この河東節を使うのは『助六由縁江戸桜』(すけろく ゆかりの えどざくら)ただ一作においてのみとなっている。

古二朱(こにしゅ);小二朱とも。小形の二朱の意で、江戸時代文政七年(1824)から発行の「文政南鐐二朱銀」の俗称。明和九年(1772)から発行の「明和南鐐二朱銀」より小形になったために付けられた。なお別に同年新たに発行された「文政一朱金」にも「古二朱」という俗称があり、また文政十二年から流通した「文政南鐐一朱銀」を「古二朱」と呼んだ例がある。
 精選版 日本国語大辞典

右写真、左から文政一分金 天保二朱金(古二朱)  万延二朱金
 なお、1両=4分。1分=4朱。1/2分=2朱。

勧工場(かんこうば);百貨店、マーケットの前身。第1回内国勧業博覧会の残品処分のため、1878年(明治11)1月、東京府が、丸の内に竜ノ口(たつのくち)勧工場を開場したときに始まる。日用雑貨、衣類などの良質商品が1か所で定価販売されたので人気を得た。82年ごろから主要都市に大小の勧工場(関西では勧商場)が乱立した。多くは民営で、複数商人への貸し店舗形式の連合商店街であった。1907年(明治40)以後には、品質低下や百貨店の進出により、経営不振に陥って衰退したが、正札の定価販売に実績を残した。
 日本大百科全書(ニッポニカ) 小学館

  

 神田の東明館勧工場 新撰東京名所図会 明治32年7月 山本松谷画

■「南極探検」(なんきょくたんけん)より、(春風亭柳昇の『弥次郎』改作噺)
 この噺は『弥次郎』を改作して、『南極探検』というタイトルで演じていた。 これは『弥次郎』を現代の南極探検に置き換えた内容で、七代目立川談志は「『弥次郎』よりこっちのほうがおもしろい」と話していた。談志自らも一人会で演じたり、何度か口演したことがあるが、演じるにあたり柳昇から正式な承諾は得ていなかったようで、生前、柳昇は、「ずるいんだよ、談志さんは。『兄さん、あのネタやっていいよね』って自分で言って、高座でやってんだからねぇ」とぼやいていたとのこと。

ガリバー旅行記;アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトにより、仮名で執筆された風刺小説である。原版の内容が大衆の怒りを買うことを恐れた出版社により、大きな改変を加えられた初版が1726年に出版され、1735年に完全な版が出版された。「万国島めぐり」の舞台に良く似ています。

 

 第一篇 リリパット国渡航記、小人国に漂着し、リリパットの海岸にうちあげられ気絶しているところを軍隊によって縛り上げられたガリヴァー。(下図)

 第二篇 ブロブディンナグ国渡航記 、ガリヴァーは、あらゆる物が巨大な、巨人の王国ブロブディンナグ国に上陸するなど、リリパット国でのガリヴァーの冒険とは正反対です。他の全国民が大きい一方で、今やガリヴァーは小人です。
 一羽の鷲がガリヴァーの住む木箱をさらい取って大海原に落とし、遠洋でイギリス船に発見されたガリヴァーは祖国へ帰還する。

 第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記 、漂流中のガリヴァーを助けた巨大な「空飛ぶ島」ラピュータは、日本のはるか東にある島国バルニバービの首都で国王の宮廷であり、底部のアダマントに連結された巨大な天然磁石の磁力によって、磁鉄鉱の豊富なバルニバービ国の領空を自在に移動することができる。
 ガリヴァーは、ラグナグと日本を経由してイギリスに戻ろうとするが船便がなく、その間近くの小島グラブダブドリッブへ旅し、魔法使いの種族と遭遇する。ガリヴァーは、ナンガサク(Nangasac, 長崎)まで護送され、6月9日にオランダ船で出港しイギリスに帰国する。

 第四篇 フウイヌム国渡航記 、平和で非常に合理的な社会を持つ、高貴かつ知的な馬の種族に関して述べた物語である。馬の姿をした種族フウイヌムは戦争や疫病や大きな悲嘆を持たず、エリート主義的かつ官僚的で創造性に欠けた、厳密な種族的カースト制度を保持している。

