落語「世辞屋」の舞台を行く 三遊亭円朝 作、噺、「世辞屋」(せじや)より
■青空文庫作成ファイル:この落語ファイルは、圓朝の口上筆記を元にした、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られたものです。そこからの要約。
■三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう);落語中興の祖と言われる大名人。江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、子圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。
■文明開化(ぶんめいかいか);明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指す。さらに、「西洋のものなら何でもよい」という考えすら出ていた。 近代化=西欧化そのものは明治時代に於いて一貫した課題であったが、文明開化という言葉は、一般に明治初期に、世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった時期を指して使われる。
三代歌川広重画 「東京名所之内-銀座通煉瓦造-鉄道馬車往復図」(1882年)。
■電話機(でんわき);(英: telephoneあるいはphone)とは、音声を電気信号に変換して、離れた場所に送り、また送られてきた電気信号も音声に戻して通話をするための機械。単に「電話」とも言う。
右写真、壁掛け式初期の電話機。
■蓄音器(ちくおんき); トーマス・エジソンがはじめて録音・再生の実験に成功したのは、1877年のこと。その後、蝋を使った筒状のレコードを利用し、通信の手段としてもっぱら使われてきました。レコードもベルリーナの平円盤式に様変わりして蓄音器の性能や音質が向上し、発展していきます。
左から、エジソンが発明した蝋管式蓄音機。 中、ベルリーナが発明した平板の蓄音機。レコードの大量生産が可能になる。 右、商標にもなった蓄音機を聴くニッパー。
縁日の蓄音機屋;縁日に出て来ていくつかのレコードを掛けて、聴取料を取る商売が一時流行った。明治32年春頃から出て来て、二銭ぐらいの料金を取って、前に垂れ下がったゴム管を医者の聴診器のように耳に当てて聞いた。珍しい物だったので、出現当時は大変繁盛していたが、蓄音機が普及するといつのまにか姿を消した。
左、蓄音機屋。 明治42年10月 風俗画報
■銀杏返(いちょうがえし);幕末から明治にかけて、江戸の一般女性に結われた髪型の一種。 髻 (もとどり) を2分して根の左右に輪をつくり、毛先を元結いで根に結ぶのが特色。 形がイチョウ (銀杏) の葉に似ていることからこう呼ばれた。
右図、銀杏返しの髪型。
■小さい洋傘(ちいさい ようがさ);日本で初めて洋傘を扱ったのは京橋区南伝馬町の坂本商店(店主・坂本友寿)で、同店は江戸時代から続く人気の白粉「仙女香」の製造販売元だったが、明治維新をきっかけに新商売として洋傘やステッキの輸入販売を始めた。明治5年には舶来品の洋傘をもとに、甲州の甲斐絹を使って洋傘の製造も始め、明治20年には長男の坂本友七がパリに5年間留学して洋傘の製造や流行を研究し、日本国内での洋傘の先駆者としてその普及に貢献した。
■浜町(はまちょう);日本橋浜町(にほんばしはまちょう)は、東京都中央区の町名で、旧日本橋区に当たる日本橋地域内で、現行行政地名は日本橋浜町。
■待合茶屋(まちあいじゃや);待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業のこと。 待合と略される。 茶屋とも略されるが、異なる業態の茶屋との混同に留意が必要。大坂で茶屋(ちゃや)といえば色茶屋のことであり、現在のお茶の葉を売る店は葉茶屋、茶店は水茶屋、掛け茶屋。近松の心中物の「茶店」は皆、色茶屋のことを指す。下記に記す、芝居茶屋もあり、相撲茶屋も有る。待合は主として芸妓との遊興や飲食を目的として利用され、料亭・置屋とともにいわゆる三業の一角を占める。
■発音器(はつおんき);元来は、動物の音響を発するために分化した器官。主として筋肉の反復的収縮を起こす振動装置が分化している器官。ですが、ここでは音を発する機械、すなわち蓄音機のことです。機械を売るので無く、そのソフト(レコード盤)を売るなんて時代を先取りしています。
■お母さん(おかあさん);日本語で母親を呼ぶ最も一般的な親族呼称のひとつ。ですが、花街で芸妓が用いる置屋の女主人の呼称です。決して実母(その様な親子もあるでしょうが)ではありません。
■姐さん(ねえさん);お母さんと同じで.実のお姉さんを呼ぶ時に使われので無く、芸者などの間で、先輩を呼んでいう語。あねさん。また、旅館や料理屋などで、客が女性の従業員を呼ぶときの語。
