落語「世辞屋」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円朝 作、噺、「世辞屋」(せじや)より


 

 エヽ商法も様々ありますが、文明開化の世の中になつていらい、何でも新発明といふので追々この新商法といふものが流行をいたしまする。
 かの電話機といふものが始めて参った時に、たがいに掛やうを知らぬから、両方で話をしようと思つても、どうしても解らなかつたという。それはどういふ訳かと後で聞いて見ますると、耳へつけるべき器械を口へ着けてやったからだと云う。それでは聴えない筈です。
 それから又、蓄音器といふものが始めて舶来になりました時は、西洋人の機械学のたけたる事には驚きました。実にこの音色を蓄へておく等と云うは、不思議であることでござりまする。この器械をまた一工夫いたした人がある。「どうもこれは耳へつけて聴くのに、微かに聴えてはつきり解らぬやうだが、器械をギユーとねぢると、はつきり音色が席中一抔に大音に聴えるやうにしたのだ。日本人は器用でござりますから、発明をいたし、器械が出来て見ると、これについて一つの新商法の目論見をおこしました。

 「見わたすに今の世界は交際ばやりで、世辞にうとい者は、どんなに不自由を感じているかも知れぬから、種々の世辞を蓄えて置いてこれを売ったら、さぞ繁昌をするであらう。分けて番号札をつけ、ちやんと棚へ、何商法でもお好次第の世辞があると云う迄に準備が出来た。

 世辞を商ふのだから主人もにこやかな顔、番頭もあいくるしく、若衆から小僧にいたるまで皆ニコニコした愛嬌のある者ばかり。こゝへ世辞を買に来る者はいづれも無愛想なイヤアな顔の奴ばかり入って来ます。これはそのわけで無愛想だから世辞を買に来る。

 婦人、「御免なさい」。若、「へい、いらつしやいまし、小僧やお茶を、サどうぞ、こちらへお掛け遊ばして、こんにちは誠に好いお天気になりました、どうぞこれへ」。
 婦人、「はい、御免なさいよ。ズツと頭巾を取ると年の頃は廿五六にもなりませうか、色の浅黒く、髪の毛のつやの好い銀杏返(いちょうがえし)に結ひまして、小さい洋傘を持て入て来ました。器量は好いけれども、どこともなしに愛嬌のない顔つきです。
 若、「サ、どうぞこちらへおかけ遊ばして」。婦人、「アノ、私はね、浜町の待合茶屋でございますがね、どうも私は性来お世辞がないんですよ、だからお母さんが、『手前の様に無愛想じゃア好いお客は来やしないから世辞を買つて来な』と、小言を云はれたのでわざわざ買ひに来たんです、どうか私によさそうな世辞があるなら二ツ三ツ見せて下さいな」。
 主人、「へい、かしこまりました、待合さんのお世辞だよ、その二番目の棚にあるのが丁度よかろう、うむ、よしよし」。ギイツと機械をねぢると中から世辞が出ました。
 発音器、「アラ、入らっしゃったよ、チヨイとお母さん旦那が、どうもまア貴方は本当にあきれるじゃアありませんか、こないだお帰んなすったぎり入らっしゃらないもんですから、どうなすったんだらうツて本当に心配をしてましたよ。さうするとね、お母さんが云ふのには、『お前、なにか旦那をしくじったんじゃアないか』てえますから、何だか旦那がお怒んなすったやうで気がもめてならないわ、だけど姐さん旦那はね段々長くお側に坐つてると良くなつて来ますよ、なんて、アノ重い口から云う位だから、まア本当に不思議だと思つてますの、アノ今日は旦那あれをちよいと呼んでやつて下さいよ、アレサそんな事を云はずにあれも大層心配をしていますから、姐さん旦那はあれツきり入らっしゃらないか、入らっしゃらないかツて、度々私に聞きますから、ナニいまにきっと入らっしゃるからそんなに心配をおしでないよツて、云ってるんですもの」。
 主人、「エヘヽヽこれで如何でございます。婦人、「成程これはとんだようございますね、じゃアこれを一ついたゞきましうか」。帰る時に、重い口からちよいと世辞を云つて往きましたから、大きに様子がよろしうございました。

