落語「士族の商法」の舞台を行く
   

 

 三遊亭円朝作、噺、「士族の商法」(しぞくのしょうほう)、別名「御膳汁粉」より


 

 上野戦争後徳川様も瓦解に相成ましたので、士族さん方が皆それぞれ御商売をお始めなすつたが、慣れないから旨くは参りません。

 御徒町辺を通って見ると玄関のところへ毛氈を敷詰め、お蔵から取出した色々のお手道具なぞを並べ、御家人衆が道具商をいたすと云ふので、玄人の道具商さんが掘出物をふみ倒にやつて参ります。

 「エヽ殿様、今日は」。「イヤ、好い天気になつたの」。「ヘイ、この水指は誠に結構ですな、それから向うのお屏風、三幅対の探幽のお掛け軸、それに釜は蘆屋(あしや)でげせうな、それからこの長二郎のお茶碗、これはせんだってもちよいと拝見をいたしましたがこの四品でお幾らでげす」。「どうもさう一時にまとめて聴かれると解らぬね、この三幅対の軸(ぢく)はおれの祖父が拝領をしたものじゃがね、釜やなにかはみなおれが買ったんだ。しかし貴様の見込でどの位の価があるじゃらう、この四品で」。「左様でげすな、四品で七円位ではいかゞでげせう」。「ヤ、けしからぬことを云う、釜ばかりでもお前十五両で買うたのだぜ」。「しかしこのせつは道具屋さんが増えまして、誰も見向もしないやうになりましたから、まるで値がないやうなもんでげす、どれも下落をしたもんで」。「なるほどハー左様かね、それじゃ家へ置てもつまらぬから持てってくれ、ついでにそこに大きな瓶があるじゃらう、誠に邪魔になつていかぬからそれも一緒に持って行くがよい」。等とただやったりいたし誠にお品格の好い事でござりました。

 これは私が全くその実地を見て胆を潰したが、なんとなくおかしみがありましたから、一席のお話にまとめました。私の申上げるのは実地に見ました事を飾りなく、そのまゝお取次を致すだけの事でござります。

 小川町辺のさる御屋敷の前を通ると、御門の潜戸へ貼札に筆太に、『この家に汁粉あり』とあり、なんぞ落語の種にでもなるであらうと、門内へ入って見ましたが、汁粉店らしさがない。玄関正面の欄間には槍、薙刀の類が掛ており、こなたには具足櫃があつたり、弓鉄砲などが立掛てあつて、いかめしき体裁でどこで食べさせるのか、思ひまして玄関で、「お頼ウ申ます、え、お頼ウ申ます」。「ドーレ」。
 木綿の袴を着けた御家来が出て来ましたが、ただ今とは違ってその頃はまだお武家にえらい権があって町人などは眼下に見下したもので、「アヽどこから来たい」。「へい、え、あの、御門の処に、お汁粉の看板が出て居りましたが、あれはお長家であそばしますのでげせうか」。「アヽ左様かい、汁粉を喰に来たのか、それはどうもかたじけない事だ、サ遠慮せずに是から上れ、履物は傍の方へ片附て置け」。「へぃ」。「サ、こっちへ上れ」。「御免下さいまして」。
 これから案内に従って十二畳ばかりの書院らしい処へ通る、次は八畳のやうで正面の床には探幽(たんにゆう)掛け軸、古銅の花瓶に花が挿してあり、たばこ盆から火鉢まで、いづれも立派な物ばかりが出て居ます。
 「アヽ当家でもこの頃こういふ営業を始めたのじゃ、殿様も退屈しのぎといふばかりでもなく遊んでも居られぬから何がな商法を、と云うのでお始になつたから、どうかまア諸方へ吹聴してくんなよ」。「へいへい」。「貴様は何の汁粉を食べるんだ」。「えゝどこのお汁粉屋でも皆コウ札が下って居ますが、エヘヽそれが御座いませんやうで」。「ウム、下札は今誂にやつてある、まだ出来て来んが蝋色にして金蒔絵で文字を現し、裏表とも掛けられるやうな工合に、少し気取て注文をしたもんじゃから、手間が取れてまだ出来ぬが、御膳汁粉と云うのが並の汁粉で、それから紅餡(べにあん)と云うのがある、これは白餡の中へ本紅を入れただけのものじゃが、口熱を冷すとか申す事じゃ、それに塩餡と云うのがある、これも別に製すのではない、並の汁粉へただちよいちよいと焼塩を入れるだけの事だ、それから団子、道明寺の御萩などが有るて」。「へい、それではどうぞソノ塩餡と云うのを頂戴したいもので」。「左様か、しばらく控へて居さっしゃい。