■歌舞伎座(かぶきざ);初代の歌舞伎座は、演劇改良運動の熱心な唱導者であった福地源一郎が、自分たちの理想を実現すべき日本一の大劇場を目指し造られたもので、明治22年11月21日に開場しました。
外観は洋風でしたが、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1824人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場で、今も歌舞伎座の座紋である鳳凰丸は、この時から用いられています。
明治44年7月に施設の老朽化と帝国劇場の出現を受け改造されることとなります。
■芝居茶屋(しばいじゃや);江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかなった、今で言う劇場のお食事処。また、チケットの手配や休憩どころとして機能していた。訪れた観客を座席まで案内したり、仕出し茶屋でこしらえた小料理・弁当・酒の肴などを座席に運んだりした。
仲田定之助氏の「続 明治商売往来」から芝居茶屋の項目を引きます。
■若い衆(わかいし);世辞屋の若い使用人。商家では小僧・丁稚(でっち)より年上の若い使用人。若い者。
■ご新造さん(ごしんぞさん); 武家の妻女をさしていう語。妻をめとるときに居所を新造したところからいわれるようになったともいう。ごしんぞ。その後、町家の富貴な家の妻女をいう。また、他人の妻女、特に、新妻や若女房をいうのに用いた。ごしんぞ。
■番附(ばんづけ);芝居興行を一般に宣伝し、また上演狂言の内容や配役等をしめす印刷物。 古くは顔見世番附(俳優の新しい顔触を示すもの)、辻番附(今日のポスターに当るもの)、紋(役割)番附(俳優の紋と名、狂言名、作者名等を記したもの)、絵本番附(絵によって狂言の内容を示すもの)があったが、今はプログラムに集約されている。
■ダレ幕(だれまく);舞台進行や状態、調子にしまりが無い幕。 また、気持がゆるむ。 物事に対して緊張を欠く。 だらける。その様な舞台進行。
■勧善懲悪(かんぜんちょうあく);善行を勧め励まし、悪行を戒め懲らすこと。勧懲。
■木挽町(こびきちょう);東京都中央区銀座の東部にあった地名。江戸初期に、江戸城大修理の工事に従う木挽職人(鋸引(のこぎりびき)人夫)を多く住まわせたのが地名の由来。その後、寺や大名の別邸、さらに町人の住宅地となり、柳生(やぎゅう)道場が開かれ、劇場街で絵島・生島事件(えじまいくしまじけん)(1714)を引き起こした山村座があった。現在、歌舞伎座(かぶきざ)がある。東京メトロ日比谷(ひびや)線・都営地下鉄浅草線東銀座駅があり、商業地として発展している。
■開成学校(かいせいがっこう);明治初期の官立機関としての「開成学校」は、明治元年(1868年)9月から明治2年12月(1870年1月)までの初期開成学校と、明治5年8月(1872年9月)から1877年(明治10年)4月までの後期開成学校に大別される。前者は、文久3年に発足した旧幕府直轄の開成所が、慶応4年5月(1868年4月)の江戸開城により閉鎖されていたものを明治新政府が接収し同年9月に「開成学校」として復興した。
■小倉の袴(こくらのはかま);小倉織とは、江戸時代の豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)に人気を博した縦縞の柄が特徴の、良質な生綿の糸を撚り合わせて織られた大変丈夫で上質な木綿の織物です。 江戸時代に盛んに織られ、武士の袴や帯として人気を博していた小倉織でしたが、昭和初期には途絶えてしまい、幻の織物となってしまいました。
小倉の袴。
■書生さん(しょせい さん);勉学を本分とする者。
漢語本来は、勉学をする余裕のある者という意味合いだったが、日本では主として明治・大正期に、他人の家に下宿して家事や雑務を手伝いつつ、勉強や下積みを行う学生を意味した。
■奥州の塩竈(おうしゅうの しおがま);塩竈市は宮城県のほぼ中央、仙台市と日本三景で知られる松島との中間に位置しています。奥州一の宮鹽竈神社の門前町として、またみなとまちとして栄えてきました。古くは、陸奥の国府多賀城への荷揚げ港として、藩政時代には伊達藩の港として、明治以降は国内有数の港湾都市として、また、近代になってからは近海・遠洋漁業の基地としても発展してきました。「日本一の鮮マグロの水揚げ港」に代表されるように、新鮮な魚介類が豊富にあり港町独特の食文化がつくられています。すし店の数も多く、水産加工業も盛んで、笹かまぼこ、揚げかまぼこなどの水産練り製品など、日本有数の生産量を誇るものが数多くあります。また、「奥の細道」には松尾芭蕉が塩竈から松島へ舟で渡ったことが綴られていますが、塩竈には松島観光の海の玄関口としての一面もあります。あまり知られていませんが、八百八島といわれる松島の島々のうち半分以上は塩竈市の行政区にあります。特に人が住んでいる浦戸諸島には、菜の花、潮干狩り、海水浴、釣りやマリンスポーツなど海や島を楽しむため多くの人が訪れています。