 その後へ入て来ました男が、「エヽ御免なさい」。
 若、「へい、いらっしゃいまし、どうぞこちらへお掛けあそばして」。
 客、「エヽ私(わつし)は歌舞伎座の武田屋の兼(かね)てえもんでがすが、よく姐さんに叱られるんで、『お前のやうに茶屋の仕事をして居ながら、さう世辞が無くツちゃア仕やうがねえから、世辞屋さんへでも行つて、好いのがあつたら二つばかり買て来いツ』て、姐さんが小遣をくれやしたから、どうぞ私によさそうな世辞があつたら売ておくんなせえな」。
 主人、「へい、芝居茶屋の若い衆さんのお世辞だよ」、と機械へ手を掛てギイツと巻くと中から世辞が飛出しました。
 発音器、「おや、どうもこれはいらっしゃいまし、どうもお早いことじゃ、おそれいりましたね、こんなにお早く入らっしゃるてえのはよツ程お好でなければ出来ない事で・・・。へい、ご新造さんこないだは誠に有難う存じます、エヘヽヽ私はね、どうもソノお肴(さかな)が結構なのに御酒が好いのと来てましょう、それにまだ世間には売物にないと云ふ結構なおさかなでしょう、何だか名も知らない美味物ばかりなんでわれしらず大変に酔っちまひました、それゆえどちらさまへも番附を配らずに帰ったので、大きに姐さんから小言を頂戴しました。へい、お嬢さん入らっしゃいまし、どうもせんだつての二番目狂言へあなたがチヨイと批評(くぎ)をお刺になつた事を親方に話しましたら、大層感心しまして、『実に恐入つたものだ、中々アヽ云ふ処は商売人だって容易に気の附くもんぢゃアないと云ひました』。何卒はねましたら、ちと三階へ入らっしゃいまして。おやこれは坊ツちやま入らっしゃいまし、アハヽまアお可愛らしいこと、坊ちやんがアノどうも長いダレ幕の間ちやんとお膝へ手を載せて見て居らつしやるのは流石はどうもお違ひなさるツてえましたら、親方がさう云ひましたよ、『それア当然よ、お前のやうなばかとは違う、ちやんと勧善懲悪の道理がお解りになるから飽かずに見て居らっしゃるのだ、もし其道理が解らなければ退屈してしまう訳じゃアないか』、と云はれて見ると成程と思って恐入ましたんでエヘヽヽ。
 イエまだ(小屋に行くには)早うございます、左様でげすか、入らっしゃいますか、じゃアおかねどん、お蒲団とお煙草盆を、ヘイ行ってらっしゃいまし」。
 主人、「エヽこの辺では如何でござります」。客、「エヽこれはようがす、ナニ、一両だと大層安いね、おもらいしましょう。小僧さんまた木挽町の方へでもお使に来たらお寄んなせえ、いつでもちよいと私をお喚びなさりやア好い穴を見附けて一幕位見せてあげらア。どうも大きに有難うがした」。大層お世辞がよくなつて帰りました。

 入違つて入つて来たのは、小倉の袴を胸高に履いた書生さん。
 書生、「ヤー御免なさい」。若、「へい入らっしゃいまし、どうぞこちらへ」。
 書生、「アー僕はね開成学校の書生じゃがね、朋友の勧めによれば、『どうも君は世辞が無うていかぬ、ちと世辞を買うたらよか、ナニ書生輩に世辞はいらぬ事ではないかと申したら、『イヤさうでないと、これから追々進歩して行く此時勢に、実にこの世辞といふものは必要欠くべからざるものぢゃ、交際上の得失に大関係のある事じゃから、ぜひとも世辞を買うたらよからうと云う』、僕も成程と其道理にふくした。なるべく安いのを一つ見せてくれ」。
 主人、「へいかしこまりました、書生さんのお世辞だよ、エヽこのてではいかゞでげせう」。ギイツと機械を捻ると中から世辞が出た。
 発音器、「アヽ杉山君どうか過日はえらく酔うた、前後忘却といふのはこの事かい、下宿へ帰つて翌日の十時過まで熟睡をしてしまうたがアノやうによう寝た事はあまり無いよ。君はあれから奥州の塩竈まで行ったか、相変らず心にかけられて書面を贈られて誠にかたじけない。丁度宴会のおり君の書状が届いたから、読みあげた所が、皆感服をしたよ、杉山はえらい者じゃの、どうもこの行文は簡単にしてその意味深く僕等の遠く及ぶところではない、あの漢詩は素晴らしいと云つて皆誉めておったぜ。
 君は大層よい着物を買うたな、どこで買うた、ナニ柳原で八十五銭、安いの、どうもこれは色気が好い、本当に君は何を着てもよう似合う実に好男子じゃ、あの湯嶋の天神社内の楊弓場の高橋のおかねが大層君を誉めておったぞ、杉山君は男振は好し、ほどが好いから何を着てもよくお似合なさるツて、ナニ本当の事だぞ」。
 主人、「エヘヽヽこのへんでいかゞさまで」。書生、「ヤーこれはよいのー、いくらじゃ、うむそれは安いの、買うて置かう」。銭入から代を払つて立帰りました。