八十日間世界一周(80にちかん せかいいっしゅう);
 ジュール・ヴェルヌ(1828-1906)がパリの「ル・タン」紙に「八十日間世界一周」を連載したのは1872年(明治5)ですが、その後映画になって映画音楽と共にヒット。その奇抜な着想に刺激されてか、1889年(明治22)、米女性記者ネリー・ブライが、この小説のコース通り、ただしニューヨークを出発点に西回りで72日6時間11分の世界一周レコードを樹立。それに続いて、同国のフィッツモリスらが1890年代を通じて次々と記録を更新し、ちょっとしたブームを巻き起こしました。1903年(明治36)には、ヘンリー・フレデリックが54日7時間2分、1907年(明治40)にはバーンレイ・キャンベルがシベリア鉄道回りで40日19時間30分と、列車・汽船の発達で、記録は日進月歩という時代でした。
 日本では明治維新後、知識階級の間で洋行熱が高まり、早くも明治3年(1870)には、仮名垣魯文(1829-94)が、十返舎一九の「膝栗毛」の主人公・弥次喜多に英国まで旅をさせる戯作「西洋道中膝栗毛」初編を刊行しています。「八十日間世界一周」を川島忠之助(1853-1938)が初めて邦訳したのが、明治11-13年(1878-1880)でした。

■漫才の猿岩石(有吉弘行、森脇和成)の二人は、1996年4月、テレビ番組『進め!電波少年』の企画で、「だまされて」香港(当時イギリス領)に連れてこられた。香港で、「イギリスまでヒッチハイクで行け」と告げられ、旅が始まった。猿岩石は、「最初は、『いつでもリタイアできる、所詮はTV企画』という甘えがあった」と語っている。しかし過酷な旅の模様は徐々に人気を博していくこととなり、1996年10月に無事ロンドンにゴールした頃には2人は全国的な知名度を獲得していた。サンプラザ中野が歌った応援歌、「旅人よ 〜The Longest Journey」も評判になり、またヒッチハイクの内実を記した書籍『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになるなど、「猿岩石フィーバー」と称される社会現象となる。この企画の大ヒットで『電波少年』の人気は持ち直し、2003年まで続く。
 インターネット未発達の時代に約半年を海外で過ごしたため、猿岩石の2人は日本の状況を知るすべもなく、自分たちが一躍人気者になっていたこともほとんど知らないまま日本へ戻った。

川上音二郎(かわかみ おとじろう); (1864年2月8日(文久4年1月1日) - 1911年11月11日)、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。「新派劇の父」と称される。 幼名は川上 音吉(かわかみ おときち)。上方噺家としての名跡は浮世亭 ◯◯(うきよてい まるまる)。号は歎水。
 やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、1889年(明治22年)から1894・95年(明治27・28年)の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。川上は1893年1月1日、鳥越座の初日をまえに突然神戸からフランスへ渡り、2か月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。
 1894年、郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で、 伊藤博文ひいきの人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)と結婚した。右写真。

やまと新聞; 明治17年(1884)、「警察新報」として創刊。幕末の戯作者山々亭有人(さんさんていありんど=条野 採菊、鏑木清方の父)から、維新後にはジャーナリストに転じた条野採菊(1832-1902)によって、2年後、編集方針を一変して「やまと新聞」と改名。三遊亭円朝の速記掲載によって人気を得ました。円朝人気で発行部数を維持するため、円朝晩年のいくつかの作品は条野自らがこさえた作品だといわれています。 やまと新聞は、芸界や花柳界のゴシップ、スキャンダルを暴く大衆紙として長く大衆的人気を保ってきました。ライバルの「万朝報」が主に政界の醜聞を暴いたのに対し、こちらはもっぱら軟派に徹したため、読者層も分かれました。円朝の没年である明治33年(1900)あたりを境に、条野自身が経営や編集から退き、紙面は大きく変わりました。
 大正期の第一次護憲運動を擁護する御用新聞とみなされて社屋を暴徒に襲撃されたり、大正12年(1923)の関東大震災では社屋を焼失したりして、大きく衰退しました。昭和前期には右翼国粋主義を主張する新聞と変貌し、昭和18年(1943)には右翼の児玉誉士夫に移りました。太平洋戦争末期、昭和20年(1945)5月、新聞統制などで廃刊となりました。児玉は昭和21年(1946)10月、児玉は「やまと新聞」を復刊しましたが、その後、「新夕刊」「日本夕刊新聞」「国民タイムズ」「夕刊東京スポーツ」「東京スポーツ」と名称を変更していきました。経営も児玉から高源重吉、三浦義一、永田雅一などに移っていきました。 警察系の新聞からスタートしたやまと新聞。時代に翻弄されながらも、つねに政府擁護の姿勢で変遷していったのが、この新聞の特徴といえるでしょう。