 奥では殿様が手襷掛で、汗を流しながら餡ごしらへして居らっしゃり、奥様は鼻の先を、真白にしながら白玉を丸めて居るという。
 「エヽ御前、御前」。「何じゃ」。「エヽ唯今町人が参りまして、塩餡を呉れと申ますが如何仕りませう」。「呉れろといふならやるがよい」。
 しばらくするとお姫様が、蒔絵のお吸物膳にお吸物椀を乗せ、すーツと小笠原流の目八分に持って出て来ました。
 「これはどうもお姫様恐入ます。へい有難う存じます」。「アノ町人、お前替わりを食べるか」。「へい有難う存じます、どうぞ頂戴いたしたいもので」。「少々控へて居や」。「へい。あはてゝ一杯掻込み、何分窮屈でたまらぬから泡を食って飛出したが、あまり取急いだので、たばこ入を置忘れました。すると続いてお姫様が玄関まで追掛て参られて、私を呼び止めたがどうも凜しくツて、なんとなく身体が縮み上り、私は縛られでもするかと思ひました。
 「コレ町人、待ちゃ」。「へい、何か御用で」。「これはお前のたばこ入だろう」。「へい、これはどうも有難う存じます」。「誠に粗忽だノ、いご気を附や」。「へい恐れ入りました」。
 どっちがお客だか訳が分りません。これから始まつたのでげせう、御前汁粉といふのは。

 



ことば

青空文庫作成ファイル:この噺のファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られましたものです。そこから噺の要約をしています。
 底本:「明治の文学 第3巻 三遊亭円朝」筑摩書房 2001(平成13)年8月25日初版第1刷発行
 底本の親本:「定本 円朝全集 巻の13」世界文庫 1964(昭和39)年6月発行

三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう);落語中興の祖と言われる大名人。江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、子圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。
 17歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなる。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博すが、援助出演を乞うた師匠に準備していた演目を先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決める。以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組んだ。生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博す。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。

士族の商法(しぞく‐の‐しょうほう);明治初期、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗したこと。 急に不慣れな商売などを始めて失敗することのたとえ。家禄奉還者は13万5千余人に達していた。しかしこの帰商者・帰農者の多くは失敗し、〈士族の商法〉という諺が生まれた。なおこの前後の時期には、以上の制度によらない、窮迫士族への荒蕪地無償払下げによる士族開墾入植事業が地方庁によって実施された。

 「士族授産」=明治政府の士族政策。戊辰(ぼしん)戦争、版籍奉還以降、士族の家禄(かろく=秩禄ともいう)は大きな変動を受けた。これは1876年(明治9)の金禄公債証書発行条例によって最終的に廃止されるが、これにより多くの士族は生活の基礎を失った。一方、士族は廃藩置県と徴兵令の施行によって定職を失ったから、士族をなんらかの産業につかせ、その生活を維持させることが、社会不安を防ぐためにも必要であった。この政策を士族授産という。
 まず1871年に政府は華・士・卒に農・工・商の各業に従事することを許し、73年以降、家禄奉還者には就産資金を与え、土地の廉価払下げや北海道屯田兵への士族募集などの処置を講じたが、78年以後より大規模な授産政策を行うようになった。79年に計画された栃木県の那須野原や福島県の郡山(こおりやま)盆地安積(あさか)原などの開拓や、士族に交付した公債証書による国立銀行設置の奨励などはそれであるが、80年前後の反政府運動の激化への対策として、士族に対する勧業資本金の交付を拡大し、82年以降300余万円を支出し、その一部は北海道移住士族の保護にもあてられた。これらの授産政策の効果は、移住や蚕糸業に関するものを除けばみるべきものは少なかったが、間接的には近代産業の発達を助ける結果をもたらしている。80年代のうちに、士族問題は社会問題、政治問題としての重要性を失い、89年をもって授産政策もまた打ち切られた。
 日本大百科全書(ニッポニカ)より
 落語では有名な「素人鰻」や「鰻屋」が、そうです。

