落語「気養い帳」の舞台を行く
   

 

 五代目三升家小勝の噺、「気養い帳」(きやしないちょう)より


 

 「むやみにその紙幣の束なんか投ほうり出してはいけないよ。誰だい百円紙幣で鼻をかんで棄てたのは呆れ返っちまう。幾ら飯時だといってそう一度に二百人も三百人も皆んな食堂へ行ってしまっては店が差し支えるよ。せめて五十人位ずつ交替をしたらどうだ。それからその出納の事について、決しておれがグズグズいう訳ではないが、アノ岩崎に貸した金はどうした。たった五十万円でおれが小遣いの内から貸したんだけれども、帳面には載ってるだろうな。まだ利息も入れないって、ほんとうに困ったもんだな。三井の方はどうしたえ、まだ返さねえか。呉服店の方は、それもまだか。鴻池へ貸したのはどうなったえ。やっぱりそのままか、どうも困るなァ。住友は、これもまだ返さねえか。
 どうしてこう友達が皆な貧乏なんだろう。三井や岩崎へは葉書を出して置きなよ。五十万円ばかりだからどうでもいいがな、何の仲でも金銭は他人という事がある。決まり時には何とかするやうにとそういってやんなさい。
 それから抵当流れの地面はどうなったえ。あまり値の下がらねえうちに売っちまった方がよかろう。本所の方はどうしたえ。あすこはちょっと見込みがあるから六万坪ばかり買っときなさい。長屋を建てても工場にしてもいいから、なにしろ皆んな手順よく用を片付けてくれないでは困るよ」。

  誰もいないのに毎日、一人大きな事ばかり言っておりますと、外に客待をしておりました車夫が聞いて、これへ乗ったのが岩崎さんの手代、この話を聞いたために、御主人に申し上げても御主人は、そんな事があるものか、狂人だろうと笑っていらっしゃる。とにかく先方へ行って見ようと、浜町河岸へ来て見ると、人力車の停車場はあったが、昨日乗った車夫はおりません。

 あっちこっちを見ているうちに、「オイオイその札束を投り出しなさんな」、「ここだ。シテ見るとこれは毎日、こんな事を言ってると見えるな。五十万円貸しがあるなんて大きな事を言ってやがる。アー名前が外江伝蔵(そとえでんぞう)、アハハ可笑しな名前だ・・・御免下さい」、「ドーレ、玄関に取り次ぎの者は誰もいないのか、書生はいないか。オイ給仕、小使い・・・アヽまた奉公人が皆な一時に飯を食いに行ってしまったのか、どうも困ったものだな・・・サァどうぞ構わずこちらへ」、「ハイ御免下さい」、「これはこれは、どちらから?」、「私は野田政吉(のだまさきち)と申す者でございますが、御主人様にちょっと御目に懸りとう存じます」、「当家の主人外江伝蔵は私だ」、「御主人でいらっしゃいますか。初めて御目に懸かります、何か御当家で岩崎家へ五十万円とが御貸し金があるような事をちょっと他から聞きまして、それは実際でございまししょうか」、「ハア、そりゃァ貸しました。しかしあれと私との仲だからね。貸したからって書付一本取った訳でもなしサ」、「左様でございますか、実は私は岩崎の手代でございますが、昨日そういう事を伺いまして早速主人に尋ねましたところ、一向覚えがないと申す事で・・・」、「無くっても差し支えない」、「それでも貸したと仰いますか」、「貸したけれども、お前の方では借りないという。それで不都合だとこっちで苦情を言う訳でもない。それでいいのだ。実は私の方の帳簿に記入してある。これが証拠だ」、「成程、気養い帳としてございますな」、「そうだ」、「これはどういう訳で・・・」、「何でも気の持ちようだ。狩野先生の書いた神経衰弱予防法というものを御覧になったかえ」、「ちょっと拝見した事がございます」。
 「マァあれだって、銭が無いからといってクヨクヨする事も何にもない。都々逸にあるね。『世の中の金は残らず私のものよ、貸して取れぬと思や済む』。トンと来るだろう、アハハ・・・」、「これはどうも恐れ入りました。ヘエー、ここに大層芸者の名前が記してございますな」、「それは、皆な私に惚れている芸者ばかり書いてあるので」、「左様でございますか・・・成程ここに五十万円岩崎へ・・・誠に有り難う存じました。永らく拝借いたしましたが、主人も気掛かりでございましょう。それでは元利揃えて五十万円今日完済のことにいたします」、「アァそうかえ、それはそれは。じゃァ私の方の帳面に入(いり)を付けて置くから」。