 その後へ入いって来たのは、年齢四十五六になる品のよい男。
 客、「アヽごめんなはれ」。若、「入らっしゃいまし」。
 客、「アヽだいぶどうも御念入じゃなモシ、お棟上前にこのお門口を通つたが実にどうもえらい木口を入れやはって恐入ました、上方から吉野丸太や嵯峨丸太を取寄ての御建築とはえらいものや、じつは何御商法をなさるのかと考へていました、中にはあれは仕舞屋(しもたや)さんや、ナニさうぢやない質屋さんやなど云うて色々お噂を云うて居やしたが、どうも世辞屋さんとは恐入ったもんです、段々承はれば蓄音器から御発明になつたと云ふ事を聞きましたがえらいもんや、どうしてもこれからの世界に世辞と云ふものは無ければならぬ、必要のものじゃ、と云う所にお心をつけて蓄音器からこういふ発明をなさると云ふは、こちらの御主人にそれだけの学問もなければならず、お智恵もなければ出けんことじゃが、どうも結構な御商法ですな。もしアヽーどうもこのお襖は何どす、銀錆で時代が十分に見えますな、こツちは古渡更紗の交貼で、へえーどうもよくこのくらいお集めになりましたな。へい、いたゞきます、どうもこのお煎茶のお茶碗からお茶托まで結構尽め、中々お店やなにかで、かう云うものを使うお店は無い事で、どうもお菓子まで添へられて恐入ます、へえ頂戴を・・・。どうも流石は御商売柄だけあつて御主人は愛嬌があつてにこやかなお顔付き、番頭さんから若衆小僧さんまで皆えいなモシ、実に惜しいやうですな、エヘヽヽ表を通る女子達はみな立止まる位のもんで、かういふたま揃のお方々が居て世辞を商いしていらっしゃる処へ買に来ましたのは手前共の幸せで、世辞のよいのがありましたら二三個頂戴しましょうか」。
 主人、「早く箱を片附なよ」。
 客、「ナニ片附ぬでもよろしい、手前は世辞を買に来たのです」。
 主人、「イヽエ、どういたして、手前共では仲間売は致しませぬ」。 

 



ことば

青空文庫作成ファイル:この落語ファイルは、圓朝の口上筆記を元にした、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られたものです。そこからの要約。
 底本:「明治の文学 第3巻 三遊亭円朝」筑摩書房 2001(平成13)年8月25日初版第1刷発行
 底本の親本:「定本 円朝全集 巻の13」世界文庫 1964(昭和39)年6月発行

三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう);落語中興の祖と言われる大名人。江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、子圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。
 17歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなる。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博すが、援助出演を乞うた師匠に準備していた演目を先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決める。以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組んだ。生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博す。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。

文明開化(ぶんめいかいか);明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指す。さらに、「西洋のものなら何でもよい」という考えすら出ていた。 近代化=西欧化そのものは明治時代に於いて一貫した課題であったが、文明開化という言葉は、一般に明治初期に、世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった時期を指して使われる。

 