御膳汁粉(ごぜん); (「ごぜん」は上等の意) こしあんを溶かして、餠(もち)を入れた上等の汁粉。主に関東でいう。関東の「御膳汁粉」を関西では単に「汁粉」、関東の「田舎汁粉」(つぶしあんで作った汁粉)を関西では「ぜんざい」ということが多い。「御前汁粉」と書くこともある。

上野戦争(うえのせんそう);落語「お富の貞操」に詳しく写真と解説があります。
 彰義隊墓(台東区上野公園1番) 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。 慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職らによって当地で荼毘に付され 、その後彼らの墓所となった。 平成2年、区の有形文化財に指定された。(台東区教育委員会説明板より)

  東台大戦争図」水島芳虎画 寛永寺蔵。 左側が寛永寺境内、黒門を挟んだが右側に三橋が見える。

 このときの戦火によって、寛永寺の中心部分は灰になった。今の噴水池の辺りに有った寛永寺総本堂の根本中堂も焼失した。公園北側の谷中墓地のはずれの経王寺(西日暮里3-2-6、JR日暮里駅前)の正面山門木製門扉にこの時の銃撃戦で当たった弾痕が多数今でも残っています。

御徒町(おかちまち);江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来する。御徒町周辺に於いては長屋に住み禄(現在の給与)だけでは家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す。
 御徒町駅周辺5駅を核とした地域・通称。東京7ヶ所の副都心、上野・浅草副都心を形成する拠点地域のひとつ。江戸時代、久保田藩(秋田藩)が台東区周辺に上屋敷、中屋敷、下屋敷のほか、抱屋敷を所有しており、佐竹氏の名が佐竹商店街などに残っている。その後明治の後半から大正にかけて、この地には寄席、見世物小屋が並び東京の一大歓楽街を成していた。寿亭、蜻蛉軒、久本亭のほかに射的、玉ころがしなどもあった。料理屋、牛肉、天ぷら、おでん等の多数の屋台が集まり大変賑わったという。その後、昭和に入り御徒町駅ができると、もっぱら西側である上野広小路方面が栄えた。
 御徒町(おかちまち)は1964年まで存在した東京都台東区の地域名。現在も御徒町・仲御徒町などの地名が鉄道の駅名として使われている。

御家人(ごけにん);江戸幕府の直臣(じきしん)団のうち下級のものをさす呼称。知行(ちぎょう)高1万石以下の直臣団は、御目見(おめみえ)以上を旗本(はたもと)、それ以下を御家人と称した。御家人には、直臣になった時期の違いによって譜代(ふだい)と二半場(にはんば)と一代抱(いちだいかかえ)という区別もあった。御家人の禄高(ろくだか)の最高は260石で、最低は4両一人扶持(ぶち)であった。江戸時代後期になると、富裕な町人が、困窮した御家人の養子となって家督を継いで幕臣となる御家人株の売買もしばしばみられた。

道具商(どうぐしょう);中古の日用雑貨やおもちゃ、楽器などの転売ビジネスをしている人や会社のことをいいます。

三幅対の探幽の掛け軸(さんぷくつい たんゆう かけじく);探幽=狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))は、江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。
 三幅対とは、三幅で一組となる絵柄の掛け軸、画軸または掛け物のことを指します。東洋美術において、一対になっている書画の掛軸(かけじく)(掛幅)のこと。書では左右幅が対句をなし、絵では画題が関連し、その構図も一対で掛けたときのことを考慮して案配されている。また落款(らっかん)を入れる位置も、右幅は画面向かって右端、左幅は左端と、ほぼ決まっている。表装に使う裂(きれ)も同じである。画題により三幅対、四幅対などがあるが、仏画では十六幅対や三十幅対、ときに五十幅対に及ぶものさえある。三幅対に限り、中央の一幅が左右幅に比べて大きくなったり、裂も左右より高価なものを用いる場合がある。

 

