落語「徳利妻」の舞台を行く
   

 

 「徳利妻」(とっくりづま) 別名「活々坊」、「徳利の女房」より


 

 活井旧室(きゅうしつ)は活々坊、天狗坊などを名乗った俳諧の大先生、大変な奇人で三度の飯より酒気を切らしたことが無い程の酒好き。

 ある時、内田屋という居酒屋で我慢が出来なく、金がないのに1升5合を飲んだ。無一文なので怒った若い衆に殴られる。番頭が年寄りを殴るのはいけないと若い衆を叱ると、「いやいや、わしが悪いのじゃ。これを主人に見せてくれ」と止めて、懐中の紙にサラサラと書いた。
  『たたかれた後で花咲くなづなかな 旧室』 としたためる。
 主人はこの署名を見てビックリして驚き、「これは活井先生、とんだ失礼をいたしまして申し訳ありません」と、無礼をわびてあと5合ご馳走した。

 活々坊は気持ちよく酔って、店を出ると石屋があった。小僧が2升入りの通い徳利の口を金槌で欠こうとしている。お歯黒壺を作るというので、「そんな物はわずかの鳥目で買えるのに、形ある物を壊してはもったいない」と止め、墨壺の竹の墨刺しを取り上げ、徳利の横に書き付けた。
  『酒徳利かけて淋しや枇杷の花 旧室』 と書き付けた。
 石屋の親方は顔見知りの仲だったので、すぐ親方が出てきて挨拶し、また1升御馳走になった。

 気持ちよく酔った旧室は家に帰ってごろりと横になると、夜中に表を叩いている。戸を開けてみると若い美しい女だった。訪ねて来た女は、「今日はありがとうございました。お陰様で命拾いをいたしました」、「はて、わしは何も覚えが無いが」、「いえ、私はあの石屋の小僧に口を欠かれようとした徳利で御座います」といって、袖をまくって二の腕を見せると、先刻の『酒徳利かけて淋しや枇杷の花 旧室』という句が、書き付けてあった。そして、「せめてのご恩返しに、どうか私を女房にして下さい」という。ビックリした旧室は、 「何、女房にしてくれ?。なるほど、お前は徳利だから、それでオットを慕うのだろう」。

 



ことば

笠家旧室 (かさや-きゅうしつ);活井旧室。 1693-1764 江戸時代中期の俳人。 元禄(げんろく)6年生まれ。江戸の人。笠家逸志にまなび、享保(きょうほう)20年(1735)宗匠となる。笠家左簾(されん)(初代)とともに江戸談林派中興に尽力。奇行で知られ、逸話が谷素外の「誹諧天狗(はいかいてんぐ)話」にのる。門人に小菅蒼狐(こすげ-そうこ)ら。明和元年11月28日死去。72歳。姓はのち活井。別号に活々坊、天狗坊、岳雨など。
 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

 活井旧室(1693~1764)、江戸の俳人。笠家逸志に学び、笠家旧室を名乗るが、独立後は活井を名乗った(年代は諸説あり)。芭蕉より後だが、芭蕉も学んだ談林派の宗匠となる。奇行が多く、谷素外が書いた『俳諧天狗話』に逸話が収録されている。しかし、徳利が女房になる話はない。
  落ちは「夫」に徳利を傾ける時の「おっとっと」という声を掛けたもの。「徳利女房」、「活々坊」とも。

オチのオット;徳利で酒を注ぐ時に「オットット」と注ぐことと、夫とを掛けたオチ。もっと分かりやすい粋なオチが付けば、やり手もあるでしょう。

居酒屋(いざかや);酒類とそれに伴う料理を提供する飲食店で、日本式の飲み屋である。バーやパブなどは洋風の店舗で洋酒を中心に提供しているのに対し、居酒屋は和風でビールやチューハイ・日本酒などを提供する店が多く、バーやパブに比べると料理の種類や量も多い。
 戦後の1960年を境に日本酒と洋酒の消費量が逆転することになった。 1970年代頃までは居酒屋といえば男性会社員が日本酒を飲んでいる所というイメージが強かったが、近年は女性にも好まれるようにチューハイやワインなど飲み物や料理の種類を豊富にしたり、店内装飾を工夫したお店が多くなり、女性だけのグループや家族連れを含め、誰でも気軽に利用できる場所というイメージが定着しつつある。 特に1980年代頃から居酒屋のチェーン店化が進んだ。このことで、居酒屋は安く、大人数が集まることができ、少々騒いでもよく、様々な人の好みにあわせて飲み物や料理を選べるというメリットを持つようになった。このため、学生・会社員・友人同士などのグループで「簡単な宴会」を催す際の会場としてよく用いられている。チェーン店を中心に基本的には低価格で気軽に飲食できることを売りにしている店が多く、そのため男女に関わらず広い層を顧客としている。

 