 三代歌川広重画 「東京名所之内-銀座通煉瓦造-鉄道馬車往復図」(1882年)。

電話機(でんわき);(英: telephoneあるいはphone)とは、音声を電気信号に変換して、離れた場所に送り、また送られてきた電気信号も音声に戻して通話をするための機械。単に「電話」とも言う。
 電話機の基本の要素は、音声を電気信号に変換するマイクロフォン(マイク)および電気信号を音声に変換するスピーカーである。他に、着信を知らせる振鈴装置も備える。20世紀なかばに自動交換機が普及するとともに、電話番号を入力する装置(ダイアル)も加えられた。

右写真、壁掛け式初期の電話機。

蓄音器(ちくおんき); トーマス・エジソンがはじめて録音・再生の実験に成功したのは、1877年のこと。その後、蝋を使った筒状のレコードを利用し、通信の手段としてもっぱら使われてきました。レコードもベルリーナの平円盤式に様変わりして蓄音器の性能や音質が向上し、発展していきます。

 左から、エジソンが発明した蝋管式蓄音機。 中、ベルリーナが発明した平板の蓄音機。レコードの大量生産が可能になる。 右、商標にもなった蓄音機を聴くニッパー。

 縁日の蓄音機屋;縁日に出て来ていくつかのレコードを掛けて、聴取料を取る商売が一時流行った。明治32年春頃から出て来て、二銭ぐらいの料金を取って、前に垂れ下がったゴム管を医者の聴診器のように耳に当てて聞いた。珍しい物だったので、出現当時は大変繁盛していたが、蓄音機が普及するといつのまにか姿を消した。

左、蓄音機屋。 明治42年10月 風俗画報

銀杏返(いちょうがえし);幕末から明治にかけて、江戸の一般女性に結われた髪型の一種。 髻 (もとどり) を2分して根の左右に輪をつくり、毛先を元結いで根に結ぶのが特色。 形がイチョウ (銀杏) の葉に似ていることからこう呼ばれた。
 髪を一つに括った根元から二つに分けてそれぞれ輪にして∞型にし、余った毛先を根元に巻き収めて「根掛け」(髷の根に巻く髪飾り)を掛けて髷の根元に根挿しの簪を挿す。 芸者など粋筋の女性は髷の後ろを下がり気味に、一方堅気の若妻などは上がり気味に結い、若い娘(特に娘義太夫の芸人はかなり大きい)は髷の輪を大きく、年をとると小さく結う。 髷の中に鹿の子を巻き込んだものが「唐人髷」、さらに髷の上部をくっつけたものが「桃割れ」になり、布を髷の上下に縦に掛けて根元で水引などでとめるのを「布天神」、この髷の片方の輪を略して付け毛をつけて切ってしまったように見せかけるのが「切り天神」と呼ばれる。(前の二つは少女、あとの二つは粋筋に結われた)

 右図、銀杏返しの髪型。

小さい洋傘(ちいさい ようがさ);日本で初めて洋傘を扱ったのは京橋区南伝馬町の坂本商店(店主・坂本友寿)で、同店は江戸時代から続く人気の白粉「仙女香」の製造販売元だったが、明治維新をきっかけに新商売として洋傘やステッキの輸入販売を始めた。明治5年には舶来品の洋傘をもとに、甲州の甲斐絹を使って洋傘の製造も始め、明治20年には長男の坂本友七がパリに5年間留学して洋傘の製造や流行を研究し、日本国内での洋傘の先駆者としてその普及に貢献した。
 輸入品が主だった洋傘は時代の先端で、おしゃれの小道具として傘を持っているだけで流行の先端的な人物と称され人気を博した。明治後期には日本製の洋傘は重要な輸出産品のひとつにまで成長した。

浜町(はまちょう);日本橋浜町(にほんばしはまちょう)は、東京都中央区の町名で、旧日本橋区に当たる日本橋地域内で、現行行政地名は日本橋浜町。
 明治以降、武家屋敷が多かったが、次第に一部はいきな町になっていった所もありました。 大体隅田川よりは花柳界的色彩のある街で、明治時代には一部にはお屋敷町的な姿もまだ残っていた街だった。現在は繁華街としては隣町の人形町のほうがメジャーであるが、そもそも浜町は、江戸時代は武家の町、明治時代は花街として栄えた。