 



  ことば

五代目三升家小勝(みますや こかつ);(1858年7月16日(安政5年6月6日) - 1939年(昭和14年)5月24日)、明治・大正・昭和にかけて活躍した落語家。本名∶加藤 金之助。江戸麻布の生まれ、父は元武士で「蓑守庵年雄」を名乗る俳人でもあった、幼いころに父が亡くなり、左官に奉公に出るが16歳だった1873年に、四代目翁家さん馬門下で翁家さん八と名乗ったが、同年にさん馬が亡くなったので五代目林家正蔵の一座に加わり、怪談噺の幽霊役をしながらして地方廻りをした。
 1876年に一時廃業して役者に転じ、中村梅三郎門下に入ってお女三(おめぞう)の名で女方の役者になるも、正蔵と再会後に落語家に戻り、その後二代目禽語楼小さん門下で柳家小蝠、三代目春風亭柳朝門下で桃多楼團語を経て春風亭燕柳となった。その後また廃業して、妻の縁で工場の監督や品川天王の神主などを勤めているうちに、1900年にはパリ万国博覧会の芸者一座に世話役で渡仏までしている。肩書きは料理人だったという。
 帰国後は再び落語家に復帰して三代目柳朝門下で燕柳に戻り、さらに1903年ころに春風亭柳條で真打昇進を果たした。1907年2月には五代目三升亭小勝を襲名。1918年ころに「三升亭」を「三升家」と変えた。
 滑稽噺が得意で、独自の毒舌で売り出した。1926年には三代目柳家小さんの後任で東京落語協会三代目会長(現落語協会)に就任した。 辞世の歌は『永々とご贔屓様となりました。ちょいとこちらで代わり合います。』 大正から昭和かけて多くのSPレコードを残している。

出納(すいとう);出すことと納めること。特に、金銭や物品を出すことと入れること。収支。その記録簿、出納帳。

岩崎(いわさき);岩崎家(いわさきけ)は、三菱財閥の創業者一族。創始者・岩崎弥太郎とその弟で2代目当主の岩崎弥之助の2家系からなる。岩崎家は、俗に三井、住友とともに三大財閥家系であるが、三井、住友が300年以上の歴史を持つ御用商人なのに対して、三菱は、岩崎弥太郎が幕末・明治の動乱期に政商として、一代で巨万の利益を得、その後に繋がる礎を築いたという違いがある。

  

 上、旧岩崎私邸。東京都台東区池之端一丁目にある都立庭園。三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したもので、園内の歴史的建造物は、国の重要文化財に指定されている。

三井(みつい);三井家によって形成された日本最大の総合財閥。 17世紀末三井高利によって、商業および金融業を営む江戸時代最大の豪商としての基礎が築かれ、明治維新に財政援助をするなど新政府との関係を深め、政商としての基礎を固めた。明治初期には三井銀行、三井物産 (ともに 1876設立) など銀行、商業が中心であったが、中期以降三池炭鉱 (88) など重要な官営工場、鉱山の払下げを受けて鉱工業にも進出、1909年に設立した持株会社の三井合名会社を本拠に事業内容は商業、金融、鉱工業と多岐にわたった。第1次世界大戦から第2次世界大戦にかけて、新企業の設立や弱小企業の吸収合併により膨張を続け日本最大の財閥に発展。第2次世界大戦初期に一時軍部や右翼などの攻撃を受けたが、大戦中は軍部とも結び軍事産業や植民地経営で重要な役割を演じた。 40年三井合名は三井物産に合併され、さらに 44年三井本社として独立した。大戦後の財閥解体指定時には三井本社を中心に系列会社数 278、その払込資本金総額 55億円に達していた。戦後は三井物産、三井銀行を中心に三井グループを形成した。
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