 江戸東京たてもの園に移築された下谷坂元町に有った居酒屋・鍵屋。居酒屋の典型的な店内。

1升5合(1しょう5ごう);1升=1.8リットル。数字で言われたって、分からなくなります。上の写真で壁に並べられているのが1升ビンで10合入ります。簡単に言えば1.5升飲んだことになります。そこのご主人から5合、石屋のご主人から1升、この日合わせて3升飲んだことになります。凄い酒飲みです。

たたかれた後で花咲くなづなかな;旧室の句。なづな(右写真)=春の七草の一つ。実が三味線のばちに似ることから「ぺんぺん草」ともいう。七種粥(ナナクサガユ)を作る時、まないたに7種の菜を載せ、囃詞(ハヤシコトバ)を唱えながら打ちたたく。花は摘まれた後に咲き、三角形の実は当然花の後に着く。
 芭蕉の句に『古畑やなづな摘みゆく男ども』、古畑というのは、春になってもまだ耕されていない去年の秋の収穫後そのままとなっている畑のこと。そこになずなが生えているのであろう。ここではむくつけき男共が七草がゆのためなずな摘みをしている。

通い徳利(かよい どっくり);口が小さく胴がふくらんだ容器で、酒・醤油・酢などの液体の貯蔵や運搬にはガラスビンが普及する前は陶磁製徳利が使われました。 中でも、酒屋が小売り用容器として屋号の入った貸し出し用の陶磁製のものを通い徳利といい、江戸時代中期から一般的になりました。

 左、岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原 関ケ原町歴史民俗学習館蔵。

お歯黒壺(おはぐろつぼ);越前焼のお歯黒壺、越前焼きの小さな壺の総称である。江戸時代以前、結婚した女性はその印として歯を黒く染めた(公家は男性でも染めた)。小壷に古釘などを入れ、お茶を入れて反応させた。黒く酸化した鉄の液は四酸化鉄だったのかもしれない。その小壷をお歯黒壺と呼んでいた。どの家庭でも、 必需品だったお歯黒壺が越前焼の物が多く見られるのは頑丈だった証拠でしょう。
 信楽では「蹲る」と呼び、人が蹲っている様子を例えたのである。越前焼は壺・甕・擂鉢(すりばち)を主とし、初期には三筋壺や水注などを焼いているが、碗・皿類はない。室町時代中~後期には古越前特有の双耳壺が数多く焼かれており、片口小壺は室町末から桃山時代にかけて肩に両耳をもつものが量産され、越前おはぐろ壺の名で親しまれている。

 お歯黒;昔、日本に来た南方民族は移住後も檳榔樹 (びんろうじゅ) の実を噛む習慣を続けたが、その樹は日本の風土に生育が適せず、ためにその実は貴重品となり、高価なために貴人でないとこれを使用できず、それにかわる物として染料が考案され、、鉄漿 (かね) となったといわれている。
 武士が歯を染めるようになるのは平氏が京都に入って公卿をまねしたのが始まりとされ、平敦盛、更に今川義元、織田信長、豊臣秀吉等々皆お歯黒をしていたとされ、更に江戸時代になると既婚婦人のしるしとして女性だけが歯を染めるようになった。 お歯黒の製法であるが、沸騰させた茶に、焼いた古釘、鉄片を入れ、飴、麹、砂糖、酒を加えて、酸化発酵させた液を 1 か月くらいお歯黒壺に貯える。これはタンニン酸第二鉄で、これに五倍子 (ふしの粉) を混ぜて楊枝で何度も、何度も歯に重ねて染めて、更に「タバコ」を喫って乾燥させたという。
 お歯黒には歯痛を抑えて歯を強くする働きがあるといわれ、その液には殺菌性があるために「むし歯」の罹患進行を阻止する効果があり、江戸時代の女性には「むし歯」が少なかったのが事実である。 一見不思議な風習としか思えないお歯黒、そこには驚くべき科学的予防効果の裏付けがあった。
 日本人の歴史が始まってから明治初期まで続いたこの風習も明治 6 年、政府の禁止令で終わったが、昭和初期まで残っていたのも事実である。
 島根県歯科医師会

鳥目(ちょうもく);(中に孔があって、その形が鳥の目に似ていることから)  銭(ゼニ)の異称。

墨壺の竹の墨刺(すみつぼの たけのすみさし);竹を箆(ヘラ)のように作り、その先を細かく割り、墨壺に添えて、木材や石材に印(シルシ)を引き字を書くのに用いる具(下写真)。石屋さんだったため墨刺しは手の届くところに有ったのでしょう。

酒徳利かけてさびしや枇杷の花;ビワの花も薬効があり、体調を整えたり、治したりしますが口の欠けた酒徳利ではビワの花でも治せない寂しさがある。(吟醸)

 

 左、ビワの花。 右、ビワの実。

二の腕(にのうで);肩と肘(ヒジ)との間。上膊(ジヨウハク)。



                                                            2021年10月記

 前の落語の舞台へ    落語のホームページへ戻る    次の落語の舞台へ

 

 

inserted by FC2 system