待合茶屋(まちあいじゃや);待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業のこと。 待合と略される。 茶屋とも略されるが、異なる業態の茶屋との混同に留意が必要。大坂で茶屋(ちゃや)といえば色茶屋のことであり、現在のお茶の葉を売る店は葉茶屋、茶店は水茶屋、掛け茶屋。近松の心中物の「茶店」は皆、色茶屋のことを指す。下記に記す、芝居茶屋もあり、相撲茶屋も有る。待合は主として芸妓との遊興や飲食を目的として利用され、料亭・置屋とともにいわゆる三業の一角を占める。
 江戸時代、男女が密会する場となっていた出合茶屋があり、御殿女中や後家がよく利用したとも言われる。江戸時代後期には、新橋近くに信楽という店があり、待合茶屋と称していたという。
 1873年(明治6年)、新橋芸者上がりの小浜が芝日蔭町(現在の新橋駅烏森口近く)の武家屋敷跡を花屋敷として、泊り込み勝手次第の休息所を設けた。これが浜の屋で、待合茶屋の第一号と言われる。その後、木挽町の長谷川などが開業し、新橋(銀座)を中心に芸妓を呼んで飲食をさせる待合茶屋(のちに略して待合)が流行した。浜の屋、長谷川といった店は維新政府の要人もよく利用し、芸妓を呼んで宴席を開き、また密談を行う場にもなった。日露戦争の頃には軍人がひいきにする赤坂の待合が盛んになった。このほか、各地の待合は、企業の接待の場などとしても利用された。芸妓や待合の従業員は口が固く、客の秘密を守ったので、内密な話をするには都合がよかった。

発音器(はつおんき);元来は、動物の音響を発するために分化した器官。主として筋肉の反復的収縮を起こす振動装置が分化している器官。ですが、ここでは音を発する機械、すなわち蓄音機のことです。機械を売るので無く、そのソフト(レコード盤)を売るなんて時代を先取りしています。

お母さん(おかあさん);日本語で母親を呼ぶ最も一般的な親族呼称のひとつ。ですが、花街で芸妓が用いる置屋の女主人の呼称です。決して実母(その様な親子もあるでしょうが)ではありません。

姐さん(ねえさん);お母さんと同じで.実のお姉さんを呼ぶ時に使われので無く、芸者などの間で、先輩を呼んでいう語。あねさん。また、旅館や料理屋などで、客が女性の従業員を呼ぶときの語。

歌舞伎座(かぶきざ);初代の歌舞伎座は、演劇改良運動の熱心な唱導者であった福地源一郎が、自分たちの理想を実現すべき日本一の大劇場を目指し造られたもので、明治22年11月21日に開場しました。 外観は洋風でしたが、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1824人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場で、今も歌舞伎座の座紋である鳳凰丸は、この時から用いられています。 明治44年7月に施設の老朽化と帝国劇場の出現を受け改造されることとなります。
 第二期の歌舞伎座は、第一期の建物の土台、骨組を残し、純日本式の宮殿風に大改築が施され、明治44年10月に竣工しました。 正面車寄せは唐破風造りで、銅葺きの釣庇に左右の平家も破風造り、また、内部の正面大玄関は格の鏡天井、観客席は高欄付きの総檜造りで、二重折上げの金張り格天井でした。 大正2年に、松竹創業者の大谷竹次郎が当時の歌舞伎座の経営に携わるようになりましたが、大正10年10月、漏電により焼失してしまいます。
 第二期建物の焼失を受け、直ちに劇場再建工事が開始されましたが、大正12年9月1日の関東大震災の被災で工事は一時中断、翌13年3月に工事が再開され、同年12月に第三期の大殿堂が竣工しました。 奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛の様式を伴わせた意匠で、鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築でした。
 昭和24年11月歌舞伎座再建のため当社(株式会社歌舞伎座)が設立され、戦禍を受けた第三期の建物の基礎や側壁の一部を利用して改修、昭和25年12月に第四期の歌舞伎座が竣工しました。 外観は戦前の歌舞伎座を踏襲し、奈良及び桃山の優雅な趣はほぼ再現され、同時に近代的な設備が取り入れられました。
 第五期歌舞伎座は、第三期からの意匠の流れを踏襲、第四期の劇場外観を極力再現し平成25年2月に竣工しました。破風屋根の飾り金物や舞台のプロセニアムアーチなどの部材を再利用する一方、建物構造や舞台機構で最新技術が取り入れられ、文化施設また高層のオフィスタワーも併設した建物として生まれ変わりました。