天津(てんしん);中華蕎麦屋で食べる天津麺は美味ですよね。あッ天津麺でなく、中国天津ですよね。
 華北平原海河の五大支流の合流する所に位置し、東に渤海を、北に燕山を臨む。市内を流れる海河は天津の母親河とも呼ばれる。 環渤海湾地域の経済的中心地であり、中国北方最大の対外開放港である。首都北京市とは高速道路、高速直通列車、京津城際線によって、0.5~2時間以内で結ばれている。元々は海河の河港であったが、河口に大規模な港湾やコンテナターミナル、工業地帯が形成されている。
 中国有数の大都市で、2014年時点での都市圏人口は1535万人。2011年のGDPは1兆1191億元で、中国の都市では上海市、北京市、広州市、深圳市に次ぐ第5位である。

ホンコン(香港);中華人民共和国の南部にある特別行政区である。同じ特別行政区でポルトガルの植民地であった澳門(マカオ)は南西に70km離れている。東アジア域内から多くの観光客をひきつけ、150年以上にわたってイギリス植民地であったことで世界に知られている。天然の深い港湾を抱える自由貿易地域であり、700万人を超す人口を有する世界有数の人口密集地域である。
 香港はイギリスから中華人民共和国に返還され、一国二制度の原理の下、1997年7月1日に最初の特別行政区になった。

シンガポール;東南アジアに位置し、シンガポール島及び60以上の小規模な島々からなる島国、都市国家で、政体は共和制。 同国は、北はジョホール海峡により半島マレーシアから、南はシンガポール海峡によりインドネシアのリアウ諸島州から各々切り離されている。同国は高度に都市化され、原初の現存植生はほとんどない。シンガポールの領土は、一貫して埋立てにより拡大してきた。
 イギリス東インド会社の交易所として設立し、1824年、イギリス帝国は同島の主権を取得し、1826年にはシンガポールは英国の海峡植民地の1つになり、人口が加速度的に増大した。

インド洋;インドの南に有る大海で、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つ。三大洋中最も小さい。面積は約 7355 万平方キロ (km2) 。地球表面の水の約20%が含まれる。インド洋の推定水量は 292 131 000 km3。

アラビア海;インド洋の北西部、アラビア半島とインドとの間の海域。 面積約3,862,000 km2、最大幅約2,400 km、最大水深4,652mである。インダス川が最大の流入河川。北側にオマーン湾があり、ホルムズ海峡を通じてペルシャ湾に繋がっている。アラビア半島の西側にはアデン湾があり、紅海からスエズ運河に通じる。
 紀元前数世紀から大航海時代にかけて重要な交易ルートであった。現在も中東の原油を運ぶタンカーや欧州との間の船舶が頻繁に往来し、ソマリア海賊を取り締まる海域でもある。

スエズ運河;地中海と紅海をスエズ地峡で結び、アフリカとアジアを分断するエジプトの人工海面水路である。1859年から1869年にかけてスエズ運河会社によって建設され、1869年11月17日に正式に開通した。スエズ運河は、地中海と紅海を経由して北大西洋と北インド洋を結ぶ水路で、アフリカ大陸を回らずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。

フランスのマルセイユ;フランス最大の港湾都市で、地中海リオン湾を臨む。マルセイユ市の人口は約87万人。マルセイユ都市共同体の中心。都市圏人口はパリとリヨンに次ぎ第三位の規模となる。近郊には古都エクス=アン=プロヴァンスがある。周辺のプロヴァンス地域と共に、2013年の欧州文化首都となった。
 第二次世界大戦ではドイツ軍に占領され、大きな損害を受けたが、貿易港を有し、これはフランスおよび地中海で最大、ヨーロッパでは第3位の玄関港として、110航路、120カ国の360以上の港と連絡している。

パリ(巴里);フランスの首都。イル=ド=フランス地域圏の首府。フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。 ルーヴル美術館を含む1区を中心として時計回りに20の行政区が並び、エスカルゴと形容される。
 EUを代表する大都市として君臨し、アメリカのシンクタンクが2020年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、ロンドン、ニューヨークに次ぐ世界3位の都市と評価された。日本の民間シンクタンクによる2017年発表の「世界の都市総合力ランキング」では、ロンドン、ニューヨーク、東京に次ぐ世界4位の都市と評価された。世界500大企業の本社数では、ニューヨークやロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である。2019年のイギリスのシンクタンクの調査によると、世界17位の金融センターと評価されており、EU圏内ではフランクフルトに次ぐ2位となっている。下図、パリの夜景。