 「三幅対の掛け軸」 常信筆。

釜は蘆屋で(かまは あしや);芦屋釜(あしやがま)とは、鎌倉時代末期から桃山時代の天正年間にかけて筑前国(福岡県)遠賀川(おんががわ)の河口にある山鹿庄芦屋津(やまがのしょうあしやづ)で制作された茶の湯釜の総称です。
 芦屋釜の多くは、真形(しんなり)で、口は繰口(くりくち)、鐶付は鬼面(きめん)が多く用いられており、胴部に羽をめぐらし(古い釜のほとんどは底の修理で打ちかかれている)、鋳肌は滑らかないわゆる鯰肌(なまずはだ)、多くは地にヘラ押しによる文様を表しています。
 芦屋釜は、胴部の厚みが薄く、鋳型の中空部を作るために内に収める型である中子(なかご)が、「挽中子」(ひきなかご)と呼ばれる、縄を巻いた上にもみ殻、寸莎、髪の毛などを混ぜた土を塗り、軸を回転させる方法で作成するため、回したことで出る挽き目がうっすらと釜の内側に細い筋として残っているという特徴があります。
 芦屋釜は、鋳造は鎌倉時代ごろに始まり、東山時代にその名声が高まり、室町時代末期まで隆盛をきわめていましたが、天文12年(1551)庇護者の戦国大名大内氏が陶晴賢に滅ぼされたあと、工人等は四散して越前・伊勢・伊予・石見・肥前・播州などに移り芦屋風の釜を鋳造し、「越前芦屋」「伊勢芦屋」「博多芦屋」「伊予芦屋」「石見芦屋」「肥前芦屋」「播州芦屋」などと呼ばれるように各地に分派し、本貫の「筑前芦屋」は桃山時代にはいって衰退し、江戸時代初頭には絶えました。
 芦屋釜は、桃山時代以前のものをとくに古芦屋と呼び、現在国の重要文化財に指定されている茶釜九点の内、八点が古芦屋釜、一点が古天明釜となっています。一方で近世以降、多くの芦屋写しが作られ、それらが芦屋釜として流通しているものも極めて多いといいます。 芦屋釜に関する文献では『看聞御記』の嘉吉三年(1443)正月廿二日条に「一慶和尚参。対面。蘆屋釜一。蝋燭十廷被進。」と見えるものが最も古いとされます。

 左から、芦屋釜、京釜、天明釜。

長二郎のお茶碗(ちょうじろう);初代長次郎は、安土桃山時代を代表する京都の陶工。楽焼の創始者であり、千家十職の一つ・樂吉左衛門家の初代とされる。
 現存中最も古い作品は、「天正二年春 寵命 長次良造之」という彫の入った二彩獅子像(樂美術館蔵)である。これは現在の京都市中京区の二条城北付近の土中から発見されたと伝えるもので、平成17年(2005年)の一部に緑釉や化粧掛けの白泥が施された上に二彩釉や三彩釉がかけられ、中国南部の華南三彩と共通する手法が見られる。なお、この作品については留蓋瓦とする意見があるが、底部形状から否定する見方もあり結論が出ていない。
 現存する茶会記の記録内容から、天正年間に宗慶を介して利休と知り合ったと推定される。それまで国内の茶会で主流であった精緻で端正な中国製の天目茶碗などよりも侘びた風情を持つ茶道具を好む利休によって、轆轤(ろくろ)を使わず手捏ね(てづくね)で成形を行なう独自の工法が認められ、のち注文によって茶碗を納めるようになる。楽焼の素地は、決して良質のものとはいえない地元の土を用いており、土を選ばないものであった。 天正17年(1589年)に死去。二代長次郎(長祐)が跡を継ぐが、早世した。

 左、黒楽茶碗(俊寛=しゅんかん)〈長次郎作〉。

小川町(おがわまち);神田小川町(かんだおがわまち)は、東京都千代田区の地名。神田小川町は商業地域でビルや商店が多く立ち並んでいる。町域内の靖国通り沿いを中心にスポーツ用品店が多く並んでいることでも知られる。ほかに西で神保町に隣接していることもあり出版・書籍関連の企業も見られる。また、カレーの街としても知られ、神田界隈、特にこの小川町周辺には100店舗を超すカレー店が犇き合い、それぞれ個性的な店が出店している。
 江戸時代は土浦藩土屋家や淀藩稲葉家などの武家屋敷があった。この噺の屋敷はどの藩だったのでしょう。落語「厩火事」では麹町にサル屋敷があったのですが。

具足櫃(ぐそくびつ);当世具足を納めるやや縦長の櫃(ヒツ)。多くは漆塗りで定紋(ジヨウモン)蓋付き。

お長家(おながや);武家の家来を住まわせる為の数戸の家を一棟に建てつらねた家。すなわち、各戸が同じ一棟の中に隣り合って住むもの。塀の一部を長屋にしたものも有った。