芝居茶屋(しばいじゃや);江戸時代の芝居小屋に専属するかたちで観客の食事や飲み物をまかなった、今で言う劇場のお食事処。また、チケットの手配や休憩どころとして機能していた。訪れた観客を座席まで案内したり、仕出し茶屋でこしらえた小料理・弁当・酒の肴などを座席に運んだりした。
 江戸時代の三都にはそれぞれいくつかの芝居町が存在したが、その中核を成したのが芝居小屋と、それに専属する芝居茶屋だった。 芝居茶屋の食事は芝居見物の楽しみの一つで、この日ばかりは下は庶民から上は諸侯に至るまで、できる限りの大盤振る舞いをして各茶屋自慢の味を堪能した。 こうした芝居茶屋のあらましや、出された献立などは、いくつかの日記や書簡にその詳細が書き残されており、往事の様子を偲ぶことができる。

 仲田定之助氏の「続 明治商売往来」から芝居茶屋の項目を引きます。
 祖母は、「私の若い頃は前の日に髪を結って貰って、当日は朝暗い内から支度をして、お重を作り、人力車で出掛けたもんだよ」と言われた。
 明治30年前後でも午前10時開場、11時開演で、晩方はねるので、1日仕事だった。私も時折連れて行かれたが、直接芝居小屋に行くのでは無く、まず芝居茶屋に上がって、顔なじみの女将と挨拶をして、お茶で一服して、持ち物を風呂敷包みにして預け、それから茶屋の草履をつっかけて、渡り廊下や、往来を横切り、芝居小屋に入る。茶屋か役者の定紋を背に着けた縞の着物にたっつけ袴を付けた、相撲の呼び出しのような服装の出方(でかた)が、人数分の座布団と手あぶりを持って客席に案内する。いつも平土間のマスで、4人が座れた。
 出方はとって返して筋書きだの茶碗、土瓶などを持ってくる。
 そして1時間もの長い幕間には、ご婦人達の姿が消える。茶屋の座敷でゆっくりと食事を取るのであろう。2番目の幕が開く前と違う人達が席に着いているかと思ったら、茶屋でお召し替えをしてきたのだった。
 二代目市川左団次が1年近く欧州旅行をして、明治41年に明治座を再開場した時、食堂を設け、茶屋出方制度を廃止した。旧勢力の大反発にあい失敗に終わった。しかし、その直後、有楽座や帝国劇場のような洋風劇場の出現により、はじめて茶屋出方制度が廃止された。

若い衆(わかいし);世辞屋の若い使用人。商家では小僧・丁稚(でっち)より年上の若い使用人。若い者。
  歌舞伎の楽屋、芝居茶屋、遊郭などで働く若い男。男衆。若い者。

ご新造さん(ごしんぞさん); 武家の妻女をさしていう語。妻をめとるときに居所を新造したところからいわれるようになったともいう。ごしんぞ。その後、町家の富貴な家の妻女をいう。また、他人の妻女、特に、新妻や若女房をいうのに用いた。ごしんぞ。

番附(ばんづけ);芝居興行を一般に宣伝し、また上演狂言の内容や配役等をしめす印刷物。 古くは顔見世番附(俳優の新しい顔触を示すもの)、辻番附(今日のポスターに当るもの)、紋(役割)番附(俳優の紋と名、狂言名、作者名等を記したもの)、絵本番附(絵によって狂言の内容を示すもの)があったが、今はプログラムに集約されている。

ダレ幕(だれまく);舞台進行や状態、調子にしまりが無い幕。 また、気持がゆるむ。 物事に対して緊張を欠く。 だらける。その様な舞台進行。

勧善懲悪(かんぜんちょうあく);善行を勧め励まし、悪行を戒め懲らすこと。勧懲。
 昔の読みものや映画、ドラマによく見られたテーマです。文字どおり、善を勧め、悪を懲らしめることです。典型的なのは一昔前の時代劇です。誰が見ても悪い人物が、最後には主人公によって痛い目にあいます。  江戸時代の文学では、曲亭馬琴の作品が有名です。代表作「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」「南総里見八犬伝」は、どちらも正義が勝つ話です。最近では、水戸黄門の時代劇やスーパーマンなどがそうです。