ロンドン;イギリスの首都。ロンドンは最高水準の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力があり、「世界一革新的な都市」と呼ばれることもある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2014年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界でもっとも来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界でもっとも航空旅客数が多い。欧州ではもっとも高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。
 雨が多い都市という評判がロンドンにあるが、実際にはロンドンの降水量はローマの 834 mm (32.8 in) やボルドーの923 mm (36.3 in) より601.7mmと少ない。降水量自体は少なくとも、降水日数が多いため雨が多いと感じるのである。 また、「霧の都」と呼ばれるように年間の霧発生日数が多い。
 かつては世界最大の港であったロンドン港は、現在ではイギリスで2位を占めるのみであり、毎年4500万トンの貨物を取り扱う。実際には、ロンドンの貨物の大部分はグレーター・ロンドン域外のティルバリー港が担っている。

サンフランシスコ;アメリカ合衆国西海岸にあるカリフォルニア州の北部に位置する都市。ロサンゼルスと共にカリフォルニア州の経済、工業の中心地として知られており、金融センターとしてアメリカ西海岸では随一の重要性を持っている。2017年の調査によると、世界6位の金融センターであり、アメリカの都市ではニューヨークに次ぐ2位である。サンフランシスコ自体の人口は776,733人。
 急な坂が多く、深い霧に覆われることでも有名である。都市部から13マイルほど南下すると、サンフランシスコ国際空港がある。サンフランシスコ・フェリービルはアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定される文化財で、それ自体が観光名所となっている。サンフランシスコ湾内の各地に向かう便がある。

一時間四十マイルも出る快速船;40マイル/h=64.37km/h=35ノット。
 1ノットとは1時間に1海里進む速さで、35ノットの速度です。帆柱が着いた船で35ノットは無理でしょうが、この噺は大人の漫画ですから、それを言ったらお終いです。

鮮血淋漓(せんけつりんり);真紅の血がしたたり落ちるさま。

血潮紅葉(ちしおもみじ);モミジ(紅葉)/カエデ:血汐紅葉(チシオモミジ)は、「千染紅葉」とも書き、 4月の新芽が鮮やかな赤色でたいへん美しく『春もみじ』と呼ばれる種類です。 徐々に緑色に変化し夏には緑一色になり、秋には紅葉します。

横浜(よこはま);神奈川県東部に位置する市。神奈川県の県庁所在地で、政令指定都市である。 旧六大都市の1つであり、東京大都市圏に属する。市の人口は約376万人で、日本の市区町村のなかで最も多い。
 日本有数の港湾都市・商工業都市で、横浜駅近郊の海岸沿いには、大企業のオフィスが軒を連ねている。観光地としても人気があり、横浜中華街や元町、山下公園などがある関内地区を筆頭に、横浜みなとみらい21地区や山手地区などが有名。
 幕末に開港された横浜港を擁する港湾都市であり、外国資本が積極的に当地に進出。そのため近代日本において有数の外資獲得力を誇った。外国資本の進出とともに、市内には多くの外国商社が立ち並び、英国総領事館やフランス領事館も置かれるなど外国の空気の色濃く香る景観が形成された。現在でも西洋近代建築の歴史的建造物が多く残され、山手の旧外国人居留地や横浜赤レンガ倉庫などは観光地にもなっている。

万国絵図(ばんこくえず);皇室に伝わる図は、紙本著色、八曲一双屏風。縦178.6cm、横486.3cmと通常の屏風絵に比べてやや大きい。17世紀初期、イエズス会宣教師の布教活動や南蛮貿易で渡来したP・カエリウスの世界地図(1609年版)を元に日本で制作されたと推定される。近年の修復で、通常の屏風絵では用いられないが、初期洋風画ではしばしば使われる竹紙が用いられていること、更に絵の具は日本画でも用いられる顔料であるが、膠着剤として膠と油を混ぜてエマルションとして使用していることが判明した。 本作品は明治維新の時、駿府の徳川家から皇室に献上されたと伝えられる。また、明治天皇が好み、傍に置いたとも言われる。

 紙本著色坤輿万国全図屏風 (しほんちゃくしょく こんよばんこくぜんずびょうぶ) 岡山市林原美術館蔵。
真面目な地図なので、残念ながら大人国も小人国も女護ヶ島も表記は有りません。



                                                            2021年8月記

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