呉服店の方(ごふくてんのほう);三越伊勢丹は、三井財閥の先祖といわれる伊勢商人・三井高利が、伊勢から江戸に出て創業した越後屋三井呉服店がその前身であり、現在は、三越伊勢丹ホールディングス。
 1904年に日本初の百貨店として誕生したが、その歴史は古く、江戸時代の1673(延宝元)年にさかのぼる。始まりは、三重県の伊勢・松阪出身の商人、三井高利(たかとし)が江戸本町一丁目(現在の東京都中央区)に創業した呉服店「三井越後屋」(現在の三越日本橋本店)。現在の「三越」の屋号は、三井家の「三」と越後屋の「越」の漢字を取ったもの。1904年には、「株式会社三越呉服店」が設立された。高利は、当時富裕層だけのものだった呉服を大衆に広めた。

 

 三越の前身、呉服店「三井越後屋」。江戸東京博物館蔵。

鴻池(こうのいけ);江戸時代に成立した日本の財閥。16世紀末、鴻池家が摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市鴻池)で清酒の醸造を始めたことにはじまる。その後、一族が摂津国大坂に進出して両替商に転じ、鴻池善右衛門家を中心とする同族集団は江戸時代における日本最大の財閥に発展した。
 寛永2年(1625年)には正成は九条島にて海運業を始めた。大坂から江戸への酒積みが多量となり、陸路駄馬で運んでいては間に合わず、海上輸送を行うことにしたのである。海運業の創始によって、西国大名参勤交代の運輸や蔵物の取り扱いなど大名との取引関係が生じ、その関係から大名貸が始まった。明暦2年(1656年)には両替店を開店し、町人貸しや大名貸しで繁栄した。寛文10年(1670年)には幕府御用の両替商として、十人両替という地位にも就いた。鴻池は酒造・海運・金融(大名貸、両替商)という、業務を営む形になった。
 落語「鴻池の犬」(大どこの犬)でも描かれた豪商。
 1877年に善右衛門が設立した第十三国立銀行は、1897年に普通銀行に転換し、鴻池銀行となった。1933年12月、鴻池銀行・三十四銀行・山口銀行の3行が合併し、三和銀行が創立された。第二次世界大戦後三和銀行を中心として三和グループが形成されると鴻池財閥傘下の企業も三和グループに加わった。三和銀行は2001年にUFJホールディングスとなり、UFJホールディングスは2005年に三菱東京フィナンシャル・グループと合併し、以後、三菱UFJフィナンシャル・グループとなった。

住友(すみとも);幕府御用達となった友信以来、住友家当主は代々吉左衛門を名乗ることになるが、なんといっても住友財閥の大躍進の基となったのは、二代目吉左衛門友芳が元禄4年(1691年)に開発した愛媛県の別子銅山によってである。この別子銅山は昭和48年(1973年)に閉山されるまで、282年間にわたり銅を産出し続け、総産出量は銅地金として75万トンにおよび、住友のドル箱となった。その功績を称えた住友家では、この友芳を「中興の祖」としている。明治以降の住友の経営は、広瀬をはじめとする大番頭(総理事)にまかされ、以後伊庭貞剛(第2代総理事)、鈴木馬左也(第3代総理事)といった名総理事に恵まれ、銀行、倉庫、保険など多方面に進出した。 その一方で住友家当主は、持ち株会社住友合資、住友本社の代表となり、「君臨すれども統治せず」といった経営分離の方式を貫き、次第に経営の中心からは身を引いて財閥統合のための象徴的存在へと変わっていった。
 三井住友銀行、三井住友海上火災保険などは三井系と住友系の企業が合併しているだけに、どちらに属しているのかと思う方もいるだろう。この2社は二木会(三井)と白水会(住友)の両方に加盟している。どちらかに絞らなければいけない、というわけではないようだ。

抵当流れ(ていとうながれ);債務者が債務を履行しないために、抵当物の所有権が債権者に移ること。
 一般に債務者が任意に債務を履行しないときは,債権者はその債権に基づき債務者の一般財産に対し執行(これには,個別執行たる民事執行手続と総括的執行たる破産手続とがある)をして債権の弁済にあてる。このような意味において債務者の一般財産は債権の最後のよりどころであるといえる(債権者代位権および債権者取消権は,この一般財産の経済的価値を保全するために民法上債権者に付与されている権利である)。