書院(しょいん);書斎。初め、寺院の中の書見をしたり講義をしたりする所をいい、室町時代以後、武家・公家の邸で居間兼書斎の称。

探幽(たんゆう)掛け軸;狩野 探幽(かのう たんゆう、慶長7年1月14日(1602年3月7日) - 延宝2年10月7日(1674年11月4日))は、江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。幅広い画技を有し、幕府の御用絵師として、一門の繁栄を拓いた。法印に叙せられる。二条城・名古屋城の障壁画など数多くの作品を残す。その探幽が描いた掛け軸。

右、狩野 探幽。

古銅の花瓶(こどうの かびん);一種のブロンズ(青銅)。茶器などを製し、珍重した。その古銅で作られた花瓶。

蝋色(ろいろ);蝋色塗の略。蝋色塗に用いる漆。生漆(キウルシ)に油類を加えないで精製したもの。黒色を帯びる。蝋色塗=蝋色漆を塗り、その表を平らに研(ト)ぎ、磨いて光沢を出したもの。

金蒔絵(きん まきえ);漆を塗った上に金銀粉または色粉などを蒔きつけて器物の面に絵模様を表す、日本の代表的漆工芸。奈良時代に始まる。その手法によって平(ヒラ)蒔絵・高蒔絵・研出(トギダシ)蒔絵の3種に分れ、また、地には平目地・梨子地・沃懸(イカケ)地・平塵地などがある。その様な手法で文字書きされたお品書き。

紅餡(べにあん);白餡の中へ本紅を入れただけのものじゃが、口熱を冷すとか申す事じゃ。

塩餡(しおあん);これも別に製すのではない、並の汁粉へただちよいちよいと焼塩を入れるだけの事だ。

道明寺の御萩(どうみょうじの おはぎ);道明寺粉や糯米(モチゴメ)を蒸して餡(アン)を包み、サクラやツバキの葉をあてた餅菓子。この菓子は御萩とした物。
 道明寺粉=道明寺糒(ホシイ)を粗く挽いたもの。道明寺糒=糯米(モチゴメ)を蒸して乾かしたもの。熱湯を注ぎ、柔らかくして食用・菓子用に供する。道明寺で天満宮に供えた飯の下がりを乾燥貯蔵したのに起るといい、軍糧または旅行用食糧として重用された。
 御萩=はぎのもち=糯米(モチゴメ)や粳米(ウルチマイ)などを炊き、軽くついて小さく丸め、餡(アン)・黄粉(キナコ)・胡麻などをつけた餅。煮た小豆を粒のまま散らしかけたのが、萩の花の咲きみだれるさまに似るのでいう。また牡丹に似るから牡丹餅(ボタモチ)ともいう。おはぎ。はぎのはな。きたまど。隣知らず。萩の強飯(コワイイ)。
 春に作られるものを、牡丹の花に似るからぼた餅。秋に作られるものを、ハギの花に見立て、御萩という。

手襷掛(たすきがけ);たすきを掛けていること。たすきを掛けてきびきび立ち働くこと。
 主に和服において、袖や袂が邪魔にならないようにたくし上げるための紐や布地を指す。通常、肩から脇にかけて通し、背中で斜め十字に交差させて使用するが、輪状にして片方の肩から腰にかけて斜めに垂らして用いる方法(駅伝選手、コンテスト、選挙立候補者)もある。交差させて使用した場合を綾襷(あやだすき)と言う。「襷」という漢字は国字である。

白玉(しらたま);白玉粉=糯米(モチゴメ)を洗い水に漬けたのち水切りし、水を加えながら磨砕し、水にさらし、乾燥させたもの。以前は寒中に作ったので、寒晒し粉ともいう。この白玉粉を水でこね、小さく丸めてゆでた団子。汁粉に入れたり、冷やして白砂糖をかけたりして食べる。

小笠原流(おがさわらりゅう);武家故実(弓馬故実)、弓術、馬術、礼法の流派。また兵法、煎茶道、茶道にも小笠原流を名乗るものがある。礼儀作法の流派として知名度の高い流派であるが、本来的には弓術・馬術・軍陣故実・礼法などの武家社会の故実(武家故実)全般を含む。
 原型となったのは小笠原氏家伝の故実であり、室町時代中期以降、小笠原氏が武家社会における故実の指導的存在となったことから、同家の故実が武家全体に重んじられた。

目八分(めはちぶん);物を捧げ持つ時に両手で目より少し低い高さに持つさま。

粗忽(そこつ);軽はずみなこと。そそう。軽率。そそっかしいこと。



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