■柳原(やなぎはら);(柳の木が植えられていたところから呼ばれた) 東京都千代田区を流れる神田川の南岸、万世橋から浅草橋までの柳原土手のこと。また、その付近一帯の呼称。江戸時代は古着・古道具の露店風の店が並び、夜鷹も多くいた。柳原河岸。
柳原土手に並ぶ古着屋街。 江戸商売図絵 三谷一馬画
■湯嶋の天神社(ゆしまの てんじんしゃ);湯島天満宮。文京区湯島三丁目にある神社。湯島天神は 雄略天皇2年(458)1月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平10年(1355)2月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)10月に、太田道灌これを再建し、天正18年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌19年11月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 元禄16年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。 明治18年に改築された社殿も老朽化が進み、平成7年12月、後世に残る総檜造りで造営された。
■楊弓場(ようきゅうば);長さ2尺8寸(約85cm)ほどの遊戯用の小弓。楊弓の呼称は、古くは楊柳(やなぎ)でつくっていたからであり、またスズメを射ったこともあるため、雀弓(すずめゆみ)(雀小弓)ともよばれた。唐の玄宗が楊貴妃とともに楊弓を楽しんだという故事からも、日本には中国から渡来したものと思われる。約9寸(27cm)の矢を、直径3寸(約9cm)ほどの的(まと)に向けて、7間半(約13.5m)離れて座ったまま射る。平安時代に小児や女房の遊び道具として盛んになり、室町時代には公家(くげ)の遊戯として、また七夕(たなばた)の行事として行われた。江戸時代になると、広く民間に伝わり競技会も開かれた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころから寺社の境内や盛り場に楊弓場(ようきゅうば)が出現した。楊弓場は主として京坂での呼び名で、江戸では矢場(やば)といった。後にはこれが私娼(ししよう)化し、的場の裏の小部屋などで接客した。
鈴木春信の浮世絵「矢場の女たち」
■棟上(むねあげ);家を建てる時柱梁等を組み立て、
その上に棟木(屋根の一番高い部分)を上げる事。
その様な式を、棟上げ式と言います。地域によっては、建前(たてまえ)、建舞(たてまい)などとも呼ばれます。
■吉野丸太(よしのまるた);奈良県で出荷される吉野山産の吉野杉、吉野桧の丸太。磨き丸太、室町時代から存在したという説がある、歴史ある装飾用丸太材で、昔からお茶室や店舗の骨組み・内装・装飾に使われてきた丸太です。
冬の内に伐採し、皮を剥き冷水で洗う事により、表面にしまりを持たせています。
■嵯峨丸太(さがまるた);京都嵯峨で陸揚げされた丹波産の丸太。丹波の奥山で切り出された丸太を筏(いかだ)に組んで大堰川(おおいがわ)に流し、その沿岸である嵯峨で陸揚げしたところからいう。
■仕舞屋(しもたや);もと商家であったが、その商売をやめた家。金利や資財の利潤で裕福に暮している人、またはそういう家。転じて、商店でない、普通の家。しもたや。浮、俗つれづれ「祖父より三代、商売は―にして」
■銀錆(ぎんさび);銀の色の変化は、一般的に銀錆(ぎんさび)と呼ばれています。金(きん)は化学変化に強く、何百年経過しても輝きを維持するという特徴があります。
その一方で、銀は化学変化するという特徴があります。
銀は、空気中の硫化水素と結合すると、硫化(りゅうか)します。硫化すると、黒くなる場合があります。硫化水素のほかにも、卵やゴムに含まれる硫黄分と接触すると、変色することがあります。
すると、黒ずんだ色になるというわけです。この銀錆が宝飾品では嫌われますが、そのさび色をワビサビとして通人は好んで使ったのです。
■古渡更紗(こわたりさらさ);日本で銅版更紗あるいはオーベルカンプと呼ばれている更紗は、江戸時代後期(18世紀後半)に舶載されたヨーロッパの更紗。日本で古渡(こわたり)更紗と称して珍重している裂(きれ)類は17~18世紀に舶載された更紗で、その大半はインド製である。模様は、立木、鳥獣、花鳥、幾何文のほか、ヨーロッパに輸出されたインド更紗とは異なる意匠、すなわち扇、香袋、巴(ともえ)、紋づくし、銀杏(いちよう)、格天井(ごうてんじよう)などの日本的な好みが反映していることが特色といえる。
古渡更紗の見本の一部。
■交貼(はりまぜ);店の襖に古渡り更紗を張り混ぜに張ったものです。
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