落語「士族の商法」の舞台を行く 三遊亭円朝作、噺、「士族の商法」(しぞくのしょうほう)、別名「御膳汁粉」より
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■三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう);落語中興の祖と言われる大名人。江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、子圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。
■士族の商法(しぞく‐の‐しょうほう);明治初期、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗したこと。 急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえ。家禄奉還者は13万5千余人に達していた。しかしこの帰商者・帰農者の多くは失敗し、〈士族の商法〉という諺が生まれた。なおこの前後の時期には、以上の制度によらない、窮迫士族への荒蕪地無償払下げによる士族開墾入植事業が地方庁によって実施された。
「士族授産」=明治政府の士族政策。戊辰(ぼしん)戦争、版籍奉還以降、士族の家禄(かろく=秩禄ともいう)は大きな変動を受けた。これは1876年(明治9)の金禄公債証書発行条例によって最終的に廃止されるが、これにより多くの士族は生活の基礎を失った。一方、士族は廃藩置県と徴兵令の施行によって定職を失ったから、士族をなんらかの産業につかせ、その生活を維持させることが、社会不安を防ぐためにも必要であった。この政策を士族授産という。
■御膳汁粉(ごぜん); (「ごぜん」は上等の意) こしあんを溶かして、餠(もち)を入れた上等の汁粉。主に関東でいう。関東の「御膳汁粉」を関西では単に「汁粉」、関東の「田舎汁粉」(つぶしあんで作った汁粉)を関西では「ぜんざい」ということが多い。「御前汁粉」と書くこともある。
■上野戦争(うえのせんそう);落語「お富の貞操」に詳しく写真と解説があります。
「東台大戦争図」水島芳虎画 寛永寺蔵。 左側が寛永寺境内、黒門を挟んだが右側に三橋が見える。
このときの戦火によって、寛永寺の中心部分は灰になった。今の噴水池の辺りに有った寛永寺総本堂の根本中堂も焼失した。公園北側の谷中墓地のはずれの経王寺(西日暮里3-2-6、JR日暮里駅前)の正面山門木製門扉にこの時の銃撃戦で当たった弾痕が多数今でも残っています。
■御徒町(おかちまち);江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。御徒町周辺に於いては長屋に住み禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す。
■御家人(ごけにん);江戸幕府の直臣(じきしん)団のうち下級のものをさす呼称。知行(ちぎょう)高1万石以下の直臣団は、御目見(おめみえ)以上を旗本(はたもと)、それ以下を御家人と称した。御家人には、直臣になった時期の違いによって譜代(ふだい)と二半場(にはんば)と一代抱(いちだいかかえ)という区別もあった。御家人の禄高(ろくだか)の最高は260石で、最低は4両一人扶持(ぶち)であった。江戸時代後期になると、富裕な町人が、困窮した御家人の養子となって家督を継いで幕臣となる御家人株の売買もしばしばみられた。
■道具商(どうぐしょう);中古の日用雑貨やおもちゃ、楽器などの転売ビジネスをしている人や会社のことをいいます。
■三幅対の探幽の掛け軸(さんぷくつい たんゆう かけじく);探幽=狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))は、江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。
「三幅対の掛け軸」 常信筆。
■釜は蘆屋で(かまは あしや);芦屋釜(あしやがま)とは、鎌倉時代末期から桃山時代の天正年間にかけて筑前国(福岡県)遠賀川(おんががわ)の河口にある山鹿庄芦屋津(やまがのしょうあしやづ)で制作された茶の湯釜の総称です。
左から、芦屋釜、京釜、天明釜。
■長二郎のお茶碗(ちょうじろう);初代長次郎は、安土桃山時代を代表する京都の陶工。楽焼の創始者であり、千家十職の一つ・樂吉左衛門家の初代とされる。
左、黒楽茶碗(俊寛=しゅんかん)〈長次郎作〉。
■小川町(おがわまち);神田小川町(かんだおがわまち)は、東京都千代田区の地名。神田小川町は商業地域でビルや商店が多く立ち並んでいる。町域内の靖国通り沿いを中心にスポーツ用品店が多く並んでいることでも知られる。ほかに西で神保町に隣接していることもあり出版・書籍関連の企業も見られる。また、カレーの街としても知られ、神田界隈、特にこの小川町周辺には100店舗を超すカレー店が犇き合い、それぞれ個性的な店が出店している。
■具足櫃(ぐそくびつ);当世具足を納めるやや縦長の櫃(ヒツ)。多くは漆塗りで定紋(ジヨウモン)蓋付き。
■お長家(おながや);武家の家来を住まわせる為の数戸の家を一棟に建てつらねた家。すなわち、各戸が同じ一棟の中に隣り合って住むもの。塀の一部を長屋にしたものも有った。
■書院(しょいん);書斎。初め、寺院の中の書見をしたり講義をしたりする所をいい、室町時代以後、武家・公家の邸で居間兼書斎の称。
■探幽(たんゆう)掛け軸;狩野
探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) -
延宝2年10月7日(1674年11月4日))は、江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。幅広い画技を有し、幕府の御用絵師として、一門の繁栄を拓いた。法印に叙せられる。二条城・名古屋城の障壁画など数多くの作品を残す。その探幽が描いた掛け軸。
右、狩野 探幽。
■古銅の花瓶(こどうの かびん);一種のブロンズ(青銅)。茶器などを製し、珍重した。その古銅で作られた花瓶。
■蝋色(ろいろ);蝋色塗の略。蝋色塗に用いる漆。生漆(キウルシ)に油類を加えないで精製したもの。黒色を帯びる。蝋色塗=蝋色漆を塗り、その表を平らに研(ト)ぎ、磨いて光沢を出したもの。
■金蒔絵(きん まきえ);漆を塗った上に金銀粉または色粉などを蒔きつけて器物の面に絵模様を表す、日本の代表的漆工芸。奈良時代に始まる。その手法によって平(ヒラ)蒔絵・高蒔絵・研出(トギダシ)蒔絵の3種に分れ、また、地には平目地・梨子地・沃懸(イカケ)地・平塵地などがある。その様な手法で文字書きされたお品書き。
■紅餡(べにあん);白餡の中へ本紅を入れただけのものじゃが、口熱を冷すとか申す事じゃ。
■塩餡(しおあん);これも別に製すのではない、並の汁粉へただちよいちよいと焼塩を入れるだけの事だ。
■道明寺の御萩(どうみょうじの おはぎ);道明寺粉や糯米(モチゴメ)を蒸して餡(アン)を包み、サクラやツバキの葉をあてた餅菓子。この菓子は御萩とした物。
■手襷掛(たすきがけ);たすきを掛けていること。たすきを掛けてきびきび立ち働くこと。
■白玉(しらたま);白玉粉=糯米(モチゴメ)を洗い水に漬けたのち水切りし、水を加えながら磨砕し、水にさらし、乾燥させたもの。以前は寒中に作ったので、寒晒し粉ともいう。この白玉粉を水でこね、小さく丸めてゆでた団子。汁粉に入れたり、冷やして白砂糖をかけたりして食べる。
■小笠原流(おがさわらりゅう);武家故実(弓馬故実)、弓術、馬術、礼法の流派。また兵法、煎茶道、茶道にも小笠原流を名乗るものがある。礼儀作法の流派として知名度の高い流派であるが、本来的には弓術・馬術・軍陣故実・礼法などの武家社会の故実(武家故実)全般を含む。
■目八分(めはちぶん);物を捧げ持つ時に両手で目より少し低い高さに持つさま。
■粗忽(そこつ);軽はずみなこと。そそう。軽率。そそっかしいこと。
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