木挽町(こびきちょう);東京都中央区銀座の東部にあった地名。江戸初期に、江戸城大修理の工事に従う木挽職人(鋸引(のこぎりびき)人夫)を多く住まわせたのが地名の由来。その後、寺や大名の別邸、さらに町人の住宅地となり、柳生(やぎゅう)道場が開かれ、劇場街で絵島・生島事件(えじまいくしまじけん)(1714)を引き起こした山村座があった。現在、歌舞伎座(かぶきざ)がある。東京メトロ日比谷(ひびや)線・都営地下鉄浅草線東銀座駅があり、商業地として発展している。

開成学校(かいせいがっこう);明治初期の官立機関としての「開成学校」は、明治元年(1868年)9月から明治2年12月(1870年1月)までの初期開成学校と、明治5年8月(1872年9月)から1877年(明治10年)4月までの後期開成学校に大別される。前者は、文久3年に発足した旧幕府直轄の開成所が、慶応4年5月(1868年4月)の江戸開城により閉鎖されていたものを明治新政府が接収し同年9月に「開成学校」として復興した。
 後者は、大学南校が第一大学区第一番中学として改編されたものを1873年(明治6年)4月に「(第一大学区)開成学校」と改称し、その後さらに東京開成学校と改称した。また開成学校・大学南校および東京開成学校の関係者の多くが1873年発足の明六社に参加している。 1877年、東京医学校と統合されて(旧)東京大学が発足し、同大学の法文理三学部の母体となった。このため現在の東京大学の直接の前身機関の一つと見なされている。

小倉の袴(こくらのはかま);小倉織とは、江戸時代の豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)に人気を博した縦縞の柄が特徴の、良質な生綿の糸を撚り合わせて織られた大変丈夫で上質な木綿の織物です。 江戸時代に盛んに織られ、武士の袴や帯として人気を博していた小倉織でしたが、昭和初期には途絶えてしまい、幻の織物となってしまいました。

 

 小倉の袴。

書生さん(しょせい さん);勉学を本分とする者。 漢語本来は、勉学をする余裕のある者という意味合いだったが、日本では主として明治・大正期に、他人の家に下宿して家事や雑務を手伝いつつ、勉強や下積みを行う学生を意味した。

奥州の塩竈(おうしゅうの しおがま);塩竈市は宮城県のほぼ中央、仙台市と日本三景で知られる松島との中間に位置しています。奥州一の宮鹽竈神社の門前町として、またみなとまちとして栄えてきました。古くは、陸奥の国府多賀城への荷揚げ港として、藩政時代には伊達藩の港として、明治以降は国内有数の港湾都市として、また、近代になってからは近海・遠洋漁業の基地としても発展してきました。「日本一の鮮マグロの水揚げ港」に代表されるように、新鮮な魚介類が豊富にあり港町独特の食文化がつくられています。すし店の数も多く、水産加工業も盛んで、笹かまぼこ、揚げかまぼこなどの水産練り製品など、日本有数の生産量を誇るものが数多くあります。また、「奥の細道」には松尾芭蕉が塩竈から松島へ舟で渡ったことが綴られていますが、塩竈には松島観光の海の玄関口としての一面もあります。あまり知られていませんが、八百八島といわれる松島の島々のうち半分以上は塩竈市の行政区にあります。特に人が住んでいる浦戸諸島には、菜の花、潮干狩り、海水浴、釣りやマリンスポーツなど海や島を楽しむため多くの人が訪れています。
 塩竈市役所

柳原(やなぎはら);(柳の木が植えられていたところから呼ばれた) 東京都千代田区を流れる神田川の南岸、万世橋から浅草橋までの柳原土手のこと。また、その付近一帯の呼称。江戸時代は古着・古道具の露店風の店が並び、夜鷹も多くいた。柳原河岸。

  