本所(ほんじょ);東京都墨田区南部の町名。または、旧東京市本所区の範囲を指す地域名。
 工場立地の良さから明治時代には徐々に工業地帯化が進む。1923年(大正12年)の関東大震災では本所を含む本所区の9割が焼失、約4万8千人もの死者を出した。また東京大空襲でも甚大な被害を受けている。 2000年代以降は、本所東部エリアを縦断する東京メトロ半蔵門線の開業を皮切りに、錦糸町駅周辺のエリアことに錦糸町・亀戸副都心の再開発が盛んに行われる。本所北端部に当たる押上では、東京スカイツリーが建設され、東京を代表する観光名所の一つとして賑わいを見せている。

六万坪;一つの町に相当する面積です。

五十万円;1885年の海運業分離後、岩崎 晴之助が翌年に三菱社を設立すると、90年には丸の内・神田三崎町の練兵場 10万坪を 128万円(当時、東京都の年間予算の3倍) の価格で購入、その 4年後に赤レンガ造りの第 1号館を竣工させ、ビジネス街の建設を本格的に 開始した。その結果、明治末年に、三菱は岩崎家の私有地を含む 25万坪という東京最大の土地所有者の座に上りつめた。
 三菱における東京の土地投資と不動産経営 1870-1905年 鷲崎俊太郎氏の論文より
 50万円とは、それほどの大金であった。

  

 上写真、三菱1号館。3階までのレンガ造りが旧建物の外観、その内側には高層ビルになっています。

車夫(しゃふ);人力車を引く人。車引き。車力(​しゃりき)。人力車に関する車の文字は全て俥とも表記した。
 落語「反対車」にも人力車のことがあります。

手代(てだい);船場商家の役職の一。 旦那、番頭、手代、丁稚(小僧)の順で位が低くなる。丁稚奉公ののち、17~18歳で元服、手代に昇進する。現代の会社組織でいうと、係長や主任に相当。丁稚が力仕事や雑用が主な業務であるのに対し、手代は接客などが主要な業務であった。つまり、直接商いに関わる仕事は手代になって初めて携われるのであった。経理、商品吟味、得意先回りなどもする。手代になると丁稚と違い給与が支払われる場合が一般的だった。
 商法には、現行商法が成立したのが1899年(明治32年)であったため、「番頭」「手代」の用語があり(38条、43条)、2005年(平成17年)改正まで残っていた。その間に「手代」の地位のある企業はほとんど無くなっていたため、課長、係長など中間管理職を手代と解釈していた。現行法では、より幅の広い概念として商業使用人と定義している。

浜町河岸(はまちょう がし);現在の中央区浜町の西側を流れていた浜町川(堀)は戦後まもなく埋め立てられてしまったので、当然河岸などは見えません。新大橋通りを跨いで上流方面は、かつての浜町川に沿って緑地遊歩道ができ、その両側が道路になっています。下流方向は高速からの浜町出口になっていて、新大橋通りに向かっています。

     

 上、中ノ橋全景 (昭和5年5月) かつての「中ノ橋」から、「浜町川(堀)」上流を望むと、真ん中に緑地遊歩道、その両脇に道路が出来ています。下流を望むと、かつての「箱崎川」あたりから上を通る高架の高速道路の浜町出口となっています。
 中央区観光協会

狩野先生の書いた神経衰弱予防法;落語だからガセネタを含んでいて、これもガセかと思ったら実際に国立国会図書館にありました。「神経衰弱予防法」 狩野謙吾 著、 出版者: 新橋堂です。内容は本格的なので内容を確認したい人は国会図書館で検索してください。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/835044 

都々逸(どどいつ);俗曲の一。寛政(1789〜1801)末期から文化(1804〜1818)初期のころ、潮来節(いたこぶし)・よしこの節を母体として成立。天保(1830〜1844)末期に江戸の都々逸坊扇歌が寄席で歌って流行した。七・七・七・五の26文字で、男女の情の機微を表現したものが多い。都都逸節。

  「あきらめましたよどう諦めた あきらめられぬとあきらめた」
 「弱虫がたったひとこと小っちゃな声で 捨てちゃいやよと言えた晩」
 「惚れさせ上手なあなたのくせに あきらめさせるの下手な方」
 「惚れて通えば千里も一里 逢わで帰ればまた千里」
 「重くなるとも持つ手は二人 傘に降れ降れ夜の雪」 

元利揃えて(がんり そろえて);元本と利息を揃えて返済。これは、預貯金や債券、ローン、クレジットなど、金融全般で広く使われる用語で、また用法面では、元本に利息を加えた金額のことを意味する場合もあります。



                                                            2021年9月記

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