 柳原土手に並ぶ古着屋街。 江戸商売図絵 三谷一馬画

湯嶋の天神社(ゆしまの てんじんしゃ);湯島天満宮。文京区湯島三丁目にある神社。湯島天神は 雄略天皇2年(458)1月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平10年(1355)2月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)10月に、太田道灌これを再建し、天正18年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌19年11月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 元禄16年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。 明治18年に改築された社殿も老朽化が進み、平成7年12月、後世に残る総檜造りで造営された。
 湯島天満宮縁起より

楊弓場(ようきゅうば);長さ2尺8寸(約85cm)ほどの遊戯用の小弓。楊弓の呼称は、古くは楊柳(やなぎ)でつくっていたからであり、またスズメを射ったこともあるため、雀弓(すずめゆみ)(雀小弓)ともよばれた。唐の玄宗が楊貴妃とともに楊弓を楽しんだという故事からも、日本には中国から渡来したものと思われる。約9寸(27cm)の矢を、直径3寸(約9cm)ほどの的(まと)に向けて、7間半(約13.5m)離れて座ったまま射る。平安時代に小児や女房の遊び道具として盛んになり、室町時代には公家(くげ)の遊戯として、また七夕(たなばた)の行事として行われた。江戸時代になると、広く民間に伝わり競技会も開かれた。寛政(かんせい)(1789~1801)のころから寺社の境内や盛り場に楊弓場(ようきゅうば)が出現した。楊弓場は主として京坂での呼び名で、江戸では矢場(やば)といった。後にはこれが私娼(ししよう)化し、的場の裏の小部屋などで接客した。

 

 鈴木春信の浮世絵「矢場の女たち」

棟上(むねあげ);家を建てる時柱梁等を組み立て、 その上に棟木(屋根の一番高い部分)を上げる事。 その様な式を、棟上げ式と言います。地域によっては、建前(たてまえ)、建舞(たてまい)などとも呼ばれます。

吉野丸太(よしのまるた);奈良県で出荷される吉野山産の吉野杉、吉野桧の丸太。磨き丸太、室町時代から存在したという説がある、歴史ある装飾用丸太材で、昔からお茶室や店舗の骨組み・内装・装飾に使われてきた丸太です。 冬の内に伐採し、皮を剥き冷水で洗う事により、表面にしまりを持たせています。

嵯峨丸太(さがまるた);京都嵯峨で陸揚げされた丹波産の丸太。丹波の奥山で切り出された丸太を筏(いかだ)に組んで大堰川(おおいがわ)に流し、その沿岸である嵯峨で陸揚げしたところからいう。

仕舞屋(しもたや);もと商家であったが、その商売をやめた家。金利や資財の利潤で裕福に暮している人、またはそういう家。転じて、商店でない、普通の家。しもたや。浮、俗つれづれ「祖父より三代、商売は―にして」

銀錆(ぎんさび);銀の色の変化は、一般的に銀錆(ぎんさび)と呼ばれています。金(きん)は化学変化に強く、何百年経過しても輝きを維持するという特徴があります。 その一方で、銀は化学変化するという特徴があります。 銀は、空気中の硫化水素と結合すると、硫化(りゅうか)します。硫化すると、黒くなる場合があります。硫化水素のほかにも、卵やゴムに含まれる硫黄分と接触すると、変色することがあります。 すると、黒ずんだ色になるというわけです。この銀錆が宝飾品では嫌われますが、そのさび色をワビサビとして通人は好んで使ったのです。

古渡更紗(こわたりさらさ);日本で銅版更紗あるいはオーベルカンプと呼ばれている更紗は、江戸時代後期(18世紀後半)に舶載されたヨーロッパの更紗。日本で古渡(こわたり)更紗と称して珍重している裂(きれ)類は17~18世紀に舶載された更紗で、その大半はインド製である。模様は、立木、鳥獣、花鳥、幾何文のほか、ヨーロッパに輸出されたインド更紗とは異なる意匠、すなわち扇、香袋、巴(ともえ)、紋づくし、銀杏(いちよう)、格天井(ごうてんじよう)などの日本的な好みが反映していることが特色といえる。

 古渡更紗の見本の一部。

交貼(はりまぜ);店の襖に古渡り更紗を張り混ぜに張ったものです。



                                                            2021年8月記

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